蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

嫌な思い出、良い思い出

2023-01-16 | わたし
むかむかと込み上げてくる黒煙。
で、つい書かなくてもよいのに書いてしまう。
吐きます。
あ、そんな人となんで関わるのかワカラナイわ、イヤならやめればいいのに、という、パンがなければケーキ発言(コメント)は、私を暗闇に押し込めるため、こころの中だけに留めておいてください。
日記は一種のセルフカウンセリングなので。
というか、そのコメント女性(別SNS)に、逆ギレしている。
出来ないから嘆いているのに、「なぜしないの?わたしはしていますよ」と、神経を逆撫ですることを悪気なく言う。
悪気はないのはよくわかるが、深い配慮や思いやり、相手の気持ちに立って考える想像力が欠如している。
立てないには理由があり、足がない場合もあるわけで。

反対意見をシャットアウトする気はない。
自分の気づきやヒントを得る可能性を閉ざす。
が、理解されずに否定され上から目線というのは、いかがなるものか、、、である。
たんに感じたままを書いているのだろうけれど(別サイトです)、クシャミが出そうで気持ち悪いから思いっきりクシャミをする、なんでそれが悪い?の感覚だろう。
相手の気持ちには一向にお構いなしで自分の思いをぶつける。


と、インターネット社会には有りがちなことであり、イヤならネットを遮断すべきである。
メリットもデメリットもある。
リスクを取らないことは、安心安全過ぎて無菌室はなんの面白味も手応えもなく、スカみたいなかんじではある。
なので、反対意見はwelcomeである。
なぜ反対なのか、根拠がハッキリ示されていると尚welcomeである。
発想の転換や、ヒントが隠されている場合がある。

と、賛否両論をまず書いて、、、
気合い、いっぱい、体幹整えスタンバイ。
さ、行こかー。
(記事は、ほぼ前書きだけで終了している、、、)


趣味関係の元練習相手A。
今だに脂汗が出る思いがある。
わたしが悪い、わたしが悪い、わたしが悪い。
あんな風になってしまったのは、自己主張しなかったわたしが悪い。
意見をはっきり言わなかったわたしが悪い。
責任はわたしにある。
コミュニケーション能力のないわたしの招いた結果。
自己責任で結果を受けなければならない。

が、わたしにもポリシーがある。(ここで反論)
口に出して言わないとわからないようなことを、幼児じゃあるまいし、わざわざ説明するのは終わっていると思う。
人として当たり前で常識だと感じていることが、わたしとAとではズレている。
わたしは長年、よく頑張ったものだ。
ある意味、悪い時間の積み重ねだった。
辛抱すればいい、ってものではない。

しかし、失敗を活かさなければ意味がない。
せっかくの学習能力を得るチャンスだ。
反省し、次に活かす。
そうでなければ怨むばかりでは、執念、怨念の塊、怪談の幽霊みたいになる。
じめじめ暗くて鬱陶しい。
マイナスをプラスに活かしてこそ、生きた教材だ。
そのマイナスエネルギーをプラスエネルギーに強力パワー変換してこそ、人としての性質が底力が問われるところ。
益々さらにマイナスエネルギーをマイナスに増幅増長させる人もいるようだが、、、生まれつきの性質の違いか。
これもマイナス底力か。

マイナスな人は、おいといて。
わたしは、うなされそうになるぐらい、嫌な思い出が頭から離れない時がある。
が、良い時もあったはずだ。
経験としてどんな素晴らしいことでも悪いことでも最後が良いと、脳は「良い」判定するらしい。
そういう実験結果で実証されている。
なあんだ、直近の記憶に新しいことが、感情的に身近なものとして残るのか。
昔の古き良き時代、自分のピーク時の思い出が忘れられない人もいる。
自分の中でにんまりニコニコして収まるか、同時代を同じ場所で楽しい思いで生きた人と昔話をシェアするかして、当時の幸せ感に浸るのも良いだろう。
ただし、誰かれなく昔話をして嫌われないように気をつけなければいけない。 
嫌われても良い場合は、自己責任で楽しい時間を過ごしていただきたい。