蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

始めと終り

2014-04-28 | 日々のこと
A4ノート、紙の日記を書いている。
書いているというよりは、つけている、メモしている。
感想抜きの、客観的な行動メモである。
面倒なので、たいがいは、一週間まとめて書く。

見開き、真っ白の一週間分の日記。
まずは、毎日のブログの閲覧数、アップした記事名を書く。
あとは、えっと~、何をしたっけ・・・??
と、アタマをひねる。
忙しくて、なにをしたか、すぐに思い出せない週や、暇で、なにをしたか思い出せない週がある。
つまり、なかなか思い出せない、ということだ。
ちゃんとメモしておかないと、いつに何をしたか、確信、確証がない。
とりあえずは、直近、一番身近な日から思い出し作業を開始する。

日記にメモできないぐらい、おぼつかない、おぼろげない場合は、いつも携帯している手帳(紙)を見る。
それでも、自信がない場合は、ケータイのメール履歴を見る。
あとは、レシートをチェック。銀行の通帳を見る場合もある。
もやもやと思い出せない部分は、そうやってカンニングして、やっとこさ、正確な日時を書くことができる。

(毎食のメニューもメモしていたが、1日1日その日にメモするなら正確だろうけれど、
今は、一週間分となると、曜日が前後して、おぼろげすぎて、書くのをやめた)


重要書類が、ない! どこに置いた?? ・・・キーンとアタマに不自然な静寂が訪れ、即、思い出せない。
とりあえず、可能性の高いところを探す。このときは、けっこう気分は普通。
あれ? ない!
では、どこに?
う~ん・・・と考えてみる。
まさか、あんなに重要な書類を捨てるということはないはず。
しかし、思い当たらない。
必死で、アタマをぎゅ~っと凝縮させ、絞る。
思い出せない・・・
疲れてしばらく休む。
ありえない・・・ほんのちょっと前だったはず。
で、深刻な面持ちで、また脳をぎゅ~っと・・・する直前あたりに、突然、脳内の裸電球が、ぱっと点灯する。
あ、そうだ。
あの書類といえば、あそこ、って、決めてたじゃないか!
で、一目散にそこに行く。
ほっと胸を撫で下ろす。

こういうことが、多い。
冷や汗も、固まり、塩みたいになり、タラタラ流れもしない。
老化現象をしみじみしみじみ実感する。
が、そういう状態をいくつも体験すると、行動のサンプル数が増え、おおまかな「傾向と対策」が自然とできる。
ノウハウができる。失敗・手引きマニュアル。

フットカバー(パンプスを履くときなどに着用する、薄くて小さな靴下みたいなもの)は、
必ずといっていいほど、洗濯すると、一つは、どこかに行って、ない。
最近、その紛失率の高さ、その正確ぶりに、自分でも驚いている。
なぜ、いつも、ない? しかも、片方だけ。
「傾向と対策」テキストを、ぱらぱらと紐解く。
しかし、今回は、非常に意外なところで発見した。
しかし、ありがちな、ありえる場所。
洗濯物を干している場所から、洗濯物をたたむ場所までの、いつものルート、
ほんの7~8メートルの間に、モノを紛失する、しかも、なん通りもの紛失パターン。
またもや、「傾向と対策」に、新しい事例が増えた。

(発見場所の正解は、ルート途中にある、キッチンのゴミ箱の上)

これは、不思議だ、哀しい、悔しい、いらいらする・・・を通り越して、笑えた。
日常の小さなミス、小さな発見、まったく一人芝居。

というか、そんな些細なネタで、ブログを延々と書いている自分も、ある意味、笑えて楽しい。
楽しいことは、いいことだ。
プチ鬱(うつ)転じて、プチ躁(そう)か。

いや、しかし、これは、フットカバーが、さりげない場所で発見できたから笑えるのであって、
そして、重要書類も発見できたから余裕の笑顔が生まれるのであって、
もし、発見できなかったら、プチ鬱は、もっと進んでいるのかも知れない。
まあ、とりあえず、今のところは、自分の忘れん坊症状を把握、自覚しているので、なんとかなる。
母は、それなりに年相応の忘却ぶり、義母も、年齢よりは、はるかに賢いだろうと思われる忘却ぶり。
二人とも、自分の忘却を嘆いている。

が、深刻なものではない。
そういう傾向にある、ということを本人も回りもわかっていて、傾向と対策を研究しておけば、
まあ、それほど落ち込むようなことはないと思っている。
どんどん進んできたら、また、それはそれ。
わたしも進むし、母たちも進む。
人間、生きているのだもの。あたりまえ。

いつまでも、若く美しく、賢く、立派なままでいたければ、時を止めるしかない。
それは、もう、生きる状態を止めることである。
醜くたって、生きていく、・・・生きていかなければならない。

映画「サクラサク」で藤竜也が、ぼけていく哀しさを上手く演じていた。
明るく、希望を持った展開になっていた。
ストーリーは、かなりポエム的であって、わたしは、シラけたが、
現実をあえて忘れて、ありえない、キレイ事すぎる、と、わかっていても、
まあ、作品として楽しむのは、映画の良いところなので、それもありかと思った。
かの、「愛のコリーダ」の藤竜也も、こうなりますか・・・と、対照的な役どころであったが、
メリハリが、人が生きるというハードさを際立たせていて、良いキャスティング、演出だったのでは。

多くの愛、恋愛も、ハードといえばハードだが、老いることは、もっと多面的な多くの色合いを含む。
老いることに、喜びや実を感じるには、よほどの屁理屈やら宗教やら信念やらが要りそうだ。
愛は、子作りをしたり、末広がりで発展していくが、
老いるのは、消滅していく過程の一部分である。

ものごとには、始まりがあり、終りがある。
それは、ごくごく当たり前のことである。
哀しいとか、憐れとか、なにをいまさら・・・
そんなことは、人類の歴史の分だけ繰り返されてきている。



にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村人気ブログランキングへ



いずれやってくる、人生の冬。
しみじみ自分のこととして、今後の展開に覚悟が必要と、自分に言い聞かせている。