prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「マトリックス レザレクションズ」

2021年12月27日 | 映画
オリジナルの「マトリックス」は予告編などで見た映像の斬新さにわくわくして思いきり期待して見に行き、そして正直失望した。
(余談だが、同じように予告編ですごい映像の連続に大期待して実物で失望したのにチャン⋅イーモウの「HERO 英雄」があって、予告編が良すぎる時は気をつけろ、と思っている)
続く二本の続編にもなかなか興味が湧かなくて、各々の新味を凝らした映像に辛うじて興味をつなぐだけだった。

こういう人間がさらにその続編を見に行くということ自体どうよと自分で思わないでもない。
好きで見に行くというより一応流行りもの、ヒット作を見ないと遅れるという意識もあると思う。

ただ、それだけでなく、なぜこれだけヒットし大きな影響を与えたシリーズの世界観に乗れないのか、考えてみたくはある。

今自分がいるこの世界は実は存在しておらず、まだ覚醒していない夢の中か、誰かに管理された電脳空間にでもいるのではないかといった妄想は特に若い時に割と一般的に持つ疑問ではないか。

厄介なのは、一見して荒唐無稽な認識であるにも関わらず論理的に批判しようとすると、その依って立つ認識の基盤はどこにあるかというと、どこまでいっても認識の結果から始まるのであって、認識そのものの確かさを保証するものはないという、中2病的に大人の世界を否定しようとすると、これは実に便利なリクツに陥る。
そこがどうも胡散臭い。

厳然として合意できる認識の基底というのはあるのであって(そうでなかったら現実も認識も共にありえない)、現実と仮想現実との間で遊ぶのにはあまり意義も興味も感じない。

実際のところ、「マトリックス」がウケたのは大きく二つあって、ひとつはそういったそういったとっつきやすいスノビズムと、現実の制限の軛から解き放たれた自在なアクション表現をテクノロジーを基にして繰り広げたから、と大ざっぱにまとめられるだろう。
エヴァもそうだが、一見して衒学趣味や知的遊戯に耽るうちに案外作者のストレートな動機からあさっての方に行ってしまうのに微妙な反発を覚えてきた。

あとアクションものとして困るのは、あまりに何でもできるようになりすぎて、そして劇の中で死んだ人間も(ミスター⋅スミスのように)平気で何度でも甦るので、限界にぶつかる緊張感がかえって薄れてしまったことだ。
これはあまりになんでもCGで表現できるようになったので、逆にああCGね、と索然として大作映画全般に対する興味が薄れてしまった傾向ともつながる。

今回はそういう自由さをむしろシリーズ側から封印して制限の中で戦うようにしているところがあるのが興味深い。元祖シリーズからの抜粋がたびたび挟まってコントラストを作っている。

もともとメタ構造的なシリーズをさらにメタ的な趣向(キアヌが「マトリックス」というゲームのデザイナーとして登場するなど)屋上屋を重ねるようで、逆にウケて陳腐化した要素を相対化しようとしている感もある。
ただそれが面白いかというと、もとの構造に興味が薄いからやはりさほど面白くないということになる。