同じ話を何度も書いている。
2分割のお宅、建設中の話。
ごく最近、アップしている記憶はあるものの、どの記事だったか、探すのが面倒。
何しろ記事が長いので、読むのが疲れる。
と、自分の長文ブログに疲れていたら世話がない。
探せばすぐ出てくるのだが、それがどうした?という話。
気になっていることをきちんと正確に確認するのも面倒なお年頃。
わかっていながら、ほったらかし。
それがどうした?戦法。
本日は完全オフ、フリータイムなのだが、どう過ごそうか迷ったまま、すでに半日が経ってしまった。
小学生チームの孫たち、給食がまだ始まっていないので、うちに食べに来る?と誘ってもいいのだが、誘わず、うだうだ、ぼーっとしている。
我が家へ昼食のお誘いは、娘が育児休暇中で給食が始まるまでの今しか出来ないことには違いないのだが。
いや、まだ明日もその定時ルーティン路線のスケジュールであるし、別件予定もあるので、今日はパスしよう。
のんびり、何にもしない日にしよう。
「今しか出来ないこと」の定義、選択、基準、さじ加減、バランスが難しい。
とても楽しいことでも、毎日精一杯すると、とても楽しいことではなくなってくる。
仮に食に例えると、大好物も大量に頻繁に食べ続けると感動が薄れる。
疲れてきたり、摩耗したり、義務になったり、期待に応えようと無理したり、徐々に負担になってくる。
あるいは、飽きてきたり、慣れっこになって不満が出てきたりする。
自分が楽しい分量、熱量になるように選択するのが望ましい。
ちょっと手前、八分目がわたしのモットーだ。
全てにおいて、そう。
例えば、くだらない例を出すと、ファッションひとつにしてもそう。
公式の場以外では、ここぞという時も、一つ手を抜く。
そういうのを「抜け感」「こなれ感」と、ファッション誌では謳うが、そんな大層なものではない。
頑張り過ぎるのが快適ではないだけだ。
行動もそう。
100パーセント頑張っているのだが、80パーセントも出来ていない。
200パーセント頑張って、必死になっても85パーセントぐらいの達成率。
客観的に見ると、もっと低いだろう。
わたしには100パーセントは無理、増して200パーセントなど程遠い。
頑張って成果を出している人を見ると応援したくなる。
自分への期待値を極力低く下げるように日々、周りにアピールしているように思う。
特に意識していないかも知れないが、ドジ脱力ばかりなので、周りも諦めているのだろう。
これは悲しいかというと、じつに楽ちんなのだ。
だが、銀行や携帯電話ショップや、自動支払機で払うショップなどで、一テンポの遅い反応のわたしに、スタッフの人は、目を釣り上げるか、大きな声でゆっくり話したり、いかにも高齢の人に対するような態度を取られると、不快になる。
「深く傷つく」と書こうかと思ったが、そう書くのは情けない。
テンポがほんの少し間延びしていると、その瞬間、理解の遅い高齢者枠に放り込まれる。
「あ、この人は、わかってない人!」と見なされる。
いたくプライドを傷つけられる。
元々、ピンと目から鼻に抜けるタイプではないのだが、おっとりは自分のキャラだと捉えていた。
が、高齢枠が加わると、自覚していないまま、他の大勢の高齢の人々と共に同時に弱者枠に放り込まれるイメージ。
トロイのを自覚するか、テンポを上げてシャキシャキするか、だが、一番有能なピーク時の若い時でさえ、「大正時代のお姫様」と時代遅れレッテルを貼られていたのに、心身ともに歳相応分の老化を加える今は、ますます、まばたきもしないお姫様になっている。
しかし、無駄な抵抗はやめよう。
開き直るしかない。
65歳以上の高齢者にはワクチン優先だそうだが、65歳以上は高齢者なのかと思うと感無量である。
わたしは、あと数ヶ月で高齢者になる。
ちなみに、政治家はほぼ全員、高齢者だ。
そこで苦肉の策として、高齢者呼ばわりされるにはふさわしくない前期高齢者と、後期高齢者に行政では分けていたように思う。
65歳以上の人口に占める割合は、いったいどれぐらい?
65歳は、まだまだ働ける。
が、高齢者ということで、ひとくくりされる。
これからは、高齢者という自覚をじわじわ徐々に持っていこうと思う。
へんに傷つかないで、かわいいおばあちゃんになれば良いわけで。
しかし、銀行やお店の方、もうちょっと余裕をもって対応していただきたい。
無理かも知れないが。
とかなんとか、期待されずに、義務を最小限にして、ぼーっと遊びたい。
一人で遊べなくなったら、最近、どうしてるの?と気にかけてほしい、、、なんて言うとムシが良すぎか。
サボりすぎると、楽しみまで取り損ない溢れ落ちるから注意が必要だ。
他者と自分、お互いの微妙な力の加え方が要だ。
(タイミング、圧の強弱、持続状態、関わり具合、などなど、、、)
ちなみに、人生100年時代において、わたしの敬愛する上野千鶴子さんは、とてもこころにピタっとはまることを言っている。
その話はまたの機会に。