このブログ、もうやめようかと思った。
何度も、そういう時期がある。
でも、また持ち直した。
閲覧数に支えられている部分が、大きい。
ブログを書くことが、自分を救うのではなかったのか?
閲覧数が自分を救うのか?
またまた、考え方を書き直さなければいけない?
べつに支持してほしいとは思わない。
しかし、あまりにもベラベラと自分のことを(こころの声だけど)書きすぎている。
これがブログではなく、自分の秘密を握っている個人なら、この世から消し去ってしまいたい。
とは言え、とことん書いていないので、まあ、安心は安心。
それに、ちょっと美化表現もあるかも知れないし。
・・・
わたしは、こころを病んでいない。
病みそうもない。
楽天家で、天然なので。
ただ、限りなく認知症が目前。いや、もう、現実か?
そう考えると怖い・・・かと言えば、そうでもない。
なぜなら、楽天家で、天然なので。
しかし、認知症の症状と見られる発言を最近、したことがある。
だが、その発言を自分がしたことは思い出せなくても、わたしの話を聞いた人の証言や客観的事実から
どう見ても、わたしが発言しているとしか思えない。
「わたしには、そんな覚えはない」と言い切るが、覚えがないが発言していることを認めざるを得ない。
そこで、学習効果。
「自分には、発言したことを覚えていない前例がある」ということを覚えておくこと。
すると、それ以降は、メモするなり、覚えがなくても、状況証拠のようなものを残せばいい。
それで、判断する。
そして、覚えがない時の発言は、どういう状況の時に発せられるか把握する。
実例集としてインプットする。
状況が起こる原因分析をする。
それは、自分で考えて能動的に行った行動ではなく、
ふいに、偶然、受動的に相手からの働きかけで反応した場合に起こる。
すんなり自然な成り行きで事態が進み、気に留めてないのだ。
あるいは、気が動転して集中力に欠けている時。こころ、そこにあらず。
または、何気ない毎日の、ルーチンワークの一貫、ひとコマ。
気合が入っていない、当たり前のこととして、すっと脳を通り過ぎる。
なので、大事だと思えるようなことは、メモしておかなければ、後で自分の発言や行動に確固たる自信が持てない。
記憶に頼ると、どうも弱弱しい。
ストレスも溜めないけれど、記憶も溜めない。
一歩一歩、近づいてきているのか・・・。
でも、ストレスは病気の引き金になるが、記憶の喪失は、重症でない限り、天然の延長である。
記憶の喪失を苦にしてストレスを溜め、健康な体まで蝕んでいては、意味がない。
なので、明るく楽しく、少々のボケは、笑って見過ごそう!!
と、自分に無理やり言い聞かせる。
だが、ひとつ、良いことがある。
それは、母たち世代の人のボケに対して、非常に寛大になれることだ。
いいじゃない、いいじゃない、少しぐらい忘れたって、それで普通よ~、いえいえ、上出来よ~、
みたいに、まるで自分を擁護するかのように、母たちに言う。
すごく優しい気持ちになれる。
ましてや、わたしより優れていることも、かなりたくさんあり、いまだに、立派だと頭が下がる。
自分の出来ることを一生懸命やってくれる。
人の手を多少、借りることがあっても、自立して頑張ってくれている。
じつに、ありがたいことだ。
実母に関しては、性格的にどうしても受け入れられない嫌なところもあるが、
それは持って生まれた性格であって、一生直らない。
その嫌な部分より、評価できる部分のほうが上回っている。それで十分だ。
嫌な部分は、できるだけ表面に出ないよう、露出しないよう、刺激する事態を避け、そっとしておくに限る。
その嫌な部分と毎日、向き合って暮らしている人には、ほんとうに気の毒だが、
かといって、わたしが、その毒の部分を毎日、吸収すると、わたしが病気になってしまう。
緩和させるお手伝いをするぐらいしか出来ない。
わたしも、自分の身体、健康が大事なので。
良い部分を極力、引き出せるような、そういう環境づくりをしてあげなければ。
ただし、自分を犠牲にしてまでも、しない。
そこのところが難しい。
昔の人は偉かった。
同居。大家族。ストレスが、いっぱい。
だから、平均寿命が短かったのだろう。
それも、生命体としての人類維持の自然のセオリーなのだろう。
医療が発達することは、素晴らしいが、そうとばかりは言えない面もある。
同居しても、渋々、嫌々、ギスギス、已むに已まれず、仕方なく、選択肢なく、
他の方法が一切なく、ガス抜きもなく、そういう状態は、さぞや悲惨だろう。
それでも、現実として、そうせざるを得ない人々も大勢いるだろう。
同じ同居という事態であっても、こころの持ちよう、考えようでは、ずいぶん違う。
昔とは違い、介護保険をうまく利用し、できるだけのサポートをしてもらい、皆で協力しあっていけば、
多少は改善されるだろう。
煮詰まってしまっては、どうしようもない。
介護が絡まない、同居の場合は、シリアスだ。
介護保険も適用など関係ないし、家族・不仲保険なんか、立案されてないし。
うまく解決できない場合は、なんらかの病理となって現れる。
シグナルを発することはあるのだが、家庭内のことは、外には見えづらい。
徐々に蝕んでいく過程は、表面に現れにくい。
・・・
夫婦、親子、家庭内トラブルは、世の中にいっぱいある。
崩壊して不幸な結末に至る前に、どうにかして未然に防ぐか、被害を最小限に止めるには・・・
・・・小出しに、マメに、問題点の膿みを出していく、・・・そんなことぐらいしか
・・・考えても、最善の対策が浮かばない。
そこで、ふと思った。
案外、崩壊するのは、不幸な結末ではないのかも知れない。
離婚も、前向き離婚なんていうのもあるぐらいだし。
人は、必ず、生を受け、死を迎える。
最悪のストーリーとなったとしても、崩壊ではなく、進行なのではないだろうか。
人間は生まれた限りは、必ず死ぬ。
ずっと何百年も生きているとすると、肉体は消滅しても、人のこころの中で生きている。
せいぜい生きながらえても、120歳くらいまで。
120歳までのライフプランを考えると、どっと疲れる。
自然な流れに身を任すしかないのでは。
病気にならないためには、どうしたらいいか、と、
あれこれ考えて、ストレスを溜めて病気になったら、本末転倒だ。
しかし、今日は昨日の延長で、明日は、今日の延長。
過去、現在、未来は、一本の線で、つながっている。
あまりにも何も考えなさ過ぎては、方向性が定まらない。
・・・
楽天家で、天然。
アタマは限りなく心配だけど、ストレスは溜まらなさそう。
せめて、毎日、つつがなく、平和に無事に、暮らしたいものだ。
何度も、そういう時期がある。
でも、また持ち直した。
閲覧数に支えられている部分が、大きい。
ブログを書くことが、自分を救うのではなかったのか?
閲覧数が自分を救うのか?
またまた、考え方を書き直さなければいけない?
べつに支持してほしいとは思わない。
しかし、あまりにもベラベラと自分のことを(こころの声だけど)書きすぎている。
これがブログではなく、自分の秘密を握っている個人なら、この世から消し去ってしまいたい。
とは言え、とことん書いていないので、まあ、安心は安心。
それに、ちょっと美化表現もあるかも知れないし。
・・・
わたしは、こころを病んでいない。
病みそうもない。
楽天家で、天然なので。
ただ、限りなく認知症が目前。いや、もう、現実か?
そう考えると怖い・・・かと言えば、そうでもない。
なぜなら、楽天家で、天然なので。
しかし、認知症の症状と見られる発言を最近、したことがある。
だが、その発言を自分がしたことは思い出せなくても、わたしの話を聞いた人の証言や客観的事実から
どう見ても、わたしが発言しているとしか思えない。
「わたしには、そんな覚えはない」と言い切るが、覚えがないが発言していることを認めざるを得ない。
そこで、学習効果。
「自分には、発言したことを覚えていない前例がある」ということを覚えておくこと。
すると、それ以降は、メモするなり、覚えがなくても、状況証拠のようなものを残せばいい。
それで、判断する。
そして、覚えがない時の発言は、どういう状況の時に発せられるか把握する。
実例集としてインプットする。
状況が起こる原因分析をする。
それは、自分で考えて能動的に行った行動ではなく、
ふいに、偶然、受動的に相手からの働きかけで反応した場合に起こる。
すんなり自然な成り行きで事態が進み、気に留めてないのだ。
あるいは、気が動転して集中力に欠けている時。こころ、そこにあらず。
または、何気ない毎日の、ルーチンワークの一貫、ひとコマ。
気合が入っていない、当たり前のこととして、すっと脳を通り過ぎる。
なので、大事だと思えるようなことは、メモしておかなければ、後で自分の発言や行動に確固たる自信が持てない。
記憶に頼ると、どうも弱弱しい。
ストレスも溜めないけれど、記憶も溜めない。
一歩一歩、近づいてきているのか・・・。
でも、ストレスは病気の引き金になるが、記憶の喪失は、重症でない限り、天然の延長である。
記憶の喪失を苦にしてストレスを溜め、健康な体まで蝕んでいては、意味がない。
なので、明るく楽しく、少々のボケは、笑って見過ごそう!!
と、自分に無理やり言い聞かせる。
だが、ひとつ、良いことがある。
それは、母たち世代の人のボケに対して、非常に寛大になれることだ。
いいじゃない、いいじゃない、少しぐらい忘れたって、それで普通よ~、いえいえ、上出来よ~、
みたいに、まるで自分を擁護するかのように、母たちに言う。
すごく優しい気持ちになれる。
ましてや、わたしより優れていることも、かなりたくさんあり、いまだに、立派だと頭が下がる。
自分の出来ることを一生懸命やってくれる。
人の手を多少、借りることがあっても、自立して頑張ってくれている。
じつに、ありがたいことだ。
実母に関しては、性格的にどうしても受け入れられない嫌なところもあるが、
それは持って生まれた性格であって、一生直らない。
その嫌な部分より、評価できる部分のほうが上回っている。それで十分だ。
嫌な部分は、できるだけ表面に出ないよう、露出しないよう、刺激する事態を避け、そっとしておくに限る。
その嫌な部分と毎日、向き合って暮らしている人には、ほんとうに気の毒だが、
かといって、わたしが、その毒の部分を毎日、吸収すると、わたしが病気になってしまう。
緩和させるお手伝いをするぐらいしか出来ない。
わたしも、自分の身体、健康が大事なので。
良い部分を極力、引き出せるような、そういう環境づくりをしてあげなければ。
ただし、自分を犠牲にしてまでも、しない。
そこのところが難しい。
昔の人は偉かった。
同居。大家族。ストレスが、いっぱい。
だから、平均寿命が短かったのだろう。
それも、生命体としての人類維持の自然のセオリーなのだろう。
医療が発達することは、素晴らしいが、そうとばかりは言えない面もある。
同居しても、渋々、嫌々、ギスギス、已むに已まれず、仕方なく、選択肢なく、
他の方法が一切なく、ガス抜きもなく、そういう状態は、さぞや悲惨だろう。
それでも、現実として、そうせざるを得ない人々も大勢いるだろう。
同じ同居という事態であっても、こころの持ちよう、考えようでは、ずいぶん違う。
昔とは違い、介護保険をうまく利用し、できるだけのサポートをしてもらい、皆で協力しあっていけば、
多少は改善されるだろう。
煮詰まってしまっては、どうしようもない。
介護が絡まない、同居の場合は、シリアスだ。
介護保険も適用など関係ないし、家族・不仲保険なんか、立案されてないし。
うまく解決できない場合は、なんらかの病理となって現れる。
シグナルを発することはあるのだが、家庭内のことは、外には見えづらい。
徐々に蝕んでいく過程は、表面に現れにくい。
・・・
夫婦、親子、家庭内トラブルは、世の中にいっぱいある。
崩壊して不幸な結末に至る前に、どうにかして未然に防ぐか、被害を最小限に止めるには・・・
・・・小出しに、マメに、問題点の膿みを出していく、・・・そんなことぐらいしか
・・・考えても、最善の対策が浮かばない。
そこで、ふと思った。
案外、崩壊するのは、不幸な結末ではないのかも知れない。
離婚も、前向き離婚なんていうのもあるぐらいだし。
人は、必ず、生を受け、死を迎える。
最悪のストーリーとなったとしても、崩壊ではなく、進行なのではないだろうか。
人間は生まれた限りは、必ず死ぬ。
ずっと何百年も生きているとすると、肉体は消滅しても、人のこころの中で生きている。
せいぜい生きながらえても、120歳くらいまで。
120歳までのライフプランを考えると、どっと疲れる。
自然な流れに身を任すしかないのでは。
病気にならないためには、どうしたらいいか、と、
あれこれ考えて、ストレスを溜めて病気になったら、本末転倒だ。
しかし、今日は昨日の延長で、明日は、今日の延長。
過去、現在、未来は、一本の線で、つながっている。
あまりにも何も考えなさ過ぎては、方向性が定まらない。
・・・
楽天家で、天然。
アタマは限りなく心配だけど、ストレスは溜まらなさそう。
せめて、毎日、つつがなく、平和に無事に、暮らしたいものだ。