蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ハラスメント

2021-04-06 | 老い
あのご高齢の、昔、高い地位に就いておられたモリさん、いろいろ女性差別発言をあちこちでしている。
ある秘書の女性のことを「女性というような年齢ではない」と言ったとか。
そう言うなら、じゃあ、貴方(モリさん)は、どう見ても男性という年齢の男性ではない。
彼は公人なのだから、閉ざされたオフレコの時に、土中に穴を掘って発言したらよい。
いくら辞職しても、アタマの中は変えようがない。
が、世の中の男性たちも多くは似たようなものだと思う。
特に高齢層。
なぜダメなのか、なぜ自分の意見や思いを口にしてはいけないのか、理由はわからないが、世間や家族からバッシングを受けるため、口にチャックをしているだけで、まるで理解していない。
というか、理解できない。
自分の考えは正しいと思っているから。

ちなみに、赤ちゃんは英語でit扱い。
性別をつけない。
高齢者もitにするなら、女性だけでなく男性も。
発言する立場の人に男性が多いことが、そもそもの日本のジェンダー立ち遅れを物語っている。

ある大学教授が言っていたが、女性の美や若さに対する、氾濫する広告に皆んなが無意識に影響を受けることに警鐘を鳴らす。
シワ、シミ、ほうれい線をなくす広告を頻繁に目にする。
ひどい広告では、高齢女性の顔写真をボカシ無しで出して(本人の許可を得ているのかどうか定かではないが)、醜い見本のように扱っている。
高齢男性のリアルな顔写真も見たことがある。
男性も同じように取り扱ってます、女性差別してません、と主張したいのかも知れないが、明らかに年齢差別している。
高齢者は醜いと言わんがばかり。
その醜い老化で弛んだ皮膚や目の下のたるみ、この薬?で、ほら、キレイに!
というようなくだり。

顔は生きてきた証だと思う。
あえてそれを醜悪だと認知させ、改善させようとは。
何かが違う。
若さとは、機能や中味、肉体に加えて、見た目も含めて若さなら、若さを維持するには、歳を重ねる行為に逆らって生きていくことになる。
真理に逆行する。

生きるために食べる。
食べるために生きる。
どっち?

美しく歳を取りたいために努力する、、、
それって、健康オタクに通じるものがあると思う。
一生懸命生きていたら、あるいは楽しく生きていたら、または力まず善行をしていたら、それなりに自然な老いが訪れて美しく歳を取ると思う。
笑いシワは愉しげだし、眉間のシワも味わいや深みを添える。
表面的な美を追求するなら、老化は正に敵。
老化を否定する必要はあるのだろうか。
若さばかりにこだわるのは、目的と結果が逆だ。

不老不死は結構残酷である。
いろんな物語にも登場するが、苦しみをもたらす罰ゲームのようなもの。
いつまでも死ねないなんて、どうする?
必ず人は生まれたからには死ぬ。


それより問題は、女性差別!!
男性のシワ広告は今のところ見たことがなく(一件だけ、目の下のたるみ?男性モデルはあったように記憶するが)、ほとんどが女性。

よく言われているが、ヨーロッパでは熟成されたマダム文化が根付いているにもかかわらず、日本人男性は若い女性を好む。
生殖には若さが必要らしい。
その割には男性には元気がない。
今時、何も知らない女の子などいないだろうから、ロリコン趣味に行き着いてしまいそうだ。
それは、法に触れる。
若い女性には当然相手にされない、なら、ターゲット歳を上げていけば良いものを。
熟成された年齢の女性は、若い女性以上に手厳しいと、わたしは勝手に想像する。
けなされる腹いせに、すでに若さを失っているくせに、と、熟成女性を上から目線で見る。
自分だって若くなく同じなのに。
ああ、やだやだ。
ろくに女性を満足させられないくせに、女性は思い通りになると思い込んでいる、大いなる勘違い。
これ、毎回、時代錯誤時代劇で、虫酸の走るお代官様だか商人だかお殿様だかが、話しているセリフだ。
自分本位の満足を求める男達が女性を置き去りにするのならまだしも、女性を虐げて、踏みつけて、男達の満足を得ている。


わたしは毎日、時代劇がテレビで流されるのを同じ自宅空間で聞いている。
聞きたくないが、無理やり耳に入ってくる。
時代錯誤のセリフが絶え間なく流れ、不快この上ない。
封建時代なので身分差別パワハラも頻繁に出てくるが、特に女性へのハラスメントが著しい。
毎日毎日、金太郎飴のように、ハラスメント劇が流されると、ヒ素か何かを盛られるかのごとく、日々、毒が身体に溜まる。
やめて〜〜〜と、耳を塞ぎたくなる。
架空の造りものの娯楽時代劇なんだから、真に受けるのは明らかにおかしいのだが、毎日、あのセリフを聞くとノイローゼになりそうだ。
これが今の時代ならモリさんどころではない凄いストーリー展開に、夫はストレス解消、溜飲を下げているのだろう。
人の愉しみを邪魔する権利はないが、しかし、わたしの不快の上に、その愉しみは成り立っている。
なので、お互いが不快にならないように工夫して、別々に趣味を楽しめば平和解決だと思う。
相手を否定してはいけない。
人には人の道。
パワハラ、セクハラ時代劇が大好きな人と大嫌いな人が、同時に同じ空間で時代劇を観てはいけない。 
配慮が必要だ。
トラブルを回避するのは、「知恵」を駆使する。
モリさんのアタマを改造するのと、夫の時代錯誤ハラスメント時代劇趣味を変えさせるのは、ほぼ同じぐらい不可能なことだと思う。

今の若い人はそうでもないようなので、先には光明を見る思いである。
未来、将来に期待しよう。
そのためには、我々夫婦は今から種を蒔き育てていかなければならない。
だが、我々は先が短いからそんな地道な時間がかかる面倒な作業ではない、もっと良い方法を採用しよう。

世の中的には随分前から種は蒔かれていると思われるが、悲しいかな、しっかり育っていない。

貧乏くさい

2021-04-05 | 暮らし
さてと。
好きなことを書く。
ウケは全く狙わない。

「貧乏」と、「貧乏くさい」は違う。
このセオリー、たいへん、よくわかる。
武士は食わねど高楊枝。
腐っても鯛。
太った豚より、痩せたソクラテス。

清貧という言葉には潔い美しさを感じる。

わたしの場合、「貧乏」か、「貧乏くさい」、どちらに属するかというと、貧乏くさい「貧乏性(びんぼうしょう)」。
靴下に穴が空いていると大変恥ずかしく思うが、靴を脱がない場合は穴空き靴下をドキドキしながら履く。
穴空きが恥ずかしいなら、穴空きでない靴下を履けばよいのに、ストックは山ほど持っているのに、見えないからいいか、、、と穴空きで敢行する。
インナーマッスルトレーニングの時などの、足を投げ出して靴下がトレーナーさんの顔近くに来そうな時は、一番綺麗な靴下を履く。
尚、綺麗な靴下はインナーマッスル用にキープしておかなければならない。
これは、見栄以外のなにものでもない。
こういう感覚、心情、行いが、貧乏くさいのではないだろうか。

真性貧乏ではないが、正真正銘の貧乏性である。
貧乏性の特徴は、きっぷがいい、の真逆で、きっぷが悪い。
大盤振る舞い、しない。
奢る場合は、最少限度。
モノを人にあげる場合も、最少限度。
なんでもかんでも貰うのが好き。
なにかにつけ、ケチ。
正札の値段を見ると、値切らずにはいられない。
(が、デパートや食べ物には、値切ったりしない)
1円でも安く手に入ると満足する。
逆に、得をし損なうと落ち込む。
せこい。
浅ましい。
増えても大して何も思わないのに、減るとやたらキリキリする。
(体重に関しては、この逆)
欲のカタマリ。

良いことは一つもない。
生まれ月?から見る気学では「七赤」という、ドケチの星。
(生まれ年では別の、継続、忍耐の星)
姑は自分で嫁のわたしの星を九星で見て、納得していたようだ。
(姑は、わたしとは正反対の性質)

無理やり良いことを探しほじくり出すと、、、実情、実際のところは貧乏ではない、ということか。
しかしながら、貧乏ではないのにケチ、というのが一番貧乏くさい。
こころが浅ましい。
性格、性質だから仕方ない。
貧乏くさいのが嫌で自分で、納得できない値段のものにお金を出すと、、、気持ちが下降して気分が悪くなりムカムカ、ストレスが溜まる。
では、、、自分の嫌な性格と向き合い改善の努力をするのと、多大なストレスに見舞われるのと、どっちがマシ?
良いように考えると、倹約家。
無駄はしない質素倹約を美徳とする。

何ごとも自然派のわたしは、天然の性格を無理やり捻じ曲げず、そのままそっとしておく。
温存派。
治療でいうと、対処療法の西洋医学ではなく、自力で根本治癒の東洋医学。(もちろん、例外はある)
人に迷惑かけなければ、自然に任せて好きにしておく。
わたしのケチケチ根性は誰にも邪魔されずに益々のびやかに成長し、エコ精神をはるか上回っている。

例えば、水道の蛇口はちゃんとキチッと締める、
照明は必要ない時は消す、
紙や布は、最後まで使い切る、
食材は極力無駄をしない、、、
そんなかんじなのだが。
いつも夫とバトル。

夫は照明が大好きで、日本語では「就寝」時間のことを「消灯」時間ともいうにもかかわらず、眠りについても寝室の電気は付けっ放し。
真昼間の明るい時もトイレの電気をつける、
あちこち、電気を付けっ放し。
かたっぱしから、わたしは消して回る、後始末係。
姑がそうだったので、DNAと育成環境の影響だろう。
(わたしのケチは九星気学の一部からだとしても)
姑は、厳しい舅に躾けられて、表面上は改善された。
舅の母親(姑の姑)も、姑にとっては悲しいかな、わたしと同じタイプ。
が、人は生まれつきの性質は変わらないので、舅亡き後は、本来の姿に戻っていた。

稼ぎ手の人がケチだと悲惨。
(わかりやすい凡例を出すと、通常、大黒柱であることが多い世の夫たち)
家の中をくまなくチェックし、これが無駄、あれが無駄、といちいちけちをつけられると、稼がない側で家で家事をする人(凡例としては大黒柱ではない世の主婦たち)にとっては嫌だろう。
逆に、稼がない側がケチで、稼ぐ側にケチケチ文句を言うと、稼ぐ側が仮にかなり稼ぐ人の場合、
なんでやねん!オレはたっぷり稼いでいるのに、光熱費ぐらい好きに使ってもいいじゃないか!
と不満が噴出するだろう。

いや、お金の問題ではない。
稼いでいるんだから自由にさせろ、と言われても、地球のエネルギー意識の問題だ。
持続可能な地球未来が今はテーマとなっている世の中で、明らかに理屈に合わない無駄は避けたい。
というわけで、家事をする側がケチなのは、意外にうまく家の中が回っていくと思うのだが。
少々不自由でも。

ちなみに、娘の家は徹底している。
地球エネルギーの未来のために、よくまあ、夫子供を教育したものだと感心する。
わたしは、あそこまでは到底出来ない。
年寄りには酷である。
姑が、舅の他界後、我々と同居したくなかった理由がよくわかる。

あれこれ書きたいことが次々に浮かんできた。
続きは、またの機会に。


目覚めないほうが幸せ?

2021-04-03 | 人生
わたしがうら若き頃(半世紀近く前)、家庭画報という婦人雑誌があった。
(たぶん今もあると思う)
世界文化社が手がける、美しい写真が見せ所の高級月刊誌だった。
セレブ感溢れる美をテーマにした本。
雑誌自体もサイズが大き目で、ずっしり重く、紙質も良い。
セレブ主婦をイメージしたコンセプトで制作されていたが、さらに加えて未婚女性向けの家庭画報の子分みたいな雑誌も発刊されていたと記憶する。
同じ主婦向けでも「レタスクラブ」や「オレンジページ」とはコンセプトは違う。
家庭画報は、こってり、テカテカしたセレブ感を売りにしていた。
(これは悪意ある表現で、実際は品のある重厚なテイスト)
浮世離れした優雅な世界に、どっぷり浸れるように作ってある。
紹介されている服や小物、アクセサリーはお値段が一桁か二桁多い。
「上品な」という形容詞も付けてもよいが、あの、これでもか!というこってり感が、今のわたしの拒絶反応を誘発させる。
なぜなんだろう?

ちなみに、「知的なテーマ」はあえて取り上げず、掘り下げない。
ほんの少しだけ申し訳程度に読みものはあるが。
しかし、わたしはその中で、世相を斜め切りにしたような、女性が直面する病理を斬ったシリーズ読み物が好きだった。
毎月、読んでいたから、読者ということになる。

高級な衣食住を追求し、その生き方を美しく掲載されている。
のではあるが、掲載モデルパターンとなるのは専業主婦。
仮に仕事をしていても、お飾り程度。
収入より、経費、支出が上回りそうな趣味のお稽古自宅サロンだとか、ボランティア活動だとか。
自分では到底、食べていけない。
(中には仕事がヒットして、自立できるほど稼いだ人もいるようだが、本腰を入れて離婚に至る、なんてパラドックスもある)

時代は何回転かして、少し前には専業主婦もまた憧れの職種?となっているらしい。
その背景には、家事育児に協力してくれない夫と、フルタイムで働く妻、、、
この生活に心身ともに磨耗し悩む妻は、逃げ場を求めて彷徨う。
が、一旦、家の中に逃げ込み専業主婦になったらなったで出口がなく、またキツイ。
どこにも安住の場所はない。
それは、女性だけではないとは思うが。

子育てしながら仕事を続ける場合は、夫が家事育児をちゃんとしない分、その補填には妻の実家の援助を受けながら共稼ぎを続けることがある。
(夫の実家からのマンパワー手助けとなると、デリケートな面があり、ギクシャクするような予感がする)
しかし、妻の実家が援助してしまうと、夫育成にならない。
最初は自転車に補助輪をつけるかのごとくサポートしても、滑り出すと後は手を離し、夫婦二人でやって行くのが道。
親の過保護は、子供の夫婦関係を破綻させる。

話を戻す。
家事育児が半々にこなせ(当然、仕事もしてちゃんと稼ぐ)夫は、目指す方向性は示されているものの、今はまだ日本では過渡期なので、夫、妻、共に、大変だろう。


わたしが思うに、今は昔の家庭画報的な夫婦理想像は理想ではなくなったと感じる。
(女性がたっぷり稼いで専業主夫のいる家庭ならまだしも)
女性も自分の食い扶持は自分で稼いでこそ、家事育児のシェアだが、妊娠、出産を挟む女性は、仕事を続けるに当たって男性とは同じ条件にはならない。
ハードルとジレンマ。
働くママ女性の労働前例が実際にはまだ追いついていない。
今は意識や制度が整う移行の狭間なので、苦しい時期かも知れない。
家庭画報的なコンセプトのセレブ専業主婦が憧れだとする女性は、過去の像だとわたしは捉える。
典型的な「夫は仕事、妻は家庭」。
女性たちは、もう自分の意志で自分の足で歩き始め、自分の力で得るお金のほうが、たとえ少なくとも、仕える身より、こころは自由だと思う。
が、精神的には自立しても、まだまだコロナ渦では深刻な事態も招きかねない。
理想だけでは食べていけない実態がある。
志が高い人ほど、現実とのギャップに落ち込む。
自立心と、現実が乖離すると、対処できず壊れてしまう。
男性に頼り、甘えることは出来ない。
目覚めないほうが幸せだった、、、が、目覚めたらもう元には戻れない。
家庭画報のセレブ生活に憧れるほうが単純で良かったかも知れない。

というか、半世紀も前の月刊誌の内容や感想を今更書いても、炭酸の抜けたソーダである。
半世紀も経つと、いくら冬眠熊のわたしだって変化する。

ため息

2021-04-01 | 人生
NYでアジア系女性が暴行される映像をニュースで見て、ショックを受けた。
なんの関わりもない人に、通りすがりの、がたいのいい人物が殴る蹴るの容赦なしの蛮行をし、周りもそれを止めない。
こんな恐ろしい痛ましいことが日常に繰り広げられているとは。
もし自分がNYに居たとしたら、とても怖くて外出出来ない。
コロナがらみの偏見だとしても、あまりにも酷い。
日本は治安が良いとつくづく安堵する。
が、電車内の密室では、変な人がいると車内にピリピリ感が充満する。
屋外の散歩コースにさえ、突然、奇行を表す人がいて、あまり人がいないところは、それはそれで気が抜けない。
外出恐怖症にならなければ良いが。
まあ、恐ろしい事故や事件に巻き込まれないことを祈るのみ。
突然起きる不運は、避けようがない。
平穏無事な暮らし、毎日の生活はいかに大切か、有り難さを思い知る。

外に出なくても家の中で、パジャマの裾に引っかかって転倒することだってあるのだから、どこに危険が潜んでいるか、計り知れない。
高さ7センチのハイヒールを履いて、皆さんの前でダンスを披露できるなんて、至福のことであると有り難みを噛み締めなければならない。
ちょっとミスった、なんて、些細なこと。
しかし、もっと気合いを入れて練習しなければ、、、と思ったり自分を激励する。
叱咤はしない。

さて、、、
話はころっと変わる。
女性も自立する時代。
結婚するのに相手男性の年収が気になるのは日本女性の特徴らしい。
と言っても、ドイツ女性と比較しての話。
自分の食い扶持は自分で稼ぐ、結婚しても財布は別々が一般的らしいドイツ女性。
一緒に居るのが嫌なら離婚する。
夫在宅症候群を発症する日本女性とは違う。
そんな自立した女性に、ガンガン目一杯主張されるのが嫌で、自分の経済力をあてにした、先進国ではない他国の若い女性と結婚する中年男性もいる。
発展、平等の先にあるものは、協力、協調。
さらにその先にあるものは、独立、破綻か。
共存共栄にも、いろんなカタチがある。


娘親子と近所のお洒落なレストランに行った。
自宅から信号を2つ渡るだけの、ほんの近所なもので、超手抜きの服装で行った。
来ている皆さんのファッショナブルなこと。
皆さん、たぶん、お車での来店。
我々のような徒歩チームはあまりいないと思われる。

「ママ友ランチなら、リッチな皆さんね」
と娘が言う。
お小遣い範囲内でこういうお店のランチに度々来れるとすると、らしい。
と言っても、セレブとはまた違う。

店内を見渡すと男性は一人か二人?
ほとんどが、うら若き女性たち。
平日昼間、郊外レストランに来る層。
見ていると、お腹のふっくらした妊婦さんらしき女性も二人いた。
幼児連れも。
たぶん学生さんや、仕事がオフの女性も。
美しくお若い女性の皆さん。

で、わたしは思った。
若い女性の理想って何だろう。
理想を想像しようとするわたしの脳に、スクリーンが降りた。
見えない。

今、若く美しく女性も若い花の時期を過ぎる。
花の時期を長く延長させるのも理想だが。
若い美しいことが花ではない。
自立しなければならない。
とびきり美しく有能な女性で、仮にセレブの夫と結婚したとしても、セレブ夫にマッチするような水準の中味が必要とされる。
しかし、セレブ夫は、家事育児しそうもない。
代行外注費は出してくれるだろうけれど。
仮にセレブ夫に費用を出していただいて、妻は何もしないで平等の口を利く、あるいは偉そうにするとすると、妻はたんなるペットである。

ちなみに、セレブ婚は、日本人女性には憧れられているのだろうか?
日本人女性は、中途半端な位置にいると思う。

昔なら結婚イコール、ゴール、女性の幸せとされていた時代があった。
今はそうではない。
若く美しく彼女たちを見て、少し後の彼女たちの姿を想像した。
どんなコースになるのだろうと。
結婚しようが、しなかろうが、女性の妊娠、出産年齢には制限がある。
一つのハードル。
その山をすっと難なくこなして超えて、ステキなワーキングママが理想なのか。
かなり、困難なハードな道であるように感じた。
今の華やかで明るい若く美しい彼女たちの未来図が、わたしの脳内で想像ストップになった。

オシャレなレストランで余裕あるママ友たちと集うのは理想の女性像なのだろうか。
うーーん、、、と、わたしは首を傾げた。
今、レストランにいるこの瞬間だけがキラキラしているように思えた。

これからの女性はたいへんだ。
理想の未来図を自分で切り開かなけばならない。
彼女たちの何年か後の理想の姿が見えないわたしこそ、問題があるのだろうか。
あんなに若くて美しいのに、先を思うと羨ましい気持ちがない。
応援したい気持ちには溜息が混じる。