自分の思うように人を動かすのは、至難の業である。
自分がしてほしいことと、人がしたいことは、同じとは限らない。
ナニナニしてくれない。
と、不平を言っても、人にナニナニしてほしいなら、それなりの動きをしなければいけない。
してほしいのに、してくれない状態にじっと耐えて、なんの意思表示もしなければ、人にわかってもらえない。
ある程度の働きかけをしなければ、伝わらない。
人によっては、
「なぜ、しない?」
「なぜ、してくれない?」
と、怒って詰め寄るタイプもあるだろう。
そんなふうに言われて、喜んで行動する人はまず、いない。
強制で、動く。
「だれだれは、してくれるのに・・・」
とあきらめ調で愚痴るタイプもあるだろう。
ひたすら、鬱陶しがられる。
「してくれたら、嬉しいな」
と、明るいタイプもあるだろうが、欲求内容による。
どう考えてもしたくないことを、笑顔で爽やかに言われても、したくないものは、したくない。
「わたしなら、こうする」
そう言って、自分も実践し、ある程度、成果もあがっていて、なおかつ、強制ではなければ、
自然にやってくれるかも知れない。
が、サボりな人には通じない。
「あ、そ。
じゃあ、あなた、がんばってね」
で、おしまい。
動かない人は、テコでも動かない。
どんな表現であれ、要求の内容による。
・・・
人になんと思われようが、評価されなかろうが、一生懸命、自分の道を貫き通す。
その姿を見て、こころを打つものがある場合も、ない場合もある。
家庭内のことであれば、家族は、ある程度の影響や感想を持つだろう。
「うちの方針だ。当然ながら、あなたもしなさい」
頭ごなしに、強制されると、どうなるか。
歌舞伎役者など、代々世襲している家庭は、いかにそのあたりの困難を乗り越えてきたことだろうか。
親の道を引き継ぐ子どもと、まったく正反対の道を選ぶ子どもがいる。
反発したり、自分の道を見つけたり、あるいは、尊敬したり。
それは、子どもが成人になって独自で決めることである。
サラリーマンであったなら、職業的な、そんな葛藤はないだろう。
被雇用者の中でも、公務員がいいとか、メーカーがいいとか、
それなりの身近な見本を見て、特徴を参考にして考えることだろう。
時代の流れというものもある。
武士が最高でも、明治維新以降、武士ってその職業は継げない。
軍人さんも、戦争が終われば、無職。
公家も貴族も、制度、体制が変れば、無職。
地主も小作人も、時間と共に変貌する。
戦後のどさくさから這い上がる人もいる。
高度成長期で、のし上がる人もいる。
時代の波に乗る人も、乗れない人も、転落する人も、いろいろいる。
すき間や狭間から、零れ落ちる人もいる。
上がったり、下がったり、ジェットコースターの人もいる。
・・・
人を動かす、という話から、大幅に脱線。
子どもは、子どもの道がある。
ある程度の年齢になるまでが、親の義務。
その年齢は、個人差がある。
外国に比べると日本人は過保護の傾向にあると思う。
子どもから大人に成長する過程で、親がどこまで手を出すか、口を出すか。
これまた、親の性格や方針によって、様々だろう。
こうしなさい、ああしなさい、と口うるさく躾ける親。
これは、子どものタイプによっては、効果がある場合もある。
言われなければ、まったく何もしない子どももいる。
自主性ゼロ。
強制しないと、何もしない。
優しく言われると、付け上がって、あんまり真面目に真剣にやらない子どももいるだろう。
厳しいほうがいい場合もある。
だが、ガミガミ怒鳴られ、殴られ、怒られ、叱られ、そんな教育って、わたしは嫌いだ。
体育系やスパルタ系の、厳しい教育なのかどうかは、知らないが。
優しすぎるもの、肝心、肝要なことを抜かしていては、腑抜けで良くない。
今、思えば、厳しくされた辛い時代があってこそ、結果として実を結んだ手ごたえを感じることもある。
何かを習得するには、厳しい時期がないと、優しいばかりでは、なにもモノにならない。
いずれにしても、難しい。
・・・
自分がいいと思ってやっていることを人が見て、人も同調してくれたら最高だが、
哀しいかな、わたしの場合は、ありえない。
人がやっていることを自分が見て、いいなあと同調した場合、真似してみることはある。
取り入れる。
すべてを取り入れることは、ない。
いいとこ取り、自分仕様。
加算法。
逆の場合もある。
人の悪いところは、自分への注意、戒めの材料にする。
消去法。
どんどんいいところが増えていって、点数が伸びるかというと、そんなことは決してない。
自然消滅していることが多々ある。
良い面も、悪い面も。
補充、補足しないので、目減りしている。
悪い面は、あまり減らずに、良い面が減ったりするので、厄介だ。
・・・
自分を貫き通した、孤独な、でも強いおばあさん、
あのおばあさんのお葬式の話、生き方を、自分なりに消化できる日は来るような、来ないような。
消化できないまま、胸の中、腹の中に、ずっと溶けずに気になって、持ち続けている気もする。
やがて、溶けて内臓に染み入っていくか、あるいは、異物として体外に排出されていくか、
どんなかんじだろう。
自分自身の歩みは、これからも歩み続けていかないとわからない。
自分がしてほしいことと、人がしたいことは、同じとは限らない。
ナニナニしてくれない。
と、不平を言っても、人にナニナニしてほしいなら、それなりの動きをしなければいけない。
してほしいのに、してくれない状態にじっと耐えて、なんの意思表示もしなければ、人にわかってもらえない。
ある程度の働きかけをしなければ、伝わらない。
人によっては、
「なぜ、しない?」
「なぜ、してくれない?」
と、怒って詰め寄るタイプもあるだろう。
そんなふうに言われて、喜んで行動する人はまず、いない。
強制で、動く。
「だれだれは、してくれるのに・・・」
とあきらめ調で愚痴るタイプもあるだろう。
ひたすら、鬱陶しがられる。
「してくれたら、嬉しいな」
と、明るいタイプもあるだろうが、欲求内容による。
どう考えてもしたくないことを、笑顔で爽やかに言われても、したくないものは、したくない。
「わたしなら、こうする」
そう言って、自分も実践し、ある程度、成果もあがっていて、なおかつ、強制ではなければ、
自然にやってくれるかも知れない。
が、サボりな人には通じない。
「あ、そ。
じゃあ、あなた、がんばってね」
で、おしまい。
動かない人は、テコでも動かない。
どんな表現であれ、要求の内容による。
・・・
人になんと思われようが、評価されなかろうが、一生懸命、自分の道を貫き通す。
その姿を見て、こころを打つものがある場合も、ない場合もある。
家庭内のことであれば、家族は、ある程度の影響や感想を持つだろう。
「うちの方針だ。当然ながら、あなたもしなさい」
頭ごなしに、強制されると、どうなるか。
歌舞伎役者など、代々世襲している家庭は、いかにそのあたりの困難を乗り越えてきたことだろうか。
親の道を引き継ぐ子どもと、まったく正反対の道を選ぶ子どもがいる。
反発したり、自分の道を見つけたり、あるいは、尊敬したり。
それは、子どもが成人になって独自で決めることである。
サラリーマンであったなら、職業的な、そんな葛藤はないだろう。
被雇用者の中でも、公務員がいいとか、メーカーがいいとか、
それなりの身近な見本を見て、特徴を参考にして考えることだろう。
時代の流れというものもある。
武士が最高でも、明治維新以降、武士ってその職業は継げない。
軍人さんも、戦争が終われば、無職。
公家も貴族も、制度、体制が変れば、無職。
地主も小作人も、時間と共に変貌する。
戦後のどさくさから這い上がる人もいる。
高度成長期で、のし上がる人もいる。
時代の波に乗る人も、乗れない人も、転落する人も、いろいろいる。
すき間や狭間から、零れ落ちる人もいる。
上がったり、下がったり、ジェットコースターの人もいる。
・・・
人を動かす、という話から、大幅に脱線。
子どもは、子どもの道がある。
ある程度の年齢になるまでが、親の義務。
その年齢は、個人差がある。
外国に比べると日本人は過保護の傾向にあると思う。
子どもから大人に成長する過程で、親がどこまで手を出すか、口を出すか。
これまた、親の性格や方針によって、様々だろう。
こうしなさい、ああしなさい、と口うるさく躾ける親。
これは、子どものタイプによっては、効果がある場合もある。
言われなければ、まったく何もしない子どももいる。
自主性ゼロ。
強制しないと、何もしない。
優しく言われると、付け上がって、あんまり真面目に真剣にやらない子どももいるだろう。
厳しいほうがいい場合もある。
だが、ガミガミ怒鳴られ、殴られ、怒られ、叱られ、そんな教育って、わたしは嫌いだ。
体育系やスパルタ系の、厳しい教育なのかどうかは、知らないが。
優しすぎるもの、肝心、肝要なことを抜かしていては、腑抜けで良くない。
今、思えば、厳しくされた辛い時代があってこそ、結果として実を結んだ手ごたえを感じることもある。
何かを習得するには、厳しい時期がないと、優しいばかりでは、なにもモノにならない。
いずれにしても、難しい。
・・・
自分がいいと思ってやっていることを人が見て、人も同調してくれたら最高だが、
哀しいかな、わたしの場合は、ありえない。
人がやっていることを自分が見て、いいなあと同調した場合、真似してみることはある。
取り入れる。
すべてを取り入れることは、ない。
いいとこ取り、自分仕様。
加算法。
逆の場合もある。
人の悪いところは、自分への注意、戒めの材料にする。
消去法。
どんどんいいところが増えていって、点数が伸びるかというと、そんなことは決してない。
自然消滅していることが多々ある。
良い面も、悪い面も。
補充、補足しないので、目減りしている。
悪い面は、あまり減らずに、良い面が減ったりするので、厄介だ。
・・・
自分を貫き通した、孤独な、でも強いおばあさん、
あのおばあさんのお葬式の話、生き方を、自分なりに消化できる日は来るような、来ないような。
消化できないまま、胸の中、腹の中に、ずっと溶けずに気になって、持ち続けている気もする。
やがて、溶けて内臓に染み入っていくか、あるいは、異物として体外に排出されていくか、
どんなかんじだろう。
自分自身の歩みは、これからも歩み続けていかないとわからない。