あおり運転に関する注目の裁判がありました。
この裁判については、当初から、「危険運転致死傷罪」の適用が可能かどうかという点が、専門家ばかりでなく、一般人からも様々な意見が出されていました。
「加害者が車を運転していない状態の時の事故について『危険運転致死傷罪』を適用させるのには無理がある」というもの。「いや、車を動かせている時だけを『運転』と考える方がおかしい」というもの。あるいは、「そもそも、これは事件であって、事故と考えることがおかしい。高速道路上、あるいは車が関わっての事件であって、『殺人罪』を適用すべきだった」というものなど、法律専門家の間でも相当な見解の差があったようです。
法律は、わが国ばかりでなく、法治国家とされているような国家においては、多くの法令などによって、日常生活の細部にまでも規定が定められているように感じることもありますが、実際は、法令では束縛できない部分が数多くあり、法令の網がかかっている分野であっても、抜け道が四方八方に張り巡らされているらしいことは、時々目にすることです。
それに、厳格な法律といっても、例えば「殺人罪」であっても、その罪状で有罪とされた場合でも、その法定刑は「死刑、無期または5年以上の懲役」となっています。その適用は、ただ一つではなく、言葉として適正かどうか分からないのですが、許容範囲が定められているのです。
私たちの周囲にあるもので、きっちりと定められているように見えるものであっても、それぞれに誤差があるものです。たとえば、100mの距離を測った場合、理論上は簡単に測れるとしても、出発点の目印、到着店の目印を何かで付けるとすれば、その部分で何らかの誤差が発生するはずです。
自動車部品や精密機器の部品などの工業製品においても、厳しい規格が求められる一方で、必ずいくばくかの誤差が定められているものです。最近、わが国を代表するような企業において、規格の精度をごまかすような事例が出ていることは残念ですが、厳しい規格が求められる製品であればあるほど、その個々の部品に対しては、必ず誤差が準備されているものなのです。
私たちの日常についても同様で、多くの場合においては、誤差が必要とされているものです。通常私たちは、それを許容範囲と呼ぶ場合が多いようですが、スムーズな人間関係、穏やかな人間関係の醸成には許容範囲を必要としているものです。
許容範囲という言葉には、どこか上から目線的な雰囲気もありますが、そうではなく、人間関係の潤滑油的な役割の大きな要因の一つだと思われます。
許容範囲は、大きければ大きいほど良いというものではありませんが、出来得れば、他人には大きく自分には小さくあるように心がけたいとは思っています。
( 2018.12.16 )
この裁判については、当初から、「危険運転致死傷罪」の適用が可能かどうかという点が、専門家ばかりでなく、一般人からも様々な意見が出されていました。
「加害者が車を運転していない状態の時の事故について『危険運転致死傷罪』を適用させるのには無理がある」というもの。「いや、車を動かせている時だけを『運転』と考える方がおかしい」というもの。あるいは、「そもそも、これは事件であって、事故と考えることがおかしい。高速道路上、あるいは車が関わっての事件であって、『殺人罪』を適用すべきだった」というものなど、法律専門家の間でも相当な見解の差があったようです。
法律は、わが国ばかりでなく、法治国家とされているような国家においては、多くの法令などによって、日常生活の細部にまでも規定が定められているように感じることもありますが、実際は、法令では束縛できない部分が数多くあり、法令の網がかかっている分野であっても、抜け道が四方八方に張り巡らされているらしいことは、時々目にすることです。
それに、厳格な法律といっても、例えば「殺人罪」であっても、その罪状で有罪とされた場合でも、その法定刑は「死刑、無期または5年以上の懲役」となっています。その適用は、ただ一つではなく、言葉として適正かどうか分からないのですが、許容範囲が定められているのです。
私たちの周囲にあるもので、きっちりと定められているように見えるものであっても、それぞれに誤差があるものです。たとえば、100mの距離を測った場合、理論上は簡単に測れるとしても、出発点の目印、到着店の目印を何かで付けるとすれば、その部分で何らかの誤差が発生するはずです。
自動車部品や精密機器の部品などの工業製品においても、厳しい規格が求められる一方で、必ずいくばくかの誤差が定められているものです。最近、わが国を代表するような企業において、規格の精度をごまかすような事例が出ていることは残念ですが、厳しい規格が求められる製品であればあるほど、その個々の部品に対しては、必ず誤差が準備されているものなのです。
私たちの日常についても同様で、多くの場合においては、誤差が必要とされているものです。通常私たちは、それを許容範囲と呼ぶ場合が多いようですが、スムーズな人間関係、穏やかな人間関係の醸成には許容範囲を必要としているものです。
許容範囲という言葉には、どこか上から目線的な雰囲気もありますが、そうではなく、人間関係の潤滑油的な役割の大きな要因の一つだと思われます。
許容範囲は、大きければ大きいほど良いというものではありませんが、出来得れば、他人には大きく自分には小さくあるように心がけたいとは思っています。
( 2018.12.16 )