今、わたしは書きたいことがなくなっている。
それは、お笑い女芸人が幸せな私生活を送りはじめると、途端に芸がオモシロくなくなるようなものか。
幸せで、平和ボケで、書きたいことがなくなったわけではない。
自分の残りの人生デザインをどう描こうか、と考えている。
が、立ち止まっている。
一種の凪のような状態だ。
時間、労力、おカネ、気力をどう配分しようかと。
自分のために、人のために。他者と自分、このバランスも加味している。
実母は、「世間などない」、と言う。
「世間はあれこれ言うばかりで、いったい、自分に何をしてくれる?」と。
義母は、世間は何も言っていないのに、勝手に自分の中で世間を作り上げている。
両方、正しいと思う。
ある程度、自己チューにならないと、他人に振り回される。
かといって、自己チュー一本やりだと、なりたい自分とかけ離れる可能性がある。
自分を軸にしつつ、世間での立ち位置を調整しながら、自分の進みたい方向に行くのが、妥協策だ。
協調性が必要である。
ご近所の子供関係の知り合いに、自分の路線ばかりを押し付ける人がいる。
最近、立て続けに、その人とバス停で顔を合わせる。
30年ほど前からの知り合いだが、方向性やスタンスはちっとも変わっていないので、驚いた。
年齢とともに、変わってきているかな、と思いきや、相変わらずで、うんざりした。
だめだ、こりゃ。
自分が良いと思うことは、人にもぜひ勧めたいという気持ちはわかるが、
押し付けがましいのは、鬱陶しい。
趣味のことでも、自分の趣味や、その楽しさを知ってほしいというだけならまだしも、
ぜひ、いっしょに楽しみ、実体験してほしい、と、参加を強要する人がいる。
鬱陶しいこと、このうえない。
なぜ、自分の中で納まらないのだろう。
自分が楽しかったら、それでよいではないか。
わたしの考えがおかしいのか?
考えが合わない人とは、一線を画すだけである。
趣味の世界なら、どうってことはないが、
一線を画すことのできない分野や、関係の場合が、ややこしい。
苦悩やトラブル、紛争のもとになる。
解決できない問題が、世の中には、わんさか転がっている。
火が付いたり、くすぶったままだったり、火の粉が身に降りかかったり。
知らん顔ばかりもできなくなっている。
問題意識を持って、行動しなければいけないが、避けられないような事態が生じるケースも想定できる。
享楽的に人生を享受できる時代は、終わりつつあるのだろうか。
自分をしっかり持っていなければ、渦に巻き込まれ、底なし沼に落ちてしまうかも知れない。
わたしは、自分の人生デザインを描こうとしていたが、途中で止まっている。
一瞬、未来が、ぱあっと明るくなって、うきうきして、もっと具体的に詳細にプランしようと思ったのだが、
何かが発生し、一端、流れがストップし、その後は、日常の雑事に追われ、考えを詰める機会を失っている。
人生の美学とかなんと、そんなキレイゴトではない、もっと、地に足着いたラフデザインが必要だ。
それより、どこまで考えたのか、忘れてしまっている。
ひょっとして、老化して、根を詰めて考える持久力が低下しているのかも知れない。
明るく照らされたと感じた時に、考えていたらよかったのだが、天気が変わって、どう考えたらよいか、わからなくなっている。
日差しが射していたのに、急激に暗雲立ち込めて、太陽が雲に隠れることもある。
また、雲から、そおっとお日様が顔を出すこともある。
狐の嫁入りということもある。
鮨屋のネタが時価みたいなものか。
状況も変わるので、大まかな方向性だけを決めて、あとは、臨機応変に柔軟性をもってやっていくしかない。
何がしたい、だの、何が欲しい、だの、はっきりした欲求は、さほどなくなっている。
十分、満足しているからだろうか。
満足のあとは、満足を持続するための努力が必要か。
あるいは、満足指数を歳とともに下げていくことか。
すると、努力しない分、能力や時間、労力、おカネの持ち点数も下がり、欲求(需要)と満足(供給)が一致する。
欲求は、自然減であることが、望ましい。
努力して、減らしていくのはハード。
食糧がないから、食欲を減らす努力をするのはハードだが、
年齢とともに、食欲が落ちてきて、食糧がさほど必要でなくなる、というほうが、ソフトランディングだ。
おカネや体力がないから、したいことを我慢するよりも、
したいことがなくなってきたから、自然とおカネや体力をさほど前より必要としなくなった、というほうが哀しくない。
だが、おカネはいくらあってもよい。
病気や、万が一のための蓄え。
おカネは余ったら、子供にあげたらよい。
しかし、これは、取らぬ狸の皮算用である。
予算どおりに、自分の命もピリオドを打つことは難しい。
だらだらだらだら、今日は、やたら、だらだらと長文を書いている。
その割りに、結論には程遠い展開。
一時的、仮の結論としては、
「なるようになる」、ということで、
時間も時間、とりあえず、お腹が空いたから、なにか食べます。
やはり、人間は空腹には勝てない。
何をいまさら言っている?