雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

一条院の出家 ・ 望月の宴 ( 135 )

2025-02-08 08:02:01 | 望月の宴 ④

     『 一条院の出家 ・ 望月の宴 ( 135 ) 』


帝(一条天皇)は、御気分が悪く堪え難くていらっしゃるにつけても、宮の御前(彰子)をお側からお離しになさろうとしないので、中宮は片時も離れることなく付き添われている。帝は、まことにお苦しそうである。
御譲位は六月十三日である。
十四日からご容態が重くなられる。
若宮(彰子出生の敦成親王)が東宮にお立ちになった。世間の人は驚くこともなく、当然そうなるものと思っていたのだが、帝のご病気の間中、一の宮(定子出生の敦康親王。この時帥宮。)がお側を離れることなく付きっきりで御介抱申し上げていたので、その心中が推察され、おいたわしく、中宮(彰子)も合せる顔がないといったお気持ちでお顔を赤らめていらっしゃる。

一品宮(イッポンノミヤ・脩子内親王。敦康親王の姉。一品は皇族の最高位で、一条天皇の配慮が窺える。)もいろいろとお心を痛められているが、なかでも一の宮の御身がこのようになったことをひとしおお嘆きになっているに違いない。
東宮(敦成親王)の御事などは、中宮は帝のご容態や一の宮の胸中に思いが向かわれていて、まるで念頭にない様子なので、ひたすら殿(道長)があれこれとお忙しく、帝(三条天皇)、東宮、院(一条上皇)のもとに参上して手はずをお決めになられているが、まったく一手に仕切られている様は、信じられないほどのご幸運だと、めでたくお見受けする。

こうしているうちに、院のご容態はいよいよ重くなり、御髪(ミグシ)をお下ろしになられるとて、法性寺座主の院源僧都をお召しになって、出家にあたっての戒律や加護についての御誓言は、とても悲しいなどといった言葉で表すことは出来ない。
中宮は正体を失ったかのように涙にくれていらっしゃる。一の宮、一品宮なども悲痛なお気持ちでいらっしゃる。
こうして、御髪は六月十九日の辰の刻にすべて終えられて、すっかり変ったお姿におなりである。中宮は御涙を堰き止めることが出来ないでいらっしゃるが、その心中は察することが出来よう。

たとえ御法体になられても、御平癒なさるのであればたいそうめでたい御有様で、すばらしい第一の院であられるものを、すでに御存命さえおぼつかなくお見えになるのは悲しい限りである。
「この修法(ズホウ・病気平癒の加持祈祷。)などは、もう止めさせて下され。念仏などを聞かせて欲しい」と仰せになられたが、今はまだ、同じように平癒を願う御祈祷ばかりをお続けになる。

       ☆   ☆   ☆

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今シーズン最強寒波

2025-02-07 19:23:27 | 日々これ好日

    『 今シーズン最強寒波 』

   各地から 大雪の状況が伝えられている
   豪雪地帯も 例年を遙かに上回り
   交通はじめ 生活面の影響は深刻だとか
   ふだんあまり雪を見ない地域でも
   広い範囲で 積雪に見舞われている
   雪を見ることの少ない当地も 
   一時間ほど前から 雪が降り出している
   明朝は 交通機関にも影響が予想される
   くれぐれも ご無理なさらないで下さい

              ☆☆☆

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ともしびの明石大門 ・ 万葉集の風景

2025-02-07 08:00:08 | 万葉集の風景

     『 ともしびの明石大門 ・ 万葉集の風景 』


燈火の 明石大門に 入らむ日や
     漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず

           作者  柿本人麻呂

( 巻3-254 )
    ともしびの あかしおほとに いらむひや
            こぎわかれなむ いえのあたりみず 

意訳 「 灯火がともり始めた 明石海峡に 夕陽が沈んでゆく 大和とも 漕ぎ別れてしまうことになるのだなあ 家の辺りも見えなくなった 」
なお、この意訳では、「燈火」を、「灯火」と受取りましたが、この言葉は「明石にかかる枕詞」でもありますので、まったく意味を持たないと考えると、「入らむ日や」は、沈んでいく夕陽をもっと強く感じ取る歌になるかもしれません。
「漕ぎ別れなむ」も、「大和と別れてきた」と、「今別れようとしている」といった取り方があるようで、比較的分かりやすい歌だと思うのですが、解釈は幾つかあるようです。


* 作者の柿本人麻呂は、万葉集における最高の歌人と言えるでしょう。後世の評価も高く、おそらく、わが国で史上最高の歌人を一人挙げるとすれば、一、二位を争うのではないでしょうか。

* しかし、柿本人麻呂は実に謎の多い人物でもあります。
人麻呂に関する情報は、万葉集に載っている歌や注意書きなどがすべてで、他の文献や正史にはまったく記録がないようです。 
そうした条件下でありながらも、伝えられている情報は少なくありません。

* まず、生年も正しく記録されたものはありませんが、( 660? - 724? ) というものがありますが、おそらく、それほど大きく離れていないのではないでしょうか。
伝えられている歌の多くは、持統天皇時代(在位期間 690 - 697 )を中心としたものですし、その皇子の草壁皇子の舎人であったという説もあるようです。
持統天皇時代前後のかなりの長い期間を、宮廷歌人といった立場で活動したのではないでしょうか。
身分についても、貴族であったという説もあるようですが、五位以上の身分であれば、正史のどこかに記録があるはずですが、全くないようなので、六位以下の中下級の官人、あるいは貴族の舎人といった立場の生涯だったのではないでしょうか。

* 人麻呂には、明石を詠み込んだ歌が幾つかあり、掲題歌もその一つです。
当時、万葉人にとって、明石は、いわゆる畿内の最西端で、船で西に進むときには、異国に入るといった感慨があったのかもしれません。
そして、「大門」というのは「海峡」という意味ですが、まったく個人的な勝手な想像ですが、「大門=大橋」と読み替えますと、万葉時代も現在も変らぬ景色かもしれないと、いっそうこの歌に親しみを感じてしまうのです。

       ☆   ☆   ☆

  

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石破首相 米国へ

2025-02-06 18:55:30 | 日々これ好日

     『 石破首相 米国へ 』

    石破首相が 待望のトランプ大統領との会談に向けて
    米国へ 
    外交経験が 豊かだとは思えないし 
    何かにつけ 安倍元首相と比べられるうえ
    何でもありの トランプ大統領だけに
    荷の重い会談に なるかもしれない
    しかし 一国の首脳同士が 親しいに越したことはないが
    仲良しこよしであることが 絶対条件でもあるまい
    わが国の代表として 真摯な姿を示して下されば
    十分だと思う

                 ☆☆☆

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情報発信の責任 ・ 小さな小さな物語 ( 1851 )

2025-02-06 08:01:10 | 小さな小さな物語 第三十一部

フジテレビに関する事件は、今なお収束の方向が見えていないようです。
外野席の私などは、最初は極めて行儀の悪い一タレントの問題だと思っていたのですが、どうやら、その背景にフジテレビの社員が不愉快な形で関わっていると伝えられ、とんでもないことだと思っていると、この問題を提起した週刊文春の記事に一部誤認があり訂正記事が出されるなど、真相はなかなか複雑そうです。
そして、事件の重点は、完全にフジテレビの経営体制の問題に移った感があります。

やり直し会見とかでは、何と10時間を越えて、延々と質疑応答が続きました。最初の少しばかりは生放送を見ましたが、よくも飽きもせずに続けられたものと、感心と言うより気の毒になってしまいました。
果して、10時間もの質疑応答で、会社側か記者側のどちらかに具体的な成果が合ったのでしょうか。
会見の冒頭で、会社側は社長などの辞任を表明しましたが、おそらく、質疑の論点の一つを前もって消しておこうとの配慮だったのでしょうが、どうやら、会社経営の実権者は社長などではないらしいことがあからさまに発言されることで、効果はなくなってしまった感じでした。

結果としてですが、馬鹿らしいと思うほどの時間を要した原因には、進行の拙さがあり、質問者の節操の無さもあると思うのですが、「問題の当日のことに関して、フジテレビ社員が直接関与していたかどうか」で相当の時間を食っていたようですが、この件に関しては週間文春が誤認があったと訂正していますので、全く無駄な時間を消費したようです。訂正は会見の直前だったようですが、双方がそれを確認しておらず、それ以前の記事をベースで論じ合っていたようなので、ぜひビデオで見直して、質問の拙さ、答弁の拙さを確認して欲しいものです。
せっかくの記録的な時間を掛けた記者会見ですが、回答側に実質的な最高権力者がおらず、質問側の多くが自らが調査した知識がなかったのだとすれば、実りある成果が生れるはずがありません。

知識などと言うものは、所詮、誰かから学んだか、勝手に頂戴したかのどちらかでしょうが、いつの間にか自分自身独自の物のように誤解してしまう部分があります。
また、私などはその典型かもしれませんが、誰かの意見をほんの少しいじっただけで我が物にするなどはよく目にしますが、よほど注意を払わないと下品な意見になってしまいます。
もっと困るのは、悪意で発進された意見を、全く無知なために、あるいは承知の上で拡大させてしまうことで、多くの不幸を生み出しています。
現代は、さしたる知識がなくても、それほどの費用を掛けることもなく、多くの情報を発信することが出来る時代です。しかも、わが国は、無防備と言えるほど法や秩序による規制が希薄です。
その善悪についても様々語られていますが、少なくとも、いくら小さな意見であっても、拡散する可能性のある発信を行う場合には、最低限、自身に恥じないだけの自己規制は必要な気がします。
そうしたことを考えるにつけ、メディアの王様とも言えるテレビ界において、不愉快な事件が発生していることが残念でなりません。

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厳しい寒さが続く

2025-02-05 18:48:23 | 日々これ好日

     『 厳しい寒さが続く 』

    当地も 厳しい寒さに襲われている
    テレビで報じられている 大雪のニュースに比べると
    当地などは 申し訳ないほど穏やかだが
    朝 氷が張り 一日中風が強かった
    湿度は低く 火の元が心配な状態
    週明けの頃まで この状態が続きそうなので
    くれぐれも ご無理なさらないように

                ☆☆☆

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きみは虹を見たか   ご案内

2025-02-05 08:02:18 | きみは虹を見たか

きみは虹を見たか


ご案内

 

子供の目線で書いてみた小説です。全十四回ですが、比較的短い作品ですので、ぜひ、ご一読くださいますよう案内申し上げます。

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極楽往生への道 ・ 今昔の人々

2025-02-04 07:59:08 | 今昔の人々

     『 極楽往生への道 ・ 今昔の人々 』


元興寺(ガンゴウジ・奈良にあった大寺。)に智光と頼光という二人の学僧がいた。
この二人は、長年同じ僧坊に住んで学問を修めていたが、頼光は老境に至るまで怠けていて、学問をすることもなく、物を言うことも少なく、寝てばかりいた。一方、智光の方はたいへん聡明で、熱心に学問に励み、勝れた学僧となった。

やがて、頼光が死んでしまった。
智光はとても嘆いて、「頼光は長年の親友であった。ところが、長年の間、物も言わず、学問をすることもなく、常に寝ていた。死んだ後で、どのような報いを受けているのだろう。善所に生れたのか、悪所に堕ちたのか、どのような果報を受けたのか分らない」と言って、悲しんでいた。
そして、「頼光がどこに生れたのか知りたい」と二、三か月祈念していると、夢の中で頼光のいる所に行った。見れば、そこは、美しく飾り立てられていて、浄土に似ている。
智光は、まさか頼光が浄土に生まれていることなどあるまい、と思いながら頼光に「ここは、どういう所なのだ」と尋ねた。

頼光は、「ここは極楽世界だよ。君がぜひ知りたいと願っているので、私の生れた所を教えてあげたのだ。さあ、君は早く帰りなさい。ここは君がいる所ではないのだから」と言う。
智光は、「私は、常に浄土に生れることを願っている。絶対に帰りたくない」と答えた。
頼光は、「君には、浄土に生れるべき善業(ゼンゴウ)がない。しばらくでもここに留まってはならないのだよ」と言う。
智光は、「君は生前、何の善業も積んでいないはずだ。それなのに、どうしてここに生れたのだ」と尋ねた。
頼光はそれに答えた。「君は知らなかったのか。私は極楽浄土に往生すべき因縁があるから、ここに生れたのだよ。私は、以前に諸々の経論を開き見て、極楽に生れることを願っていた。それを深く思うがゆえに、物を言うことがなかった。四の威儀(ヨッツノイギ・戒律にかなった四種(行・住・坐・臥)の作法。)のうち、ただひたすらに弥陀のお姿と浄土の美しいさまを観想して、他に思いを移すことなく寝ていたのだ。長年のその功徳が積もって、今こうして浄土に生れたのだよ。君は、法文を覚えて、その教義を悟って、知恵明らかではあるが、心は雑念に揺らぎ、善根は非常に少ない。これでは、未だ浄土に生れるだけの善根は積んでいないのだ」と。
智光はそれを聞いて、泣き悲しんで尋ねた。「それでは、どうすれば、確かに往生することが出来るのだろうか」と。
頼光は、「その事については、私では答えることが出来ない。だから、阿弥陀仏にお尋ねなさい」と言って、すぐに智光を連れて阿弥陀仏の御前に参上した。

智光は阿弥陀仏に向かい奉り、手を合わせて礼拝し、「どのような善根を行いましたら、この浄土に生まれることが出来ますでしょうか。ぜひ、それをお教え下さい」と申し上げた。
阿弥陀仏は智光に、「仏の姿、浄土の荘厳を観想するがよい」と仰せられた。
智光は、「この浄土の荘厳は表現しがたく広大無辺で、とても私の心も眼も及ぶものではありません。凡夫の心で、とても観想することは出来ません」と申し上げた。
すると、阿弥陀仏は即座に右手を挙げて、掌の中に小さな浄土を現じなさった、と見たところで、夢から覚めた。
智光は、すぐに絵師を呼んで、夢で見た阿弥陀仏の掌の中の小さな浄土の有様を写させて、一生の間これを観想し続け、智光もまた遂に往生を果したのである。

       ☆   ☆   ☆

      ( 「今昔物語 巻第十五の第一話」を参考にしました )


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トランプ旋風??

2025-02-03 19:13:27 | 日々これ好日

     『 トランプ旋風?? 』

   本日の株式市場 日経平均株価は1000円超の下落
   主因は トランプ大統領による 関税引き上げだ
   今回は カナダ・メキシコ・中国への引き上げだが
   わが国に対して 引き上げがなされた場合は
   どうなるのかな
   トランプ大統領でなくとも 自国第一主義は
   ごく当然の 政策だと思うが
   自国だけが一人勝ちするような 政策などあるのだろうか
   カナダ・メキシコとの 関税引き上げ競争など
   本当に自国の利益に なるのだろうか
   「お手並み拝見」などと のんびりした発言は
   不謹慎なのだろうなあ・・・

                ☆☆☆

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今年の立春は2月3日 ・ 小さな小さな物語 ( 1850 )

2025-02-03 08:00:03 | 小さな小さな物語 第三十一部

厳しい寒波と共に『立春』がやって来ました。
個人的に大好きなフレーズである「暦の上では春ですが・・・」を使い放題ですが、あと数日、地域によっては雪による被害が心配されていますので、くれぐれもご注意下さい。
『立春』は、二十四節気の最初であり、自然の移り変わりということから見れば、一年の始まりとも言えます。八十八夜や二百十日は、立春を基準にして数えられます。
「一年の計は元旦にあり」という言葉があるように、私たちの生活パターンは1月1日を起点にしていますが、熟慮したはずの「一年の計」は、早くも揺らぎ始めています。『立春』は、一回目の微調整を図るチャンスかもしれません。

今年の立春は、本日2月3日ですが、違和感を感じた人もいらっしゃるかもしれません。
と言っても、立春の日がいつかという関心よりも、私たちには「節分」が何日だということの方が関心が強いようで、4年前( 2021 年)に、節分の日が2月2日になった時には、百何年ぶりの珍事だと報じられていました。
立春は節分の翌日ですから、その年の春分が2月3日であったことも珍事のはずですが、あまり報じられませんでした。
参考書によりますと、立春とは、「太陽黄経が315度になった瞬間が属する日」となっています。残念ながら私にはこの意味を解説することが出来ませんが、立春の日が年によって変ることがあるのは、一年がきっちり365日ではなく、閏年だけでも完全に調整出来ないことから不規則な形で変化するようです。
これまでの数十年でいえば、立春の日は2月4日がふつうのように思っていましたが、これからの35年間ばかりは4年に1度程度が2月3日になり、その先はさらにその比率が高まり、今世紀末の頃には3/4程度が2月3日立春になるようです。

私たちは、地球という星に生を受け生かされています。
日の出に感激し、日没に涙し、月の満ち欠けに心情を移入してしまいます。四季に恵まれている私たちは、桜の便りを待ちかね、秋には紅葉を楽しみ、夏や冬の厳しさや、台風や地震など自然災害の恐ろしさに身を震わせます。
私たちを取り巻いている自然の規則正しく、時には荒々しく変化する状況を受け入れながら懸命の日々を過ごしていますが、その一方で、立春の日や節分の日を調整しているような微妙な変化や、この宇宙の遙か彼方で起っている変化や、この地球の変化にさえも感じ取っていないものはたくさんあるような気がします。

電車に乗っていて、駅に少し長い時間止まっている時などに、横の線に止まっていた電車が動き出した時、一瞬、自分の乗っている電車が動き出したのかどうか分らなくなることがあります。自分の乗っている電車が動き出した時でも同様です。
錯覚といえばそうなのでしょうが、さらに言えば、太陽の進行も月の動きも、何も彼らだけが動いているわけではなく、この地球自身も動き続けているのですが、コペルニクスやガリレオに指摘されてもなかなか認めることが出来ず、現在に至っても私たちは実感することが出来ません。
日常生活においても、激しく動き回ったり、主張の激しい人が目立ちがちですが、多くの場合、それらが正しいとは言えない場合が多く、殆ど動くことなく、静観を決めたり堪え忍んでいる姿の奥にこそ真実や正義が秘められていることが多いことを私たちは学ぶ必要があります。
我が県政はズタズタになっていますが、それにつけても、真実とはいわないまでも、事の正否を今少し真剣に見定めようとする努力が必要だと痛感しています。

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