昨日は、57・11ダイヤ改正の前日における在来線特急「とき」と、ついでに写っていた寝台特急「北星」の様子をお伝えいたしました。
かなり興味を示されたのでしょうか、非常に沢山のアクセスをいただきました。
さて、改正前日である11月14日は夜遅くまで上野駅に張り付いていたわけですが、首都圏でもう1箇所、大きな転機を迎えた場所に行っておりました。
それは、総武本線の急行列車の基点となっていた両国駅です。
東北・上越新幹線の開業とは何の縁もない房総各線ですが、上越新幹線の在来特急「とき」の廃止により大量の183系1000番代が余剰となるため、その車両の行く先となるべく長野区・幕張区への転属によって、急行列車が全廃されることになったわけです。
一昨日の「しおさい」「あやめ」の記事におけるコメントのやり取りでも論議がありましたが、元々乗車率の良くない房総各線の急行列車ですから、タダでさえひっそりとしている両国駅は、上野駅に比べると明らかにファンの数は少なく、さびしい風景でありました。
昭和57年11月14日 総武本線 両国駅にて 165系急行列車
最終日だというのにヘッドマークすら無く、列車名すら記憶がありません。
末期の頃はサボ類の盗難があったらしく、ヘッドマークが付いていない急行列車を良く見かけました。
昭和57年11月14日 総武本線 両国駅にて 183系1500番代を使用した急行列車
翌日は特急運用を控えているためでしょうか、前日からの送り込みとなる列車は特急用の183系を使用して運転されたようです。
昭和57年11月14日 総武本線 両国駅にて 183系 鹿島神宮行き横サボ
上の写真の列車のものか定かではないのですが、「鹿島神宮」行きとなっていますので、急行「鹿島」でしょうか?特急「あやめ」のサボは設定されている筈ですが、急行用は用意されていませんので、普通列車用の行先を掲出するという皮肉な措置となってしまいました。
昭和57年11月14日 総武本線 両国駅にて 165系急行と183系急行の並び
深夜と言うほどでもないのに、夜道なみに暗いホーム。急行列車の最後にふさわしい侘びしい風景です。それでも、おそらく普段の数十倍の人たちが集まったと思います。
昭和57年11月14日 総武本線 両国駅にて 183系 さようなら急行列車の貼紙
ヘッドマークもなく、セレモニーも無い、上野駅の賑わいとは全く異なる両国駅、房総最後の急行列車。せめてもはなむけか、「さようなら急行列車」と書かれた紙がドアに貼られていました。千葉局が用意したものか、ファンが貼ったものなのか、定かではありません。
この日を最後に、153系・165系により運転されていた房総急行は姿を消し、翌日からはその急行の分を特急列車に置換え、房総各線の特急の本数がさらに増えることになります。でも、その増発については、ファンや利用者の間からも疑問の声があったのではないでしょうか。
かなり興味を示されたのでしょうか、非常に沢山のアクセスをいただきました。
さて、改正前日である11月14日は夜遅くまで上野駅に張り付いていたわけですが、首都圏でもう1箇所、大きな転機を迎えた場所に行っておりました。
それは、総武本線の急行列車の基点となっていた両国駅です。
東北・上越新幹線の開業とは何の縁もない房総各線ですが、上越新幹線の在来特急「とき」の廃止により大量の183系1000番代が余剰となるため、その車両の行く先となるべく長野区・幕張区への転属によって、急行列車が全廃されることになったわけです。
一昨日の「しおさい」「あやめ」の記事におけるコメントのやり取りでも論議がありましたが、元々乗車率の良くない房総各線の急行列車ですから、タダでさえひっそりとしている両国駅は、上野駅に比べると明らかにファンの数は少なく、さびしい風景でありました。
昭和57年11月14日 総武本線 両国駅にて 165系急行列車
最終日だというのにヘッドマークすら無く、列車名すら記憶がありません。
末期の頃はサボ類の盗難があったらしく、ヘッドマークが付いていない急行列車を良く見かけました。
昭和57年11月14日 総武本線 両国駅にて 183系1500番代を使用した急行列車
翌日は特急運用を控えているためでしょうか、前日からの送り込みとなる列車は特急用の183系を使用して運転されたようです。
昭和57年11月14日 総武本線 両国駅にて 183系 鹿島神宮行き横サボ
上の写真の列車のものか定かではないのですが、「鹿島神宮」行きとなっていますので、急行「鹿島」でしょうか?特急「あやめ」のサボは設定されている筈ですが、急行用は用意されていませんので、普通列車用の行先を掲出するという皮肉な措置となってしまいました。
昭和57年11月14日 総武本線 両国駅にて 165系急行と183系急行の並び
深夜と言うほどでもないのに、夜道なみに暗いホーム。急行列車の最後にふさわしい侘びしい風景です。それでも、おそらく普段の数十倍の人たちが集まったと思います。
昭和57年11月14日 総武本線 両国駅にて 183系 さようなら急行列車の貼紙
ヘッドマークもなく、セレモニーも無い、上野駅の賑わいとは全く異なる両国駅、房総最後の急行列車。せめてもはなむけか、「さようなら急行列車」と書かれた紙がドアに貼られていました。千葉局が用意したものか、ファンが貼ったものなのか、定かではありません。
この日を最後に、153系・165系により運転されていた房総急行は姿を消し、翌日からはその急行の分を特急列車に置換え、房総各線の特急の本数がさらに増えることになります。でも、その増発については、ファンや利用者の間からも疑問の声があったのではないでしょうか。
私が新小岩に通った頃、秋葉原からの通勤客はそこそこ降りますし、乗降客はあるようですが、駅前を見ても国技館以外にはこれといった利用客の多い名物は思い浮かびません。
横網公園のように特殊な経緯をもつ公園や、江戸博もありますが、維持費に泣きが入っている施設も。
仕事で水上バス乗り場にも良く行きましたが、両国の始発ホームを見ると、まるで物置になった異次元の世界に隆盛を思い浮かばせることもありません。ここが栄えた昔と言うのは昭和47年以前だったのでしょうね。
チラッとしか記憶に無いDC急行ですが、写真を撮っておきたかったです。
HMも付いていて、撮っていても絵になる急行でしたね。
両国の列車ホームは寂れてしまいましたね。電車ホームと違って、旅を感じさせるホームでした。
私が知っている夏臨は、既に東京や新宿発で、殊に写真を撮るようになったときには品川までも延長になっていました。それは113系での運転が前提ですから、165系などはあまり出番が無かったように思います。
当時は車両種別が結構厳格だったので、急行車両を安々とは普通に使わなかったような気がします。
両国での行列風景は、プチ上野駅みたいな感じだったのでしょうね。
両国駅の下のホームは、新聞輸送と稀に入る団臨くらいで、普段はひっそりとしています。ここに停車している急行列車は風情がありましたが、やはり乗客が少なく寂れた感じが否めませんでした。
昔は客車列車もあったようですが、 機回しとかもできたんでしょうかね。さすがにその時代は知る由もありません。
あまり房総各線に乗ったことが無いので、細かいことを語る資格はないのですが、単線・曲線・中途半端に点在する所要駅などの影響が大きいのではないでしょうか。
単線の場合は行き違い退避・駅でのポイント通過でスピード制限があり、曲線が多ければ高速で走れないし、所要駅が多いので通過できずに各駅停車並みにとまる。コレでは特急はおろか、急行でも難しいですね。
おっしゃるように、名鉄のような感じで快速列車にビジネスシートみたいな指定席を連結すれば、ビジネス客も一般客も満足できる速達列車の運転が可能になるのではないでしょうかね。