雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

誤差の範囲 ・ 小さな小さな物語 ( 1149 )

2019-05-30 14:40:09 | 小さな小さな物語 第二十部
あおり運転に関する注目の裁判がありました。
この裁判については、当初から、「危険運転致死傷罪」の適用が可能かどうかという点が、専門家ばかりでなく、一般人からも様々な意見が出されていました。
「加害者が車を運転していない状態の時の事故について『危険運転致死傷罪』を適用させるのには無理がある」というもの。「いや、車を動かせている時だけを『運転』と考える方がおかしい」というもの。あるいは、「そもそも、これは事件であって、事故と考えることがおかしい。高速道路上、あるいは車が関わっての事件であって、『殺人罪』を適用すべきだった」というものなど、法律専門家の間でも相当な見解の差があったようです。

法律は、わが国ばかりでなく、法治国家とされているような国家においては、多くの法令などによって、日常生活の細部にまでも規定が定められているように感じることもありますが、実際は、法令では束縛できない部分が数多くあり、法令の網がかかっている分野であっても、抜け道が四方八方に張り巡らされているらしいことは、時々目にすることです。
それに、厳格な法律といっても、例えば「殺人罪」であっても、その罪状で有罪とされた場合でも、その法定刑は「死刑、無期または5年以上の懲役」となっています。その適用は、ただ一つではなく、言葉として適正かどうか分からないのですが、許容範囲が定められているのです。

私たちの周囲にあるもので、きっちりと定められているように見えるものであっても、それぞれに誤差があるものです。たとえば、100mの距離を測った場合、理論上は簡単に測れるとしても、出発点の目印、到着店の目印を何かで付けるとすれば、その部分で何らかの誤差が発生するはずです。
自動車部品や精密機器の部品などの工業製品においても、厳しい規格が求められる一方で、必ずいくばくかの誤差が定められているものです。最近、わが国を代表するような企業において、規格の精度をごまかすような事例が出ていることは残念ですが、厳しい規格が求められる製品であればあるほど、その個々の部品に対しては、必ず誤差が準備されているものなのです。

私たちの日常についても同様で、多くの場合においては、誤差が必要とされているものです。通常私たちは、それを許容範囲と呼ぶ場合が多いようですが、スムーズな人間関係、穏やかな人間関係の醸成には許容範囲を必要としているものです。
許容範囲という言葉には、どこか上から目線的な雰囲気もありますが、そうではなく、人間関係の潤滑油的な役割の大きな要因の一つだと思われます。
許容範囲は、大きければ大きいほど良いというものではありませんが、出来得れば、他人には大きく自分には小さくあるように心がけたいとは思っています。

( 2018.12.16 )
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危険がいっぱい ・ 小さな小さな物語 ( 1150 )

2019-05-30 14:35:52 | 小さな小さな物語 第二十部
北海道札幌市の爆発事故の報道されている映像は、実に凄まじいものです。
インタビューを受けた人の中には、「ミサイルが着弾したのかと思った」と答えている人がいました。ミサイルが着弾したのを経験したことがある人は少ないと思うのですが、事故現場だけをみる限り、戦乱地区の報道映像を越えるほどの凄まじさに見えます。
これほどの大事故でありながら、死者が出なかったことは不幸中の幸いともいえますが、その原因の一つは、現場となった建物が、古い木造建物であったことが幸いしたようです。
そうとはいえ、多くの人が負傷しており、壊滅的な被害を受けた建物は2~3軒のようですが、窓ガラスが破損したり壁や車に被害を受けた地域は相当広範囲にわたっているようです。

爆発事故の原因は、どうやらスプレー缶の処理らしいという情報に驚いたのですが、その後の情報によれば、およそ常識外れと言いたいような処理を行っていたためのようなので、少しばかり納得しました。
ガスコンロ用の小さなボンベがありますが、今回の場合は消臭用のスプレー缶らしいのですが、殺虫剤や化粧品など結構この手の製品は一般家庭に出回っています。今回のように、100本ものスプレー缶を保管してる家庭はめったにないでしょうが、数本であればほとんどの家庭にあることでしょう。たいていの人は、使用中はともかく、廃棄の段階では、それなりの注意は払っているようです。
ただ、残量の確認方法や、廃棄の段階で缶に穴を開けるか否かについてさえ、行政や製造業者間などで統一されていないようですから、危険に対して鈍感ということではないでしょうか。

しかし、考えて見れば、私たちの周囲には危険がいっぱいです。
横断歩道を歩いていても、事故に遭う人がいます。車を運転すれば、いくら熟練していても、いくら注意を払っていても、事故を起こす可能性は皆無ではありませんし、最近幸いにも表面化してきていますが、悪質な運転マナーの持ち主も少なくありません。
道路わきの壁が倒れてきたり、建物の階上から自転車が降ってきたという事件もありました。
それでは、家で布団をかぶって寝ていればよいかと言えば、地震などには無防備ですし、自動車が飛び込んでくるかもしれません。

何かの笑い話に、「天が落ちてくるのではないか」と心配する人も登場するようですから、人間の不安心理は底なしのようです。
地震国であるわが国の場合、その方面の研究は必要なのでしょうが、私が記憶している限り、予想が当たったという覚えが有りません。火山爆発などは相当詳しいデーターが取れるようですし、台風予想などは格段の進歩を示しています。
しかし、私たち自身が犯す、うっかりとしたミスや不注意は、防ぐことはなかなか難しいようです。スプレー缶の取り扱いなどはもう少し丁寧に危険周知させる必要があるのでしょうが、日用品で危険なも物はスプレー缶に限ったことではないと思うのです。
くどくど書けば切りがないのですが、要は、私たちの周囲には危険なものに溢れているということは確かだと思うのです。
しかし、考えてみれば、私たちはプレートがぶつかり合っている頂点であり火山列島でもある所に住んでいるのですから、少々の危険などはどっしりと受け止めればいいのかもしれません。ただ、自分が危険の発信元にならないようには、十分な注意を心がけたいものです。

( 2018.12.19 )
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彼は何を見ているのだろう ・ 小さな小さな物語 ( 1151 )

2019-05-30 14:14:27 | 小さな小さな物語 第二十部
当地は、ノラネコの保護に手厚い地域で、市の支援もありボランティアの方々が様々な活動をしているようです。
わが家に出入りしていたノラネコのうち、まだ小さい時からやって来ていたクロネコ君は地域ネコと認定(?)されたのを機に、食事と寝床の世話をさせていただいています。トイレは、以前から庭の2~3か所を我が物顔に使ってくれています。
テラスに冬の寒さをしのげるように住処を整え、一日三食以上の食事を準備し、大騒ぎしています。
おかけで、時々のパトロール以外は、テラスや住処で寝るか庭を走り回っています。

ところで、このクロネコ君、時々、身じろぎもしないで、じっと一点を見つめているとがあります。たいていは遠くを見ています。空ではなく、地面ではなく、でも、遠い遠い彼方を見つめている感じです。
ネコを飼っていたり、興味がある人のうちの多くの人が経験していると思うのですが、わが家のクロネコ君に限らず、ネコにはそのような性質があるようです。何かの物音や、遠くに鳥がとまっている時などもそのような姿を見せますが、そうではなく、いくら視線の先を見回してみても、該当するようなものもないのに、じっと見ていることがあるのです。
いったい、彼は何を見ているのでしょうか。

クロネコ君の表情からは、ぼんやりと見ているという感じはしません。明らかに、何かを見つめていると伝わってくるのです。
具体的な何かなのか、もっと精神的な何かなのか、次元を超えた向こうに存在しているものなのか・・・、
いずれにしても、私には見えない何かを見つめていると思わざるを得ないのです。
それが何なのか、とても興味があります。
努力すれば見ることが出来るものなのか、見えないまでも感じ取れるものなのか、あるいは、見ることに意味があるのか否か・・・。
やはり、出来ることがあるとすれば、不思議な縁でお近づきになったクロネコ君に、少しでも気に入ってもらえるようにお世話させていただくことだけなのかもしれません。

私たちは、見えないものがあると、つい見たくなってしまいます。
また、見えるものは存在しており、見えないものは存在していないと思う傾向は、かなり強いように思われます。
しかし、私たちが見ているものなど、存在しているもののごく僅かなのかもしれませんし、見えていると思っているものも、真実の姿を見ているとは限らないのかもしれません。
私たちは、自分に見えているものは信用し、見えていないものは疑ってしまう傾向があるように思うのです。でも、見えているものは、案外、人様々なのかもしれません。自分に見えているからといって、それを真実、あるいは正義として押し通すのは、必ずしも正しいことではないような気がするのです。私たちは、ネコ君が見ているものさえ、見つけることが出来ないのですから。

( 2018.12.22 )
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「平和」を叫ぶのは簡単だが ・ 小さな小さな物語 ( 1152 )

2019-05-30 14:12:31 | 小さな小さな物語 第二十部
天皇として最後の誕生日の会見に、大変な感銘を受けました。 
その内容について云々することは、あまりにも畏れ多いことではありますが、多くのテーマについて懇切丁寧に述べておられ、しかも、時には声を詰まらせられて、感情を抑えきれないようなお姿には、テレビを通してのことですが、見させていただいている私などでも、次々と光景が浮かんできて、大きな感激を受けました。

中でも、『 平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。』というお言葉には、強い衝撃を受けました。
平成という時代が検証されるのは、もっと先になってからであるべきだとは思うのですが、自然災害が多く発生しており、社会を揺るがすような犯罪も幾つかありました。近隣諸国との軋轢も、私などが承知しているよりはるかに深刻な場面も数多くあったのではないでしょうか。自衛隊の海外派遣などを巡っても、戦乱に巻き込まれる危険と、国際社会の一員として責任を果たすこととの、厳しいせめぎ合いがあったはずです。
そうした中で、わが国は、平成という30年にわたる期間を、戦争のない時代として凌ぎ切ったのです。
天皇のお言葉に、限りない重さを感じるのです。

「平和」について語る人は大勢います。声高に叫ぶ人も少なくありません。
しかし、「平成が戦争のない時代」であれと、真剣に願い、祈り、行動した人は、わが国にどれほどの人がいるのでしょうか。
もちろん、戦争を願う人など、わが国では極めて少数派だと信じたいのですが、主義主張や、経済的あるいは精神的な利益のために行動することが、私たちの人生観の中核を成すようになってしまっているのではないでしょうか。
つまり、わが国が戦争状態に入ることなど思考の中に含まれておらず、時々平和について叫ぶ程度で平和は保てるものと考えているのではないでしょうか。

第二次世界大戦において壊滅的な敗北を喫したわが国。その時、今上天皇は「敗戦国の皇太子」であったわけです。それがどういうお立ち場であるかを私たちの誰もがうかがい知ることは不可能でしょうが、「平和を懸命に祈る」天皇を私たち国民は戴くことが出来ていたことを、率直に感謝すべきだと思うのです。
そして、その祈りに対して私たちは何ができるのか。残念ながら私には見えないのですが、「平和平和と叫ぶだけでは保てるものではない」ことだけは確かなような気がしています。

( 2018.12.25 )
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正当な評価を ・ 小さな小さな物語 ( 1153 )

2019-05-30 14:10:29 | 小さな小さな物語 第二十部
今年も残り少なくなってきました。
すでに、学校はほぼすべてが冬休みに入っているでしょうし、会社などに勤務の方も、流通関係や保安などにあたられる業務の方以外は、今日あたりが仕事納めではないでしょうか。
年の瀬といっても、旅行や帰省を計画している人にとっては、交通の混雑が懸念されるところですが、一般家庭においては、年末の行事や新年の準備などは一昔前とは相当変わってきているようです。

スーパーや市場などの混雑は、一部ではすでに始まっているようですが、例えば、お節料理などは、出来上がった物を買うのが主流になっているようで、自宅で手作りしているという家庭においても、その多くの物は単品として完成している物を買ってくるものがかなりのウエイトを占めているようです。
また、それこそ一昔前は、おせち料理などを作っておかなければ、正月三が日あたりは商店の多くが休んでいたため、買い物に不便するという一面もありました。
しかし、スーパーやコンビニなどの増加と共に、家庭での食生活においては、買いだめしておく必要性などほとんどなくなってしまいました。年越しそばやお節料理などは、貴重な風習としてのみその意義があるように思われます。

ところが、今年の年の瀬から正月にかけては、流通関係の営業形態に少し変化が見え始めているような気がします。
年末ぎりぎりまで掛け金の集金などに走り回るのは、それこそ一昔より相当以前に姿を消しておりますが、この正月には、元旦、あるいは三が日の間の営業を縮小させている商店などがかなり増える気配です。
宅配業者を中心とした流通関係に携わる人の労働環境の問題点がクローズアップされてきたからです。
おそらく来年は、介護関係、医療関係、もしかすると教育関係者の労働環境に焦点が当てられる気配が感じられます。

平成という時代はやがて幕を閉じ、次の元号の時代となりますが、その新しい元号の時代は、過酷な状況にある労働分野に大きな変化がもたらされるような予感があります。
一種の聖職的な一面を持つ職業に対して、私たちは、過剰な負担を負わせることによって、社会全体の平衡を保ってきた部分があるように思えてならないのです。人手不足だから外国から労働の担い手を受け入れる、という考え方も必要だと思うのですが、その必要とされる職種の多くは、私たち日本人があまり喜ばない環境の職種を受け持たせようという魂胆が透けて見えるような気がしてならないのです。しかも、低賃金で。
先日の、天皇誕生日の天皇のお言葉の中にありました、「外国の人を受け入れること」に関する部分を、私たちは肝に銘じる必要があるように思うのです。
そして何よりも、過酷な労働環境とされるサービスを受ける場合の私たち一人一人の考え方を、もう一度謙虚に学び直す必要があるように思うのです。一部の職種の犠牲によって成り立っているような社会が、豊かで優しい社会であるはずなどないのですから。

( 2018.12.28 )
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変わるもの変わらないもの ・ 小さな小さな物語 ( 1154 )

2019-05-30 14:08:46 | 小さな小さな物語 第二十部
毎年言っているような気がするのですが、早いもので、今年も終わろうとしています。
この一年に起こった出来事については、テレビ各局が詳しく教えてくれています。振り返って見てみれば、「とても信じられない」とか、「よくも堪えられたものだ」とか、「今なお許せない」といった厳しく悲しい事件も少なくなかったと思うのですが、時の流れは、時には緩急を見せながらも一瞬も止まることなく流れ続け、いつの間にか過去のものとなりつつあります。

事件というほどの出来事でなくても、何か普通とは違う場面に出会うと、私たちは無意識のうちに立ち止り、息を止め、現状を維持しようとするようです。
物事に対して、積極的な思考を持っ入る人と、消極的に考えがちの人がいることは確かですが、瞬間的には、私たちは肉体的にも精神的にも防衛本能のようなものが支配し、攻撃、あるいは逃避に移るのはその後のことのように思われます。つまり、私たちの思考の原点は現状維持にあり、その次に実行する攻撃であれ逃避であれ、それはやむを得ず行う手段であって、本当の狙いは、現状維持なのではないでしょうか。

少々理屈っぽくなりましたが、私たちには自分を取り巻く環境を変えることにとても臆病な一面を持っているように思うのです。
わが国では、様々な場面で変化を強調するのを見ますが、それは、変化を望まない人が圧倒的に多い証でもあるように思うのです。
私たちは、常に変化していく環境に身を置いており、それが幸せな状態であればあるほど、いつかは変化し終焉に至るものだということに脅えを感じていて、無意識のうちに変化に対して抵抗しようとするスイッチが入るようになっているように思えてならないのです。

変わるものと変わらないもの、私たちはそうしたものが入り組んで存在しているように感じてしまうのですが、実は私たちは、変わらないものなど一つとして存在していないことを承知していながら、何とかその真実には触れないようにして、大切なものは変わらないものと自分自身に納得させ、懸命の日を重ねているような気もするのです。
しかし、年の瀬にあたって、この一年を振り返ってみると、ゆったりとしたと思っていた日々が、驚くほどの変化の日々であったことが思い知らされます。
それだからこそ、私たちは、私たちにとって大切なものを守ろうとしているのではないでしょうか。そこには、矛盾があり、思いのままにいかない恨みがあり、愛する者への執着は膨らむばかりです。
まあ、それもこれも、先人が残してくれた知恵をお借りして、除夜の鐘などきいてこの一年の煩悩を洗い流すことにして、新しい一年も、「変わらないもの」を大切にすべく尽くすための禊とするとしますか。
どうぞ、新しい年が皆様方にとって良いお年でありますよう祈念申し上げます。

( 2018.12.31 )

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一年の計 ・ 小さな小さな物語 ( 1155 )

2019-05-30 14:06:59 | 小さな小さな物語 第二十部
「一年の計は元旦にあり」
言い古された言葉ですが、それでもやはり、お正月は将来を見つめてみようという思いを抱かせてくれます。私の場合、個人的な理由もあって、一月三日という日に、「一年の計」というほど大したものではないのですが、幾つかのことに関して、大まかな目標を掲げるようにしています。
ずっと以前には、もっと具体性のある計画を考えたこともあるのですが、次第に柔軟性を増し、言い換えればいい加減になり、ぼんやりと将来像を描く程度になってしまいましたが、それでも、この日は、ほんの少しばかり立ち止まるのが習慣になっています。

「一年の計」というほどのことではなく、計画や予定を立てることは、ほとんどの人がするもののようです。
例えば、小学生なども、夏休みが始まる頃には、それなりの計画を立てるものではないでしょうか。八月末までが夏休みだとすれば、七月十五日までに宿題を全部終わらせる。できれば絵日記も全部終わらせる・・・、などと計画を立てた記憶が私自身にもありますが、一度も計画通りいった記憶がありません。
しかし、私たちの行動の多くは、とっさの判断を求められるもの以外は、何らかの計画、あるいは予測に基づいて行動していると思われます。その多くは、習慣のようなものもあり、あるいは本能的なもののように感じられるものもあります。もしかすると私たちは、一寸先から、遥か久遠の彼方までについて、計画とは言わないまでも、予測なり想像なりすることによって、身体や精神を働かせることが出来るようになっているのかもしれない、とも思うのです。

ところで、計画を立てるというのは、人間独自のものなのでしょうか。上記したような、一寸先から久遠の彼方までの行動を支配するものとなれば、これは計画というより本能の分野のような気もしますので、他の動物なども有しているような気がします。
しかし、一日とか、一ヶ月とか、ある期間を定めて計画を立てるということになると、否定的な気持ちになってしまいます。かと言って、わが家を根城にしているクロネコ君が、朝住みついてくれている小屋から起き出してきて、朝食を食べるとパトロールに出掛け、一時間ほどすると帰ってきて、わが家のテラスや庭で好き勝手に過ごし、昼食を待ち、それが住むとまたお出かけするも、夕食を忘れることなどまずありません。あの行動は、単なる本能とはとても思えないのですが、本当はどうなのでしょうか。

ある先輩がこんな話をしてくれたことがありました。
「計画は緻密なほどよい。しかし、結果の検討は甘めがよろしい」と言うのです。
その心は、「簡単に達成できる計画など、わざわざ立てるほどのこともない。かと言って、計画が達成できないことを自責しすぎると、計画を立てるのが嫌になってしまう」からだそうです。第一、どんなに立派な計画を立て、懸命に努力をしたとしても、大災害などに遭遇すれば、計画など霧消してしまうからだ、とも言うのです。
この教えを忠実に守っているためか、およそ私の計画ですべて達成したことなどほとんどありません。その代わり、未達成で落ち込むこともありません。
さて、「一年の計」でも立てるとしますか。

( 2019.01.03 )
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許容範囲 ・ 小さな小さな物語 ( 1156 )

2019-05-30 14:05:41 | 小さな小さな物語 第二十部
今年の箱根駅伝は、東海大の総合初優勝で幕を閉じました。
最終結果は、優勝の東海大と二位の青学大との差は3分41秒あり、大差と表現できるような快勝に見えます。しかし、往路優勝は東洋大であり、復路優勝は青学大であることを考えれば、大接戦であったことがよく分かります。
箱根駅伝の場合、20km以上の距離で戦える選手を最低10人は必要なわけで、実際にこの戦いに出場するほどのチームとなれば、そのレベルの選手が20人程度は必要でしょうし、激しい練習の中では負傷者も出るでしょうし、体調や精神面などからくる好不調の並みもあるでしょうから、実際の出場メンバーが走るまでの戦いも、激しいものがあるのでしょう。

連続優勝を逃した青学大の監督が、「力負けではなく、采配ミスだった」と発言されていました。
この采配というのは、各コースのペース配分の指示などもあるのでしょうが、主には、選手起用面での采配ではないでしょうか。あるいは、レース当日のチーム力を最大値に導くためのコンディション作りなど、実際に走っている場面以外の戦いも大きなウェイトを占めているような気がします。
例えば、こういう意見を述べている人もいました。。練習時に安定して好タイムを出している経験の浅い選手をどの区間で使うか、というのは監督としては難しい決断を迫られるというのです。距離の長いエース区間で使いたい誘惑にかられるそうですが、他校の経験豊かなエース級の選手と競った場合、潰される可能性も高いそうです。しかし、成功した場合、自チームのエースをライバル校が弱そうな区間に投入できることになり、断然有利な展開がなされるそうです。

箱根に限らず、駅伝という競技においては、何人もの選手が長い距離を走るわけですから、全員が最高のパフォーマンスを発揮することは難しいといえます。ある程度のロスは覚悟しなければならない競技なのかもしれません。
おそらく各チームの監督は、各選手には最高のパフォーマンスを求めながらも、心の内では、それぞれの選手について若干のロス、つまり許容範囲を計算しているのではないでしょうか。そして、その許容範囲を余裕をもって設定できるチームが強いチームといえるのではないでしょうか。

さて、私たちの生活においても、様々なものに対して許容範囲を設定しているのではないでしょうか。意識的に、あるいは計画的に許容範囲を設定しているもののようです。そして、その許容範囲の有無、あるいは大きさが、余裕の尺度ではないでしょうか。
その許容範囲というものは、決して物質的なものばかりでなく、精神的なもの、目に見えないものなどにも存在していて、そういったものの許容範囲こそが優しさであり、品格に大きな影響を与えているように思うのてす。

( 2019.01.06 )
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日本の真ん中 ・ 小さな小さな物語 ( 1157 )

2019-05-30 14:03:18 | 小さな小さな物語 第二十部
たまたまですが、「日本の真ん中は我が町だ」といった記事を見る機会がありました。
兵庫県に住んでいる私などは、まず「子午線」の存在が意識され、わが国の標準時の基線となっている東経135度線が通っている「明石市」が浮かびます。
もっとも、東経135度線は、当然のことながら点ではなく線ですから、その線が引かれる市町村は沢山あるわけですから、この経線を理由に「日本の真ん中」を主張する所がたくさん出てきても不思議はないわけです。
中でも、「西脇市」には、北緯35度線も通っていることもあって、「日本のへそ」であることを高らかに唱っており、その名前の公園ばかりでなく、JR西日本の駅さえあります。

因みに、東経***度00分、ならびに北緯**度00分の線が交わっている地点は、全国に40地点もあるそうで、それに基づいて日本の真ん中を主張している都市もあるようです。
また、東京都の日本橋は、五街道の基点であることや、永田町は政治の中心地だということから、「日本の真ん中」を唱える向きもあるようです。
この他にも、人口の分布から見た場合、わが国の領土が全て入る円を描いた場合の中心に当たるなど、様々な根拠から「日本の真ん中」を主張する市町村は30に及ぶそうです。
それぞれに、知恵を絞った根拠に基づいているわけですから、いずれも正しく、どれか一つを正解とする方が無理があるようです。
ただ、町おこしや、観光資源としての価値は、よほど工夫を計らないと、「日本の最北端」「日本の最南端」などといった、「端っこ」を訴えたキャッチコピーの方が有力とも言われています。

まあ、「住めば都」という言葉がありますように、日頃は不満ばかり言っていても、自分の住んでいる町を悪く言われるのはあまり良い気はしません。
年末年始、気候も決して快適とはいえない季節、道路は混雑、乗物は乗車券を確保するのが大変といった中で、年末年始の休暇があるとはいえ、あれだけ大勢の人々がふるさとへ向かうのは、両親などと会う楽しみもさることながら、生まれ育った町、ふるさと、といったものに、何物にも代えがたい郷愁があるのではないでしょうか。

自分が住んでいる町が、「日本の真ん中」だと本気で考えている人は、全人口のうちのごくごく限られた人だと思うのですが、住み慣れた自分の町を、「そう悪くはない」と思っている人は意外に多いのではないでしょうか。
住民サービスが悪いとか、交通の便が悪いとか、治安が悪くなってきたとか、不満な所を数え上げればきりがないほどあるとしても、それでもなお、「まあ、不満を言い出せばきりがないからなあ」と、自分を納得させつつ住んでいるつもりの人の多くが、その街を悪く言われると腹を立てるのではないでしょうか。
案外、私たち一人一人にとっては、自分の住んでいる町が、都とは言わないまでも、わが国の中心地に近いような錯覚を描いているのではないでしょうか。
そして、そうした錯覚があるからこそ、私たちは自分の生きる場所を見つけ出す可能性を秘めているような気がするのです。

( 2019.01.09 )
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全力疾走 ・ 小さな小さな物語 ( 1158 )

2019-05-30 14:01:56 | 小さな小さな物語 第二十部
西宮神社(兵庫県)で行われている、恒例の十日えびすの参拝一番乗りを競う「開門神事 福男選び」は、今年は広島県福山市の消防士の方が参道をトップで駆け抜け見事「一番福」を獲得しました。
狭い参道を大勢の人が駆け抜ける様子は、雄々しい光景ともいえますが、滑稽という感じもしないわけではありません。しかし、この行事は、神事として江戸時代に始まったとされる由緒あるもので、今年は五千人もの人が参加したそうです。
もっとも、スタート順は抽選によってグループ化されるので、まずスタート順がトップグループに入る幸運を引き寄せないことには、一番福を獲得するなんて不可能だと言えましょう。

この一番福を競うレースは、表大門から本殿までの参道を駆け抜けるものですが、その距離はおよそ230mあるそうです。開門と同時にいっせいに駆け出すわけですが、当然全員が全力疾走しているように見えますが、実際は、その間では微妙なあるいは巧みな作戦や駆け引きが行われていたと考えられます。
オリンピックの陸上競技では100mが最短距離ですが、その競技であっても、後半で失速する選手は多数あるわけですから、当然ペース配分や競争相手との駆け引きもあると考えられます。それが、230mの距離ともなれば、しかも、トラックとは全く違うタフなコースですから、それ以上の作戦が必要とも考えられます。
現に、上位に入った人などは事前にコースを下見していたようです。つまり、全力疾走すればよいというものではないのです。

距離の長いレースとなれば、さらにペース配分や作戦の重要性が増すと考えられます。
箱根駅伝などを見ていましても、勝敗を左右する要因は、各選手の脚力の差だけではないことがよく分かります。出場選手の持ちタイムが示されますが、もちろんそれはトラックでのタイムでしょうから、ロードと差があると考えられますが、ある程度実力を示していると思うのですが、いざレースとなれば、思うようにはいかないようです。
箱根駅伝の場合、全コースが20kmを超えているわけですから、最初から最後まで全力疾走することなど出来るものではありません。たとえば、100の力を擁している選手が、前半に60の力を使ってしまえば、後半には40しか残っていないことになります。かといって、前半を40で走った場合、後半に60の力を発揮できるという保証はありません。さらに難しいことは、100の力の選手が必ず100の走りが出来るかどうかは分からず、90かも知れないし、反対にとんでもない記録を出す可能性もないわけではありません。
そうした様々な要因や作戦なども踏まえて、どこで全力疾走をするかということは、短距離レース、長距離レースに関わらず重要なようです。

さて、私たちの日常生活においても、ペース配分は必要なようです。
仕事の面であっても、私生活の面であっても、常に全力疾走できるものではありません。
人生となれば長すぎるといいますか、漠然過ぎるように思われますので別の機会に譲るとしまして、一年とか、ひと月とか、あるいは一日単位においても、それなりのペース配分は必要であって、全力疾走すべきチャンス、隠忍自重すべき時、より積極的に休むべき時もあるように思われます。
今年もはや十日余りが過ぎてしまいました。スロースタートをし、今なおスローの状態ですが、全力疾走はともかく、ぼつぼつスピードを上げなくてはならないのではないかと、反省だけはしています。

( 2019.01.12 )
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