蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

哲学より、ご飯

2021-11-27 | わたし
長年、ブログを拝読している方からコメントをいただき、嬉しく思っている。
延々とブログを書いても、なかなか直には手応えを感じ難いところがあり、自己満足で終わることが多い。
コメントをいただいたその方のブログは長きにわたり多くのファンを抱え影響力があるもの。
わたしごときの細々ブログにお越しいただき光栄に思う。
今回お寄せいただいたのは、音楽の話題についてのコメントだった。
ちなみに、わたしは音楽関係のブロガー裕さんのブログも愛読している。
音楽療法があるように、音楽は活力や癒しを与えてくれる。
これからのわたし時間を益々豊かにしてくれそうで、楽しみが広がる思いだ。

音楽もそうだが、意図しない偶然の出会いというものがある。
ほんのちょっとした、ふとした瞬間に、すっとこころに入ってきたり、感動したりする。
偶然かと思いきや、必然かも知れない。
そういう目に見えないものがある。

運の良い人は、良くない縁は自然に切れたり、立ち消えになったりする。
無理矢理繋ごうとする縁も、やがて切れることがある。
では、腐れ縁も縁のうちなのか?
腐れ縁も、害虫を食べてくれる蜘蛛みたいなもので、意外なところでプラスに作用していることもある。
全ては神様の思し召し?
とは言え、特定の神様を持たないわたしは、何神様なのか、よくわからない。
が、あれこれをミックスして良いところ取りをした「わたし教」の教祖であり、たった1人の信者でもある。

日本には自然の神様が、あちこちにいる。
台所の神様も、木の神様も、山の神様も、縁結びの神様だっている。
苦しい時の神頼み、なんていうのは、どこの宗教も似たり寄ったりだろう。

と、話は逸れに逸れている。
一旦脱線しないと、なかなか話が進まない。
で、ここでアタマに浮かんだことがある。
たんに、書きたいことが出てきただけなのだが。


先日からの涙を伴う悩み、、、舵を切らない選択をしたのには理由がある。
といっても、後付けのこじ付けかも知れないが。

わたしは悩みに悩んでいたが、結局、自分で決められずに、時間切れとなった。
保留というコースを選ばざるを得なかった。
時間切れといっても、じつに実生活に則したものである。
予約している店のキャンセルはどうしよう?だの、レッスン日目前までにはレッスンを受けるかどうか決めなければならない、だの、、、
参加、不参加の意思表示をしなければならない。
嫌ならキャンセルすれば良い話なのだが、なぜか、せっかく予定していることを変えるのにはかなり大きなエネルギーが要る。

(話は飛躍するが)、哲学者には女性がいないのは、食事の支度をしないといけないから、その時間が迫ってきているから、取り敢えずは思考を中断して、ご飯作りにかかるからではないだろうか。
今の時代にそんなジェンダー差別まる出し的なことを言うと激しく時代遅れと一蹴されそうだが。

それはさておき、
一昨日、仕事で少し遅くなった、(長女の)お婿さんが食卓を囲んで(保育園児は膝の上、乳幼児は和室でネンネ)、前に座る小学生の男児孫たちに、「今の時代は、食事の支度をするのは女性とは決まってないんだよ」と、淡々と力まず、さらっと言っていた。
その日、長女は、始発電車に乗って東京日帰り出張の日で、わたしは保育所お迎えと食堂当番をしていた。)

で、、、、、
話が何度も目まぐるしく変わるが、、、一回転して、、、行ったり来たり、、、
わたしは、哲学者にはなれないと痛感した。
物事の真理を追求するより、ご飯の準備に追われる。
これは、プラス面は、こころの病気にならないこと。
答えを出すまで病んでいる暇がない。
(暇も不足するが、脳が不足)

なにごとも、中途半端なわたしは、大きな功績は残せないが、程よい幸せを手に入れることができると感じる。