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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

前九年の役 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )

2017-08-13 08:35:02 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          前九年の役 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )

     ( (1) より続く )

その後、陸奥守源頼義は、三千百余人の軍勢を率いて、貞任らを討とうとした。
貞任らは、四千余人の兵を率いて防戦し、守の軍は敗れて、多くの戦死者を出した。
守の息子義家は、勇猛なこと人に勝れ、射る矢は的をはずすことはなく、敵を射る矢に無駄がない[ 一部欠字あり推定ある。]。蝦夷たちは風になびくように逃げまどい、あえて向かって来る者はいなかった。この男を八幡太郎という。

この戦いで、守の軍兵は、ある者は逃げある者は討死した。
僅かに残るところは六騎となった。息子の義家、修理少進藤原景道、大宅光任(オオヤノミツトウ)、清原貞廉(サダヤス)、藤原範季(ノリスエ)、同則明(ノリアキラ)などである。敵勢は二百余騎である。左右から包囲して攻撃し、飛んでくる矢は雨のようであった。
守の乗馬は矢に当たって斃(タオ)れた。景道が放れ馬を捕えて守に与えた。義家の馬もまた矢に当たって死んだ。すると、則明が敵の馬を奪って義家を乗せた。このような状態で、脱出は不可能と思われた。
しかし、義家は、次々と敵兵を射殺していた。また、光任らも死を覚悟して戦い続けたので、敵はしだいに引いていった。

その時、守の郎等で散位佐伯経範(サエキノツネノリ)という人がいた。相模国の住人である。守はこの人物を特に頼りにしていた。
守の軍勢が敗れた時、経範は敵の包囲の隙を見つけて、ようやく脱出したものの、守の行方を見失っていた。散り散りになった味方の兵士に尋ね回ると、ある兵士が「守は敵勢に囲まれていて、従っている者は僅かでした。あの様子では、きっと脱出は難しいと思われます」と答えた。経範は、「わしは守に仕えてきてすでに老齢となった。守もまた若いとはいえぬ。この最期の時におよんで、どうして離れて死ぬことなど出来ようか」と言った。その随兵三騎ばかりも、「殿はすでに守と共に死ぬつもりで敵陣に突っ込んだ。我らだけ生き残るわけにはいかぬ」と言って、共に敵陣に飛び込んで戦い、十余人を射殺したが、彼らも敵前で討死した。

また、藤原景季は景道の子であるが、年二十余歳にして敵陣に馳せ入り、敵兵を射殺しては返ること七、八度に及んだが、遂には敵陣で馬が倒れてしまった。敵勢は景季の武勇を惜しんだが、守の親衛兵であるため討ち取った。
このように、守の側近の郎等たちは皆力の限りを尽くして奮戦したが、敵に殺される者が続出した。
また、藤原茂頼は守の側近であるが、戦いに敗れた後、数日守の行方が分からなかった。「すでに敵に討たれてしまった」と思って、泣く泣く、「せめて守の遺骨を探し求めてとむらおう。たが、戦場には僧でなければ入れない」と言って、ただちに髪を剃って僧侶姿になり、戦場に向かう途中で守に出会い、喜び、かつ悲しんで、守と共に帰った。

こうして、貞任らはいよいよ威を振るい、至る所の郡で住民を支配した。
経清(ツネキヨ)は大軍を率いて衣川の関に出張り、通達を諸郡に発して、官税物を徴収して、「白符(シロフ)を用いよ。赤符を用いてはならない」と命令した。
白符というのは、経清の私的な徴税命令書で、国印が押されていないので白符と言った。赤符というのは、国司が発したもので、国印が押されていたので赤符と言ったのである。
守は、これを制止しようとしたが、どうすることも出来なかった。

さて、守はことあるごとに、出羽国の山北(横手盆地から見て山の北側という意味で、秋田県の一部になる。)の俘囚の長、清原光頼ならびに弟の武則らに加勢するように働きかけていた。
光頼らは態度を決めかねていたが、守は常に珍しい立派な物などを贈り懇願したので、光頼・武則らはしだいに心を許すようになり、加勢を承知した。
その後、守はしきりに光頼・武則らに出兵を要請した。そこで、武則は、子弟ならびに一万余人の軍勢を発(オコ)して、陸奥国への国境を越え、守に来援を告げた。
守は大いに喜び、三千余人の軍兵を率いて出迎えた。栗原郡の営岡(タムロオカ)において、守は武則と会った。そして、互いに意見を述べ合い、次に諸陣の指揮官を定めたが、いずれも武則の子や一族の者であった。

武則は、遥かに王城の方角を拝し誓いを立てて、「我はこれより子弟・一族こぞって、将軍の命令に従います。死ぬことを躊躇しません。願わくば八幡三所(石清水八幡に祀られている三神。)我が忠誠心をご照覧ください。我はいささかも命を惜しまない」と言った。
多くの軍兵はこの言葉を聞いて、皆一斉に奮い立った。その時、鳩が軍勢の上を舞った。守を始めことごとくがこれを拝した。

そして、ただちに松山の道を進み、磐井郡の中山の大風沢で宿泊した。翌日、その郡の萩の馬場に着いた。宗任(ムネトウ・安倍貞任の弟)の叔父である僧・良照(リョウジョウ)の小松の楯(城)から五町余りの所である。
しかし、日柄が良くない上に日も暮れてきたので攻撃しなかった。武則の子らが敵の軍勢の様子を見るために近付いて行った時、配下の歩兵たちが楯の外の宿舎に火を放った。たちまち城内は大騒ぎとなり、石つぶてを投げて反撃してきた。
この為、守は武則に、「合戦は明日と考えていたが、自然と事が起きてしまった。もう日を選んではおれない」と言うと、武則も、「その通りです」と答えた。

そこで、深江是則、大伴員秀(カズヒデ)という者が、猛者二十余人を率いて、剣で城の崖を削り、鉾(ホコ)を突いて巌に登り、楯(城)の下を切り壊して場内に乱入し、敵味方剣での打ち合いとなった。場内は混乱し、人々は右往左往する。
宗任は八百余騎を率いて場外に出て戦ったが、守は大勢の勇猛な兵士を送り込んで戦ったので、遂に宗任軍は敗れた。城兵が楯を捨てて逃げたので、ただちにその楯を焼き払った。

                               ( 以下 (3) に続く )

     ☆   ☆   ☆




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前九年の役 (3) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )

2017-08-13 08:33:49 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          前九年の役 (3) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )

     ( (2) より続く )

その後、守(源頼義)は兵士たちを休息させるため、あえて追撃しなかった。また、長雨のため十八日間この地に留まった。
その間に、兵士らの兵糧が尽き、食物がなくなってしまった。守は、多くの兵士をあちらこちらに派遣して食糧を求めたが、貞任らがこの事を漏れ聞いて、隙を伺って、大軍を率いて攻撃してきた。
そこで、守ならびに義家・義綱・武則らが全軍を励まし、力の限りを尽くし命を棄てて戦ったので、貞任らは敗れて逃走した。
守ならびに武則らは軍勢と共に追撃し、貞任の高梨の宿と石坂の楯の所で追いつき合戦となったが、貞任軍は再び敗れて、その楯を捨てて、貞任は衣川の関に逃げ込んだ。
追撃軍は、ただちに衣川を攻めた。この関は、もともと大変険しい上に、繁茂した樹木が道をふさいでいる。守は、三人の指揮官に手分けして攻撃させた。

武則は馬から下りて、岸辺を回って見て、久清という兵士を呼び、「両岸に幹が曲がった木がある。その枝が川の面を覆っている。お前は身軽で、飛び越えることが得意だ。あの木を伝って向こう岸に渡り、密かに敵陣に潜入して、あの楯のもとに火を付けよ。敵はその火を見て驚くだろう。その時に我らは必ず関を打ち破ろう」と命じた。
久清は武則の命令に従って、猿の如く向こう岸にある木に取り付き縄を付けた。その縄に取り付いて、三十余人の兵士が対岸に渡った。その中の藤原業道(フジワラノナリミチ)が密かに楯のもとに行き火を放って焼いた。
貞任らはこれを見て驚き、戦わずして逃走し、鳥の海の楯に入った。

守ならびに武則は、この楯を落したのち、鳥の海の楯を攻撃に向かった。この軍勢が到着する前に、宗任・経清らは楯を捨てて逃げ、厨川(クリヤガワ)の楯に移った。
守は、鳥の海の楯に入り、しばらく兵を休めたが、ある建物の中にたくさんの酒が置いてあった。歩兵たちがこれを見つけて喜び、急いで飲もうとした。守はこれを制して、「これはきっと毒入りの酒であろう。飲んではならない」と言った。
ところが、雑兵の中の一人二人がこっそりと飲んだが害がなかった。そこで、全軍の兵士こぞってこの酒を飲んだ。

さて、武則は、正任(マサトウ・宗任と兄弟)の黒沢尻の楯、鶴脛(ツルハギ)の楯、比与鳥の楯などを攻め落として、次いで厨川と嫗戸(ウバト)の二つの楯に至って取り囲み、陣を張って終夜看視した。そして、翌日卯の時(午前六時頃)から終日終夜(ヒネモスヨモスガラ)戦い続けた。
その時、守は馬から下りて、遥かに王城の方角を拝して、自ら火を手にして、「これは神火である」と誓言してそれを投げた。すると、鳩が現れ、陣の上を舞い飛んだ。守はこれを見て、涙を流して礼拝した。
その時、突然暴風が起こり、城内の建物はすべて同時に焼け落ちた。城内の男女数千人は、声を合わせて泣き叫んだ。敵兵は、ある者は淵に飛び込み、ある者は敵前に身をさらした。
守の軍勢は、川を渡って攻撃し、包囲して戦った。敵軍は身を捨てて剣を振るい、囲みを破って脱出しようとした。武則は配下の兵士に、「道を開けて、敵兵を出してやれ」と命じた。兵士たちは命令に従って道を開いた。
すると、敵兵たちは戦うのを止めて脱出していった。守の軍勢は、これを追撃して、ことごとく殺してしまった。また、経清を捕縛した。

守は経清を召し出して、「お前は我が家の先祖伝来の従者である。そうでありながら、長年わしをないがしろにし、朝廷を軽んじてきた。その罪はまことに重い。こうなっても、まだ白符を使うことが出来るのか、どうか」と言った。経清は頭を垂れて言葉もなかった。
守は鈍刀で、少しずつ経清の首を切った。

貞任は、剣を抜いて敵の軍勢に切り込んだが、軍勢は鉾(ホコ・槍)でもって貞任を刺し殺した。そして、大きな楯(これは矢を防ぐための楯)に乗せて、六人がかりで担いで守の前に置いた。身の丈六尺余り、腰の回り七尺四寸、容貌は厳めしく色白である。年は四十四歳であった。
守は貞任を見て喜び、その首を切り落とした。また、弟の重任の首も切った。ただ、宗任は深い泥の中に隠れて逃げのびた。
貞任の子は年十五の童にて、名を千世童子という。姿形麗しい少年であった。楯の外に出て雄々しく戦った。守はその姿を哀れに感じ許そうと思ったが、武則はそれを制して、首を切らせた。
楯が破られた時、貞任の妻は三歳の子を抱いて、「あなたはもう殺されようとしています。私一人生きてはおれません。あなたの見ている前で死のうと思います」と夫に向かって言うと、子を抱いたまま深い淵に身を投じて死んだ。

その後、日を経ずして、貞任の伯父安倍為元、貞任の弟の家任が降伏してきた。また、数日して、宗任ら九人が降伏してきた。
その後、朝廷に国解(コクゲ・報告書)を奉り、首を取った者、降伏してきた者の名を上申した。

次の年、貞任・経清・重任の首三つを朝廷に奉った。それが京に入る日、京じゅうの上中下の人々が大騒ぎして見物した。
これらの首を京に運ぶ途中で、使者が近江国甲賀郡で、箱を開け首を出して、その髻(モトドリ)を洗わせた。箱を持つ雑役はもとは貞任の従者で降伏した者であった。その者が、首の髪をすく櫛が無いと申し出た。使者は、「お前たちの自分の櫛ですけ」と言った。雑役は自分の櫛で泣きながらすいた。
首を持って京に入る日、朝廷は検非違使らを賀茂河原に派遣して、これを受け取らせた。

その後、除目が行われた時に、その功を賞せられ、頼義朝臣は正四位下に叙して出羽守に任じられた。二郎義綱は左衛尉(サエジョウ・左衛門尉の略。宮中の諸門警護の武官の役所の三等官。)に任じられ、武則は従五位下に除して鎮守府の将軍に任じられた。首を奉った使者の藤原秀俊は左馬允(サマノジョウ・馬を司る役所の三等官。)に任じられた。物部長頼は陸奥大目(ムツノサカン・国府の四等官)に任じられた。

このように、賞があらたかに行われたことを見て、世の人は皆褒め称え喜んだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆





 
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後三年の役 (欠文) ・ 今昔物語 ( 25 - 14 )

2017-08-13 08:00:57 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          後三年の役 (欠文) ・ 今昔物語 ( 25 - 14 )

本話は、「源義家朝臣罸清原武衡等語第十四」という表題だけで、本文はすべて欠文となっている。
表題から推定すれば、後三年の役について書かれたものと考えられるが、当初から欠文となっていたようである。

     ☆   ☆   ☆

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今昔物語 巻二十四  表題

2017-02-11 13:48:15 | 今昔物語拾い読み ・ その6
               今昔物語集 巻二十四

今昔物語集巻二十四は、全体の中の位置付けとしては『本朝世俗部」にあたります。
収録されている物語は、全部で五十七話あり、比較的数が多い巻といえます。

その内容は、主として一芸一能に秀でた人物のエピソードが中心となっていて、政治の中心部にいた人物の逸話とは少し違う形の歴史の断面が見られるのではないでしょうか。 
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天人が舞う ・ 今昔物語 ( 巻24-1 )

2017-02-11 13:46:21 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          天人が舞う ・ 今昔物語 ( 巻24-1 )

今は昔、
北辺の左大臣(キタノヘのサダイジン)と申す人がおいでになった。
名を信(マコト・姓は源)と申され、嵯峨天皇の御子である。一条の北辺あたりに住んでおられたので、北辺の大臣(オトド)と申すのである。
万事につけて優れておられたが、なかでも管弦の道に特に堪能であられた。その中でも箏(ショウノコト・十三弦の琴)は並ぶ者がないほど上手に弾かれた。

さて、大臣がある夜、筝をお弾きになったが、夜もすがら興を催すままに弾き続けられた。夜明け方になり、難局とされるとっておきの曲を弾いているうちに、我ながら「すばらしい曲だ」と聞きほれていると、すぐ目の前の放出(ハナチイデ・母屋から外に張り出した部屋)の引き上げられている格子戸の上に、何かが光ったように見えたので、「何の光であろうか」と思われて、そっと見ていると、身長が一尺ばかりの天人が二、三人ほどいて舞っている光であった。
大臣はこれを見て、「わたしが妙手を振るって箏を弾いているのを聞いて、天人が感動して降りてきて舞っているのだ」と思われた。そして、何とも貴いことだと思われた。
まことにこれは、驚くほど素晴らしいことである。

また、中納言長谷雄(姓は紀)という博士がいた。世に並ぶ者がないほどの学者である。
その人が、月の明るい夜、大学寮の西の門より出て、礼[(欠字あり未詳)]の橋の上に立って北の方を見てみると、朱雀門の二階に、冠をつけ襖(アオ・武官が着る袍)を着ていて、身の丈が垂木近くまである人が詩歌を吟唱して廻り歩いていた。
長谷雄はこれを見て、「私は、何と、霊人(リョウニン・神霊が化した人)を見た。我ながら素晴らしいことだ」と思った。
これもまた不思議なことである。

昔の人には、このような不思議なことなどをはっきりと見た人がいたのだ、
と語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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からくり人形 ・ 今昔物語 ( 巻24-2 )

2017-02-11 13:43:44 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          からくり人形 ・ 今昔物語 ( 巻24-2 )

今は昔、
高陽親王(カヤノミコ・賀陽とも)と申す人がおいでになった。この方は、桓武天皇の御子である。(「桓武」の部分は意識的な欠字になっている)
極めて細工の上手な工芸の名人であった。京極寺という寺があるが、その寺院はこの親王が建てられた寺である。この寺の前の川原にある田は、この寺の領地であった。

ところで、国中が旱魃となった年、あらゆる所の田がみな焼けてしまうと大騒ぎになったが、ましてこの田は、賀茂川の水を引き入れて作る田なので、その川の水が涸れてしまったとなると、一面の空き地のようになってしまい、苗も皆赤くなってしまいそうであった。
そこで、高陽親王は、その対策をお考えになり、身長が四尺ほどの童子が左右の手に容器を高く捧げて立っている人形を造って、この田の中に立てた。人がその人形が持っている容器に水を入れると、その度に顔に流しかける仕掛けを造ったので、これを見た人は、水を汲んできては人形の持っている容器に入れると、水を入れるたびに顔に流しかけ流しかけするので、これを面白がって、次々に口伝えで広めたので、京じゅうの人が列をなして集まり、水を容器に入れては人形の様子を見て大騒ぎした。

このようにしているうちに、その水が自然にたまって、田には水が満ちた。そこで、童子を取り外して隠した。また、水が乾くと、童子を出してきて田の中に立てた。そうすると、また前のように人が集まってきて水を入れたので、田には水が満ちた。このようにして、その田は少しも焼けることがなかった。
これはすばらしい仕掛けである。これも御子の優れた技術と、優れた仕掛けによるものだと人々は褒め称えた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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砧で打った衣 ・ 今昔物語 ( 巻24-3 )

2017-02-11 13:42:52 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          砧で打った衣 ・ 今昔物語 ( 巻24-3 )

今は昔、
小野宮の大臣(オノノミヤのオトド・藤原実頼、970年没)が大饗(ダイキョウ・大臣主催の大宴会)を開催なされた時、九条大臣(藤原師輔)は主賓としてお越しになられた。
その時の御引き出物としていただかれた女の装束に添えられていた、砧(キヌタ・衣の光沢を出すために使われた)で打った紅の細長(ホソナガ・女性の衣服の一種)を、不注意な先導の従者が受け取って出て行こうとしたが、取りそこねて鑓水(ヤリミズ・庭に造られた人工の小川)に落としてしまった。慌てて拾い上げて、水を打ち振るったところ、水は散って乾いてしまった。そして、その濡れた方の袖はまったく水に濡れたようには見えず、濡れなかった方の袖と見比べても、全く同じように打ち目が見えた。
これを見ていた人は、この砧で打った衣のすばらしさを褒め称えた。

昔は、砧で打った衣も、このようにすばらしかった。今の世では、とてもあり得ないことである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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変な名人 ・ 今昔物語 ( 巻24-4 )

2017-02-11 13:41:45 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          変な名人 ・ 今昔物語 ( 巻24-4 )

今は昔、
○○天皇(天皇名は、意識的な欠字となっている)の御代に右近衛府の陣に○○(意識的な欠字)の春近という舎人がいた。蹴鞠のたいそうな上手であった。
その春近が、後方の町にある井戸の井筒に寄りかかって立ち、「若い女たちが大勢いるので見せてやろう」と思って、刀の鞘からカミガキ(髪をかき上げる小道具。こうがい)を取り出して、手の爪の上に立たせて、井戸の上に差し出し、四、五十回ほど宙返りさせたので、人が集まってきてこれを見て面白がり、大変感嘆した。

そうしていると、年老いた一人の女がやって来て、これを見て、「面白いことをなさるお人だ。昔でも、こんな技をなさる人はいなかった。さて、私も真似をして見よう」と言って、袖に刺していた針を抜き出して、糸をつけたまま爪の上で四、五十回ほど宙返りさせたので、これを見ていた人たちは驚嘆した。
これを見て春近は、[ 漢字表記を期した意識的な欠字らしい。「たいへん恥ずかしく思った」といった意味の文字か? ]して、カミガキを鞘に収めてしまった。
これは、どちらも驚くべき技である。

昔は、このようなほんのつまらないことであっても、このような見事な技をする者がいたのだ、
となむ語り伝へたるとや。

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技能比べ ・ 今昔物語 ( 巻24-5 )

2017-02-11 13:41:01 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          技能比べ ・ 今昔物語 ( 巻24-5 )

今は昔、
百済川成(クダラノカワナリ)という絵師がいた。世に並ぶ者がないという名人であった。
滝殿(滝のある殿舎の意味か? 大覚寺の滝殿とも)の庭石もこの川成が造ったものである。同じ御堂の壁画もこの川成が描いたものである。

ある時、川成の従者である童子が逃亡した。あちらこちらを捜したが見つからないので、ある貴族の下男を雇って、「私の家で長年使ってきた従者の童子が、どうやら逃亡してしまったらしい。これを捜して捕まえてきてくれないか」と頼み込んだ。その下男は、「お安いことですが、その童の顔も知りませんので、とても捕まえられません」と答えた。
川成は、「確かにその通りである」と言うと、懐紙を取り出して、童子の顔だけを描いてその下男に渡して、「これに似た童子を捕えてくれ。東・西の市は人が集まる所だ。その辺りに行って捜してほしい」と言うと、その下男は似顔絵を手にして、市に出かけた。

市には大勢の人がいたが、似顔絵に似た童子は見当たらない。しばらくいるうちに、「もしかすると見つかるかもしれない」と思いはじめた頃、よく似た童子が姿を見せた。似顔絵を取り出して見比べてみると、全くそっくりだった。
「この童子だ」と思って捕まえて、川成のもとに連れて行った。川成がその童子を見てみると、逃亡した従者の童子だったので、大変喜んだ。
当時の人々の間で、この話を聞いて、似顔絵の巧みさをたいしたものだと評判となった。

ところで、その当時、飛騨の工(タクミ)という工匠がいた。この平安京に都移りする時に活躍した工匠で、世に並ぶ者がないという名人であった。
武楽院(ブラクイン・大内裏内の殿舎の一つ。豊楽院のこと)はこの工が建てたものなので、このようにすばらしいのであろう。
さて、この工はあの川波とそれぞれの技を競い合っていた。ある時、飛騨の工が川成に、「私の家に、一間四方の堂を建てました。おいでになられてご覧下さい。また『壁に絵などを描いていただきたい』と思っております」と言った。
互いに競い合っていたが、仲は良く冗談を言い合うような間であったので、川成は「それで誘ってくれたのだろう」と思って、飛騨の工の家を訪れた。行って見ると、実に趣のある小さな堂があった。四面の戸が皆開いていた。

飛騨の工が、「あの堂に入って、中をご覧下さい」と言うので、川成は縁に上がり、南の戸より入ろうとしたが、その戸がパタンと閉じた。驚いて、廻って西の戸より入ろうとした。すると、その戸もパタンと閉じた。そして、南の戸は開いた。
それでは北の戸より入ろうとすると、その戸が閉じて西の戸が開く。また、東の戸から入ろうとすると、その戸が閉じて北の戸が開く。
このように、ぐるぐる回って何度も入ろうとしたが、閉じては開きして入ることが出来ない。そこで、仕方なく縁から下りた。
その時、飛騨の工は大笑いすること限りがなかった。川成は、「悔しい」と思いながら帰った。

その後、数日を経て、川成が飛騨の工に使いを出して、「私の家においでください。お見せしたい物があります」と伝えた。
飛騨の工は、「きっと自分をたぶらかそうとしているに違いない」と思って行かずにいると、度々丁寧に招くので、工は川成の家に行き案内を請うと、「こちらへお入りください」と案内された。
案内されるままに、廊下にある遣戸(ヤリド・引き戸)を引き開けると、部屋の中のすぐそこに、大きな人間が、黒ずみ、膨らんで、腐って横たわっていた。臭い刺激臭が鼻に突き刺さるようであった。

思ってもいなかったこのような物を見たので、飛騨の工は、悲鳴を上げ怖れおののいて飛び出した。部屋の中にいた川内は、この声を聞いて大笑いすること限りなかった。
飛騨の工は、「怖ろしい」と震えながら庭に立ちすくんでいると、川成はその遣戸より顔を出して、「やや、どうなされた。私は此処にいますぞ。どうぞ、お入りください」と言うので、工が怖々近寄って見ると、衝立があり、何と、それに死人の絵が描かれていたのである。堂でたぶらかされたのが悔しくて、このような事をしたのである。

二人の技量は、これほどのものであった。その当時は、この話があらゆる所で噂され、すべての人がこの二人を褒め称えた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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碁の名人 (1) ・ 今昔物語 ( 巻24-6 )

2017-02-11 13:39:02 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          碁の名人 (1) ・ 今昔物語 ( 巻24-6 )

今は昔、
第六十代醍醐天皇の御時に、碁勢(ゴセイ)と寛蓮(カンレン)という、碁の名人である二人の僧がいた。
寛蓮は家柄も賤しくなく、宇多院(第五十九代天皇)の殿上法師(昇殿を許された法師)であったので、内裏にも常にお召しになって、碁の相手にされていた。天皇もたいそう上手であったが、寛蓮には先手二目を置いて打たれていた。

常々このようにしてお打ちになっておられたが、ある時、金の御枕を懸け物にしてお打ちになられたが、天皇がお負けになり、寛蓮はその御枕を賜って退出したが、天皇はそれを血気盛んな若い殿上人に奪い取らせた。このように、懸け物として賜って退出するところで奪われるということが度々であった。
そうしたある時、またも天皇がお負けになって、寛蓮がその御枕を賜って退出するところを、いつものように若い殿上人が何人もで追いかけて奪い取ろうとした時、寛蓮は懐よりその枕を引きだして、后町(キサキマチ・内裏内の一部)の井戸に投げ入れたので、殿上人は皆帰って行った。
その後、井戸の中に人を降ろして枕を取り上げてみると、それは、木でもって枕を造り金箔を押した物であった。何と、寛蓮は本当の金の御枕を持って退出してしまったのである。同じような枕を造って持っていて、それを投げ入れたのである。
そうして、手に入れたその枕を少しずつ打ち割って、それでもって仁和寺の東の辺りにある弥勒寺という寺を建立したのである。
天皇も、「うまく謀ったものだ」と、お笑いになったという。

こうして、いつも参内していたが、ある時、内裏を退出して、一条大路を通り仁和寺に行くとて車を進めていたが、西の大宮大路の辺りで、衵(アコメ)と袴を着けた、こぎれいな姿の女の童が、寛蓮の童子の一人を呼び止め、何か話しかけた。
「何を言っているのだろう」と寛蓮が思いながら振り返って見ると、童子が車の後ろに寄ってきて、「あれに控えている女の童がこのように申しております。『ほんの少しばかり、この近くの所にお寄りください。「申し上げるべきことがあるとお伝えせよ」と仰る御方がお出でです』と申しております」と言う。

寛蓮はこれを聞いて、「誰がそのようなことを言わせたのか」と不審に思ったが、その女の童の言うままに車を進めさせた。
土御門大路と道祖(サエ)大路の交わる辺りに、桧垣を廻らした押立門(オシタテモン・屋根はなく、左右の門柱に扉をつけた門)のある家があった。
「ここです」と、女の童が言うので、そこで降りて中に入った。見てみると、前面に放出(ハナチイデ・母屋から張り出した建物で、接客用)が設けられた広廂がある板葺きの平屋で、前庭には籬(マガキ・竹などで目を粗く作った垣)を結い、植え込みも趣きあるもので、砂などもまかれている。粗末な小家であるが風流を感じさせるたたずまいである。
寛蓮が放出に上がってみると、伊予簾(高級品とされる)が白い状態で掛けられている。秋の頃のことなので、夏の几帳が清らかに簾に重ねて立てられている。その簾のそばに、つややかに拭き込まれた碁盤がある。碁石の笥(ケ)は美しく上等そうで碁盤の上に置かれている。その傍らに、円座が一つ置かれていた。

寛蓮がそこから離れて座っていると、簾の内で奥ゆかしく愛らしい女の声がして、「こちらにお寄りください」と言うので、碁盤のそばに寄って座った。 
女は、「あなたは、当代に並ぶ者がない碁の名手と聞いております。それにしましても、どれほどの碁をお打ちになるのか、ぜひ拝見したいと思っておりました。実は私の父であった人が、『少しは素質がある』と思われてか、『少し打ってみよ』と教えてくくれたのですが、その父が亡くなってからは、こういう遊びもあまりしなくなっていましたが、あなたが今日ここを通られるとお聞きしたものですから、失礼ながら・・・」と言う。
寛蓮は女の言葉を聞いて、笑いながら、「とても面白いことをおっしゃられますなァ。それにしても、どれほどお打ちになられるのか。何目ばかりお置きになりますか」と言って、碁盤のそばに近寄った。
その間、簾の間より香のかおりが芳しく漂ってくる。侍女たちは、簾越しに覗き見している。         

                                            ( 以下、(2)に続く )

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