乱読のセレンディピティ (扶桑社BOOKS) | |
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扶桑社 |
・外山滋比古
本書は、年齢とともにますます知力が充実してくる観のある外山滋比古氏の語る読書術だ。タイトル中の「セレンディピティ」とは思いがけないことを発見する能力のこと。セレンディプ(セイロン:現在のスリランカ)の3人の王子の逸話にちなむものである。
次々に出てくる外山節がなんとも楽しい。曰く、本は自分で選んで買うことに意義がある。曰く、本は乱読こそがおもしろい。曰く、自分で価値判断のできる知的自由人が、読者として求められている。等々。
特に気に入ったのは、読書百遍は神話だとの主張。自分の意味を持ち込んでわかったような錯覚を抱くだけというのだ。しかし外山氏は、そういったわからないところを自分の理解、自分の意味で補充することが面白いのだという。
また、外山氏によれば、本を読めば読むほど優秀な人間になるというのは勘違いだそうだ。沢山の本を読めば、博学多識にはなるかもしれないが、その反面頭が働かなくなるといのがその理由である。氏によれは、知的メタボリック・シンドロームにならないためには忘却が重用だそうだ。
私も昔から覚えることは苦手である。理系に進んだのも、基本的なことさえ知っていれは、必要なことは、そこから論理的に導きだされる場合が多いからだ。本を読むのは好きだが、メモでも取らないと、読む端から忘れていく。だから知識を溜め込もうと思って読むのではなく、考える訓練のつもりで読んでいる。だから氏の主張には思わず頷いてしまう。
また氏が他の著書でも書いている、アルファ読み、ベータ読みの話も出てくる。乱読ができるのは、ベータ読みができる人ということらしい。ジャンルを問わず読んでいる私の読み方も、氏のいうベータ読みに近いようだ。専門の本をいくら読んでも知識が増えるだけである。氏が主張するように、乱読こそ発見のチャンスに繋がるのかもしれない。
著者が他の本に書いていたことや、本書の中でも似たような話が繰り返されているところも見られるて少し冗長な感じはするものの、著者の若い頃の話や、散歩や朝型生活の効用といったことなども紹介され、述べられていることはなかなか興味深い。最後にいくつか気になった言葉を引用してみよう。
「一人前の年齢に達したら、ただ本に追従するのを恥じる必要がある」(p58)
「文学読書をありがたがりすぎるのは、いくらか遅れた読者である」(p74)
どうだろう。どきりとした人も結構多いのではないだろうか。
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※本記事は、書評専門の拙ブログ「風竜胆の書評」に掲載したものです。