雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

極楽往生への道 ・ 今昔の人々

2025-02-04 07:59:08 | 今昔の人々

     『 極楽往生への道 ・ 今昔の人々 』


元興寺(ガンゴウジ・奈良にあった大寺。)に智光と頼光という二人の学僧がいた。
この二人は、長年同じ僧坊に住んで学問を修めていたが、頼光は老境に至るまで怠けていて、学問をすることもなく、物を言うことも少なく、寝てばかりいた。一方、智光の方はたいへん聡明で、熱心に学問に励み、勝れた学僧となった。

やがて、頼光が死んでしまった。
智光はとても嘆いて、「頼光は長年の親友であった。ところが、長年の間、物も言わず、学問をすることもなく、常に寝ていた。死んだ後で、どのような報いを受けているのだろう。善所に生れたのか、悪所に堕ちたのか、どのような果報を受けたのか分らない」と言って、悲しんでいた。
そして、「頼光がどこに生れたのか知りたい」と二、三か月祈念していると、夢の中で頼光のいる所に行った。見れば、そこは、美しく飾り立てられていて、浄土に似ている。
智光は、まさか頼光が浄土に生まれていることなどあるまい、と思いながら頼光に「ここは、どういう所なのだ」と尋ねた。

頼光は、「ここは極楽世界だよ。君がぜひ知りたいと願っているので、私の生れた所を教えてあげたのだ。さあ、君は早く帰りなさい。ここは君がいる所ではないのだから」と言う。
智光は、「私は、常に浄土に生れることを願っている。絶対に帰りたくない」と答えた。
頼光は、「君には、浄土に生れるべき善業(ゼンゴウ)がない。しばらくでもここに留まってはならないのだよ」と言う。
智光は、「君は生前、何の善業も積んでいないはずだ。それなのに、どうしてここに生れたのだ」と尋ねた。
頼光はそれに答えた。「君は知らなかったのか。私は極楽浄土に往生すべき因縁があるから、ここに生れたのだよ。私は、以前に諸々の経論を開き見て、極楽に生れることを願っていた。それを深く思うがゆえに、物を言うことがなかった。四の威儀(ヨッツノイギ・戒律にかなった四種(行・住・坐・臥)の作法。)のうち、ただひたすらに弥陀のお姿と浄土の美しいさまを観想して、他に思いを移すことなく寝ていたのだ。長年のその功徳が積もって、今こうして浄土に生れたのだよ。君は、法文を覚えて、その教義を悟って、知恵明らかではあるが、心は雑念に揺らぎ、善根は非常に少ない。これでは、未だ浄土に生れるだけの善根は積んでいないのだ」と。
智光はそれを聞いて、泣き悲しんで尋ねた。「それでは、どうすれば、確かに往生することが出来るのだろうか」と。
頼光は、「その事については、私では答えることが出来ない。だから、阿弥陀仏にお尋ねなさい」と言って、すぐに智光を連れて阿弥陀仏の御前に参上した。

智光は阿弥陀仏に向かい奉り、手を合わせて礼拝し、「どのような善根を行いましたら、この浄土に生まれることが出来ますでしょうか。ぜひ、それをお教え下さい」と申し上げた。
阿弥陀仏は智光に、「仏の姿、浄土の荘厳を観想するがよい」と仰せられた。
智光は、「この浄土の荘厳は表現しがたく広大無辺で、とても私の心も眼も及ぶものではありません。凡夫の心で、とても観想することは出来ません」と申し上げた。
すると、阿弥陀仏は即座に右手を挙げて、掌の中に小さな浄土を現じなさった、と見たところで、夢から覚めた。
智光は、すぐに絵師を呼んで、夢で見た阿弥陀仏の掌の中の小さな浄土の有様を写させて、一生の間これを観想し続け、智光もまた遂に往生を果したのである。

       ☆   ☆   ☆

      ( 「今昔物語 巻第十五の第一話」を参考にしました )


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武勇の人橘則光 ・ 今昔の人々

2025-01-29 07:59:26 | 今昔の人々

     『 武勇の人橘則光 ・ 今昔の人々 』


陸奧の前司橘則光という人がいた。
武人の家柄ではないが、極めて豪胆なうえに思慮深く、腕力もとても強かった。
容姿も優れていて、世間の評判も良く、人々から一目置かれていた。

さて、その人がまだ若い頃の事であるが、一条天皇の御代に衛府の蔵人として仕えていたが、宮中の宿直所から忍んで女の所に出掛けた。
夜がしだいに更けていく頃で、大刀だけを持ち小舎人童一人だけ連れて門を出て、大宮大路を下っていくと、大きな垣のある辺りに何人かの人が立っている様子が窺えた。
則光は、「これは、恐ろしいぞ」と思いながらも、急いで通り過ぎようとした。八月九日頃の月は西の山近くなっていて、大垣の辺りは影になっていて人の姿ははっきり見えないが、その方向から声だけが「そこを行く人、止まれ。公達のお通りだぞ。通ってはならぬ」と言った。
則光は、「やはり、盗賊のお決まりの言葉だ」と思ったが、もはや引き返すこともならず、急いで通り過ぎようとすると、「そのまま通る気か」と言って、走り懸かってくる者がいた。

則光は、とっさに身を伏せてその方向を見ると、弓の影は見えず大刀がきらりと光るのが見えた。「弓で襲ってくるのではない」と知って安心し、身を低くして逃げると、その男が後を追ってくる。「頭を打ち割られる」と感じるほど迫られたところで、にわかに横に飛びのいた。追ってきた男は止まることが出来ずに則光の先まで走り出てしまったので、則光は体制を整えて、その男の頭を真っ二つに打ち割った。
「うまくいった」と思っている間もなく、「どうしたのだ」と言いながら、別の男が駆けつけてくる。そこで、大刀を収める間もなかったので、小脇に挟んで逃げ出すと、「此奴め、なかなか腕の立つ奴だな」と言いながら追ってくるが、先の男より足が速そうで、前と同じようには行くまい、と思って、突然その場に坐り込むと、追ってきた男は則光の身体につまずくように倒れ込んだので、すぐに立ち上がり、起き上がる隙も与えず頭を打ち割った。
「これで終った」と思っていると、なおも、三人目の男が「なかなかの者だな。絶対に逃さないぞ」と言いながら、なおも迫ってくるので、さすがに則光も、「今度はやられそうだ」と感じたので、「仏神、助け給え」と祈念して、大刀を鉾のように持ち変えて、走ってくる男に向かって真っ正面から突っ込んでいった。追ってきた男も大刀を振るおうとしたがあまりに近いため着物さえ切れなかった。鉾のように持った則光の大刀は背中まで突き通った。その大刀を引き抜くと、男は仰向けに倒れたので、大刀を持っている方の腕を肩から切り落した。

「まだ、来るのか」と様子を窺ったが、何の音もしなかったので、走って逃げて、中御門に駆け込み、柱の陰に隠れて、「小舎人童は無事かな」と待っていると、童が大宮大路を南の方から泣きながら歩いてくるのが見えたので、声をかけると飛ぶように走ってきた。
そこで、小舎人童に着替えを取ってこさせ、上衣や指貫や大刀などの血などを洗い流し、童には固く口止めして、素知らぬ顔で宿直所に帰って、寝てしまった。

しかし、「もしかすると、自分の仕業だと知られるかもしれない」とびくびくしているうちに夜が明けた。
夜が明けると、「大宮大路の大炊御門の辺りで、大男が三人切り殺されている。やったのは凄く腕の立つ奴らしい」などと大騒ぎになっていた。
殿上人たちも、「さあ行ってみよう」などと言って皆出掛けて行く。則光も誘われ、断るわけにもいかず、渋々ついて行った。
車からこぼれるほど大勢が乗って、その場所まで行ってみると、まだ死体はそのままになっている。
ところが、そのそばで、三十歳ばかりの髭面の男が、無地の袴に紺の洗いざらしの袷と、その上に山吹色ですっかり日に焼けた衣を着て、猪の毛を逆立てた尻鞘をつけた大刀を帯び、鹿の皮の沓を履いて立ちはだかっていて、大声で何か叫んでいる。
「何を言っているのか」と、供の雑色に尋ねさせると、「あの男が、自分がこの三人を切り殺したと言っています」と報告した。

「わけを聞こう」ということで呼び寄せると、男はやってきて、とうとうと語り始めた。
「昨夜、所用があってこの近くを通り過ぎようとしたところ、此奴ら三人に襲われました。どうせ盗賊だろうと思って、叩き切ってやりましたが、今朝改めて見ますと、長年私を狙っていた敵でした。これから、しゃっ首を取ってやろうと思っているのです」と言って仁王立ちになっている。
殿上人たちが、「それは、それは」と感心すると、男は、頭を振り、手を振ってしゃべり続けている。

これを見て則光は、内心おかしくてならなかったが、「此奴が、このように名乗り出ているのだから、人殺しの罪は此奴に譲れてありがたいことだ」と思った。
「それまでは、もしかすると自分の仕業だと分るのではないかと心配していたが、『自分がやった』と名乗り出た男のおかげで、其奴のせいにしてしまった」と、則光は年老いてから子供に初めて話したのである。

橘則光は、あの清少納言の夫であった人物である。二人の間には一男がおり、越中の守にまで昇っている。
則光は無骨で風流を解せない人物と誤解されることがあるが、清少納言とは、夫婦の縁が切れた後も、「兄と妹」の仲として親交があり、周囲の人たちも認めていたという。
則光は、従四位上まで昇っており、武勇ばかりでなく人格面も優れていたと思われるのである。

        ☆   ☆   ☆

  ( 「今昔物語」巻二十三の第十五話を参考にしました )



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蕪にまつわる奇談 ・ 今昔の人々

2025-01-23 08:00:24 | 今昔の人々

     『 蕪にまつわる奇談 ・ 今昔の人々 』


東国に向かう一人の男がいた。
いずれの国かは分らないが、ある郷に通りかかると、どうしたことか突然淫欲が起り、気がふれるほどに女が欲しくなり、どうしても心を鎮める事が出来ない。
辺りを見れば、ずっと畑が続いていて、青菜が生い茂っているばかりである。
十月のことなので、蕪(カブラ)の根が大きくなっていた。
この男、急いで馬から降りると、その畑に入って、蕪の根の大きなのを一つ引き抜いて、刀で穴を彫り、その穴に交接して思いを遂げた。その蕪の根は、そのまま畑の中に投げ棄てて、過ぎ去っていった。

その後、畑の持ち主は、青菜を収穫する為に大勢の下女や、まだ幼い女子供なども連れて来て、青菜を収穫していたが、十四、五歳ほどでまだ男を知らぬ娘が、一人で垣根の辺りで遊んでいたが、あの男が投げ棄てていった蕪を見つけた。
「穴を彫っているいる蕪だなんて、なにかしら」などと言いながら、しばらくもてあそんでいたが、しなびたこの蕪を掻き削って食べてしまった。
やがて、収穫を終えた一同は引き上げていった。

この後ほどなくして、この娘は何とはなく気分がすぐれないようで、食事も進まず、病気らしいので、「どうしたのだろう」などと心配しているうちに、何と妊娠していたのである。
父母は大変驚き、「お前はいったい何をしたのだ」と責めて問いただしたが、娘は、「わたしは、男の人のそばに寄った事もないわ。ただ、いついつの日、ひからびた蕪を食べたことがあり、あれから体調が悪くなったの」と言ったが、父母は納得出来ず、家の者や使用人などに尋ねたが、娘が男と逢っているような気配は全くなかった。
不思議に思いながらも、いつしか月満ちて、苦しむ事もなく玉のような男の子を生んだ。

こうなったうえはどうすることも出来ず、父母はこの子を育てていた。
一方、東国に向かったあの男は、その国で数年過ごし任務を終えて上京することになり、大勢の供を引き連れて帰る途中、例の畑の所を通り過ぎようとしたが、あの娘の父母も、十月の頃なので、青菜を収穫しようと使用人などと共に畑に出ていた。
男は、その畑の横を大きな声で従者と話しながら通りかかった。
「おお、そうだ。先年、東国に下るときもここを通ったが、どういうわけか、にわかに情欲が起きて、どうにも辛抱出来なくなって、この畑に入って、大きな蕪を一つ取って、それに穴を彫って、それでもって思いを遂げて、それをこの畑の中に投げ棄てていった事があったなあ」などと、大声で話すべきことでもないような事を話していた。
ところが、畑の中にいた娘の母親は、それを聞くと、娘が言っていた事を思い出して気にかかり、畑から飛び出すと、「もし、もし」と呼びかけた。

男は、蕪を盗んだ事を咎められるのだと思って、「いやいや、今のは冗談ですよ」と言って、立ち去ろうとしたが、母は、「とても大事な事があります。何としてもお聞きしたい事があります。どうぞお話し下さい」と、泣きそうな声で言う。
男は、「何かわけがあるのだろう」と思い、「別に隠すほどの事でもありません。それほど重い罪を犯したとも思っていませんが、何分、凡夫の身ですので、確かに、これこれの事がありました。それを、どういうわけか、つい口にしてしまったのです」と話した。

母はこれを聞くと、泣きながら男の手を取って家に連れて行こうとした。男は不審に思いながらも、何故か拒絶も出来ず、家に連れられていった。
家に着くと母は、「実は、然々の事がありましたので、その子供とあなたとを見比べようと思ったのです」と言って、その子を連れてきたが、見れば、この男と露ほどの違いもないほど似ていた。
その時、男も深く心が打たれ、「このような前世からの因縁もあるのですねぇ。これから、どうすればよいでしょうか」と尋ねた。
母は、「もはや、あなたのお心しだいです」と言うと、子供の母を呼んで会わせたが、身分の低い者ではあるが、とても美しい。年も二十歳ほどである。子供も五、六歳でかわいらしい男の子である。
「私は、京に帰ったところで、父母も親類もいない。それに、これほど深い因縁で結ばれているのであれば、このお方を妻にして、ここに留まることにします」と答えた。

そして、男はそのままその地に残り、その娘を妻として住みついたという。
まことに奇怪な話ではあるが、こういう前世からの縁もあるのかもしれない。

     ☆   ☆   ☆

      ( 「今昔物語 巻二十六の第二話」を参考にしました )

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天竺から来た天狗 ・ 今昔の人々

2025-01-17 08:01:26 | 今昔の人々

     『 天竺から来た天狗 ・ 今昔の人々 』


天竺に大変優れた天狗がいた。
天竺(印度)で学ぶ事がなくなったのか、震旦(中国)に渡ろうとして飛び立ったが、海の水の一筋が、
『 諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅為楽 』
( ショギョウムジョウ ゼショウメッポウ ショウメツメツイ ジャクメツイラク )
「 万物の無常なることは 必然の法則であるが 生滅変化の法を超越して初めて涅槃に達し 安楽自在の境地を得る・・・涅槃経の一部 」
と鳴っているので、天狗は、「海の水がこのような尊く深遠な法文を唱えるはずがない」と不思議に思い、「この水の正体を突き止めて、邪魔をしてやらねばならない」と思って、水の音を追っていったが、震旦に至っても、まだ同じように鳴っている。

震旦を過ぎて、なお追っているうちに日本の境の海まで来たが、なお鳴っている。
そこから、筑紫の波方(博多)の津を過ぎ、文字(門司)の関まで来て聞いてみると、少し声が大きくなっている。
天狗はいよいよ怪しく思い、水からの声を追っていくと、国々を過ぎて淀川の河口まで来た。さらに大きくなっている声を追って、淀川から宇治川に至り、さらに川上に上っていくうちに近江の湖に入った。さらに大きくなった声を尋ねていくと、比叡山の横川(ヨカワ・東塔、西塔と共に比叡山三塔の一つ。)から流れ出ている一筋の川に入ったが、法文を唱える声はさらに大きくなり耳を塞ぎたいほどである。
川の上流を見ると、四天王や諸々の護法童子がいて、川の水を護っている。これを見た天狗は、驚いて近くに寄ることも出来ない。不審に思いながら隠れて声を聞いていたが、恐ろしくて仕方がない。

しばらくそうしていると、それほど法力がなさそうな天童子が近くにいるので、天狗は恐る恐る近寄って、「この川の水が、このように尊く深遠な法文を唱えているのは、どういうわけでしょうか」と尋ねた。
天童子は、「この川は、比叡山で学ぶ多くの僧の厠からの水の流れ道になっています。そのため、このように尊い法文を水も唱えているのです。それで、このように天童子もお護りしているのです」と答えた。
天狗はこれを聞いて、「声のもとを邪魔してやろう」という心がたちまち消え失せてしまった。「厠から流れ出た水でさえこのように深遠な法文を唱えている。いわんや、この山の僧たちはどれほど尊いのだろうか。されば、我もこの山の僧になろう」と誓うと姿を消してしまった。

さて、その後、この天狗はどのような修行をしたのだろうか。
宇多法皇の御子に、兵部卿有明親王(正しくは、醍醐天皇の第七皇子。)と言う人がいらっしゃるが、その北の方の御腹に宿って生れたのである。
そして、誓いの通り、比叡山の僧となり、延昌僧正の弟子となり、僧正にまで昇られたが、名前を明救(ミョウグ)と申される。
このように、たいそうな霊験をお持ちのお方には、不思議な前世があるものなのだろうか。

     ☆   ☆   ☆
        ( 「今昔物語 巻二十の第一話」を参考にしました )

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安倍晴明という陰陽師 ・ 今昔の人々

2025-01-11 08:01:03 | 今昔の人々

     『 安倍晴明という陰陽師 ・ 今昔の人々 』


天文博士である安倍晴明という優れた陰陽師がいた。
幼い時から、賀茂忠行という陰陽師に師事してその道を学んだが、その才能はただならぬものであったという。
多くの逸話が伝えられているが、その幾つかを紹介しよう。

晴明がまだ若かった頃、ある夜のこと、師の忠行が下京の辺りに出掛けたが、晴明はその供をして車の後ろを歩いていた。忠行は車の中ですっかり寝入っていたが、晴明がふと前方を見ると、何とも恐ろしい鬼どもがこちらに向かってくるのが見えた。牛飼いに見えなかったが、晴明には百鬼夜行を見抜けたので、すぐに忠行を起こして伝えると、忠行は鬼どもがやって来るのを確認すると、術法でもってたちまち自分たちの姿をすべて隠し、無事に鬼どもを行き過ぎさせることが出来た。
これによって、忠行は晴明を特に可愛がり、あらゆる法を教えたが晴明も期待通りに受け継いでいった。そして、この道の一人者として公私にわたり重用されるようになった。

ある時、晴明の邸に、一人の老僧が訪ねてきた。十四歳ほどの童を二人連れていた。
「どういうお方でしょうか」と晴明が尋ねると、
「私は播磨国の者でございます。ご高名をお聞きして、ほんの少しお教え願いたくて、やって参りました」と老僧が答えた。
晴明は心の内で、「この法師は、この道でかなりの腕前のようだ。私を試そうとして来たようだ。このような者に試されて、まずい結果になるのもおもしろくない。反対に、少しなぶってやろう」と、いたずら心が起きて、「法師の供をしている童は識神(シキジン・式神とも。陰陽師に使われる下級の精霊。)であろう。もしそうであれば、ただちに隠してやろう」と思うと、心の内で念じて、袖の内に両手を入れて、印を結び、密かに呪文を唱えた。
それから法師に答えた。「分かりました。ただ、今日は時間がありませんので、後日よき日を選んでおいで下さい。何でもお教えしましょう」と。
それを聞くと法師は、喜んで帰っていった。
しばらくすると、法師が戻ってきて、邸のあちこちを探している。それから、晴明の前にやってきて、「私の供の童二人がいなくなりました。それを返していただきたい」と言った。
晴明は、「おかしな事を申される。私があなたの供の童を取ったりするものですか」と答えた。そこで法師は、晴明の術によるものと気付き、試そうとした無礼を詫びたので、晴明が術を解くと、二人の童は外から走ってきた。
法師は、「昔から、識神を使う人は大勢いますが、人の使う識神を隠すことが出来る人は聞いたことがありません」と言うと、ぜひ弟子に加えてくれと申し出た。

また、別の事であるが、広沢の寛朝僧正と申す方の僧房でお話を伺っていた時、若い公達たちも同席していて、晴明にいろいろと話しかけ、「あなたは、識神を使われるそうですが、即座に人を殺す事も出来ますか」と尋ねた。
晴明は、「いえ、そう簡単に殺す事など出来ません。しかし、少し力を入れさえすれば必ず殺す事が出来ます。虫などはごく簡単に殺せますが、生き返らせる方法を知りませんので、無益な殺生は避けています」と答えた。
ちょうどその時、蛙が五つ六つばかり池の辺りで飛び跳ねているのが見えた。
一人の公達が、「では、あの蛙を一匹殺して見せて下さい」と強く申し出た。
「罪作りなお方だ。そこまで仰せなら、試してみましょう」と言って、草の葉を摘んで、呪文を唱えながら蛙の方に投げると、草の葉が蛙の方に向かっていったかと思ううちに、蛙はぺしゃんこになって死んでしまった。
これを見ていた僧たちも公達たちも、真っ青になって震え上がった。

この晴明は、邸の中に人のいないときは、識神を使っていたらしい。誰もいないはずなのに、蔀が上げ下げされ、門が閉ざされたり開けられたりした。こうした不思議な事がたくさんあったという。
その子孫は今も朝廷に仕えていて、重んじられている。その邸は今も伝えられているが、つい最近まで識神の声らしいものが聞こえたと言っている。

このように、安倍晴明にまつわる不思議な話が多く伝えられているが、どうやら、大変な能力を持った陰陽師であったようだ。

     ☆   ☆   ☆
  ( 「今昔物語 巻二十四の第十六話」を参考にしました。)
 

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釈迦菩薩 閻浮提に下る ・ 今昔の人々

2025-01-05 08:09:40 | 今昔の人々

     『 釈迦菩薩 閻浮提に下る ・ 今昔の人々 』


『 今昔、釈迦如来、未だ仏に不成給ざりける時は、釈迦菩薩と申して、兜率天の内院と云所にぞ住給ける ・・・ 』
「今昔物語」は、一千余話にのぼる物語が集められている膨大な作品集であるが、その最初の物語、「巻第一の第一話」は、この文章で始まる。

さて、釈迦菩薩が閻浮提(エンブダイ・古代印度の仏教的宇宙観で、須弥山の南方洋上にある大島で、我々の住む世界とされる。)に下られようと思われたが、その時、五衰(ゴスイ)を現わしなさった。
五衰と申すのは、一つは、天人は瞬きをするはずがないのに、瞬きをなさった。二つには、天人の頭の花鬘(ケマン・生花で作られた飾り。)は萎(シボ)むことがないのに萎んだ。三つには、天人の衣に塵がつくことはないのに、塵・垢がついた。四つには、天人は汗を流すことがないのに、脇の下から汗が流れ出た。五つには、天人は自分の座を替えることがないのに、もとの座を求めず、行き当たった所を座となさった。

このように五衰を示される釈迦菩薩を見て、諸々の天人は不思議に思って言った。
「我らは、今日、この相を現じ給うのを見て、驚き恐れ、身体が震え心が落ち着きません。願わくば、我らのために、その故を話して下さい」と。
釈迦菩薩は諸天に答えて、「諸行無常ということを、今こそ知るべきです。私は、久しからずして、この天の宮を離れて、閻浮提に生れようとしています」と言った。これを聞いて、諸々の天人はたいへん嘆いた。

こうして、釈迦菩薩は、「閻浮提に生れるのに、誰を父とし誰を母とするべきか」と思案された。その結果、「迦毘羅衛国(カピラエコク)の浄飯王(ジョウボンオウ)を父とし、摩耶夫人(マヤブニン)を母にするのが条件に適している」と思い定められた。
そして、癸丑(ミズノトウシ)の年の七月八日(釈迦の誕生年月日については、多くの説がある。)、摩耶夫人の胎内に宿られた。
その夜、夫人が寝ている時の夢に、菩薩が六牙の白象(ロクゲのビャクゾウ・普賢菩薩の乗り物とされる。)に乗って大空からやってきて、夫人の右の脇から身体の中に入られた。夫人は驚いて目覚め、浄飯王の御許に行って、この夢のことを申し上げた。
すると、王は、「我もまたそのような夢を見た。どう判断すればよいか分らない」と申された。

そこで、善相婆羅門という人を招いて、夫人の夢を占わせたところ、「夫人の妊みたる太子は、たいへん尊い相をお持ちです。きっと釈迦族を光りで包むでしょう」などと、やがて誕生してくる御子のただならぬ将来を占ったと言う・・・。
やがて誕生なさるお方の壮大な生涯は、こうして始まるのである。

           ☆   ☆   ☆

     ( 「今昔物語 巻第一の第一話」を参考にしました )

 



 



    

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純愛を貫く ・ 今昔の人々

2024-12-24 08:00:04 | 今昔の人々

      『 純愛を貫く ・ 今昔の人々 』

藤原高藤が、まだ十五、六歳の頃の事である。
高藤は鷹狩りが好きで、この日も南山科の辺りを駆け巡っていたが、申時(午後四時頃)許りの頃、突然辺りは暗くなり激しい雨に襲われた。
雷鳴も鳴りだし、供の者どもは雨宿りする場所を求めて、それぞれ散って行ってしまった。
高藤は、西の山際に人家があるのを見つけて馬を走らせたが、付き従う者は馬の口取りの舎人一人だけだった。

その家に行き着いて見てみると、ひなびた家ながら檜垣を巡らし小さな唐門もある。
高藤はそこに馬を乗り入れ、馬を口取りの舎人に任せて、寝殿の廊下の板敷きに腰を下ろした。
その間も、風雨はますます激しくなり静まる様子もない。雷電は恐ろしいほどである。
日も暮れてきた頃でもあり、「どうしたものか」と思案をしている時、家の奥の方から、青鈍(アオニビ・濃いはなだ色)の狩衣を着た四十余歳ばかりの男が出てきて、
「これは、どなたさまでいらっしゃぃますか。何かご用でも」と声をかけてきた。
高藤は、「鷹狩りの途中でこの雨に遭い、たまたまこちらの家を見つけて雨宿りさせていただいています」と答えた
家の主は、「それはお困りでしょう。どうぞ、雨宿りなさって下さい」と言うと、少し離れている舎人に、「こちら様はいかなるお方でしょうか」と尋ねた。
馬の口取りの舎人は、「然々の人でございます」と答えた。
家の主はこれを聞くと、驚いて家に入り、火を灯すなどしてから出てきて、「むさ苦しい所でございますが、ここでは何でございますから、雨が上がりますまで、部屋でお休み下さい。御衣なども乾かし、御馬にも草を差上げましょう」と部屋に上がるよう勧めた。

みすぼらしい下賤の者の家ではあるが、屋内は、いかにも由緒ありげに設えられていて、こざっぱりとした高麗べりの畳が三、四畳敷いてある。
高藤は、濡れた狩衣などを脱いでくつろいでいると、しばらくして、引き戸を開けて、年の頃十三、四歳ばかりの若い女が、薄紫色の衣一重ねに濃い紅の袴をつけ、扇で顔を隠し、片手に高坏を持って現れた。
恥ずかしそうに遠くの方で横を向いて座っているので、高藤が「もっと近くに」と声をかけると、そっといざり寄ってくる様子は、頭の形はほっそりとしていて、額の様子や髪が肩に懸かっている様子など、このような家の娘とは思われないほど美しい。
高坏を折敷に置くなどして引き下がったが、その後ろ姿を見ると、髪はふさふさとしていて膝の辺りを過ぎているほどある。
娘はすぐに戻ってきて、折敷に様々な食べ物などを乗せていて、それを高藤の前に整えたが、幼い娘なので、あまりうまく整えることが出来ないままに、少し下がった所に控えた。
見ると、飯の他に小大根、鮑、鳥の干し肉などあり、一日中鷹狩りをしてくたびれていたので、「下賤の者の家の食べ物でも仕方あるまい」などと思いながらも、すべて平らげた。酒も出されるままに飲み、夜も更けたので横になった。

しかし、高藤は、給仕に現れたまだ幼い娘のことが心に残り、いとおしく思われたので、「一人で寝るのは恐ろしい気がする。先ほどの娘をここに」と伝えると、娘がやって来た。
「もっと近くへ」と言って引き寄せると、抱き締めて横になった。そばで見る娘の様子は離れて見ていたよりもさらに愛らしい。
すっかり気に入ってしまったので、高藤はまだ年若くはあるが、行く末までも変らぬ愛を繰り返し誓って、長月(九月)の極めて長い夜を、全く眠ることなく結ばれた。
娘の様子はまことに気高く見えるのが不思議に思われ、語り合い契りあって夜を明かした。
やがて、夜も明けたので、出て行こうとするときに、高藤は帯びていた大刀を与えて、「これを形見に取っておきなさい。親が深い考えもなく結婚させようとしても、決して他の男に身を任せてはならない」と言い聞かせて、出て行った。

馬に乗って四、五町も行くと、供をしていた者共が高藤を探して集まって来て、無事に京の邸に帰り着くことが出来た。
しかし、父の内舎人(ウドネリ・天皇の身の回りの世話や雑務に当たった)は大変心配していたことから大いに怒り、この後、鷹狩りに行くことを禁じてしまった。
父の内舎人というのは、藤原良門といって、閑院右大臣藤原冬嗣の六男であった。冬嗣の御子たちは、それぞれ高位高官に昇られたが、良門だけは、正六位内舎人のままで若くして亡くなり、貴族の地位(五位)にさえ達しなかったのである。

鷹狩りを禁じられた高藤は、あの娘のことが気掛かりでならなかったが、馬の口取りをしていた男は京を離れており、あの家を知る者がいなくなってしまった。
悶々としているうちに月日は流れ、さらに、父が若くして亡くなり、まだ若い高藤は伯父たちの世話を受けることになり、気ままに行動できないままに四年、五年と時は流れていった。
高藤は容貌に恵まれ気立ても優れていたので、伯父の良房大臣は高藤の将来に期待を寄せていたが、何分、父に早く死別した身は恵まれないことが多く、また、あの娘のことが忘れられず妻を娶ることもないままに、六年ばかりが過ぎた。

そうした時、あの馬の口取りをしていた男が「田舎から上京してきている」という噂が伝わってきた。その男を呼び寄せて、あの家のことを話すと、「よく覚えています」と答えた。
早速に、その男と郎等一人を連れて、阿弥陀の峰を越えて行き、いつかの所に日の入り頃に着くことが出来た。
二月の二十日頃のことなので、家の前の梅の花がちらほらと散っていて、その梢で鶯が美しい声で鳴いていて、遣り水に落ちた花びらが流れている。
高藤は、前と同じように馬を乗り入れた。

家の主を呼び出すと、思いも懸けぬ訪問に、主の男は転げるばかりにして出てきた。
「あの時の娘御はおいでか」と尋ねると、「おります」と答えて招き入れた。
部屋に入ると、あの娘は、几帳のそばに半ば身を隠すようにして座っていた。近寄って見ると、あの時より女らしさが加わり、別人ではないかと思うほど美しくなっている。
「世にはこのように美しい人もいるのか」と思って見ていると、その傍らに五、六歳ぐらいの何とも愛らしい女の子が座っている。
「その子は誰か」と尋ねると、女はうつむいて泣いているようで、はっきりと答えないので、父の男を呼んで尋ねると、「先年、あなた様がお見えになられてから、娘は男のそばに近づいたことはありません。その前はまだ幼く、そのような事があるはずもありません。おなたさまがお見えになった頃から懐妊し、生れた子でございます」と答えた。
これを聞いて、高藤は心打たれ、枕元の方を見ると、形見として渡した大刀が置かれている。「このように深い契りもあるのだ」と感激しながら見れば、その女の子は自分にまことによく似ていた。
そこで、その夜はこの家に泊まった。

翌朝、高藤たちは、「すぐに迎えに来る」と言って、その家を出た。その時、「この家の主は、どういう者か」と尋ねさせたところ、その郡の大領(長官。土地の有力者が任じられ、七位程度。)の宮地弥益(ミヤジノイヤマス)であることが分った。
「このような下賤な者の娘とはいえ、前世の契りが深いのだろう」と、しみじみと思い、次の日には、身分相応の質素な車で、思い続けていた娘と女の子、そして母親も共々京の邸に迎え入れた。
その後、二人の仲は睦まじく、男子二人を続けて儲けられたのである。

さて、この高藤という御方は大変優れた方で、大納言にまで昇られ、後には内大臣に就かれている。
若き日に結ばれた娘との間に生れた女の子(胤子)は、宇多天皇の女御となり醍醐天皇の生母となられている。二人の男の子も、兄は大納言右大将に、弟は右大臣になっている。
そして、高藤の父良門は、兄弟たちの中で不遇であったと思われるが、その二人の子息は、弟の高藤はかくの如くであり、兄の利基の玄孫には、紫式部という才媛が登場しているのである。
人の生きた証は、その生涯だけで判じる事は出来ないのかもしれない。

     ☆   ☆   ☆                            ( 「今昔物語 巻二十二の第七話」を参考にしました )



 

 

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詩歌の持つ力 ・ 今昔の人々

2024-12-12 08:00:25 | 今昔の人々

     『 詩歌の持つ力 ・ 今昔の人々 』


藤原為時(949 - 1029 ・紫式部の父)は式部丞などを勤め上げていて、受領(国司)になりたいと願っていたが、なかなか望みを達することが出来なかった。
さて、一条天皇の御代のこと、この時の除目においても、願う国への沙汰はおりなかった。
為時はたいそう嘆いて、伝手を頼って、上奏を司る内侍に請願文を奉った。

その請願文には、
『 苦学寒夜紅涙霑襟 除目後朝蒼天在眼 』
( くがくのかんや こうるいえりをうるおす ぢもくのこうちょう そうてんまなこにあり )
「 寒い夜 血涙を絞って 学問に精進したが 除目の選任に漏れ その翌朝 悲しみの眼には 青く澄み切った大空が うつろに映っている 」
という詩句があった。

ところが、内侍は請願文を奉ろうとしたが、天皇は御寝中で御覧にならなった。
その時、藤原道長は関白(正しくは、道長は関白になったことがないが、最高権力者ではあった。)であられたので、除目の修正を行うため参内なさっていて、この為時の誓願について奏上なさったが、天皇は請願文を御覧になっていなかったので、何のご返答もなかった。
そこで、道長は内侍に確認し、天皇が御覧になっていないことを知ると、請願文を持ってこさせて天皇にお見せになったところ、この詩句があった。
道長はこの句のすばらしさに感動して、道長の乳母の子である藤原国盛という人が就任することになっていた越前守を辞めさせて、にわかにこの為時を任じられたのである。

これは、ひとえに請願文の中にある詩句の力によるものだと、人々は為時を褒めたという。
しかし、道長は、この請願文を見る以前に為時の越前守就任を決めているようにみえ、他の力が働いたように思われてならないのである。

       ☆   ☆   ☆
  ( 「今昔物語 巻二十四の第三十話を参考にしました )

 

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歴史を変えた沓の行方 ・ 今昔の人々

2024-11-30 10:34:38 | 今昔の人々

     『 歴史を変えた沓の行方 ・ 今昔の人々 』


その出会いは、蹴鞠の場であった。
中大兄皇子(ナカノオオエノオウジ)は、鞠を蹴り損じ沓(クツ)が脱げてしまった。すると、そばにいた蘇我入鹿(ソガノイルカ)は、その沓を外に蹴り出してしまったのある。
まだ若い皇子は、蹴り損ねたうえ沓を蹴り出されてしまったので、顔を赤らめてぼう然と立ち尽くしていた。
その時、その場にいた中臣鎌子(ナカトミノカマコ・のちの藤原鎌足)は、その沓を拾って皇子のもとにお持ちした。皇子は、恥を重ねることなくその場を収め、鎌子に厚い信頼を寄せることになったのである。

その後、皇子は鎌子を折りに付けお召しになって引き立てられたが、鎌子もそれに応えて十分な働きを見せた。
ある時、皇子は鎌子に重大な決意を明かした。
「入鹿は、常日頃無礼を働く。天皇の仰せ事に反する行いもある。この世に入鹿があれば、世のために良くない」と暗殺を持ちかけたのある。
二人は策を立て、仲間と機会を慎重に待った。

そして、大極殿で節会が行われる時、「入鹿を討つのは今日だ」と手立てを固め、謀をもって入鹿の剣を預かり、天皇の御前で、ある皇子が上表文を読み始めたので、その隙を突いて、鎌子は自ら太刀を抜いて走り寄り、入鹿の肩に切りつけた。入鹿が走って逃げようとするのを、中大兄皇子が大刀を取って、入鹿の首を打ち落とした。
すると、その首は飛び上がって、高御座(タカミクラ)の前に参り、「私には何の罪もありません。何事によって殺されるのですか」と申し上げた。
天皇はこの企てを前もって知らされておらず、女帝でもあられるので、恐れられ、高御座の戸を閉じられたので、首は戸に当たって落ちた。

これが、世に知られた乙巳の変(イッシノヘン・大化の改新)の始まりである。
中大兄皇子は二十歳、中臣鎌子が三十二歳の頃の事であった。これによって、天皇家中心の政治が行われ、中臣鎌子に始まる、後の藤原氏台頭の切っ掛けとなった事件でもあったのである。
それにしても、中大兄皇子の脱げた沓を入鹿が蹴飛ばしたりしなければ、このような事件は起きなかったかもしれない。また、その沓が鎌子がいた辺りに飛んで行かなければ、二人の深い主従関係は生れなかったかもしれない。
沓が飛んで行ったのは、たまたまのことなのか。それとも、何らかの意志が働いたのであろうか・・・。

     ☆   ☆   ☆
( 「今昔物語 巻二十二の第一話」を参考にしました。)


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「今昔の人々」 ご案内

2024-11-30 10:32:56 | 今昔の人々

    『 今昔の人々 』 ご案内 


『今昔物語』は、平安時代後期のわが国最大の説話集です。
正確な作者名は不詳ですし、成立年度も同様ですが、収録されている作品から、1120 年から間もない頃に成立したのではないかと推定されます。もっとも、その時に一度に完成したのではなく、数度にわたって完成させていったものと考えられています。

その内容は、天竺・震旦・日本の仏教に関連するものを中心に幅広い伝承や民話や歴史上の事件なども加わっています。多くは、経典をはじめ様々な文献から引用されたものに手を加えた物のようですが、出典が不明な物も少なくありません。
そのボリュームは膨大で、全31巻(うち3巻は欠けている)で、物語の数としては1000話を相当超えています。
当ブログでは、『今昔物語拾い読み』というカテゴリーで、10年近くかかって読み終えたばかりです。

今回、新たに『 今昔の人々 』というカテゴリを開設しましたのは、その膨大な作品の中から、個人的に興味を惹かれた作品をお借りして、その中の登場人物に焦点を当てる形で「小さな作品」を作ってみたいと考えたからです。
この作品集は、若干視点を変えるだけで、「今昔物語」そのものを借用する物になりますが、本来の趣旨を歪めたり、作品その物を傷つけてしまう可能性があることも懸念しております。また、今昔物語の中には、歴史的事実と相違したり、誤訳と思われる部分もありますが、そういう部分も、原則としてそのまま使わせていただくつもりです。
おそらく、学術的には何の意味も無いでしょうが、単なる読み物として、また、今昔物語そのものに興味をお持ちいただく切っ掛けになればと考えております。

拙い作品集になる恐さを感じておりますが、気楽にお楽しみいただければ幸甚です。

         ☆   ☆   ☆

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