劇場公開が始まったのに合わせてメキシコ大使館で「国際女性デー」の枠組で上映会。劇場とはいかないが、思ったより画も音もよかった。しかし劇場でも理想のドルビークラウドではかかっていないはずで、どうも悩ましい。
どうでもいいけれど、メキシコ大使館って日比谷高校の隣にあるのね。
三人のメキシコの方パネルディスカッションが開催。
以下、箇条書きで。メモをとっていたわけではないので間違いはご容赦。
・ラテンアメリカはシングルマザーが多い。この映画でも大きく経済的にも社会的地位も違うふたりの女性(母親とお手伝いさんのクレオ)が共にそれぞれの形で男社会に排斥される、あるいは自分から出て行く姿が描かれる。
・この映画で部屋に1970のメキシコシティで開催されたオリンピックのポスターが見えるが、その後1971~74にかけてメキシコが奇跡の経済成長を遂げるとともに格差が大きくなったこと
・経済成長とアメリカ化(この映画の中でも「宇宙からの脱出」'69などが上映されている)と格差拡大はセット
・映画の中で学生たちを弾圧していた軍隊の下部組織のような棒を持った若者たちの写真が載った当時の新聞が映写された。あのまんまの棒を持った姿。
・1985年にメキシコシティ周辺を襲った大地震でROMA地区も大きな被害を受けたがその後復興し、シャレた店が多い地区になっている。
(現在に当時のRAMAを再現するのは相当な手間がかかったのではないかと想像)
・エンドタイトルに「Liboへ」と献辞が捧げられるLiboというのが、アルフォンソ・キュアロンの実際の乳母の名前。
このディスカッションの内容を公開してもらえないだろうか。
妙に有名なちんこぶらぶらシーンだけれど、ベッドに裸の女の子がすでに寝ているというのに棒を振り回す武術を見せるのに夢中で、ちんこそのものは勃ってないのがなんだかおかしい。
というのは男性のシンボル=観念としての男性性が先行して肉体に根ざした感情が伴っていない表れと言えるのではないか。この後の男の進路を見るとそう考えておかしくない。
冒頭、床を水が流れていくところから始めてなぜ水を流したかはかなり後でわかる。いきなり洗い流す汚物を見せたら汚す側と洗う側との対立が鋭く出てしまっただろう。
語り口がゆるやかで自然に次第にさまざまな差別や格差、矛盾や暴力性までもがわかってくるが、それと同じくらい語り口(それを視覚化したのが、基本的なスタイルになっている対象に寄り過ぎずぴたっと平行してついていく移動撮影だ)のバランス感覚が魅力。
監督のキュアロン自身が投影されそうな金持ちの子供たちの描写に体重が乗っていないのは興味深い。自伝的というより自分が悪気なく上に乗っていた人たちを改めて思い起こして描き留めておこうとしたのだろう。
それにしてもスコープサイズのフレームといい、引いたサイズで長いショットが多い撮り方といい、本来テレビフレームには不向きで劇場向けとされる演出で通しているのがネット配信として作られるねじれ現象。
「ROMA」 - 公式ホームページ
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「ROMA」を見る前にしっておくべきこと