prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

10月24日(水)のつぶやき

2018年10月25日 | Weblog

「イコライザー2」

2018年10月24日 | 映画
いつのまにか「復職」したマッコールだが悪い奴をばたばたやっつけるのは半ば習慣になったよう。デンゼル・ワシントンがちょっと太ったのは気になった。

デンゼル初のシリーズものというのが売りになっているが、あちらでは俳優の評価の基準として演技力、ルックス、カリスマ性、身体能力、セックス・アピールなどと共にシリーズものを持っているかどうかというのがあるかららしい。デンゼルはほぼすべての点で最高点をマークするが、最後のひとつが埋まったということらしい。

元上司の女性や近所の若者といった血がつながらないが人間との疑似家族、とまではいかなくてもコミューンものでもある。

クライマックスの大勢の完全武装の敵相手の建物と共に嵐そのものを巧みに身を隠すのに生かした戦いの趣向が面白い。嵐そのものの特殊効果も見事。CGはあまり使えないだろうに、どうやったのか。
ちょっと黒澤明っぽくもある。監督のアントワン・フークワは前作「マグニフィセント・セブン」で「七人の侍」のリメイクのリメイクを作っていたわけだし。

「イコライザー2」 公式ホームページ

「イコライザー2」 - 映画.com

10月23日(火)のつぶやき

2018年10月24日 | Weblog

「2001年宇宙の旅(IMAX版)」

2018年10月23日 | 映画
正真正銘の大画面で見るのはテアトル東京のリバイバル以来だからずいぶん久しぶり。
先日の70ミリ版は見逃した(というか、国立映画アーカイブのスクリーンの大きさは中くらいだからそれほど熱心にチケットを取ろうとしなかったから当然取れなかった)ので比較はできないが、ともかくでかい画面で見ると、スター・チャイルドの眼がゆっくり動いているのがわかる。

ただ黒の締まりがやや足りないような気はした。
余談だが、監督作「隠し砦の三悪人」のリメイクを釜山映画祭に出品した樋口真嗣が思いがけずダグラス・トランブルの講演をやっているのに神さまが遭遇したような気がしたと書いていたが、その時の演題がどうやって宇宙の質感(というのも何か変だが)をどう出したか、というものだったらしい。

あと、宇宙船の表面のでこぼこにできた影がきわめて鮮明でコントラストがくっきりしている。なんでも模型を一コマづつ動かしながらうんと絞って露光を長くして撮ったらしいが、後年のそれで再現されてはいてもここまで鮮明なのはあまりないのではないか。

すでに論じつくされたような映画だから改めて屋上屋を重ねるかもしれないが、気が付いたことはやはり書いておこう。

宇宙の旅、とついているが、その旅の間二つのことが常につきまとう。食べることと眠ることだ。
地球から宇宙ステーションに向かう旅でもステーションから月面基地に向かう間でもフロイド博士は眠っている。まずそうだけれどパック式、サンドイッチといった宇宙食を移動のたびに食べている。

これがディスカバリー号に移動の手段が変わっても五人のうち三人はコールド・スリープで眠ったまま。
食っちゃ寝、食っちゃ寝しているわけです。

また宇宙船や着陸用ポッドなどの出発を描かないで到着するところをやたらと丹念に描いている。ステーションとのドッキング、月面着陸。どこかに向かって進みだすのをはっきり見せるのはスターゲート・コリドーまでとっておいてあると言えるくらい

あと繰り返されることというと写真を撮ること。ステーションでも会議の様子を特に必要もなさそうなのに撮影しているし、月面から掘り出したモノリスの前で並んで記念撮影している。
どちらもなんだかたるんだ感じで、モノリスの前のキーンというすごい音(モノリスから木星に向かって出た電波が宇宙服備え付けの通信機で変換された音なのだが)はモノリスに叱り飛ばされているような感じ。やっていることはモノリスを前になで回すだけで猿人と大して変わっていないのだから。

図式的に言うと、途中までの旅は目的地がはっきりして記念を残すような観光旅行的な旅ということになる。
それがディスカバリー号から目的が何なのかわからず、途中からまったく行先がどうなっているのかわからない、違う次元に突入することになる。

スターゲイトの後半は地球の風景にソラリゼーション処理を施した映像になるのに初め見た時ややがっかりしたものだが、地球にメビウスの輪式にひとひねりして戻る構造には対応しているわけで、それなりに納得した。

「2001年宇宙の旅」 - 映画.com

10月22日(月)のつぶやき その2

2018年10月23日 | Weblog

10月22日(月)のつぶやき その1

2018年10月23日 | Weblog

「止められるか、俺たちを」

2018年10月22日 | 映画
ヒロインが女性でピンク映画の助監督、というところからジェンダー的なテーマが出てくるのかとちょっと思ったのだが、仕事の上では性差関係なし、門脇麦は終始ウイスキーのポケット瓶をあおりタバコをふかしっぱなし。
彼女がコーヒーにウイスキーを入れて飲むところがあるが、上映中のテアトル新宿で販売中のアイリッシュコーヒーの解説によると若松孝二がそういう飲み方を好んでいた、その真似だろう(劇場で販売していたのはウイスキーの代わりにシロップを入れたノンアルコール飲料)。
逆に言うと師の真似はしているが、なかなか自分が描きたいものが見つからないというモチーフにもつながってくる。

女を捨てているというセリフがちょっと出てくるが、現実でちゃんと男との関係を持ってはいるし、それが悲劇にもつながる。ずうっとジーパンを履いているのだが、それを最後だけ脱ぐのが効いている。

ちらっとゲイル・アン・ハード(「ターミネーター」のプロデューサーでジェームズ・キャメロンの元妻)がロジャー・コーマンのもとで働いたあとメジャーのスタジオに行ったら「君みたいな女の子がここで何してるの」という扱いだったので、コーマンプロの方が特殊だったのだと気づいたという話を思い出したりした。
若松プロは若い者をこき使う代わりに早い時期に監督として撮れる可能性があるというのはコーマンに比べられたりしたものね。

浜野佐知というやはり女性で一時期若松プロで助監督をつとめすぐフリーの助監督になりさらに監督として50本以上のピンク映画を撮り、さらに一般映画も「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」ほか五本作っている人もいる。
こちらはかなりはっきりピンクでもレイプは決して描かないと著書「女が映画をつくるとき」で宣言していて、さらに老人の性をかなり早い時期(2001年)から描いた「百合祭」なども撮っている。女としての(と限るのも何だが)性意識をピンクで生かしたのかもしれない(作品を意識して見たことないので断言はできない)

舞台になっている70年代初めは映画自体が白黒のものとカラーのとが混在している時期なのだが、それをうまく取り入れて部分的に白黒にしているのが文字通り時代色を出すと共に一種の距離感を生んで、それが逆にノスタルジーに埋もれない熱を出した。

登場人物全員が故人存命中関係なくすべて実名というのは珍しいのではないか。それが当時やっていたことに対する責任や自身あるいは落とし前になっている感じ。

「止められるか、俺たちを」 公式ホームページ

「止められるか、俺たちを」 - 映画.com

10月21日(日)のつぶやき その2

2018年10月22日 | Weblog

10月21日(日)のつぶやき その1

2018年10月22日 | Weblog

「アンダー・ザ・シルバーレイク」

2018年10月21日 | 映画
「イット・フォローズ」の監督の新作というわけだが、あれは正体不明な何者かに追われる話、これは正体不明な何者かを追う話、という具合にまとめられるだろう。

その正体の突き止め方というのがかなり陰謀論的な妄想に近い論理によるもので、いったん見つかった真相というのもアカシックレコードがかったすべてを操っている何者かを想定している決定論的な世界観が現れてくる。
前作同様、けっこう哲学的というか理性や自由意志に反するむしろ反近代哲学的。

デヴィッド・リンチと比較されたりしているが、多彩な悪夢的な表現が見もの。それがハリウッドという虚実定かならぬ土地柄とマッチしている。探偵役が明るく照らされた表面の薄皮一枚を踏み抜くと異様な世界が噴出してくるあたり「チャイナタウン」っぽくもある。
全編さまざまな旧作映画の引用がちりばめられているのも、その意味を考えろと誘っているみたい。

ちらっと出てくる上半身と下半身が分かれている死体、というのはブラック・ダリア(ハリウッド全盛期に起きた女優志願者猟奇殺人事件の被害者の通称)だろうか。

ヒッチコックの墓がひょいと出てくるので本物なのかと思って調べてみると、実在する施設には違いないのだが焼いた後の灰は太平洋に撒いたのだという。虚実が定かならぬ世界なのは現実にも嵌入しているみたい。
余談だが、ヒッチコックはカソリックのはずだが(生地のイギリスでは少数派)火葬にしていいのかな。

ちらっと冒頭のフレーズを弾くだけのザ・フーの「ピンボールの魔術師」もちゃんとエンドタイトルに載っている。

「アンダー・ザ・シルバーレイク」 公式ホームページ

「アンダー・ザ・シルバーレイク」 - 映画.com

10月20日(土)のつぶやき

2018年10月21日 | Weblog

「スカイライン 奪還」

2018年10月20日 | 映画
エイリアンとタイマンで決着をつける映画。「インディペンデンス・デイ」の進化?系というのか。
あれだけの科学力(というかイメージとしては魔法)を使えるエイリアンがなんで戦うとき肉弾戦になるのか、と言うのはヤボという性格の映画。

出だしでホームレス役でアントニオ・ファーガスが登場、50年以上のキャリアがあるベテランで、デビューの「クール・ワールド」、"教授"と呼ばれる売春宿のピアニスト役をやったルイ・マルの「プリティ・ベイビー」などのアート系の映画にも出ているが、70年代の「クレオパトラ危機突破!」などのB級アクションのチンピラやヒモ役、「刑事スタスキー&ハッチ」の情報屋といったストリートの匂いをたっぷり吸いこんだ人。

これが主人公と一緒にエイリアンにつかまり、爺さまだから大暴れというわけにはいかないが、いいところを見せるのがちょっとうれしい。

「ザ・レイド」のイコ・ウワイスが「スター・ウォーズ フォースの覚醒」の分まで大暴れだが、やはり地元の方が生える

「スカイライン 奪還」 公式ホームページ

「スカイライン 奪還」 - 映画.com

10月19日(金)のつぶやき

2018年10月20日 | Weblog

「食べる女」

2018年10月19日 | 映画
タイトルがタイトルだけにグルメものの一種かと思ったし、実際そうでないわけではないのだが、意外と食とペア扱いの性と込みで生々しさよりもうひとつ抽象的ないわく言い難い世界に落とし込んでいる印象。
「タンポポ」のようにあからさまな食と性をモチーフにしていて意外とアーティスティックな作りをしているのと対照的。

オープニング、地面の下を流れている水の音を聞こうとしている子供たちの画(それも横倒し)から始まるあたり、「伽椰子のために」のクライマックスを思わせたりして、眼には見えないつながりといったものを五感以上の感覚を働かせて感じ取ろうとしているよう。
(伽椰子といっても呪怨とは関係ないですよ、李恢成による小説は1970年、小栗康平監督による映画化は1984年、韓国の伽椰山にちなんだ名前)

企画原作脚本の筒井ともみは「それから」の脚本で漱石の原作にはない、ヒロインの八千代が百合の花を食べるというシーンを書いて完成作からはカットされたそうだが、何か通常の食に対する感覚とは違うものを持っているよう。

もちろん映画としては綺麗どころの女優さんたちが姸を競っているのが楽しみなわけだけれど(ただ正直いってとりとめのない印象も強い)、男たちの介入がかなり微弱で、ホモソーシャリティという言葉は体格系など男だけでまとまって女を入れない世界に使う印象が強い、逆にも使えるのかと思った。

「食べる女」 公式ホームページ

「食べる女」 - 映画.com

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10月18日(木)のつぶやき

2018年10月19日 | Weblog