子育ての仕方には、ひとそれぞれ、微妙に尺度が違う。
実際に真っ最中の人と、眺めている人とでも、温度差がある。
大勢のママ軍団が、周りの迷惑を顧みずに、当然の権利とばかりの態度には容認できないものがあるが、
ベビーカーを折りたたんで、電車に乗るべきという意見には、いささか違和感を感じる。
ぎゅーぎゅー満員のラッシュ時や、保護者が、二人以上いるなら、まあわからないでもないが、
保護者が一人で、(二人でも)、空いている時間帯なら、ベビーカーはたたまなくてもいいと思う。
抱っこして、重いベビーカーを持って、荷物を持って、というのは、かなり大変だ。
抱っこできない状態のベビーもいるし。
当然の権利とまではいかなくても、大目に見てあげてほしい。
というか、保護者一人でベビーカーをたたんで持って、ベビーを抱っこして、荷物を持つという、
そんなハードなことをしている親子は見たことがないが。
あくまでも自覚、認識が大事だということだろう。
自分の子育てを振り返ると、
電車には、帰省する時以外は乗らなかった。
平常時に、子どもを連れて電車に乗るなどという、そんなストレスのかかることはしない。
自分が疲れる。
街に用事に出かけたり、ママ友と会いに、なんということは考えられなかった。
(ママ友、いないし)
ベビーカーや自転車で、自宅周辺をうろちょろするだけだった。
先日、地下鉄で、三人の乳幼児を連れたママを見かけたが、すごいなあと感心した。
若いということは、バイタリティがある。
自宅を離れて、子どもの面倒を見るなどと、そんな疲れることを選択するなんて、
わたしには出来なかった。
家で世話しているほうが、ずっと楽だった。
スーパーへの買い物や、公園などにベビーカーで出かけることはあったが。
と書きながら、そういえば、デパートに1歳と2歳の2人を連れて、よく行ったような記憶が蘇ってきた。
電車には乗っていないが、バスには乗ったような・・・。
ベビーカー、どうしてたんだろう???
忘れている・・・。
他にも、分別ある大人たちに眉をしかめられるような、大胆な子育てをしていたような、
記憶の断片が次から次へと蘇ってきた。
若い頃は、怖いものなし。
だから、子育てができたんだろう。
よくぞ、無事にたいした怪我もなく、大きくなってくれたと、ヒヤヒヤしつつ、胸をなでおろす。
当時、ご迷惑をおかけした(かも知れない)大人の方々、失礼しました。
・・・
子宝とはよく言ったものだ。
まさに、宝だと感じる。
小さくて可愛いのは、当たり前。
わけがわからないので、手がかかるのは、当たり前。
それを過ぎると、だんだん子育てが難しくなってくるのも、これまた仕方ない。
やがて大人になって、身近にいなくても、遠くで自立して頑張ってくれていたら、それでよし。
自分がこの世を去った後、「あとは頼んだよ」、と、心残りなく、現世からサヨナラできたら幸せ。
孫も曾孫も、いろいろいて見送ってくれたら(家族葬でもなんでもいい)、けっこうこの上ないことだ。
押し付けられるほうは、たまったものではないかも知れないが。
押し付けるものをできるだけ少なく、軽くしたい。
義務と権利。
両方、ライト感覚で。
仏祭りと相続は、めんどくさくて、重くて煩わしいと思われるので、
逃げ出したくない程度に、キレイに片付けていたら、負担も少なくなることだろう。
小さい子どもの時は、わけもわからないけれど、だんだん大きくなるにつれ、
肩に圧し掛かる重圧に押しつぶされそうになることだろう。
子孫に美田を残すな、と、昔の人はいいことを言う。絶妙な表現だ。
この解釈の仕方も、ひとそれそれ、いろいろ分かれると思うが。
・・・
今日のブログは、キーを打つ指が遅いこと、遅いこと。
何度も止まる。
いつもは、一気に、たたたたたっと打つのだが。
自分のブログのあり方に、ちょっと疑問を持っているので、
ふと考えてしまう。
実際に真っ最中の人と、眺めている人とでも、温度差がある。
大勢のママ軍団が、周りの迷惑を顧みずに、当然の権利とばかりの態度には容認できないものがあるが、
ベビーカーを折りたたんで、電車に乗るべきという意見には、いささか違和感を感じる。
ぎゅーぎゅー満員のラッシュ時や、保護者が、二人以上いるなら、まあわからないでもないが、
保護者が一人で、(二人でも)、空いている時間帯なら、ベビーカーはたたまなくてもいいと思う。
抱っこして、重いベビーカーを持って、荷物を持って、というのは、かなり大変だ。
抱っこできない状態のベビーもいるし。
当然の権利とまではいかなくても、大目に見てあげてほしい。
というか、保護者一人でベビーカーをたたんで持って、ベビーを抱っこして、荷物を持つという、
そんなハードなことをしている親子は見たことがないが。
あくまでも自覚、認識が大事だということだろう。
自分の子育てを振り返ると、
電車には、帰省する時以外は乗らなかった。
平常時に、子どもを連れて電車に乗るなどという、そんなストレスのかかることはしない。
自分が疲れる。
街に用事に出かけたり、ママ友と会いに、なんということは考えられなかった。
(ママ友、いないし)
ベビーカーや自転車で、自宅周辺をうろちょろするだけだった。
先日、地下鉄で、三人の乳幼児を連れたママを見かけたが、すごいなあと感心した。
若いということは、バイタリティがある。
自宅を離れて、子どもの面倒を見るなどと、そんな疲れることを選択するなんて、
わたしには出来なかった。
家で世話しているほうが、ずっと楽だった。
スーパーへの買い物や、公園などにベビーカーで出かけることはあったが。
と書きながら、そういえば、デパートに1歳と2歳の2人を連れて、よく行ったような記憶が蘇ってきた。
電車には乗っていないが、バスには乗ったような・・・。
ベビーカー、どうしてたんだろう???
忘れている・・・。
他にも、分別ある大人たちに眉をしかめられるような、大胆な子育てをしていたような、
記憶の断片が次から次へと蘇ってきた。
若い頃は、怖いものなし。
だから、子育てができたんだろう。
よくぞ、無事にたいした怪我もなく、大きくなってくれたと、ヒヤヒヤしつつ、胸をなでおろす。
当時、ご迷惑をおかけした(かも知れない)大人の方々、失礼しました。
・・・
子宝とはよく言ったものだ。
まさに、宝だと感じる。
小さくて可愛いのは、当たり前。
わけがわからないので、手がかかるのは、当たり前。
それを過ぎると、だんだん子育てが難しくなってくるのも、これまた仕方ない。
やがて大人になって、身近にいなくても、遠くで自立して頑張ってくれていたら、それでよし。
自分がこの世を去った後、「あとは頼んだよ」、と、心残りなく、現世からサヨナラできたら幸せ。
孫も曾孫も、いろいろいて見送ってくれたら(家族葬でもなんでもいい)、けっこうこの上ないことだ。
押し付けられるほうは、たまったものではないかも知れないが。
押し付けるものをできるだけ少なく、軽くしたい。
義務と権利。
両方、ライト感覚で。
仏祭りと相続は、めんどくさくて、重くて煩わしいと思われるので、
逃げ出したくない程度に、キレイに片付けていたら、負担も少なくなることだろう。
小さい子どもの時は、わけもわからないけれど、だんだん大きくなるにつれ、
肩に圧し掛かる重圧に押しつぶされそうになることだろう。
子孫に美田を残すな、と、昔の人はいいことを言う。絶妙な表現だ。
この解釈の仕方も、ひとそれそれ、いろいろ分かれると思うが。
・・・
今日のブログは、キーを打つ指が遅いこと、遅いこと。
何度も止まる。
いつもは、一気に、たたたたたっと打つのだが。
自分のブログのあり方に、ちょっと疑問を持っているので、
ふと考えてしまう。