蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

宇宙教

2021-04-22 | 読む人々には興味ない話
半世紀以上生きてくると、だいたい自分の人生はどんなものか想像がつく。
過去を振り返り、現在を見て、さらに未来を予測する。
そう大きなどんでん返しはないはずだ。
予想通り、何もなければ、大大大大満足である。
予測できないような大惨事に見舞われたとしたら、それは想定外なので仕方ない。
予期できないことのために、備えよと言われても、、、。
せいぜい、最低限の災害グッズを備えるぐらいか。
病気にならないために過度な気配りや心配をすると、せっかく現在健康なのに、健康が目減りしてしまいそうだ。
健康オタクというらしい。
歳がいくと、あちこちガタが来るのは当たり前なのだから、受け止めるしか手がない。
へんに回避するための奇抜な方法や努力を取り入れ、ストレスを溜めるぐらいなら、普通に病気になったほうがマシ。

わたしは、自分の人生はほぼほぼ終わっていると思う。
あとは、字の如く、余生。
余った生。
余りは、楽で楽しくて解放されて、この上なく幸せ、充実していると感じる。
それは、今までの人生を肯定しているからである。

元々、出世欲ゼロ、偉くなりたい気持ちゼロ。
世の中に認めてもらいたいという気持ちはなかった。
今は、自分の好きなことをしているのが最高にご機嫌。
とは言え、既存レベルを維持するにはある程度の努力が必要である。
何もしないで全てを他人に依存は、ムシが良い。

既存レベルを少し下げるのか、少し上げるのか、徐々に下げるのか、徐々に上げるのか、そのままで推移するのか。
少しの幅は、自然の成り行きだ。
向上心ある人は頑張れば良い。
欲の無い人はそれなりで良い。
なんでも良い。
自分が良いと思えば。
人にどうこう思ってもらおうとすると、ややこしい。

必要以上に、人に迷惑をかけたくないと思う人がいるようだ。
必要以上に思う必要はない。
全く思わず、ふてぶてしい人には怒りを感じるが、少しだけ、すみませんねー、と自覚すればよいのでは。
小さな迷惑は、小さな支え合い。
小さな依存で、皆んな、社会は成り立つ。
大きすぎる迷惑の場合は、命にかかわりそうなら、丸投げもありだろう。
命まで取られそうな案件は、自分一人では処理できない。

例えば、恥ずかしくても命まで取られない。
何度も書くが、ふてぶてしく、当然の権利とばかり開き直り、更に逆ギレされるのは、嫌悪するが。
不運は自分のせいではないにしても、人のせいではない。
誰のせいでもない。
だが、不運がやってきているのは、隣の人ではなく、自分。
なんで?
となる。

宗教やら占いやら、科学で解明できないことを、別のものに頼ろうとする。
不幸な時は、藁をも掴む心境。
自分がそれで立ち直れるのなら、それでよい。
ただし、他人に押し付けてくれるな、と言いたい。
自分教を持つべし。
わたしの実母(存命)は、(そんなものは、あるのか無いのか知らないが)「宇宙教」を信じたらどう?なんて近年、言っていた。
この人には、自分こそ教祖ばりに自己チューなので、「宇宙教」から「自己チュー教」と改名すればよいのでは。

あの母にして、この子(わたし)あり、だ。
兄妹は、姉だけしっかり者で優れていて、兄もわたしも、もはや、いるのか、いないのかわからないぐらい、もうこの世には生きてない感じである。
とりあえず、わたしは、子供や孫たちを遺した。
(あ、わたしはまだこの世を去っていないが)
それだけが、生きていた実証かも知れない。

とか言いながら、まだ、子育て後方支援係を任命されている。
はやく引退したいのだが、もうじきあと数十分で、ドヤドヤとタスクの山が押し寄せてくる。
早めにブログ遊びは終了し、お役目、お仕事、スタンバイしなければ。
これもスパイスか。
(その割に、予定スケジュールを乱され、疲労感が伴うが)

ということで、早く終えてサボりたい一心で、タスク処理に着手します。
(て、食事準備にかかるだけなんだけど。相変わらず大袈裟)