蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

必要なモノより、不必要なモノが欲しい

2010-03-08 | ささいな事
さて、週明けです。
昨日は、ノドに引っ掛かっているホネ、積年の未処理事項をやっと果たすことができた。

昨年からウジウジ決めるに決めかねていたギフト・カタログを4つも貯め込んでいた。
何度も何度も、飽きるほど何度見ても、これといって特に欲しいものがない。
期限ぎりぎりまで検討しよう・・・でも期限になっても決まらない。
そのうち、カタログ会社から、期限切れのお知らせが来た。
「3週間以内にお申込みがない場合は、こちらで決めた商品をお送りします」
焦った。
が、やはり、なかなか決まらない。
明日にしよう、明後日にしよう、週末にしよう・・・と、ずるずる、いつまでも決まらない。
1週間経ち、2週間経ち、えいやっと、一度は、申込みハガキに商品名を書き込んだものの
やっぱり、ちょっと違う・・・と再検討。
ホワイト修正テープで、商品名を消し、最初からやり直し。
そのままテーブルの上に放置。横目で毎日、見て見ぬふり。

いよいよ3週間の期限をあと1週間弱に控え、こりゃあかん、と、無理やり決定した。
チャリティーに寄付するという選択肢もあったのだが、ケチなのでそれも出来ない。
モノが欲しくない人は、寄付!!! いずれそうなる日が来てほしいものだ。
(死ぬまで、きっと来ない)

ケチついでに・・・
なぜ、こうも決まらないかと言うと・・・
インターネットで価格comやらあれこれで、価格を調べて比較してしまう。
2万円のカタログギフトで、まあこれならいいか、と思う商品を調べると5000円ちょっと。
実用品ではない品の場合(例えば、ブランドのテーブルウエア)は、大して安くなっていない。
15000円ちょっと、だった。
でも、同じようなものばかりあっても仕方ないし・・・。第一、来客も来ないのに。
本当は欲しいことは欲しいのだが・・・。自分では買えないしなぁ・・・。
しかし現実的には、電気ポットも壊れているし、必要だ。ホットプレートも壊れかけだし。
たとえ4分の1の価格のものでも必要なら、それにすればいい。
なのに、ブランドのテーブルウエアに心惹かれる。
ぐるぐるぐる。
綱引きの綱は、行ったり来たり。勝負がつかず、ラチがあかない。

ということで、堂々めぐり。4つも貯め込むと、選ぶのも面倒になってくる。
モノの品種や時期が重ならないように考え出されたのが、カタログ・ギフト。
価格帯が同じようなら、商品も似たり寄ったり。
なら、合わせて合算出来るようになればいいのに。
2つ、3つ分のカタログを合わせたら、値段的には、ちょっとは欲しいものと出会えるかも?
いや、高額になればなるほど、それは難しいだろう。
金券か、商品券のほうがいいな~。
私は、夢のない、守銭奴だろうか・・・

というか、果てしなく優柔不断人間だ。
夢がありすぎて、決められないのか、夢がなさすぎて、決められないのか。
現実派と理想派が、派閥争いし、論争も論点もぐちゃぐちゃなまま、時間切れとなる。

重い腰をあげて、とりあえず(半ばヤケ気味で)、やっと商品を選び、夕刻、遅々ポストに投函した。
届くのが楽しみな商品もあるが、そうでない商品もある。
今もあの商品にして本当によかたのか、と半分、後悔している。
ああ、ヘレンドのオーバルデッシュが頭にチラついて離れない。
あれにしたら良かった?? 欲しかったよなぁ・・・
そうすると、また一から出直し、元通りになってしまう・・・
あのままグズグズしていたら、一生、選べない可能性もある。
まあ、その時は、あちらからのお仕着せの商品に泣けばいいハナシだが。


週明けから、つまらない話で、盛り下げてしまった。
反省と、お詫びを少々。
いくらブログランキングに落ちこぼれたからといって、よくなかったかしらん・・・


ブログ村 自分らしさ
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大っ嫌いなこと

2010-03-07 | 健康
本来、運動は、継続的に、毎日のように行うのが、効果的らしい。
私は、大の運動嫌い。
そして、面倒くさがりなので、ちまちま毎日、運動するのは苦痛だ。
家の中で出来る運動というのもあるし、日常化すれば素晴らしいのだが、
自主性という概念を母親の胎内に置き忘れて生まれてきた(と勝手に思っている)私には、
そんな人の目のないところでの自発的努力など、できるわけがない。

ウォーキングもいいのだが、ここのところ、家を出る時間がズルズル遅くなってしまい、
歩いて駅まで行く時間がなくなってしまった。
これはよくない、以前のように歩くべきだ、と、頭の中では思っている。
何も用事がないのに、歩くことだけを目的に歩く、というのは、
私は合理主義者で、かつ、怠け者なのでNG。
何か用事があって、そのために歩いて行く、というのが私としてはベストだ。
ジムに行くために、車を利用などというのは、特にNG。

そのジム、だが・・・大嫌いだ。
週に1回だけ、軽快なリズムに乗ってアップテンポの有酸素運動のプログラムを受けている。
その後、引き続きジム、そして、プールで泳ぐ。
本当は、週に3回ぐらい行くのが良いのだが、その気はまるでない。

その週一の、ジムが大嫌い。スイミングは、ちょっと嫌い。
足指骨折の時は、運動が一切出来す、ある意味、ラクラクで、楽しい3か月間を満喫できた。
今は、元通り、で、毎週、その日が憂鬱だ。
ご近所の、かつてのママ友Mさんと、ある日、そのフィットネス・クラブでばったり会った。
彼女は、私と同じ有酸素運動のクラスにいた。
私は「ジムにも行ってる」と言うと、彼女はあからさまに顔を歪めて、
「私、ジムって、大っキライ!!」 だから、利用してないと、はき捨てるように言った。
私だって大っキライなんだけど。


それ以来、私は、ジムで憂鬱な気分に落ち込む度に、彼女の歪んだ顔を思い出す。
大っキライなジムを私は、なぜ、こうまで無理してやっている、続けているのだろう。
好きでやっているわけでないことだけは、事実だ。
今に見返してやる!!!などという気持ちがないといえば、ウソになるかも知れない。
見返すというのは、言葉のアヤだが。
嫌いだからやらない、努力を怠る・・・
そういう、欲望のままのことを続けていると、遠い将来、差が出るだろう。
今は、どういうことはないが、長年続けると、継続は力なり、で、
20年後に、爽やかな顔で、Mさんとご挨拶できるといいなあ、と。


私には私の論理がある。
健康維持は、ジムに行かなくても、出来るように思う。
ジムは、筋力をつける、衰えていくスピードを緩める、そのためだ。
たぷたぷの二の腕、ボコっと出た下腹、そういうの、かっこ悪い。
肉体の見た目の老化に、ちょっとでも抵抗しようという、諦めの悪さが、原動力だ。
ヌードは到底見れたものでなくても、せめて、薄着になれる程度のプロポーションは維持したい。
背筋もビシッと伸ばしたい。
なら、毎日、トレーニングすればいい。それが無理なら、せめて、週3日。
それが行けない。つまり、効率的成果を求めているのではなく、
自分の自己満足のため、心の保険のようなものだ。

今、嫌々やっているが、このまま継続したとすると、20年続けると
やらないよりは、やったほうが良い結果が表れるのでは???
と淡い期待を寄せている。

なので、憂鬱と苦痛に顔を歪ませながら、マシーンと取り組んでいるのだが、
ふとした瞬間には頭の隅っこで、Mさんの顔がどこかに浮かび、闘っている。


しかし合理的に考えれば、
家の中で、寝る前とかにちょこちょこ腹筋などをすれば解決すると思うのだが・・・。
(それが出来ないくせに、人のことはあれこれ言えない)
Mさんも、ひょっとして、家で地道に努力しているのかも知れないし。
やっぱり、私は、カッコばかりのニセモノなのかも。
歪んでいるのはMさんの顔ではなく、私のココロ?

ある意味、自分の欲求に忠実なMさんが、羨ましかった。
嫌だから、やらない、これは、素直な行動だ。
嫌いなのにやる、顔を歪めるほど嫌がる人もいるのに、
そして、自分も嫌なくせに、しかも、やらない人を怨みがましい目で見てまでも。
そんなに無理してやるなら、やめたら?
そのほうが、精神衛生上、絶対にいい。
でも、とりあえずは、虫の息ながらも続けている。

いずれ、ジムもギブアップ、家での地味なエキソサイズもグウタラでアウト、
そうなった時は、「もう年だし・・・健康第一。いまさら、外見なんか、どうでもいいわ~」
って、サプリとかいっぱい飲んで、開き直っているんだろうな。



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故郷

2010-03-06 | 人生
異国の地に暮らす人は、死が近くなると、望郷の念にかられる、という。
それは、祖国、日本。
私の場合、異国に暮らしていないし、戦争を知らない世代なので、
祖国などと言われても、ピンと来ない。
日本人であることを意識するのは、海外に行った時ぐらいだ。

それでは話が進まないので、国は、ちょっと横に置いて・・・
では、故郷は?
私の実家?
なら、結婚後は、婚家が故郷?
頭の中ではそう思うように、自分で言い聞かせる。
実際には、故郷が後半になって、ひとつ増えた、というかんじ?
子供たちも、結婚すれば、また故郷がひとつ、増えるのだろうか?

子供たちにとっての実家は?
今、私が暮らしている家であるはずなのだが・・・。
どうも霞(かすみ)を食べて生きているような、ヘラヘラし過ぎの私、
我が家は、実家というにはあまりにも軽いかも?
よくもまあ、こんな母親なのに、無事に、子供たちは大きくなったものだと、ヘンに今さら感心する。

重みがあるのは、実家の実家。
父方の実家。
母方の実家。
どっちに頻繁に行き来するかで、違ってくるだろう。
しかしながら、子供たちの実家は、じいちゃん、ばあちゃんの家ではなく、我が家。
合理的核家族。
各々の実家に比べると、あまりにも、うちは、軽くお粗末で、ふわりと飛んで行ってしまいそうだけれど。

重みを引き継ぐには、人材が不足している。
なぜ、煙たがる、嫌がるのか? なぜ、重圧に耐えられないのか?
古くさい古風な考えが根付いている田舎では、古くささを、伝統、というらしい。
意義がある伝統でなければ、引き継がれないと思う。形骸化するだけだ。
だが、その一代だけの世代限りで終わってしまう、勝手気ままな暮らしは、カタチとしては残らない。
自分たちの生活にほとんどを使ってしまい、次世代に残すだけの甲斐性がないのが現状かも。
税制も変わり、相続税は重いから、先祖からの有形のものを引き継げない家は多々ある。
戦後生まれのヘナヘナな私には、厳しさが足りない。
先代以前のような根性もパワーもない。

どうせ死んでいくのだから、あとは、子供たちがそれぞれに歩んでくれたらそれでいい、という考えもある。
一代、一代が、その時、その時で終わって行く。
でも、結果的には、DNAとしては、脈々と引き継がれていくのだが。
有形にこだわらず、無形の貴重なもの、DNAという遺伝子だけのものでもいい。
そういうシンプルな考えが通ればいいのだが、そんなわけにもいかないようだ。
考えの違い、風土、風習、因習の違い、それらとの折り合いがつかない場合でも、
非婚が増える昨今、こういう時代だし、最低限度、DNAだけでも継承すれば、それで上出来だ。


で、話を元にもどすと・・・自分の故郷とは?
自分の心のなかにある思い出。
夫の転勤先で、夕暮れの買い物からの帰り道、幼かった子供をバギーに乗せて、空を見上げ、
「これって、故郷イメージっぽい夕暮れ」などと自分で想像して、
別に自分の故郷には、そんな夕暮れシーンの思い出なんてないのに、勝手に創り上げている。
故郷は田舎でないと、絵にならない・・・なんて、イメージ先行型の私の感性。
私は、リアル体験の感受性が鈍いのかも知れない。
本物の美しい花を見て、「わぁ、まるで造花みたいに完璧にキレイ!!」という感覚、
ホンモノと造りものが、頭のなかでこんがらがっている。
一般的に言えば、故郷とは、「生まれ育った地、及びその地の風景&心象風景」だろうか。

私の実際の故郷も、自分の幼い頃の品々も、まだそのまま置いてあるものもあり、今も実在している。
婚家は、夫の故郷。イエに、合わせろと強制されると、
義務であるDNAだけポンと残して、全力で逃げ出したくなる。

故郷とは・・・
私には、やっぱりまだ語れない。

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今日の気分

2010-03-04 | 趣味
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ブログランキングも、もうあまりどうでもよくなった。
そもそも、下心を持って、自分のブログをアップするのは、よろしくない。
(結果が思わしくないからといって、逆切れ発言??)
1週間半、試みて、あまり人気ランキング参加は、自分のブログには影響はないようだ。
短期間で卒業の予定。(どうなるかわからないけれど)
でも、30分毎の集計結果が出るので、ちょっとしたアクセントにはなる。


閲覧数は、励みにはなるが、それに振り回されるのは、
自分スタイルを続けたい私としては、あまり、いい影響はないと感じる。
力を抜く、自分のために綴る・・・これが、私には心地よい。
時には熱くなる。それも、いい。


話は、ころっと変わるが
私は、ある総合カルチャーセンターで、社交ダンスレッスンを受けているが、
昨日、同じロッカーで、バレエレッスンを受ける女の子と遭遇した。小学1年生ぐらい?
かわいい。レッスンウエアも、バレエシューズも、女の子自身も。
髪はフィギアスケートの演技中のヘアスタイル(浅田真央ちゃん&キム・ヨナみたいに)、
きゅきゅっと、おダンゴにまとめてある。小さい顔。か細い、からだ。
バレエをやっている女の子は、独特の線の細さ、かわいさがある。
じろじろ見て、ごめんね。
別にヘンなおばさんじゃないから、安心してね。


社交ダンスの先生は、丁寧に教えてくださる。
しかし、3回教えてだめなら、完全に見放される。
その温度の急降下が、短時間に時を追って、もろに伝わり、辛いものがある。
1回目は、優しい声。
「あ、ちょっと違いますね~」
二回目は、「これをこうして、こうするだけで、ほら、こうなるのよ」。
冷静な口調に、変化。
三回目は、「うーーんんん、勘違いしてはるねーー」。
冷たい口調に、トーンダウン。
先生も、ダメな生徒でお金のためにと、割り切って教えるというなら、感情は入らないと思うが、
やはり、元選手、段々、感情が伴ってくる。
怒られなくなったら、それで終わりだから、ぴりっと襟を正すのには、効果的だ。
だらだらお稽古、レッスンしていても、時間だけが過ぎていくだけだし、
教えられる方の意識の違いによって、内容、受け取り方は変わってくると思う。
お遊び、健康のため、その場だけの楽しみのような取り組みもあるだろう。
高齢になってくると、そうなることだろう。
高齢でもないのに、ぬるま湯スタンスが好きな人も、大勢いると思うけれど。

自分の時間、自分のお金、自分の体、どう使おうが、自分の勝手。
家庭の事情や仕事などで、自由に使える貴重なものが束縛されるケースも多い。
人それぞれ、立場や環境が違うので、あたり差しさわりがないような総論っぽいことを言っても、
焦点がぼやけて、全然、おもしろくもなんともないけれど。


今日は、どんより曇った、寒い一日。
暖かくなるかと思いきや、まだまだ冬服は、しまい込めない。
さて、最近、ちょっと下降気味のバイオリズムに心身を委ね、今日も一日、頑張ります。










陰湿ばあさん達の集団イジメ

2010-03-03 | 仕事
ある仕事仲間、外注ブレーンの一人であるY氏。
彼は会社勤務後に独立して、フリーで仕事を請け負って、30年近くになる。
最近はガタンと受注量が減り、アルバイトを始めた。
バイトは、頭を使わなくていい単純作業なので、最初の頃は、気分転換のようにやっていた。
本職は、頭も感性も不可欠な特殊技能を要するものなので、
大勢の女性たちが働くその職場での軽作業を楽しむかのようだった。
あれから4年。

昨日、本来の職の方での納品のために弊社を訪れてきた。
彼は、疲れきった顔。いつも笑顔が絶えない人なのに。
本職の方は、益々厳しく、業界も冷え込み、さらに受注量が減って、
今やアルバイトが本職となり、本職がアルバイトとなっているが、
その今の(逆転)本職の方で、イジメに遭っているらしい。

ばあさんたちが集団で彼をいじめるとか。
「一人につき、20才のお嬢さんが3人分。そりゃ、すごいで。30人いるから90人分や。」
つまり、ほとんどの女性たちは60才ぐらいらしいが(世間的には、オバサン)、
その中でも、彼は男性ということで異分子。
最初は、頭を低くして、彼女たちに可愛がられるよう、努力していた。
彼女たちも、そこそこ受け入れてくれたようだった。
Y氏は、作業内容を説明してくれたり、うまくいっているようで、当時は楽しそうに話していた。
が、徐々に、不調和音が生じ始めていたようだ。
ばあさんたちは、毛色の違う異分子は排除したいのだろう。
陰湿に、ねちねち集団でイジメてくるらしい。
神経が持たない、と彼は嘆いている。

同じ職場で、彼の娘さんも一時、バイトをしていたが、1週間で辞めたとか。
やはり同じようなイジメに遭い、とても保たなかったそうだ。
20代前半の娘さんを、集団で60代のオババ達がイジメる。
そりゃあ、娘さんも音を上げるだろう。むしろ1週間もよく保ち堪えたほうだ。
奥さんも、その職場に関連するスーパーで働いたが、半年で辞めたそうだ。
彼は、辞める気持ちがよくわかると言う。

Y氏はもう年だし、どこも雇ってくれるところはないと言う。
なので、じっと耐えるしかないそうだ。
カントリー・ウエスタンっぽいファッションに身を包む、180センチ、恰幅のいい彼が、
大勢のばあさんたちにイジメられていると思うと可哀想だ。
辞めたくても辞められない、彼の事情も気の毒だ。

彼は、若い時は給料が安かったし、企業に勤めた期間が短かったので、年金も、涙ほど。
大酒飲みで、時々ギャンブル、お金には執着もしないし、ほとんど使ってしまっているように見えた。
憎めない楽天家なのだが、人生の後半に、「アリとキリギリス」のキリギリスになってしまったかも?
そんなキリギリスを、集団でイジメるなんて、そんなこと、しないでくださいよ。おばあさんたち。

ただし、これはY氏から一方的に聴いた話なので、実情は、微妙に違うのかも知れない。
かつて、私も彼と仕事のやりとりで、結構困ったりもした。
なので、おばあたちの言い分もあるかも。
娘さんが辞めたのも、「イジメられた」と取るか、「根性が足りなかった」と取るか。
おばあたちも、厳しい背景を抱えて働いているのだろう。

「頭なんか全くいらない、誰にでもできる、あんな仕事。
代わりの人間なんか、掃いて捨てるほどいる。歯車の一つに過ぎないんや。」
とY氏は、吐き捨てるように言うが・・・。
元々、独自の個性や能力を活かした仕事をこなしてきたY氏には、屈辱的な仕事だろう。
おばあたちの中にも、そういった特殊能力を持ちながら、軽作業に従事している人もいるかも知れない。
ただ、そんなことは表に出さず、仕事と割り切っているのかも。

実情、現状は、想像するしかないが、いずれにしても、厳しい世の中だ。



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蟹かにツアー 

2010-03-02 | 
なんばや梅田のバス集合場所には、蟹ツアーバスが10台近く並んでいる。
日曜日の朝、7時半。集合したものの、どのツアーも、みんな蟹ツアーなので、
自分の参加ツアーの添乗員さんは、どの人だかさっぱりわからない。
集合場所の女性用トイレは、長蛇の列。
集合時間に余裕を持って来たのに、トイレの順番待ちで、ギリギリになってしまった。
待ち時間中ずっと、前に並んでいる女性が友人らしき人に、
延々と息子さんの離婚話を微に入り細に入り、話していた。
待っている間に、読み切り小説の一話が、完結したかんじ。
トイレで息子の離婚話・・・女性は、デリケートな人もいるけれど、そうでもない人もいるようだ。
後になって思えば、それは、このバスツアーを象徴していたような気がする。

私が参加したのは、京都府の北西に位置する、間人(たいざ)を訪れ、蟹を食べるコース。
そこの間人蟹は、有名だ。
間人港で水揚げされた松葉ガニのことを間人蟹というが、
他の蟹と識別するために、専用のタグが付いている。


水揚げ量を重視して大型船で何日も停泊する漁とは違い、
鮮度を重んじて日帰りで帰港するため、漁獲量が少なく、それが間人蟹が、幻の蟹と言われる所以らしい。
ちなみに、間人という地名の由来は、聖徳太子の生母である穴穂部間人皇后の
当時のエピソードにちなむもので、六世紀の末にまでさかのぼるそうだ。

料理旅館に、バスで押しかける。
大阪からのバスツアー客の団体さんを迎えるのは、こじんまりした旅館だった。
明治元年の創業だという当時を偲ばせる品々がフィスプレイされていたり、壁に貼ってあったり。



趣ある旅館を想像していたが、新しく建て替えてあり、ちょっと建築資金不足かなと感じる。
このような鄙びた地には、大きな資本は動かないのだろう。

蟹は、生で食べる、焼く、しゃぶしゃぶ、カニチリ・・・、
たっぷり、この季節ならではの間人蟹の味を堪能できる。
甘く、とろけるような美味しさ。
蟹好きには、たまらない。
はるか遠くからバスに乗ってやってきて、目的の蟹を胃袋に納めて、満足して大阪に帰って行く。

帰りに、ちりめん織工場や、お土産屋さんにも寄った。
京都最北端の、すっきりした古い町並みは、清潔感があり、
海に面する地で暮らす人々の真面目な営みの積み重ねが感じられた。





(ちょっと、ここで coffee breakです)


ただ、旅館の規模が小さいから仕方ないのだろうけれど、
そして、蟹シーズンで、人手不足なのだろうけれど、
自分がいつも行き届いたサービスに慣れていることを再認識した。
目に見えない気配り、サービス、快適さを提供してくれることが、一流のサービスというもの。
決して押しつけがましくないことも、重要だ。
あれ?と、不便だったり、疑問に感じたり、気になったり、そういうマイナスのことを感じて、
初めて今まで受けていたサービスが、良いものだったということがわかった。

例えば・・・
トイレには、フックが付いていないので、バッグを掛けられない。
バッグを置く場所もないので、バッグを持ったまま、不便極まりない。
終わった食器を全部下げてくれない。(テーブルには、空のお皿がちょこちょこ残っている)
雑炊もまだ作っていない段階から、もう、デザートが出てくる。
お茶が出てこない。(自分で取りに行って、自分で入れて飲みました)
爪楊枝が用意されていない。

18,000円の日帰りツアーなので、そんなに安すぎるということもないと思う。
蟹の内容を重視、充実することで、その値段がついたのだろうか。
旅館は地域の小さなところ。
こじんまりと、素朴で、地域色が出て良い、と言えば、そう言えるのかも知れない。
ただ、色々あちこち出歩いて、ピンからキリまで知ってしまうと、
快適であることに慣れてしまい、ちょっとしたことに不満を感じてしまう。
快楽や欲求は、追求するものではない、ということだ。
あくなき贅沢心は、弊害をもたらす。
成長し尽くした先進国みたいなもの? 
次なる成長分野を模索、確立しなければ、生き残れない。
(→ハナシ、それてます。一人でどこへ行く?)



人材不足? 優秀な人を引き抜いて、従業員教育すれば、鬼に金棒だろうが、
そんなゆとりは、ありそうもない。
若い後継者が不在だと感じた。
「素朴」と、「サービスの悪さ」は、違うと思う。
サービスを徹底するには、やはり、お金、人材、経営者の方針、
そのためには、ひいては地域振興策、助成金、政治の力が必要だと感じる。

せっかく蟹は美味しかったのに、なんだか惜しいような気がした。
ついでに、文句を加えるなら、バスが狭い。
日程の時間配分が、忙しない。
追われるようにトイレに行った記憶ばかりが強烈に残る。
それが、団体バス旅行というものなのだけれど。
しかし、誰と一緒に行くか、が、大きい。(今回、一緒に行った人が良くなかった・・・)
それが嫌なら、自分独自で企画して行けばいいのだろうけれど。

そんな技量もないくせに、文句ばかりは一人前。
それにしても、朝早くから、夜遅くまで、身動きできないバスとトイレ通いに、疲れました。
「本場の間人蟹を食べる」その一点だけを目標にするのであれば、それは満たされたが。
蟹好きの人なら、一生のうちに一度は味わってみる価値のある間人の蟹。
その貴重な体験をすることができたことは、有難いし、幸せなことだ。

食事もさることながら、快適性を重視する傾向にある私。
ダイナミックで、量も多く、味さえよければそれでいい、というわけにはいかない。
もちろん、味が良くないのは、論外。味は、必須第一条件だが。
いかにも「女性好み」という枠にすっぽり入ってしまう。
楽しみの枠を自分自身で狭めている。
難儀だなぁ・・・。






長文過ぎて、うんざり、お疲れ様でした。
クリックする力は、果たして残っているでしょうか?
というより、ココ(最後)まで読まれた方、おられるかしらん・・・?
そっちのほうが、不安です。(反省も含め)

セールスマン方式は、危険です

2010-03-01 | 人々の風景
地下鉄電車、いつものように、発車まで、端っこの座席に座ってぼんやりしていると、
ドアが閉まる直前に、若い男性がドアに足を差し入れた。
明らかに足を入れた瞬間にはドアは閉まると、わかっての確信犯?
セールスマンが、よくやる手口。
次の展開を綿密に予測していなかったが、足を挟んだまま、ドアは閉まった。
靴の3分の2ぐらいが車内に顔を見せ、取り残されている。
私の隣の座席に座ったオバアさんが「危ないよう」と思わず口から出る。
私もその瞬間、もしこのまま電車が発車してしまったら・・・・と想像して、戦慄が走った。
心臓が、コクっと凝縮して動いた。

靴を挟んだまま、電車が発車する、・・・と。
靴の中には足が入っている。
足は胴体につながっている。
胴体はホームの上にある。
固定された足と胴体が、同時に別々の方向に力が加わると・・・・???


警察やら救急車が駆けつける図、ブルーシートの青が、とっさに頭に浮かぶ。
目撃者として、色々聞き取り調査に協力しないといけなくなり、時間が奪われ、煩雑に。
いわゆる事故に巻き込まれた、というやつ? ザワザワザワ。

大好きなミートソーススパゲッティやハンバーグが食べられなくなったらどうしよう。
飛び込みではないから、そこまでは酷くないはず。
あまり衝撃的シーンが繰り広げられる心配はなさそうだが、
もっと大ぶりの、転倒とか、骨折、打撲、といった
外見はどうってことなさそうなかんじに落ち着くのだろうか。
ブルーシートしか思い浮かばない、発想の貧困さ、とっさの具体的イメージがわかない。


動かない挟まれた靴の顔と、その時間を切り取ったまま、私とにらめっこ。
一瞬、時が止まった。
その間に、私はアタマの中で、映像やら画像やら、色やら、音やら・・・カオスでぐるぐる。
が、次の瞬間、ドアが開いた。
若いおにいさんは、何食わぬ顔で、車内に入り込んだ。

どうもなくてよかったのだが、どうかなっていたら、私もきっと、どうかなっていただろう。
とりあえずは、熟したトマト色が鮮やかな、イタリアン・グルメは、難なく楽しめそうだ。






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