探し物をしていて、写真を見つけた。
偶然見つけたわけではない。
探し物の近くに置いている、若き日の写真の束。
高校を卒業してから22~3歳ぐらいまで。
滅多に手を伸ばすことはなく、見る気になることは、稀。
前に見たのは、いつだったのだろう?
10年近くなっているかも知れない。
いや、もっと前?
昔は、よく見ていた。
ああ、この頃が一番、キレイで輝いていたなあ・・・と、宝物のように大切にしていた。
なにかある度に、昔の自分を愛しんでいた。
自分でお気に入りだった写真を今、見てみると・・・
なんだか嫌なかんじの、高慢ちき。若い女性ならではの高飛車。
当時、たいしてお気に入りでない写真のほうが、今は好感が持てる。
メークにもよる。
そもそもメークは、自分のこころを表している。
尖がっている時は、尖がったメークをする。何かを訴えている。
おだやかな時期は、おだやかなメーク。やさしげな表情。
18歳頃は、素のまま。
20歳ぐらいまでは、ほんのちょっとうすく、ファンデーション程度。
20歳を過ぎると、アイメークが入り、表情が個性的になっていた。
同じ着物(晴れ着)を着ても、印象が違う。
少女から大人への変身・・・移り変わりが、写真に現れている。
自分で言うのもヘンだが、見た目は、お嬢さんである。
おそらく中身も、お嬢さんだろう。
未婚の女性を総称して「お嬢さん」と呼ぶから、お嬢さんと自分で言っても、そう、かけ離れてはいないはず。
一番、気に入ったのは、スキーの写真。
高校時代の友人(女性)に声をかけられ、ほいほいと参加したものの、
行ってみれば、彼女が付き合っていたカレの友人グループ(男性ばかり)に、
女性が自分だけだと具合悪いので、わたしを呼んだようだ。
写真で見れば、友人は、ずいぶん、わたしとはテイストが違う。
成績は悪くないが、不良っぽいタイプ。
彼氏も彼女と似たテイスト。
高校の時は、彼女とは、たまたま同じクラスだったので、仲良くなったが、
それ以来、一度も会っていないし、連絡も取っていない。
当然ながら、スキー旅行のグループ内で、わたしは浮いていた。
わたしは、恋愛結婚できないタイプだと思われる。
・・・
不良や品のない人は、嫌い。
素朴すぎるのは、嫌い。
自分よりアタマ悪い人は、嫌い。
社会的基盤がない人、職業が安定していない人は、辞退。
自分はたいしたことないくせに、理想ばかりを掲げ、その基準値に達する人は近くにはいなかった。
写真に写る、品良くない男性や、素朴な人々、彼らは良い人たちばかりであっただろうが、
自分は無意識に透明ガラスの向こうに彼らを感じていた。
自分がアタマも良く、仕事にも恵まれていたら、結婚しなかった可能性がある。
あるいは、じっくりとパートナーを探し、
選んだ相手と、しっくり行かなかったら、相手を取り替えたり、結婚そのものに融通を利かせていただろう。
結婚したり、離婚したり、再婚したり、籍を入れたり、入れなかったり、いろんなことをしたかも知れない。
だが、仕事も結婚も、両方、全力を出せないだろう。
どちらかを妥協、あるいは、どちらも妥協するかも。
・・・
いま、ふと自分の周りの風景を見ると・・・
今までと同じ風景なのに、気持ちが変わると、違った景色に見える。
うすぼんやりして、サエないものが、意識を変えて、ちょっと手を加えると鮮やかになったり、
がらっとチェンジして切り替えてみたくなったり。
これは、決して配偶者のことを言っているのではない。
わたしは、配偶者は、どこの誰であれ、相手を知る前から、会ったこともない段階から、
結婚する前から、絶対に離婚しないと決めていた。
まるで、離婚が許されない、敬虔なるクリスチャンのようだ。
今まで、受動的に生きてきたが、
ある日、自分の意識が芽生えた、目覚めた、そんなかんじだろうか。
だからといって、がらりと行動を変えることはない。
同じ朝を迎える。
だが、自分自身をがんじがらめにしていた呪縛から、解放されたような気持ちである。
こうしてみたら、どうかな?
と、ちょっとした小さな提案が浮かび上がってくる。
ここをこうして、ああして・・・
こころと、暮らしのリフォーム。
わたしの最も苦手な断捨離とは、似ているが、少し違う。
ミセス向け婦人雑誌に年がら年中、特集されそうなテーマだ。
「家庭画法」のノリではない、家庭画法を知った上での、独自の目線、切り口、方向性。
といっても、最近10年近く、家庭画法は、読んでいないので、今、どんな路線になっているのか知らないが。
もし、ずっと長年、同じ路線で行っているなら、
家庭画法は、女性の生き方を追究していない。
裕福なミセスという、ピンポイントの絶対条件を満たした人向けである。
なので、つまらない。
写真屋さん(元・世界文化フォト。現・amana)の優れたビジュアル効果を最大限生かす「世界文化社」がやっている雑誌なので、
目で見る雑誌。ビジュアル特化。
へんに、思考に走ってはいけない。考えてはいけない。
世の中、考えないほうが、幸せなことは、いっぱいある。
考えに考え抜いて、「考えない」という結論に達するのは、大いにけっこうだ。
何をするか、考えに考え抜いて、「何もしない」という結論に達するのも、大いにけっこう。
考えても、よくない結果を導くなら、考えないほうがマシ。
モノゴトを遂行しても、ろくでもないことになるなら、寝ているほうがマシ。
ただ、ほんとうに何もしない、何も考えない、まったく意識もしない、
そうしていると、いざという時機、タイミングを逃がす。
「チャンスは寝て待て」、とはよく言ったものだ。
意識だけはしっかり持ち、磨いていなければ、ただただ寝ているだけでは、たんなる、ぐ~たらナマケもの。
・・・
わたしのブログ、気になる方には、気になるようだ。
おそらく、気になる、どこかピンポイントの部分があるのか。
最近、そんな気がしてきた。
偶然見つけたわけではない。
探し物の近くに置いている、若き日の写真の束。
高校を卒業してから22~3歳ぐらいまで。
滅多に手を伸ばすことはなく、見る気になることは、稀。
前に見たのは、いつだったのだろう?
10年近くなっているかも知れない。
いや、もっと前?
昔は、よく見ていた。
ああ、この頃が一番、キレイで輝いていたなあ・・・と、宝物のように大切にしていた。
なにかある度に、昔の自分を愛しんでいた。
自分でお気に入りだった写真を今、見てみると・・・
なんだか嫌なかんじの、高慢ちき。若い女性ならではの高飛車。
当時、たいしてお気に入りでない写真のほうが、今は好感が持てる。
メークにもよる。
そもそもメークは、自分のこころを表している。
尖がっている時は、尖がったメークをする。何かを訴えている。
おだやかな時期は、おだやかなメーク。やさしげな表情。
18歳頃は、素のまま。
20歳ぐらいまでは、ほんのちょっとうすく、ファンデーション程度。
20歳を過ぎると、アイメークが入り、表情が個性的になっていた。
同じ着物(晴れ着)を着ても、印象が違う。
少女から大人への変身・・・移り変わりが、写真に現れている。
自分で言うのもヘンだが、見た目は、お嬢さんである。
おそらく中身も、お嬢さんだろう。
未婚の女性を総称して「お嬢さん」と呼ぶから、お嬢さんと自分で言っても、そう、かけ離れてはいないはず。
一番、気に入ったのは、スキーの写真。
高校時代の友人(女性)に声をかけられ、ほいほいと参加したものの、
行ってみれば、彼女が付き合っていたカレの友人グループ(男性ばかり)に、
女性が自分だけだと具合悪いので、わたしを呼んだようだ。
写真で見れば、友人は、ずいぶん、わたしとはテイストが違う。
成績は悪くないが、不良っぽいタイプ。
彼氏も彼女と似たテイスト。
高校の時は、彼女とは、たまたま同じクラスだったので、仲良くなったが、
それ以来、一度も会っていないし、連絡も取っていない。
当然ながら、スキー旅行のグループ内で、わたしは浮いていた。
わたしは、恋愛結婚できないタイプだと思われる。
・・・
不良や品のない人は、嫌い。
素朴すぎるのは、嫌い。
自分よりアタマ悪い人は、嫌い。
社会的基盤がない人、職業が安定していない人は、辞退。
自分はたいしたことないくせに、理想ばかりを掲げ、その基準値に達する人は近くにはいなかった。
写真に写る、品良くない男性や、素朴な人々、彼らは良い人たちばかりであっただろうが、
自分は無意識に透明ガラスの向こうに彼らを感じていた。
自分がアタマも良く、仕事にも恵まれていたら、結婚しなかった可能性がある。
あるいは、じっくりとパートナーを探し、
選んだ相手と、しっくり行かなかったら、相手を取り替えたり、結婚そのものに融通を利かせていただろう。
結婚したり、離婚したり、再婚したり、籍を入れたり、入れなかったり、いろんなことをしたかも知れない。
だが、仕事も結婚も、両方、全力を出せないだろう。
どちらかを妥協、あるいは、どちらも妥協するかも。
・・・
いま、ふと自分の周りの風景を見ると・・・
今までと同じ風景なのに、気持ちが変わると、違った景色に見える。
うすぼんやりして、サエないものが、意識を変えて、ちょっと手を加えると鮮やかになったり、
がらっとチェンジして切り替えてみたくなったり。
これは、決して配偶者のことを言っているのではない。
わたしは、配偶者は、どこの誰であれ、相手を知る前から、会ったこともない段階から、
結婚する前から、絶対に離婚しないと決めていた。
まるで、離婚が許されない、敬虔なるクリスチャンのようだ。
今まで、受動的に生きてきたが、
ある日、自分の意識が芽生えた、目覚めた、そんなかんじだろうか。
だからといって、がらりと行動を変えることはない。
同じ朝を迎える。
だが、自分自身をがんじがらめにしていた呪縛から、解放されたような気持ちである。
こうしてみたら、どうかな?
と、ちょっとした小さな提案が浮かび上がってくる。
ここをこうして、ああして・・・
こころと、暮らしのリフォーム。
わたしの最も苦手な断捨離とは、似ているが、少し違う。
ミセス向け婦人雑誌に年がら年中、特集されそうなテーマだ。
「家庭画法」のノリではない、家庭画法を知った上での、独自の目線、切り口、方向性。
といっても、最近10年近く、家庭画法は、読んでいないので、今、どんな路線になっているのか知らないが。
もし、ずっと長年、同じ路線で行っているなら、
家庭画法は、女性の生き方を追究していない。
裕福なミセスという、ピンポイントの絶対条件を満たした人向けである。
なので、つまらない。
写真屋さん(元・世界文化フォト。現・amana)の優れたビジュアル効果を最大限生かす「世界文化社」がやっている雑誌なので、
目で見る雑誌。ビジュアル特化。
へんに、思考に走ってはいけない。考えてはいけない。
世の中、考えないほうが、幸せなことは、いっぱいある。
考えに考え抜いて、「考えない」という結論に達するのは、大いにけっこうだ。
何をするか、考えに考え抜いて、「何もしない」という結論に達するのも、大いにけっこう。
考えても、よくない結果を導くなら、考えないほうがマシ。
モノゴトを遂行しても、ろくでもないことになるなら、寝ているほうがマシ。
ただ、ほんとうに何もしない、何も考えない、まったく意識もしない、
そうしていると、いざという時機、タイミングを逃がす。
「チャンスは寝て待て」、とはよく言ったものだ。
意識だけはしっかり持ち、磨いていなければ、ただただ寝ているだけでは、たんなる、ぐ~たらナマケもの。
・・・
わたしのブログ、気になる方には、気になるようだ。
おそらく、気になる、どこかピンポイントの部分があるのか。
最近、そんな気がしてきた。