大森立嗣監督作はデビュー作の「ゲルマニウムの夜」からほぼ欠かさず見ていて、特に初期は社会の底辺の抑圧された環境の人間たちを、いわゆる社会派的な捉え方とは違う、どこに爆発するかわからないような生々しい鬱屈の生理的な感覚で描く作風に思えたが、商業映画でやっていくにはそればかりというわけにもいかないようで「まほろ駅前」シリーズみたいなコミカルなもの、「日々是好日」みたいな平安な映画も造るようになった。
今回は広告の感じからするとスタイリッシュな犯罪ものかと思わせて実際にそうには違いないのだが、意外なくらい初期の鬱屈と底辺感が本格的に出ていた。
暴力団絡みのカネを強奪する集団のうちにおよそ頼りなげな見るからに素人の男女が混ざっていて、なんでこんなのが混ざっているのかと思うと単なる手引き役、情報提供役で本格的に分け前に預かれるわけではない、という強盗団内部にも格差、作中のセリフを借りると吸い上げる側と吸い上げられる側があるのがわかってくる。
三浦友和の元学生運動家でコンビニ経営者の、コンビニの売上が上がると本部に吸い上げられる割合が増えるという話は、まるっきり累進課税ではないかと思わせる。
当然その先には国の基本的な仕組みとそれを支える市民社会のことなかれ主義が自然に眼中に入ってくる。
西島秀俊の元ヤクザがいったん足を洗いかけても元の身分がバレると逆に封じ込められてしまうあたり、カタギも、というかカタギこそ腐敗したシステムの担い手という視点が出てくるし、だからヤクザがたむろしている喫茶店の皆殺し場面でカタギも区別なく殺されるのにカタルシスがある。
斉藤工の凶悪なクズっぷり、奥野瑛太のおよそ堪え性というものがないチクる意識もなくチクるクズっぷり、そのやられ方ともども思い切りがいい。それぞれ華のある役者たちがクズ比べをしている。
西島秀俊が唯一まともに見えて、キレた時には殺気をのぞかせる。
最底辺のカップルに宮沢氷魚と玉城ティナという外国人の血が入ったキャスティングをしたことで、ヴァイオレンス描写ともども閉塞感からはみ出る感じが出た。
このあたりは商業映画的な配慮か。