prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「運び屋」

2019年03月19日 | 映画
冒頭のやたらモテモテで愛想も調子も景気もいい爺さまの顔を見せておいて一転、不景気で家族からも見放された姿になるのだが、そこからの一発逆転というより景気が悪いのは仮の姿とばかりに基本的には調子のいい怖いもの知らずの運び屋の姿を描き、ドラマの結末というより当然収まるところに収まるといった調子の良さ。

ダーティハリー系統のコワモテ路線ではなく「ブロンコ・ビリー」「ダーティファイター」系列のコメディ路線。イーストウッドにはこちらの路線もあったのを再認識する。爺さま主役でこう余裕しゃくしゃくというのは御大ならでは。

麻薬組織の連中、それも比較的下っぱのキャスティングが多彩な顔を揃えて、昔のB級アクションの三下感と、今の多様性とを両立させた感じ。

画が「ミリオンダラー・ベイビー」あたりの重厚感(あれは35mmフィルム撮影)が薄れて良くも悪くもちゃっちゃと撮っているのが表れて画が軽い。

「運び屋」 - 公式ホームページ

「運び屋」 - 映画.com

3月18日(月)のつぶやき

2019年03月19日 | Weblog

「天国でまた会おう」

2019年03月18日 | 映画
詐欺計画を描きながら、戦争で大きな傷を負った者たちが戦争とその後の復興で儲けた者たちに対して復讐するのにさらな家族関係が入ってきて複雑な陰影を持つ物語。
戦争を美化する記念碑で金集めをするという計画自体強烈にアイロニカル。
手伝う女の子が最初小さくて性別がわからないくらいだったのがだんだん女の子っぽくなるのが何かおもしろい。 

ひどい傷を負った顔を覆う仮面のデザインが美術的に高度で(もともと仮面をかぶる男が絵の才能に恵まれていたという設定)、仮面だから表現できる感情というものも表現している。
セット、衣装など全体に美術的に優秀。

冒頭の戦いは「突撃」などで第一次世界大戦のシンボルイメージになっている塹壕と泥と「プライベート・ライアン」の凄惨さを合わせたみたい。
障碍者になった元兵士たちからモルヒネを奪うというひどいことをするのに、戦争は撃ち合いが終われば終わるわけではないのを教える。

天国でまた会おう - 公式ホームページ

天国でまた会おう - 映画.com


3月17日(日)のつぶやき

2019年03月18日 | Weblog

「女王陛下のお気に入り」

2019年03月17日 | 映画
ロケセットで撮ったであろう豪壮な屋敷や衣装の質感や光の表現が見事。天井の凝った細工がフレームに入るように撮っている。スタジオセットでは難しいだろう。

主演のオリヴィア・コールマンがアカデミー主演女優賞をこれで受賞したわけで、アカデミー賞女優が三人揃い踏みした図。受賞済とはいえ今年は賞を逸した他の二人の心情はいかにと余計なことを考えたくなる。

女王の寵愛の奪い合いがつまり権力闘争になる図で、男たちがほぼ締め出されていて誰がお世継ぎを産むかといったドロドロはないのが宮廷ものとしては割と珍しく今の映画という感じ。

代わりに「純粋」な権力欲と嫉妬と復讐心では性別で変わりはない。
ただ人間関係にせよ画としてももっとグロテスクになりそうなのを良くも悪くも美意識先行で踏みとどまっている感じはこの監督の「ロブスター」「聖なる鹿殺し」にも共通している。

ウサギがやたらちょろちょろしているのだが、ウサギは人間同様に特定の発情期がない(つまり年がら年中発情している)動物で、だから雑誌「プレイボーイ」のシンボルやバニーガールにもなったわけだが、男どもの発情とその結果は動物なみという表現なのかもしれない。

「女王陛下のお気に入り」 - 公式ホームページ

「女王陛下のお気に入り」 - 映画.com

3月16日(土)のつぶやき

2019年03月17日 | Weblog

「ROMA」

2019年03月16日 | 映画
劇場公開が始まったのに合わせてメキシコ大使館で「国際女性デー」の枠組で上映会。劇場とはいかないが、思ったより画も音もよかった。しかし劇場でも理想のドルビークラウドではかかっていないはずで、どうも悩ましい。
どうでもいいけれど、メキシコ大使館って日比谷高校の隣にあるのね。

三人のメキシコの方パネルディスカッションが開催。
以下、箇条書きで。メモをとっていたわけではないので間違いはご容赦。

・ラテンアメリカはシングルマザーが多い。この映画でも大きく経済的にも社会的地位も違うふたりの女性(母親とお手伝いさんのクレオ)が共にそれぞれの形で男社会に排斥される、あるいは自分から出て行く姿が描かれる。
・この映画で部屋に1970のメキシコシティで開催されたオリンピックのポスターが見えるが、その後1971~74にかけてメキシコが奇跡の経済成長を遂げるとともに格差が大きくなったこと
・経済成長とアメリカ化(この映画の中でも「宇宙からの脱出」'69などが上映されている)と格差拡大はセット
・映画の中で学生たちを弾圧していた軍隊の下部組織のような棒を持った若者たちの写真が載った当時の新聞が映写された。あのまんまの棒を持った姿。
・1985年にメキシコシティ周辺を襲った大地震でROMA地区も大きな被害を受けたがその後復興し、シャレた店が多い地区になっている。
(現在に当時のRAMAを再現するのは相当な手間がかかったのではないかと想像)
・エンドタイトルに「Liboへ」と献辞が捧げられるLiboというのが、アルフォンソ・キュアロンの実際の乳母の名前。
このディスカッションの内容を公開してもらえないだろうか。

妙に有名なちんこぶらぶらシーンだけれど、ベッドに裸の女の子がすでに寝ているというのに棒を振り回す武術を見せるのに夢中で、ちんこそのものは勃ってないのがなんだかおかしい。
というのは男性のシンボル=観念としての男性性が先行して肉体に根ざした感情が伴っていない表れと言えるのではないか。この後の男の進路を見るとそう考えておかしくない。

冒頭、床を水が流れていくところから始めてなぜ水を流したかはかなり後でわかる。いきなり洗い流す汚物を見せたら汚す側と洗う側との対立が鋭く出てしまっただろう。
語り口がゆるやかで自然に次第にさまざまな差別や格差、矛盾や暴力性までもがわかってくるが、それと同じくらい語り口(それを視覚化したのが、基本的なスタイルになっている対象に寄り過ぎずぴたっと平行してついていく移動撮影だ)のバランス感覚が魅力。

監督のキュアロン自身が投影されそうな金持ちの子供たちの描写に体重が乗っていないのは興味深い。自伝的というより自分が悪気なく上に乗っていた人たちを改めて思い起こして描き留めておこうとしたのだろう。

それにしてもスコープサイズのフレームといい、引いたサイズで長いショットが多い撮り方といい、本来テレビフレームには不向きで劇場向けとされる演出で通しているのがネット配信として作られるねじれ現象。

「ROMA」 - 公式ホームページ

「ROMA」 - 映画.com

「ROMA」を見る前にしっておくべきこと

3月15日(金)のつぶやき

2019年03月16日 | Weblog

「あの日のオルガン」

2019年03月15日 | 映画
四、五歳の未就学児を演出するというのは相当に難しいのではないかと思われ、完全な幼児だったら初めから芝居を要求できないから素材として扱うだろうし、もう少し大きくなって理解力がついてくれば子役としての芝居ができるだろうが、ここではまだ子供たちをそれぞれの個として描くよりマッスとしての活力や手の追えなさとして捉えている。

その中で場面場面によって、たとえば大原櫻子のセリフに合わせて子供はひたすら石を投げ続けるだけでどこまで言っていることの意味をわかっているのか、何を感じているか、は観客の想像に任せるあたり、必要な表現は成立している。

大原がいかにも子供っぽい感じで本物の子供たちとのブリッジ役になっていて、もう一方で戸田恵梨香がしょっちゅう怒っているという図になる。
その戸田がラストでぐっと崩れるところでそれまでどれだけ気を張って闘っていたか一気にわかる。

疎開先の村人たちが明らかに女子供を見下している感じなのがかえって今につながっている。
子供などという役に立たないお荷物を背負い込みたくないという村人の意見に対して、田中直樹の男の先生が「畏れ多くも(と、ここで反射的に男全員の背が伸びる)天皇陛下の赤子(せきし)を立派な兵士に育て上げるのは国民全体の責務ではありませんか」といった巧妙な論理で切り抜けるのだが、これも実は不要か否かで国民を選別する発想には違いないわけで、これまた自然に今につながる。監督脚本(平松恵美子)が女性だからという視点はやはりあるだろう。

出演者の栄養が良すぎるのは、本当に栄養不良にしてしまったら撮影にならないという事情はあるにせよ気になる。そのうちデジタル技術で本当に栄養不良の顔になるよう加工するようになるのではないか。

「あの日のオルガン」 - 公式ホームページ

「あの日のオルガン」 - 映画.com

3月14日(木)のつぶやき その2

2019年03月15日 | Weblog

3月14日(木)のつぶやき その1

2019年03月15日 | Weblog

「華麗なる賭け」

2019年03月14日 | 映画
1968年製作。
監督のノーマン・ジュイソンはテクニシャンとしてならした人で、今のデジタル化した華々しい映像技術とは別のマルチスクリーンやチェスの一手一手を男女の駆け引きそのままのメタファーとして描く演出など、この当時としての映像と音楽のテクニックを楽しむことになる。

スティーブ・マックイーンの大金持ちが株が8%上がったから売れと秘書に口頭で指令を出しているのがなんだか古式ゆたかに見える。

大金持ちのホビーとしての現金強奪というお話自体、マネーが紙幣というモノではなくなり、金持ちが金がありすぎて抽象的な数字の世界に突入している現代からみると古式ゆたか。ノスタルジーを感じるわけもないが。




3月13日(水)のつぶやき

2019年03月14日 | Weblog

「ウトヤ島、7月22日」

2019年03月13日 | 映画
オープニングでノルウェーの首都オスロでの政府庁舎爆破事件の監視カメラなどを使った実写映像を紹介した後、ウトヤ島であった72分にわたる銃撃テロを72分切れ目なしのワンカットで描ききる。昨今続いている機材のデジタル化で可能になった映像実験作のひとつ。

ほぼ完全にテロに巻き込まれた女の子ひとりを追い続けて銃撃犯の姿はぎりぎりまで見えない。テロそのものもほとんど銃声と撃たれた被害者だけで暗示され、視界はほぼ完全に被害者と一体化している。

エンドタイトルで「真実はひとつにあらず」という監督のエリック・ポッペ(つい先日、旧作の「ヒトラーに屈しなかった国王」を見たばかり、あれでも手持ちカメラを多用していた)の言葉が出る。
ここでは被害者視点の大状況がまったく見えなくなっている視界狭窄に陥っている、陥らざるを得なくなっている世界観を観客に体現させたわけだが、おそらくテロリストの世界観も移民や違う人種や価値観の持ち主に対してまた違う形の視野狭窄に陥っているのを暗示している。

もっともまったく途切れないワンカットというのも慣れてくると、あ、そうだったっけとふと思い出すくらいになってしまう。
72分の出来事をリアルタイムの72分ワンカットで描くとしても、そこにあるのは現実の時間ではなくてやはり映画の時間ということ。

撃たれた被害者が死んでいくのに寄り添った腕にとまった蚊を叩かないでじっとそのままにしているあたりの「命」に対して鋭敏になっている感じの出し方が印象的。
それにしてもあんなに都合よく蚊がとまるとは思えず、CGなのだろうがまったくわからない。

ノルウェー連続テロ事件 - wikipedia

「ウトヤ島、7月22日」 - 公式ホームページ

「ウトヤ島、7月22日」 - 映画.com

3月12日(火)のつぶやき

2019年03月13日 | Weblog