雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

純愛を貫く ・ 今昔の人々

2024-12-24 08:00:04 | 今昔の人々

      『 純愛を貫く ・ 今昔の人々 』

藤原高藤が、まだ十五、六歳の頃の事である。
高藤は鷹狩りが好きで、この日も南山科の辺りを駆け巡っていたが、申時(午後四時頃)許りの頃、突然辺りは暗くなり激しい雨に襲われた。
雷鳴も鳴りだし、供の者どもは雨宿りする場所を求めて、それぞれ散って行ってしまった。
高藤は、西の山際に人家があるのを見つけて馬を走らせたが、付き従う者は馬の口取りの舎人一人だけだった。

その家に行き着いて見てみると、ひなびた家ながら檜垣を巡らし小さな唐門もある。
高藤はそこに馬を乗り入れ、馬を口取りの舎人に任せて、寝殿の廊下の板敷きに腰を下ろした。
その間も、風雨はますます激しくなり静まる様子もない。雷電は恐ろしいほどである。
日も暮れてきた頃でもあり、「どうしたものか」と思案をしている時、家の奥の方から、青鈍(アオニビ・濃いはなだ色)の狩衣を着た四十余歳ばかりの男が出てきて、
「これは、どなたさまでいらっしゃぃますか。何かご用でも」と声をかけてきた。
高藤は、「鷹狩りの途中でこの雨に遭い、たまたまこちらの家を見つけて雨宿りさせていただいています」と答えた
家の主は、「それはお困りでしょう。どうぞ、雨宿りなさって下さい」と言うと、少し離れている舎人に、「こちら様はいかなるお方でしょうか」と尋ねた。
馬の口取りの舎人は、「然々の人でございます」と答えた。
家の主はこれを聞くと、驚いて家に入り、火を灯すなどしてから出てきて、「むさ苦しい所でございますが、ここでは何でございますから、雨が上がりますまで、部屋でお休み下さい。御衣なども乾かし、御馬にも草を差上げましょう」と部屋に上がるよう勧めた。

みすぼらしい下賤の者の家ではあるが、屋内は、いかにも由緒ありげに設えられていて、こざっぱりとした高麗べりの畳が三、四畳敷いてある。
高藤は、濡れた狩衣などを脱いでくつろいでいると、しばらくして、引き戸を開けて、年の頃十三、四歳ばかりの若い女が、薄紫色の衣一重ねに濃い紅の袴をつけ、扇で顔を隠し、片手に高坏を持って現れた。
恥ずかしそうに遠くの方で横を向いて座っているので、高藤が「もっと近くに」と声をかけると、そっといざり寄ってくる様子は、頭の形はほっそりとしていて、額の様子や髪が肩に懸かっている様子など、このような家の娘とは思われないほど美しい。
高坏を折敷に置くなどして引き下がったが、その後ろ姿を見ると、髪はふさふさとしていて膝の辺りを過ぎているほどある。
娘はすぐに戻ってきて、折敷に様々な食べ物などを乗せていて、それを高藤の前に整えたが、幼い娘なので、あまりうまく整えることが出来ないままに、少し下がった所に控えた。
見ると、飯の他に小大根、鮑、鳥の干し肉などあり、一日中鷹狩りをしてくたびれていたので、「下賤の者の家の食べ物でも仕方あるまい」などと思いながらも、すべて平らげた。酒も出されるままに飲み、夜も更けたので横になった。

しかし、高藤は、給仕に現れたまだ幼い娘のことが心に残り、いとおしく思われたので、「一人で寝るのは恐ろしい気がする。先ほどの娘をここに」と伝えると、娘がやって来た。
「もっと近くへ」と言って引き寄せると、抱き締めて横になった。そばで見る娘の様子は離れて見ていたよりもさらに愛らしい。
すっかり気に入ってしまったので、高藤はまだ年若くはあるが、行く末までも変らぬ愛を繰り返し誓って、長月(九月)の極めて長い夜を、全く眠ることなく結ばれた。
娘の様子はまことに気高く見えるのが不思議に思われ、語り合い契りあって夜を明かした。
やがて、夜も明けたので、出て行こうとするときに、高藤は帯びていた大刀を与えて、「これを形見に取っておきなさい。親が深い考えもなく結婚させようとしても、決して他の男に身を任せてはならない」と言い聞かせて、出て行った。

馬に乗って四、五町も行くと、供をしていた者共が高藤を探して集まって来て、無事に京の邸に帰り着くことが出来た。
しかし、父の内舎人(ウドネリ・天皇の身の回りの世話や雑務に当たった)は大変心配していたことから大いに怒り、この後、鷹狩りに行くことを禁じてしまった。
父の内舎人というのは、藤原良門といって、閑院右大臣藤原冬嗣の六男であった。冬嗣の御子たちは、それぞれ高位高官に昇られたが、良門だけは、正六位内舎人のままで若くして亡くなり、貴族の地位(五位)にさえ達しなかったのである。

鷹狩りを禁じられた高藤は、あの娘のことが気掛かりでならなかったが、馬の口取りをしていた男は京を離れており、あの家を知る者がいなくなってしまった。
悶々としているうちに月日は流れ、さらに、父が若くして亡くなり、まだ若い高藤は伯父たちの世話を受けることになり、気ままに行動できないままに四年、五年と時は流れていった。
高藤は容貌に恵まれ気立ても優れていたので、伯父の良房大臣は高藤の将来に期待を寄せていたが、何分、父に早く死別した身は恵まれないことが多く、また、あの娘のことが忘れられず妻を娶ることもないままに、六年ばかりが過ぎた。

そうした時、あの馬の口取りをしていた男が「田舎から上京してきている」という噂が伝わってきた。その男を呼び寄せて、あの家のことを話すと、「よく覚えています」と答えた。
早速に、その男と郎等一人を連れて、阿弥陀の峰を越えて行き、いつかの所に日の入り頃に着くことが出来た。
二月の二十日頃のことなので、家の前の梅の花がちらほらと散っていて、その梢で鶯が美しい声で鳴いていて、遣り水に落ちた花びらが流れている。
高藤は、前と同じように馬を乗り入れた。

家の主を呼び出すと、思いも懸けぬ訪問に、主の男は転げるばかりにして出てきた。
「あの時の娘御はおいでか」と尋ねると、「おります」と答えて招き入れた。
部屋に入ると、あの娘は、几帳のそばに半ば身を隠すようにして座っていた。近寄って見ると、あの時より女らしさが加わり、別人ではないかと思うほど美しくなっている。
「世にはこのように美しい人もいるのか」と思って見ていると、その傍らに五、六歳ぐらいの何とも愛らしい女の子が座っている。
「その子は誰か」と尋ねると、女はうつむいて泣いているようで、はっきりと答えないので、父の男を呼んで尋ねると、「先年、あなた様がお見えになられてから、娘は男のそばに近づいたことはありません。その前はまだ幼く、そのような事があるはずもありません。おなたさまがお見えになった頃から懐妊し、生れた子でございます」と答えた。
これを聞いて、高藤は心打たれ、枕元の方を見ると、形見として渡した大刀が置かれている。「このように深い契りもあるのだ」と感激しながら見れば、その女の子は自分にまことによく似ていた。
そこで、その夜はこの家に泊まった。

翌朝、高藤たちは、「すぐに迎えに来る」と言って、その家を出た。その時、「この家の主は、どういう者か」と尋ねさせたところ、その郡の大領(長官。土地の有力者が任じられ、七位程度。)の宮地弥益(ミヤジノイヤマス)であることが分った。
「このような下賤な者の娘とはいえ、前世の契りが深いのだろう」と、しみじみと思い、次の日には、身分相応の質素な車で、思い続けていた娘と女の子、そして母親も共々京の邸に迎え入れた。
その後、二人の仲は睦まじく、男子二人を続けて儲けられたのである。

さて、この高藤という御方は大変優れた方で、大納言にまで昇られ、後には内大臣に就かれている。
若き日に結ばれた娘との間に生れた女の子(胤子)は、宇多天皇の女御となり醍醐天皇の生母となられている。二人の男の子も、兄は大納言右大将に、弟は右大臣になっている。
そして、高藤の父良門は、兄弟たちの中で不遇であったと思われるが、その二人の子息は、弟の高藤はかくの如くであり、兄の利基の玄孫には、紫式部という才媛が登場しているのである。
人の生きた証は、その生涯だけで判じる事は出来ないのかもしれない。

     ☆   ☆   ☆                            ( 「今昔物語 巻二十二の第七話」を参考にしました )



 

 

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詩歌の持つ力 ・ 今昔の人々

2024-12-12 08:00:25 | 今昔の人々

     『 詩歌の持つ力 ・ 今昔の人々 』


藤原為時(949 - 1029 ・紫式部の父)は式部丞などを勤め上げていて、受領(国司)になりたいと願っていたが、なかなか望みを達することが出来なかった。
さて、一条天皇の御代のこと、この時の除目においても、願う国への沙汰はおりなかった。
為時はたいそう嘆いて、伝手を頼って、上奏を司る内侍に請願文を奉った。

その請願文には、
『 苦学寒夜紅涙霑襟 除目後朝蒼天在眼 』
( くがくのかんや こうるいえりをうるおす ぢもくのこうちょう そうてんまなこにあり )
「 寒い夜 血涙を絞って 学問に精進したが 除目の選任に漏れ その翌朝 悲しみの眼には 青く澄み切った大空が うつろに映っている 」
という詩句があった。

ところが、内侍は請願文を奉ろうとしたが、天皇は御寝中で御覧にならなった。
その時、藤原道長は関白(正しくは、道長は関白になったことがないが、最高権力者ではあった。)であられたので、除目の修正を行うため参内なさっていて、この為時の誓願について奏上なさったが、天皇は請願文を御覧になっていなかったので、何のご返答もなかった。
そこで、道長は内侍に確認し、天皇が御覧になっていないことを知ると、請願文を持ってこさせて天皇にお見せになったところ、この詩句があった。
道長はこの句のすばらしさに感動して、道長の乳母の子である藤原国盛という人が就任することになっていた越前守を辞めさせて、にわかにこの為時を任じられたのである。

これは、ひとえに請願文の中にある詩句の力によるものだと、人々は為時を褒めたという。
しかし、道長は、この請願文を見る以前に為時の越前守就任を決めているようにみえ、他の力が働いたように思われてならないのである。

       ☆   ☆   ☆
  ( 「今昔物語 巻二十四の第三十話を参考にしました )

 

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歴史を変えた沓の行方 ・ 今昔の人々

2024-11-30 10:34:38 | 今昔の人々

     『 歴史を変えた沓の行方 ・ 今昔の人々 』


その出会いは、蹴鞠の場であった。
中大兄皇子(ナカノオオエノオウジ)は、鞠を蹴り損じ沓(クツ)が脱げてしまった。すると、そばにいた蘇我入鹿(ソガノイルカ)は、その沓を外に蹴り出してしまったのある。
まだ若い皇子は、蹴り損ねたうえ沓を蹴り出されてしまったので、顔を赤らめてぼう然と立ち尽くしていた。
その時、その場にいた中臣鎌子(ナカトミノカマコ・のちの藤原鎌足)は、その沓を拾って皇子のもとにお持ちした。皇子は、恥を重ねることなくその場を収め、鎌子に厚い信頼を寄せることになったのである。

その後、皇子は鎌子を折りに付けお召しになって引き立てられたが、鎌子もそれに応えて十分な働きを見せた。
ある時、皇子は鎌子に重大な決意を明かした。
「入鹿は、常日頃無礼を働く。天皇の仰せ事に反する行いもある。この世に入鹿があれば、世のために良くない」と暗殺を持ちかけたのある。
二人は策を立て、仲間と機会を慎重に待った。

そして、大極殿で節会が行われる時、「入鹿を討つのは今日だ」と手立てを固め、謀をもって入鹿の剣を預かり、天皇の御前で、ある皇子が上表文を読み始めたので、その隙を突いて、鎌子は自ら太刀を抜いて走り寄り、入鹿の肩に切りつけた。入鹿が走って逃げようとするのを、中大兄皇子が大刀を取って、入鹿の首を打ち落とした。
すると、その首は飛び上がって、高御座(タカミクラ)の前に参り、「私には何の罪もありません。何事によって殺されるのですか」と申し上げた。
天皇はこの企てを前もって知らされておらず、女帝でもあられるので、恐れられ、高御座の戸を閉じられたので、首は戸に当たって落ちた。

これが、世に知られた乙巳の変(イッシノヘン・大化の改新)の始まりである。
中大兄皇子は二十歳、中臣鎌子が三十二歳の頃の事であった。これによって、天皇家中心の政治が行われ、中臣鎌子に始まる、後の藤原氏台頭の切っ掛けとなった事件でもあったのである。
それにしても、中大兄皇子の脱げた沓を入鹿が蹴飛ばしたりしなければ、このような事件は起きなかったかもしれない。また、その沓が鎌子がいた辺りに飛んで行かなければ、二人の深い主従関係は生れなかったかもしれない。
沓が飛んで行ったのは、たまたまのことなのか。それとも、何らかの意志が働いたのであろうか・・・。

     ☆   ☆   ☆
( 「今昔物語 巻二十二の第一話」を参考にしました。)


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「今昔の人々」 ご案内

2024-11-30 10:32:56 | 今昔の人々

    『 今昔の人々 』 ご案内 


『今昔物語』は、平安時代後期のわが国最大の説話集です。
正確な作者名は不詳ですし、成立年度も同様ですが、収録されている作品から、1120 年から間もない頃に成立したのではないかと推定されます。もっとも、その時に一度に完成したのではなく、数度にわたって完成させていったものと考えられています。

その内容は、天竺・震旦・日本の仏教に関連するものを中心に幅広い伝承や民話や歴史上の事件なども加わっています。多くは、経典をはじめ様々な文献から引用されたものに手を加えた物のようですが、出典が不明な物も少なくありません。
そのボリュームは膨大で、全31巻(うち3巻は欠けている)で、物語の数としては1000話を相当超えています。
当ブログでは、『今昔物語拾い読み』というカテゴリーで、10年近くかかって読み終えたばかりです。

今回、新たに『 今昔の人々 』というカテゴリを開設しましたのは、その膨大な作品の中から、個人的に興味を惹かれた作品をお借りして、その中の登場人物に焦点を当てる形で「小さな作品」を作ってみたいと考えたからです。
この作品集は、若干視点を変えるだけで、「今昔物語」そのものを借用する物になりますが、本来の趣旨を歪めたり、作品その物を傷つけてしまう可能性があることも懸念しております。また、今昔物語の中には、歴史的事実と相違したり、誤訳と思われる部分もありますが、そういう部分も、原則としてそのまま使わせていただくつもりです。
おそらく、学術的には何の意味も無いでしょうが、単なる読み物として、また、今昔物語そのものに興味をお持ちいただく切っ掛けになればと考えております。

拙い作品集になる恐さを感じておりますが、気楽にお楽しみいただければ幸甚です。

         ☆   ☆   ☆

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