前九年の役 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )
( (1) より続く )
その後、陸奥守源頼義は、三千百余人の軍勢を率いて、貞任らを討とうとした。
貞任らは、四千余人の兵を率いて防戦し、守の軍は敗れて、多くの戦死者を出した。
守の息子義家は、勇猛なこと人に勝れ、射る矢は的をはずすことはなく、敵を射る矢に無駄がない[ 一部欠字あり推定ある。]。蝦夷たちは風になびくように逃げまどい、あえて向かって来る者はいなかった。この男を八幡太郎という。
この戦いで、守の軍兵は、ある者は逃げある者は討死した。
僅かに残るところは六騎となった。息子の義家、修理少進藤原景道、大宅光任(オオヤノミツトウ)、清原貞廉(サダヤス)、藤原範季(ノリスエ)、同則明(ノリアキラ)などである。敵勢は二百余騎である。左右から包囲して攻撃し、飛んでくる矢は雨のようであった。
守の乗馬は矢に当たって斃(タオ)れた。景道が放れ馬を捕えて守に与えた。義家の馬もまた矢に当たって死んだ。すると、則明が敵の馬を奪って義家を乗せた。このような状態で、脱出は不可能と思われた。
しかし、義家は、次々と敵兵を射殺していた。また、光任らも死を覚悟して戦い続けたので、敵はしだいに引いていった。
その時、守の郎等で散位佐伯経範(サエキノツネノリ)という人がいた。相模国の住人である。守はこの人物を特に頼りにしていた。
守の軍勢が敗れた時、経範は敵の包囲の隙を見つけて、ようやく脱出したものの、守の行方を見失っていた。散り散りになった味方の兵士に尋ね回ると、ある兵士が「守は敵勢に囲まれていて、従っている者は僅かでした。あの様子では、きっと脱出は難しいと思われます」と答えた。経範は、「わしは守に仕えてきてすでに老齢となった。守もまた若いとはいえぬ。この最期の時におよんで、どうして離れて死ぬことなど出来ようか」と言った。その随兵三騎ばかりも、「殿はすでに守と共に死ぬつもりで敵陣に突っ込んだ。我らだけ生き残るわけにはいかぬ」と言って、共に敵陣に飛び込んで戦い、十余人を射殺したが、彼らも敵前で討死した。
また、藤原景季は景道の子であるが、年二十余歳にして敵陣に馳せ入り、敵兵を射殺しては返ること七、八度に及んだが、遂には敵陣で馬が倒れてしまった。敵勢は景季の武勇を惜しんだが、守の親衛兵であるため討ち取った。
このように、守の側近の郎等たちは皆力の限りを尽くして奮戦したが、敵に殺される者が続出した。
また、藤原茂頼は守の側近であるが、戦いに敗れた後、数日守の行方が分からなかった。「すでに敵に討たれてしまった」と思って、泣く泣く、「せめて守の遺骨を探し求めてとむらおう。たが、戦場には僧でなければ入れない」と言って、ただちに髪を剃って僧侶姿になり、戦場に向かう途中で守に出会い、喜び、かつ悲しんで、守と共に帰った。
こうして、貞任らはいよいよ威を振るい、至る所の郡で住民を支配した。
経清(ツネキヨ)は大軍を率いて衣川の関に出張り、通達を諸郡に発して、官税物を徴収して、「白符(シロフ)を用いよ。赤符を用いてはならない」と命令した。
白符というのは、経清の私的な徴税命令書で、国印が押されていないので白符と言った。赤符というのは、国司が発したもので、国印が押されていたので赤符と言ったのである。
守は、これを制止しようとしたが、どうすることも出来なかった。
さて、守はことあるごとに、出羽国の山北(横手盆地から見て山の北側という意味で、秋田県の一部になる。)の俘囚の長、清原光頼ならびに弟の武則らに加勢するように働きかけていた。
光頼らは態度を決めかねていたが、守は常に珍しい立派な物などを贈り懇願したので、光頼・武則らはしだいに心を許すようになり、加勢を承知した。
その後、守はしきりに光頼・武則らに出兵を要請した。そこで、武則は、子弟ならびに一万余人の軍勢を発(オコ)して、陸奥国への国境を越え、守に来援を告げた。
守は大いに喜び、三千余人の軍兵を率いて出迎えた。栗原郡の営岡(タムロオカ)において、守は武則と会った。そして、互いに意見を述べ合い、次に諸陣の指揮官を定めたが、いずれも武則の子や一族の者であった。
武則は、遥かに王城の方角を拝し誓いを立てて、「我はこれより子弟・一族こぞって、将軍の命令に従います。死ぬことを躊躇しません。願わくば八幡三所(石清水八幡に祀られている三神。)我が忠誠心をご照覧ください。我はいささかも命を惜しまない」と言った。
多くの軍兵はこの言葉を聞いて、皆一斉に奮い立った。その時、鳩が軍勢の上を舞った。守を始めことごとくがこれを拝した。
そして、ただちに松山の道を進み、磐井郡の中山の大風沢で宿泊した。翌日、その郡の萩の馬場に着いた。宗任(ムネトウ・安倍貞任の弟)の叔父である僧・良照(リョウジョウ)の小松の楯(城)から五町余りの所である。
しかし、日柄が良くない上に日も暮れてきたので攻撃しなかった。武則の子らが敵の軍勢の様子を見るために近付いて行った時、配下の歩兵たちが楯の外の宿舎に火を放った。たちまち城内は大騒ぎとなり、石つぶてを投げて反撃してきた。
この為、守は武則に、「合戦は明日と考えていたが、自然と事が起きてしまった。もう日を選んではおれない」と言うと、武則も、「その通りです」と答えた。
そこで、深江是則、大伴員秀(カズヒデ)という者が、猛者二十余人を率いて、剣で城の崖を削り、鉾(ホコ)を突いて巌に登り、楯(城)の下を切り壊して場内に乱入し、敵味方剣での打ち合いとなった。場内は混乱し、人々は右往左往する。
宗任は八百余騎を率いて場外に出て戦ったが、守は大勢の勇猛な兵士を送り込んで戦ったので、遂に宗任軍は敗れた。城兵が楯を捨てて逃げたので、ただちにその楯を焼き払った。
( 以下 (3) に続く )
☆ ☆ ☆
( (1) より続く )
その後、陸奥守源頼義は、三千百余人の軍勢を率いて、貞任らを討とうとした。
貞任らは、四千余人の兵を率いて防戦し、守の軍は敗れて、多くの戦死者を出した。
守の息子義家は、勇猛なこと人に勝れ、射る矢は的をはずすことはなく、敵を射る矢に無駄がない[ 一部欠字あり推定ある。]。蝦夷たちは風になびくように逃げまどい、あえて向かって来る者はいなかった。この男を八幡太郎という。
この戦いで、守の軍兵は、ある者は逃げある者は討死した。
僅かに残るところは六騎となった。息子の義家、修理少進藤原景道、大宅光任(オオヤノミツトウ)、清原貞廉(サダヤス)、藤原範季(ノリスエ)、同則明(ノリアキラ)などである。敵勢は二百余騎である。左右から包囲して攻撃し、飛んでくる矢は雨のようであった。
守の乗馬は矢に当たって斃(タオ)れた。景道が放れ馬を捕えて守に与えた。義家の馬もまた矢に当たって死んだ。すると、則明が敵の馬を奪って義家を乗せた。このような状態で、脱出は不可能と思われた。
しかし、義家は、次々と敵兵を射殺していた。また、光任らも死を覚悟して戦い続けたので、敵はしだいに引いていった。
その時、守の郎等で散位佐伯経範(サエキノツネノリ)という人がいた。相模国の住人である。守はこの人物を特に頼りにしていた。
守の軍勢が敗れた時、経範は敵の包囲の隙を見つけて、ようやく脱出したものの、守の行方を見失っていた。散り散りになった味方の兵士に尋ね回ると、ある兵士が「守は敵勢に囲まれていて、従っている者は僅かでした。あの様子では、きっと脱出は難しいと思われます」と答えた。経範は、「わしは守に仕えてきてすでに老齢となった。守もまた若いとはいえぬ。この最期の時におよんで、どうして離れて死ぬことなど出来ようか」と言った。その随兵三騎ばかりも、「殿はすでに守と共に死ぬつもりで敵陣に突っ込んだ。我らだけ生き残るわけにはいかぬ」と言って、共に敵陣に飛び込んで戦い、十余人を射殺したが、彼らも敵前で討死した。
また、藤原景季は景道の子であるが、年二十余歳にして敵陣に馳せ入り、敵兵を射殺しては返ること七、八度に及んだが、遂には敵陣で馬が倒れてしまった。敵勢は景季の武勇を惜しんだが、守の親衛兵であるため討ち取った。
このように、守の側近の郎等たちは皆力の限りを尽くして奮戦したが、敵に殺される者が続出した。
また、藤原茂頼は守の側近であるが、戦いに敗れた後、数日守の行方が分からなかった。「すでに敵に討たれてしまった」と思って、泣く泣く、「せめて守の遺骨を探し求めてとむらおう。たが、戦場には僧でなければ入れない」と言って、ただちに髪を剃って僧侶姿になり、戦場に向かう途中で守に出会い、喜び、かつ悲しんで、守と共に帰った。
こうして、貞任らはいよいよ威を振るい、至る所の郡で住民を支配した。
経清(ツネキヨ)は大軍を率いて衣川の関に出張り、通達を諸郡に発して、官税物を徴収して、「白符(シロフ)を用いよ。赤符を用いてはならない」と命令した。
白符というのは、経清の私的な徴税命令書で、国印が押されていないので白符と言った。赤符というのは、国司が発したもので、国印が押されていたので赤符と言ったのである。
守は、これを制止しようとしたが、どうすることも出来なかった。
さて、守はことあるごとに、出羽国の山北(横手盆地から見て山の北側という意味で、秋田県の一部になる。)の俘囚の長、清原光頼ならびに弟の武則らに加勢するように働きかけていた。
光頼らは態度を決めかねていたが、守は常に珍しい立派な物などを贈り懇願したので、光頼・武則らはしだいに心を許すようになり、加勢を承知した。
その後、守はしきりに光頼・武則らに出兵を要請した。そこで、武則は、子弟ならびに一万余人の軍勢を発(オコ)して、陸奥国への国境を越え、守に来援を告げた。
守は大いに喜び、三千余人の軍兵を率いて出迎えた。栗原郡の営岡(タムロオカ)において、守は武則と会った。そして、互いに意見を述べ合い、次に諸陣の指揮官を定めたが、いずれも武則の子や一族の者であった。
武則は、遥かに王城の方角を拝し誓いを立てて、「我はこれより子弟・一族こぞって、将軍の命令に従います。死ぬことを躊躇しません。願わくば八幡三所(石清水八幡に祀られている三神。)我が忠誠心をご照覧ください。我はいささかも命を惜しまない」と言った。
多くの軍兵はこの言葉を聞いて、皆一斉に奮い立った。その時、鳩が軍勢の上を舞った。守を始めことごとくがこれを拝した。
そして、ただちに松山の道を進み、磐井郡の中山の大風沢で宿泊した。翌日、その郡の萩の馬場に着いた。宗任(ムネトウ・安倍貞任の弟)の叔父である僧・良照(リョウジョウ)の小松の楯(城)から五町余りの所である。
しかし、日柄が良くない上に日も暮れてきたので攻撃しなかった。武則の子らが敵の軍勢の様子を見るために近付いて行った時、配下の歩兵たちが楯の外の宿舎に火を放った。たちまち城内は大騒ぎとなり、石つぶてを投げて反撃してきた。
この為、守は武則に、「合戦は明日と考えていたが、自然と事が起きてしまった。もう日を選んではおれない」と言うと、武則も、「その通りです」と答えた。
そこで、深江是則、大伴員秀(カズヒデ)という者が、猛者二十余人を率いて、剣で城の崖を削り、鉾(ホコ)を突いて巌に登り、楯(城)の下を切り壊して場内に乱入し、敵味方剣での打ち合いとなった。場内は混乱し、人々は右往左往する。
宗任は八百余騎を率いて場外に出て戦ったが、守は大勢の勇猛な兵士を送り込んで戦ったので、遂に宗任軍は敗れた。城兵が楯を捨てて逃げたので、ただちにその楯を焼き払った。
( 以下 (3) に続く )
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