雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

石の上にも三年 ・ 小さな小さな物語 ( 1865 )

2025-03-26 08:01:03 | 小さな小さな物語 第三十二部

江戸時代の庶民生活をテーマにした小説が好きで、よく読ませていただいております。
九尺二間の裏長屋暮らしの人々の生活が舞台になる事が多く、八丁堀の与力や同心、十手持ちの親分やその手先など、長屋の住人には、様々な職人や棒手振、傘張りなどの内職に励む浪人、そして舞台回しに大きな役割を果す元気いっぱいの女将さんたち、そうした人たちの世話役の大家さんは、大体がケチで小うるさく、そのくせほろっとさせるような人情家・・、と言った人たちで、様々な事件が展開していきます。
そうした長屋の住人の職業の中で、飲食店に通う女性は登場しますが、大店に通う男性というのは、まずおりません。

江戸時代には、よろずやはあったようですが、スーパーマーケットはありませんから、小売店の種類は多く、それらに商品を卸す問屋の数も多かったようです。当然そこには、大勢の店員が勤めていましたが、その多くは住み込みで、通勤が許されるのは番頭などかなり上級職の人に限られていて、そうした人は裏長屋に住んだりしなかったようです。
小売商にしろ問屋業にしろ、その店員は、丁稚奉公から勤め上げるのが普通で、中年になって勤めるなどというのは、責任ある仕事を任せてもらえなかったようです。
また、名のある大店となりますと、丁稚として採用されるのは大変難しかったようですし、江戸店以外に本店があるような大店では、丁稚を採用するのも本店のある国から連れてくるようで、よほど身元がしっかりしていなくては採用されなかったようです。
採用される年齢は店ごとに様々のようですが、12歳(数え年)ぐらいが多かったようですが、それからの5,6年くらいは給金はなく、年2回の藪入りの数日以外は休日もなく、時々もらえる小遣いやチップのような物だけの生活のようでした。
その代わり、質素な物ですが衣食住の心配はなく、読み書き算盤なども教えてもらえ、家族同様の身元の保証もなされたようです。
「『石の上にも三年』という言葉もあるように辛くても辛抱するのだよ」と、丁稚奉公に出るまだ幼い少年たちは、親や世話人たちに言われながら故郷を離れて、まだ見ぬ江戸に向かう、と言うシーンもよく登場してきます。

そこで、今回のテーマである「石の上にも三年」という言葉ですが、関西などの「いろはかるた」に使われることもありよく知られていますし、現在でも使われることがあります。
この言葉の意味は、辞書によりますと、「(石の上でも3年続けてすわれば暖まるという意から)辛抱すれば必ず成功するという意」とあります。
この言葉には語源のような逸話もあるらしく、古代インドの修行者が石の上で長い間座禅をして悟りを開いた、と言う物からきているらしいのです。
つまり、本来この言葉は、「辛抱すれば必ず良い事があるよ」と前向きな意味を持っているのですが、小説の中や、日頃の中で使われる場合でも、「三年ぐらいは辛抱しなくてどうするのだ」といった根性論で使われる例によく出会います。
まあ、言葉の意味などは、時代によって変遷して行く面がありますから、余り向きになる必要などありませんが、丁稚奉公に向かう幼い子どもにとっては、「辛抱すれば必ず良い事があるよ」と、「いくら辛くてもじっと辛抱するんだよ」とでは、かなり違うような気がします。

それにしても、石の上に三年すわるというのは、これはなかなか大変なことですよ。
もちろん、この「三年」というのは、正確な期間のことではなく、「長い時間」を指しているのでしょうが、年寄りにとっての三年はあっという間ですが、少年にとっての三年は気が遠くなるような時間かもしれません。
AIが話題になることが多いですが、その性能の根源は半導体の能力でありCPUの演算能力を如何に向上させるかなど世界中が血眼になっています。
こちらは如何に短い時間で一動作が行えるかの競争ですが、古代インド哲学の時間には「劫(コウ)」という単位がありますが、この長さは諸説ありますが、例えば、「一辺4000里(2000kmh位らしい)の大岩に、100年ごとに天女がやってきてその衣で撫で、大岩がすり減って完全になくなっても劫には及ばない」とあります。
私たちは、このような表現しようもないような長い時間と短い時間に包まれて生きています。しかし、現実に意識するのは、あと何分であったり、もう一時間過ぎてしまったなどといった程度で、「来年の話でさえ鬼が笑う」と聞き流されてしまいます。
これをどうとれば良いのか分らないのですが、とりあえずは、一日、一日、ですか・・・。

 

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自分の顔に責任を持てと言われても ・ 小さな小さな物語 ( 1864 )

2025-03-23 08:06:30 | 小さな小さな物語 第三十二部

MLB開幕戦は、予想以上の旋風を巻き起こして去って行きました。
米大リーグがわが国で開幕されるのは久しぶりのことであり、大谷翔平選手という超スーパースターの話題に加えて、ドジャース・カブス両軍合せて五人が所属しており、しかも開幕戦は山本由伸投手と今永昇太投手が先発投手を務め、二戦目には佐々木朗希投手が先発でメジャーデビューを果たしました。大谷翔平選手と鈴木誠也選手は全イニング出場しており、五人それぞれに存在感を示してくれました。
単に五人が所属しているというのではなく、主力選手として評価されていることに、多くのファンは誇らしい気持ちを味わったのではないでしょうか。

入場券の入手が難しかったことは予想されていた通りですが、グッズなどの売り上げ、視聴者数なども記録ずくめだったようです。
テレビ各局は、試合の放映局は勿論のこと、その他の局も工夫を凝らして様々な切り口からエピソードなどを紹介していました。
野球選手が最も輝くのは当然プレー中ですが、エピソードやちょっとしたインタビューの中でも、一流プレーヤーは一味違う表情を見せてくれていました。
これは、プロ野球選手に限ったことではなく、あらゆるスポーツの一流選手に言えることですし、文化人と言われる人や、学者や政治家などでも同様で、本職の舞台以外でのちょっとした発言や表情に、人間性のようなものが垣間見られることは少なくありません。
反対に、本職の舞台上では輝いているかに見えても、その場を離れて油断するわけではないのでしょうが、がっかりさせられる言動や表情を見せる人物も少なくありません。

「人間四十になれば自分の顔に責任持たなければならない」と言った言葉を耳にすることがあります。
かつて私は、この言葉は孔子の「四十にして惑わず」から生れたと思っていました。私は「孔子」をあまり勉強していませんが、「我、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして欲する所に従えども矩を踰(コ)えず」の部分は広く知られています。ただ、「惑わず」と「顔に責任を持つ」は少し意味が違うようです。
どうやら、この言葉は、リンカーンが使った言葉というのが正しいようです。

リンカーンは、第十六代アメリカ大統領ですが、「人民の人民による人民のための統治」という言葉が大変有名です。ただ、この言葉そのものは、リンカーンのオリジナルというわけではないそうです。ある聖書の中にあるものを引用したようです。
それが正しいとすれば、言葉というものは、使われる人によって、使われる場所と時によって、輝きを増し、力強さを増し、長く人々に影響を与えるようです。
「人間四十になれば自分の顔に責任を持て」という言葉は、私にはほろ苦く感じられます。また、四十歳など遙か昔のことになった身としましては、「人間には、五十もあれば、六十もあり、八十なり九十の人から見れば、自分の人生に責任を持つべき顔は、まだまだ先で、百歳であってもまだ足らない」と思うかもしれません。
四十歳を遙か彼方に送り出したご同輩、これからぼつぼつと、「我が人生に責任を持つ顔」づくりに励むとしましょうよ。


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年々歳々花相似たり ・小さな小さな物語 ( 1863 )

2025-03-20 09:10:52 | 小さな小さな物語 第三十二部

今日は春分の日です。
「暑さ寒さも彼岸まで」などという言葉もありますが、当地辺りでは、どうやら今年もこの言葉のような陽気の移り変わりになりそうです。
昨日は、広い地域で雪の便りがあり、それも「便り」などという程度を越えている地域も多く、首都圏も大荒れの天気に見舞われたようです。
当地は、今朝は快晴の夜明けを迎えましたが、庭や公園の芝生にはしっかりと霜が降りており、テレビの天候欄によれば、僅かですが氷点下になっていました。しかし、この寒さは、見事なほどに今日が転換点となり、明日からはどんどん暖かくなっていくようです。

大騒ぎのMLB開幕戦も、多くの感動とエピソードと共に終了しました。
多くの話題が、大谷翔平選手を中心としたこのニュースに乗っ取られていましたが、この春分の日当たりを転換点として少し変化が見られそうです。
海外では、ロシアによるウクライナ侵攻の悲劇は、大きな転換も期待されていましたが、さすがにプーチン大統領は役者が一枚格上のようで、適当にあしらわれているような気さえします。「一部的な停戦」がどの程度意味があるのか分らないのですが、いくら不十分であっても、終結への一つの足がかりになってくれることを祈る思いです。
国内政治を見ますと、「お金、お金」と叫んでいるように見えて、我が愛する国ながら、こちらは「春分の日」程度では何の変化もなさそうです。

その点、自然の流れは、大荒れのような姿を見せながらも、粛々と歩み続けています。
今日一日は、またまだ「大谷サーン」の話題にあふれていますが、ぼつぼつ「桜前線報道」が主役の地位に立ちそうです。
「年々歳々 花相似たり 歳々年々 人同じからず」などと、ちょっとした詩人気取りで、桜を楽しむ季節の登場です。
もっとも、この詩は、中国の唐の時代の人による詩ですから、この詩に詠われている「花」は桃の花かもしれません。
わが国にも「桃の節句」があるように、その花は可憐で美しいものですが、大勢が連れ立って桃の花を愛でるという風習はあまりないようです。
やはり私たちには、この詩は、絢爛豪華でありながらも、潔く散りゆく桜の花に、我が身を少し寄り添って鑑賞したいような気がします。

大自然は悠々としていて、異常季節だ、自然災害だなどと言いながらも、然るべき時には、桜は桜らしく同じ姿を見せますが、それを見る人間の方は、なかなかそうはいかないで、去年一緒に花を愛でた人の姿が今年はなく、自分自身も、一年の衰えを感じながら花の散る姿をかみしめている・・。
しかし、考えてみますと、桜の花とても、昨年と同じということはあり得ません。各地で、衰えを見せている桜の報道もありますし、荒々しい天候に、自らの命と次の世代に繋ぐために賢明に開花に備えている努力があるはずです。
私たちは、見事に咲き誇る桜を見て、「年々歳々 花相似たり 」などと受取るのは人間の横暴のような気がしてしまいます。
明日からは、昼の時間の方が長くなっていきます。昨日までよりも、少し目線を上げて、少し胸を張って、春爛漫を楽しみたいものです。

 

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この国の安泰 ・ 小さな小さな物語 ( 1862 )

2025-03-17 07:59:11 | 小さな小さな物語 第三十二部

ロシア軍によるウクライナ国内への侵攻により始まった戦争は、三年を過ぎて、ようやく停戦への微かな灯火が見え隠れするようになりました。
この戦闘を、軍事作戦とか、侵攻とか、極力「戦争」という言葉を避けているような気がするのですが、辞書などによりますと、「武力による国家間の闘争」と説明されていますから、やはり、この状況は、どのように理由をつけ、どのような説明を展開させようとも、戦争そのものだと思われます。
ロシアの人的・物質的両面の損害は甚大なもののようですが、ウクライナの場合はまさに国家の存亡をかけた戦いになってしまいました。

ロシア軍がウクライナ国内に侵攻とのニュースが流れたときには、数日、あるいは長くても数か月で決着すると述べていた解説者も複数いらっしゃいました。
おそらく、ロシア首脳部もそうした判断のもとで侵攻に踏み切ったのでしょう。これもおそらくですが、ウクライナ軍の反攻がこれほどだとは予測せず、それにも増して、欧米の武器支援がこれほどだとは考えなかったのではないでしょうか。
その結果は、戦いは三年を過ぎ、両国の大きな損害は増え続けています。そして、ウクライナへの支援体制は、揺らぎが見え始めているように見えます。それに加えて、ウクライナ軍の劣勢も伝えられています。現状程度の武器支援を受け続けることが出来るとしても、兵士の損耗をものともしないロシア軍の侵攻が続けば、ウクライナ側のじり貧状態は避けられないかもしれません。
折から、トランプ米大統領が停戦への働きを強めているようですが、プーチン大統領が簡単に自説を放棄するとは思えず、ゼレンスキー大統領への妥協要請が強まるのではないかと懸念されます。

「力による現状変更(国境線)に反対する」という言葉をわが国の政治家から耳にすることがあります。他国に侵略する意志がない以上、これを世界秩序の中心にすえて欲しいと思います。ただ、これは、平和を享受している国の都合、強国に対する牽制、といった気もしないではありません。
国境線の現状維持といっても、国境紛争が起っている地域では、それぞれにそれぞれの言い分が存在しているはずです。今回のロシアのウクライナ侵攻でも、国際的な評価はともかく、ロシアの言い分もきっとあるのでしょう。パレスチナなども同様ですし、何も遠い地域に例を求めなくても、わが国にも国境線を越えられていたり、危機にさらされている地域が存在しています。わが国から見ればとんでもないことですが、相手国はそれなりの理論武装をしていますし、わが国の国力が低下すれば、さらに紛争地域が広まる可能性は否定しきれません。

トランプ米大統領は、関税を武器に多くの国に貿易条件の変更を推し進めています。
貿易の不均衡を是正させるのが目的なのでしょうが、新たに関税を課せられる国としては、「力による現状変更(交易条件)に反対する」と大声を挙げたいところですが、相手が米国となれば、相当の力を有していなければなかなか声を挙げることが出来ません。現在のところ、報復関税を表明しているのは、EU・中国・カナダぐらいで、わが国は、小さな声で「力による現状変更に反対する」とささやく以上のことが出来るのでしょうか。
そして、もし、いずれかの国から武力での侵略を受けた場合、ウクライナのように立ち上がるのでしょうか、「力による現状変更に反対する」と唱え続けるのでしょうか。
そうした危機を避ける手段は、わが国の国力、つまり、経済力・軍事力・外交力・科学力・文化面などのレベルアップ以外はないと思うのですが、思うのは簡単ですが、半歩進めるのも大仕事なのでしょうねぇ。

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字余りの輝き ・ 小さな小さな物語 ( 1861 )

2025-03-14 07:59:53 | 小さな小さな物語 第三十二部

「字余り」って、何とも味のある言葉だと思われませんか。
ご承知の通り、「字余り」とか「字足らず」というのは、俳句や短歌において、規定よりも文字数が多かったり少なかったりするものを指します。
「破調」という言葉もありますが、俳句などにおいては、字余り・字足らずに加えて、切れ目と言葉の意味が一致しない場合も、定型から外れた破調となるようです。
私は、俳句も短歌も本格的に学んだことはありませんが、かつて、先輩に俳句に熱心な人がいて、むりやりに誘われて句会に何度か参加した経験はあります。
きっと私だけではないと思うのですが、俳句の初心者の場合、目にした光景や心に浮かぶ思いなどを表現すること以上に、「5・7・5」と指を折って、字数(正しくは音数)を合せるのに神経を注いでいたような気がします。

俳句の魅力は、僅か「5・7・5」の17文字という制限の中に、季語を詠み込んでピリッとした作品に仕上げることにあると思うのです。
ところが、字余りも字足らずも、季語無しさえもOKだと言うのですから、私の苦労は何だったのかと思うことさえありました。
幾つか例を見てみますと、
 『 かれえだに 烏(カラス)のとまりけり 秋の暮れ 』
 『 芭蕉野分けして 盥(タライ)に雨を 聞く夜かな 』
この二句は、いずれも松尾芭蕉の作品です。それぞれに味があることは認めるとしても、「5・7・5」に苦しむ素人にすれば、「芭蕉が詠んだから俳句になったのだろう」と思ってしまいます。
こんな句もあります。
 『 夜桃林を出て 暁に嵯峨の 桜人 』 (ヨルトウリンヲデテ アカツキニサガノ サクラビト)
これは、与謝蕪村の作品ですが、これなどは漢詩の仲間という気さえしてしますます。

どうも、ぼやきばかりになってしまいましたが、実は、「字余りでなければこの句は輝かない」と思わせる句も数多くあるようです。
幾つか紹介させていただきます。
 『 旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる 』  松尾芭蕉
 『 白梅に 明くる夜ばかりと なりにけり 』 与謝蕪村 辞世の句とされる。
 『 ざぶりざぶり ざぶり雨降る 枯野かな 』 小林一茶
 『 雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る 』 小林一茶
 『 目に青葉 山ほととぎす 初鰹 』     山口素堂 季語が三つ

こうした名句を見ますと、「規則破り」だと声を荒げるのは正しくないように思われます。
もちろん、俳句に限らず、さまざまな芸術やスポーツなどにおいて、規則を守らないことには成立しなくなることがあります。規定をはみ出すにしても許容の限度はあることでしょう。
私たちの日常も全く同様のような気がします。
一言多い人は、嫌がられる場合が多いですが、もしかすると、「字余り」的なヒットを放つかもしれません。
三言も四言も多いさる指導者には世界中が振り回されていますが、もしかすると、大事を成就させてくれるかもしれません。
私たちは、出来る限り、定められたルール内での振る舞いを心がけたいと思いますが、同時に、少々の規格外れを、全く疎外してしまうことも正しくないのかも知れません。字余りの句が、それだからこその輝きを見せることもあるのですから。

 

 

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