年末の慌しい真っ最中に、まったく急がない内容のブログ記事を書く。
gooには、自分の「ブログ人気記事ランキング」というのが、ご丁寧に設定されていて、
懐かしい記事が入っていたりすると、それを読むのが意外に楽しい。
中身は自分のことなので、自分の記憶とぴったり鮮明に一致している(あたりまえ)。
年々、記憶が衰えているし、はっきりちゃんと細かく描写する意欲が薄れてきているので、
過去の記事を読むと、今では忘れてしまっているような当時のことを思い出させてくれて、ありがたいような気さえする。
ありがとう、筆マメのわたし。
ついでに、提供者のgooさん。
わたしは、自己評価が低い。
真の自分の力を知らずに、自慢しているひとほどみっともないものはない、
謙虚は美徳だと、無意識のうちに思っているからかも知れなかった。
(本来は、適正な自己評価が望ましい)
ところが、それは謙遜ではなかったということに気づいた。
これは、ある人に指摘されて気づいたことであり、指摘されなかったら、一生、気づかなかっただろう。
努力するのが嫌だから、低めに自分を設定しているらしい。
なるほど、頑張らない自分の快適な特等席を、自分で作っているということだ。
実は頑張ればできるのだが、超サボりのため、頑張らない。努力嫌い。
じゃあ、目標設定を下げよう、ついでに自分の評価も下げとこう。
そうすると、楽々、心痛まなくサボれる。
という、カラクリであって、決して謙虚でも、謙遜でも、なんでもなく、サボりの裏工作のようだ。
サボりは、前々から自己認識していたが、無意識の美徳であろうはずがなく、
策略、ずる賢いと評価された。
人にどう思われてもよく、ただただサボりたいだけのこと・・・。
さほど努力しないで、最低限度の頑張りで、目標値に達するための、言い訳であると言える。
そこで、思う。
世の中の皆さんは、いったい、なにを基準に自己評価しているのだろう。
60歳ぐらいで初めて壁にぶち当たった人もいるとか。
まあなんと、幸せな・・・。
わたしは、なんの言い訳もできない状況で、いくら頑張っても自分の能力がはっきり見えた原体験がある。
それは、子供のとき。
社会のせいにしたり、家庭事情のせいにしたり、自分の身体のせいにしたり、
そういう外的要因を取り除かれた状態で、状態が整えられた滅菌、無菌室で、
よ~し、頑張るぞ~と、勉強に挑んだ。
なかなか、結果が出ない。
頑張りなさい、と、背中を押されて頑張らされた。
小学校の高学年の頃から、勉強に関しては雲行きが暗くなりそうな気配はあった。
苦しい脂汗をたらしながら、どうにか乗り越えたものの、中学で、またその波が襲ってきた。
別にプレッシャーでつぶされたのではなく、完全に能力の無さで、自分の敗北を知った。
それは、中学2年の時の理科。頑張るだけ頑張ったが、だめだった。
返されたテストを手に、涙が出た。悔し涙ではない。現実を受け止める涙。
そして、高校2年の時の数学。
これは、完璧にアウト。
わたしの芯、核は地中深く埋もれたまま残っていたとは思われるが、
外に見えるものは、そこで完全にゼロになった。
無からの出発である。
自分の能力を知った。
(小学校の社会科や、高校の時の日本史や地学などは、
どうしようもない、すごい悪い成績だったが、これがまた不思議に、けろっとしていた。
努力していなかったので。
一生懸命、苦手なことに挑戦して力の限りを振り絞ってやったことが、だめだった場合においてのみ、愕然となる。
努力して報われなかったことを受け入れることを知った。
だめなものは、どうしたってだめ、ってことだ)
精神的に、自己を形成する誇りは、無一文になったということだ。
幸い、一家離散したわけでも、不幸な事柄に見舞われたわけでもないので、
その後も、物質的にも、精神的にも、普通の人生を送っている。
というわけで、子供の頃に、一度、無になっているので、わりと打たれ強い。
自分のことを気づくのが早い年齢だと指摘する人もいる。
勘違いしている人を見ると、みっともなく我がことのように恥ずかしい思いに駆られる。
でも、勘違いしないと伸びない。
勘違いする時期は必要であるし、大事だ。
勘違いしたままの人生が、ほんとうのところは、幸せだ。
勘違いが妙に揺らぐと、ややこしい。
うっすら気づいても、気づかないふりをして、一生、突っ走ったほうが、楽だ。
残り時間のほうが短くなっている今の年齢で、自己・大改革を行っても、成し遂げる体力が無い。
だましだまし、ぼちぼち行くのが、よろしいかと。
と、またまた省エネ、サボりのススメとなってしまった。
追憶すると、
わたしの頑張りは、子供時代の後、あと3回あった。20代中半&後半、40代。
あとは、動物園のクマのごとく。
頑張る時には頑張らないと、たんなる、どうしようもない人である。
さらに、追加。
兄や姉のように、家庭教師をつけてもらっていたら、ちょっとは違っていたかも知れない。
(アウト!の最期が延びるだけだと推測できるが、いや、ひょっとして・・・? 進路が変わっていたかも?
甘いか)
が、親は見抜いていたと思われる。
わたしには、砂に水をやっても、溜まらず、漏れ抜け落ちるだけだということを。
実際のところは、もう、面倒になったのだろう。
あんまり一生懸命、わたしのことを考えていない可能性も大いにある。
早い話、手をかけてもらっていないことが、結果的には早く自分を知ることになった。