雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

地獄を見てきた男 ・ 今昔物語 ( 20 - 16 )

2024-09-08 13:04:27 | 今昔物語拾い読み ・ その5

    『 地獄を見てきた男 ・ 今昔物語 ( 20 - 16 ) 』


今は昔、
文武天皇の御代に、膳広国(カシワデノヒロクニ・伝不詳)という者がいた。豊前国宮子郡の小領(ショウリョウ・郡の司の一つ。次官クラス。)である。
その人の妻は先に死んでいたが、慶雲二年( 705 )という年の九月十五日に、広国がにわかに死んだ。
ところが、三日を経て活(ヨミガエ)
り、側の人に語った。

「私が死んだ時、使者が二人やって来た。一人は髪を結い上げてて、一人は髪を束ねた小童だった。私はこの二人について行ったが、二つの宿駅を通り越して行くと、道の途中に大きな河があった。橋が架かっている。金できれいに塗られている。
その橋を渡って行くと、行く手に極めて楽しげな所があった。私はこの使者に『ここは、どういう所ですか』と訊ねると、使者は『渡れる南の国だ』と答えました。その所には、八人の官人がいて、皆、剣を帯(オ)びた武人であった。
なお進んで行くと、金色の宮殿があった。門から入って見れば、王が在(マ)します。黄金の椅子に座っていらっしゃる。

王は私を見て仰せになった。「今、汝を召したのは、汝の妻の訴えによるものだ』と言って、すぐに妻を召し出した。
召し出された者は、私の昔死んだ妻でした。頭の上に鉄釘が打たれていて、釘の先は額まで通り、額に打たれた釘は頭の頂まで通っていました。また、鉄(クロガネ)の縄で両手両足を縛り、八人の者が担ぎ上げて持ってきたのです。
王は私に訊ねました。『汝はこの女を知っているか否や』と。
私は、『この者は、私の昔の妻です』と答えました。
王はまた仰せになりました。『このような罪を受けている訳を知っているか否や』と。
私は、『私には分りません』と答えました。
すると、今度は女に問うと、女は、『わたしが昔死んだ時、お前さんはわたしを惜しがってくれず、さっさと家から出してしまわれたので、それが恨めしくて訴えたのです』と言いました。
王はこれを聞くと私に向かって、『汝には罪がなかった。速やかに家に還るがよい。汝の妻が、死んだ時のことを以てつまらぬ訴えをした。これは不当である』と申されて、さらに、『もし、汝が父に会いたいと思うなら、ここから南の方に行って会うがよい』と仰せられました。

そこで、言われたように行って見ると、まことに我が父がおりました。
とても熱い銅(アカガネ)の柱を抱かされて、立っていました。鉄の釘三七本がその体に打ち立てられていました。また、鉄の杖で以て、朝に三百回、昼に三百回、夕べに三百回、合わせて九百回打たれ責められていました。
私はこれを見ると、悲しくて、父に訊ねました。『あなたは、如何なる罪によって、このような苦しみを受けているのですか』と。

父は、『わしがこの苦しみを受けているわけを知っているか。わしは生前、妻子を養うために、ある時には生き物を殺し、あるいは八両(量は重さの単位。)の綿を人に貸して、強引に十両に増やして責め取り、あるいは小さな斤の量(コンノハカリ・当時、品物により大小違う秤があった。)でもって稲を人に貸して、大きな秤でむりやり返させ、あるいは人の物を奪い取り、あるいは他人の女を犯し、あるいは父母に孝養を尽くさず、上役を敬わなかった。あるいは奴婢でない者を奴婢と称して罵り打ったりしたが、このような罪のために、我が身は小さいが、三十七本の釘を打ち立てられ、毎日九百回、鉄の杖で以て打ち責められている。何と痛いことか、何と悲しいことか。いつになったら、わしはこの罪を免れて、安らかな身になれるのだろう。
お前は家に返り、速やかにわしの為に仏を造り、写経し、わしの罪をのぞくようにしてくれ。

ところで、わしが大蛇になって、七月七日の日にお前の家に入った時、お前は杖に引っかけて外に棄てた。また、わしが赤い犬になって、五月の五日という日にお前の家に入った時、お前は他の犬を連れてきて噛み付かせて追い払ったので、わしは腹を空かせて返った。また、わしが猫になって、正月の一日という日にお前の家に入った時、お前は飯や様々なご馳走を存分に食わせてくれた。それによって、三年間食いつなぐことが出来た。
また、わしは兄弟の長幼のしだいを無視したために、犬に生まれ変わり、不浄の物を食い、返って自らその汁を出した。(この部分の意味、よく分らない。)わしはきっと赤い犬になるだろう。
およそ人は、米一升を人に施せば、その報いに三十日分の食糧を得るものだ。衣服一揃えを人に施せば、その報いに一つ(「霊異記」では一年分)の衣服を得るものだ。僧に経を
読ませると、東方の黄金の宮殿に住み、願いのままに天上界に生まれることが出来る。仏・菩薩の像を造る者は、西方の極楽に生まれることが出来る。放生を行えば、北方の浄土に生まれるだろう。一日持斎(ジサイ・正午を過ぎて食事を摂らないという戒律を守ること。)すれば、十年の食糧を得るのだ』と言いました。

このように、善悪の業を造ることによって得る報いの様子を見て、恐れおののきながら返ってきて、もとの大橋のもとに来たが、門番の者が道をさえぎって、『この中に入った者は、決して出ることは出来ない』と言う。
そこで私は、しばらくうろついていると、一人の小童が現れた。門番はその小童を見ると、ひざまずいて礼拝した。その小童は私を呼んで、片方の脇門の所に連れて行き、その門を押し開いて、私を連れ出し、『汝は、速やかにここから還りなさい』と言う。私は、『いったい、あなたはどなたですか』と訊ねると、『汝が我を知りたいと思うのであれば、それは、汝が幼い時に書写し奉った観世音経だと思いなさい』と答えて、門の中に還った、と見たと同時に、蘇生したのだ」と広国は語ったのである。

その後、広国は、冥途で見た善悪の報いを詳しく記録して、世間に広めたのである。
人はこれを知って、悪を止め善を行うべきである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

布施の功徳と罪 ・ 今昔物語 ( 20 - 17 )

2024-09-08 13:04:02 | 今昔物語拾い読み ・ その5

     『 布施の功徳と罪 ・ 今昔物語 ( 20 - 17 ) 』


今は昔、
讃岐国香水郡坂田の里(高松市内か?)に一人の金持ちがいた。姓は綾氏で、その妻も同じ姓であった。

さて、その隣に年老いた媼(オウナ・年取った女)が二人住んでいた。共に寡婦で子供はいない。極めて貧しくて、衣食に事欠いていた。いつも、隣の金持ちの家に行き、食べ物をもらって命をつないでいた。
毎日毎日欠かすことなく、必ず食事時にやって来る。この家の主はそれを嫌がって、いつも真夜中に飯を炊いて食べるようにしたが、やはり、その時刻にやって来て飯を食う。

そのため、家中の者がそれを嫌がったが、この家の主婦は夫に、「わたしは、この二人の老媼を慈悲の心でもって幼児のように養ってあげようと思います」と言った。
夫は、「これから後は、あの者たちに食事を差し上げるとしても、それぞれ自分が食べる分から一部を割(サ)いて与えるようにしなさい。功徳の中でも、自らの肉体を割いて、他人に施してその命を救うことは、最も優れた行いである。だから、私もその所作に従おう。さっそく家の者の食べる分から分けて与えなさい」と言った。

ところが、この家の中の一人の男は、主人の言うことは承知したものの、この老媼を嫌って食べ物を与えようとしない。すると、他の多くの人もしだいにこの老媼を嫌うようになって食べ物を与えなくなった。
そこで、主婦だけが密かに自分の飯を分けて養っていたが、家の人は老媼を憎み、いつも主人に訴えて、「家の人の飯を割いて、あの老媼たちを養うために、食事の量が少なくなり、家の人は疲れて農作業も満足に出来ず、また家の仕事も怠るようになりましょう」と言って、散々悪口を言ったが、主婦はやはり飯を与えて、老媼たちを養った。

こうしていた時、この訴えている人の中に、釣りを仕事にしている者がいたが、その者が海に行って釣りをしていると、釣りの糸に牡蠣が十個吸い付いて上がってきた。
家の主人は、それを見て、釣った者に、「その牡蠣を私が買いたい」と言ったが、釣った者は売ろうとしない。家の主人は釣り人に教えて、「信心深い人は、塔や寺を造って善根を積む。お前は、どうしてこれを惜しんで売ろうとしないのか」と言った。
それを聞いて、釣り人は売る気になって、「牡蠣十個の値は、米五斗に当たると思う」と言った。
家の主人は、言われるままに代価を渡し、これを買い取って、僧を招いて呪願(シュガン・発願の趣旨を述べ、その功徳を祈願すること。)させ海に放ってやった。

その後、この放生を行った人が従者と共に山に入り、薪を伐っていたが、枯れた栢(カエ・常緑高木の古称。)の木に登り、誤って木から落ちて死んでしまった。
ところが、その人はある行者に乗り移ってこう言った。
「我が体は死んだとはいえ、しばらくは焼くことなく七日間はそのままにしておくように」と。
然れば、その行者の言葉に従って、この死人を山から担って連れて返り、家の外に置いていた。

七日目になると、その死人は生き返り、妻子にこう語った。
「私が死んだ時、僧五人が前を歩いていて、俗人(出家していない者)五人が後ろを歩いていた。その歩いている道は、広くて平らで、墨縄を引いたように真っ直ぐであった。その道の左右には宝幢(ホウドウ・仏道などに飾られる装飾旗。)が立ち並んでいた。前方に黄金の宮殿があった。『あれは、どういう宮殿でしょうか』と尋ねると、後ろにいた俗人が私を見て、『あれは、お前の妻が生れようとしている宮殿だ。老媼を養う功徳によって、この宮殿が造られたのである。お前は我を誰か知っているか』と言った。私は知らないと答えた。俗人は、「我等僧俗十人は、お前が買い取って海に放した十個の牡蠣なのだ』と言った。

その宮殿の門の左右に、額に角が一本生えている者がいた。太刀を捧げて、私の首を切ろうとした。すると、この僧俗の者が防いで切らせなかった。
また、門の左右に美味しそうな匂いのする膳が調えられて、多くの人に食べさせている。私はそこに七日間いたが、何も食べさせてもらえず、飢えて、口から焔(ホノウ)が出た。すると、この十人の僧俗は、『これは、お前が老媼に食べ物を施さず、嫌い憎んだ罪によるものだ』と言って、僧俗が私を連れ返った、と思った時、蘇ったのだ」と。
妻子は、これを聞いて、喜び尊ぶこと限りなかった。

されば、人に食べ物を施すことの功徳は、計り知れぬほど大きい。また、施さなかった時の罪はこの通りである。また、放生の功徳はこのように貴いものであった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肉体と魂が入れ替わった娘 ・ 今昔物語 ( 20 - 18 )

2024-09-08 13:03:35 | 今昔物語拾い読み ・ その5

     『 肉体と魂が入れ替わった娘 ・ 今昔物語 ( 20 - 18 ) 』


今は昔、
讃岐国山田郡に一人の女がいた。姓は布敷氏である。
この女が突然重い病にかかった。そこで、立派なご馳走を調えて、それを門の左右に祭って、疫神(ヤクジン・疫病を流行させる神。)に賄(マイナイ・賄賂)としてご馳走した。

そうした時、閻魔王の使いの鬼がその家にやって来て、この病の女を召し出そうとしたが、鬼は走り疲れていたので、この祭っているご馳走を見てすっかり引きつけられて、それを食べてしまった。
やがて鬼は、女を捕まえて連行する間に、鬼は女に語った。「わしはお前が供えた物を頂戴した。この恩返しをしたいと思うが、もしや、お前と同名同姓のの者はいるか」と訊ねた。
女は、「同じ国の鵜足郡(ウタリノコオリ)に、同名同姓の女がいます」と答えた。
鬼はこれを聞くと、この女を連れてその鵜足郡の女の家に行き、真っ正面からその女に向かい、緋色の袋から一尺ばかりの鑿(ノミ)を取り出して、この家の女の額に打ち立てて、捕らえて連れ去っていった。
その山田郡の女は許されたので、恐る恐る家に返った、と思った時蘇生した。

さて、閻魔王はこの鵜
足郡の女を連行してきたのを見ると、「この者は召し出すべき女ではない。お前は、間違ってこの女を連れてきたのだ。されば、しばらくこの女を留めておいて、あの山田郡の女を召して連行して参れ」と仰せられた。
鬼は隠しきることが出来ず、遂に山田郡の女を召して連行してきた。閻魔王はそれを見て、「まさにこの者こそ、召し出すべき女である。あの鵜足郡の女は返してやるのだ」と仰せられた。
ところが、すでに三日が経っていて、鵜足郡の女の体は焼かれてしまっていた。そのため、その女の魂は体が無いため、返り入ることが出来ず、戻ってきて閻魔王に申し上げた。「わたしは、家に返らせて頂きましたが、すでに体が無くなっていて、寄り付く所がありません」と。
すると、王は使いに訊ねられた。「あの山田郡の死体はまだそのままか」と。
使いは、「まだそのままでございます」と答えた。
王は、「されば、その山田郡の女の体を頂戴して、汝の体にするがよい」と仰せになった。

これによって、鵜足郡の女の魂は、山田郡の女の体に入った。そして蘇生して言った。
「ここはわたしの家ではありません。わたしの家は鵜足郡にあります」と。
父母は、娘が生き返ったことを喜び感激していたが、蘇生した娘の言葉を聞いて、「お前は私たちの子だ。どうしてその様な事を言うのか。みんな忘れてしまったのか」と言った。
蘇生した女は、どうしても父母の言葉を聞き入れず、一人家を出て、鵜足郡の家に行った。その家の父母は、見知らぬ女がやって来たのを見て、驚き不審に思っていると、その女は「ここはわたしの家です」と言った。
その家の父母は、「あなたは、私たちの子ではありません。私たちの子は、亡くなってしまい、すでに火葬しましたよ」と話した。
すると、その女は、冥途において閻魔王が仰せになったことを詳しく語った。父母はこれを聞いて、涙を流して感激し、生きていた時の事などを問いただした。女の答は、一つとして違う事が無かった。そこで、体は違っているが、魂は明らかに我が娘なので、父母は喜んでこの娘を可愛がり大切に養育した。

また、山田郡の父母はこれを聞いて、やって来て見てみると、まさしく我が子の姿なので、魂は違っているとはいえ、姿を見て、しみじみと愛おしく思った。
そこで、両家の親はこの状況をこの話を信じて、共に養育するようになったので、この娘は二つの家の財産を受け継ぐことになった。
こうしたわけで、この娘一人には、現世に四人の父母が存在し、両家の財産も自分の物となったのである。

これを思うに、ご馳走を調えて鬼に施しをするのも決して無駄では無いようだ。それによって、こういう事もあるのだ。
また、人が死んだからといって、急いで葬ってはならない。万が一にも、思いがけずこういう事もあるのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鬼を接待した男 ・ 今昔物語 ( 20 - 19 )

2024-09-08 13:03:04 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 鬼を接待した男 ・ 今昔物語 ( 20 - 19 )  』


今は昔、
橘磐島(タチバナノイワシマ・伝不詳)という者がいた。聖武天皇の御代に、奈良の都の人で、大安寺の西の郷に住んでいた。
ある時、その寺の修多羅供(シュダラグ・大寺で行われる法会の一つ。)の銭四十貫を借り受けて、越前国の敦賀の港に行って、必要な物を買い、琵琶湖経由で船に積んで帰る途中で、突然病気になった。
そこで、船を留めて、馬を借りてそれに乗り、一人で急いで帰ることにしたが、近江国高島郡の浜を通っている時、ふと後ろを振り返ると、一町ばかり後から男が三人やって来るのが見えた。山城国の宇治橋まで来ると、この三人の男は追いついて並んで歩いている。

橘磐島は、三人に問いかけた。「あなた方は、どちらへ行かれるのですか」と。
「我等は、閻魔王の使いである。奈良の磐島を召し連れに行くところだ」と答えた。
磐島はこれを聞いて驚き、「それは私のことです。どういうわけがあって召し連れるのですか」と訊ねた。
「我等は、まずお前の家に行って訊ねたところ、『商いのため他国に行き、まだ帰ってきておりません』と言ったので、その港に行って捜し、見つけることが出来たので、その場ですぐに捕らえようとしたが、四天王の使いという者がやって来て、『この者は寺の銭を借り受けて、商売をして返済することになっている。だから、しばらくの間、許してやってくれ』と言うので、家に帰るまで許しているのだ。ところで、この数日お前を探し続けていたので、すっかり腹が減って疲れてしまった。何か食い物はないのか」と言った。
磐島は、「私は道中の食糧として干し飯を少しばかり持っています。これを差し上げましょう」と言うと、鬼は、「お前の病は、我等の気によるものなのだ。近付いてはならぬ」と言った。
しかし、磐島は恐れることなく、共に家に着いた。そして、食膳を用意して、大いにご馳走した。

すると鬼は、「我等は牛の肉が何よりも好きなのだ。速やかにそれを手に入れて、食わせてくれ。世間で牛を取っていくのは我等なのだ」と言った。
磐島は、「我が家に斑模様の牛が二頭います。これを差し上げます。ですから、何とか工夫して、私を許して下さい」と言った。
鬼は、「我等はお前からたくさんの食い物を頂戴した。その恩は返さなくてはなるまい。ただ、お前を許して、そのため我等が重い罪を受けて、鉄(クロガネ)の杖で以て百度打たれることになる。そこで、もしや、お前と同じ年齢の者はいないか」と言った。
磐島は、「私には心当たりがありません」と答えた。
すると、一人の鬼が大変怒って「お前は何の年だ」と訊ねるので、磐島は「戊寅(ツチノエトラ・前後の文章から、678 年生まれらしい。)の年でございます」と答えた。
鬼は、「その年生まれの者がいる所を知っている。お前の代わりにその者を召し連れよう。但し、お前がくれた牛を食ったとなれば、いずれ我等は打ち責められるだろう。その罪からのがれさせるために、我等三人の名を挙げて、金剛般若経百巻を読誦させてくれ」と言い、「我等は、一人は高佐丸で、もう一人は仲智丸で、もう一人は津知丸という名だ」と名乗って、夜半に出て行った。

翌朝、見てみると、牛が一頭死んでいた。
磐島はこれを見て、すぐに大安寺の南塔院(ミナミノトウイン・大安寺の寺塔の一つらしい。)に行き、沙弥仁耀(シャミ ニンヨウ・若い層で実在の人物らしい。)を招いて、事の次第を詳しく語り、金剛般若経を読誦してもらい、かの鬼たちのために回向した。二日の間に百巻を読誦し終えた。
すると、三日目の明け方になって、あの時の使いの鬼がやって来て、「我等は般若の力によって、百度杖で打たれる苦しみからのがれることが出来た。また、いつもの食い物の他に、さらに多くの食い物をもらえた」と語り、たいそう喜び感謝した。そして、さらに、「これから後は、節日(セツニチ・「六斎戒日」のことで、月に六日戒律を守り功徳を積む日とされる。)ごとに我等のために功徳を行い、食膳を供えてくれ」と言うと、たちまち掻き消すように去って行った。
その後、磐島は、九十余歳までの長寿を得て死んだ。

これは、ひとえに、大寺の銭を借り受けて商売し、未だ返却前であったために命が助かったのである。また、鬼は過ちを犯したとはいえ、般若の力によって苦しみを免れたのであって、極めて貴い事だと、
語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛になった僧 ・ 今昔物語 ( 20 - 20 )

2024-09-08 13:01:44 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 牛になった僧 ・ 今昔物語 ( 20 - 20 ) 』


今は昔、
延興寺(エンコウジ・伝不詳)という寺があった。
その寺に、エライ(僧名、原文は漢字書き。伝不詳)という僧が住んでいた。
長年、この寺に住んでいる間に、寺の浴室用の薪一束を取って、人に与えたが、その後、それを返さないままに、エライは死んでしまった。

ところで、その寺の近くの家に、前から雌牛がいたが、それが一頭の子牛を生んだ。
やがてその子牛が成長して大きくなると、それに車を引かせて、薪を積んで寺の中に運び込んだ。
その時、見知らぬ僧が寺の門前に現れて、その子牛を見て、「エライ法師は、生きていた時、般若経を明け暮れに読み奉っていたけれど、今は、このように車を引いているとは、哀れなことだ」と言った。
子牛は、その言葉を聞くと、涙を流し、突然倒れて死んでしまった。
子牛の飼い主は、それを見て大いに怒り、その見知らぬ僧を罵って、「お前がこの牛を呪い殺したのだ」と言って、いきなり僧を捕らえて、朝廷に連れて行き、この由を訴えた。

朝廷は、この訴えをお聞きになり、その事情を調べようとして、まず僧を呼び出してご覧になると、僧の姿有様は端正(タンジョウ)にして、ふつうの人とは思えない。
そこで、驚き不思議に思われて、即座に罰することを畏れ、清浄な部屋に僧を入れて、勝れた絵師たちを召して、「この僧の姿有様は、この世の人とは思えないほど端正である。されば、この姿を誤りなく描いて奉れ」と命じた。
絵師たちは宣旨を承(ウケタマワ)って、各人が筆を振るって描いて持参した。天皇がその絵をご覧になると、もとの僧の姿ではなく、すべて観音の像であった。
その時、僧は掻き消すように姿が見えなくなった。そのため、天皇は大変驚き恐れなさった。

これによって、はっきりと分ったことは、これは、エライが牛になったことを人に知らしめるために、観音が僧の姿になってお示しになったのである。牛の飼い主はそれを知らず、僧に罪を負わせようとしたことを悔い悲しんだ。
人々は、これを以て知るべきである。たとえ僅かな物であっても、借用した物は必ず返さなければならないのである。もし、返却することなく死ねば、必ず畜生となって、これを償うことになるのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

因果応報を示す ・ 今昔物語 ( 20 - 21 )

2024-09-08 10:12:01 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 因果応報を示す ・ 今昔物語 ( 20 - 21 ) 』


今は昔、
武蔵国多摩郡の大領(郡の長官)に、大伴赤麿(伝不詳)という者がいた。
ところが、その赤麿は、天平勝宝元年( 749 )という年の十二月十九日に突然死んだ。
次の年の五月七日、その家に黒い斑の子牛が生まれた。その牛の背に碑文(ヒブン・碑に刻まれている文。)があった。それには、「赤麿は寺の物を勝手に借用しながら、未だ返納することなく死んだ。その物を償うために、牛の身に生れたのである」とあった。

そこで、赤麿の一族や同僚たちはこれを見聞きして、恐れおののくこと限りなかった。
そして、「罪を造れば、必ずその報いがある、この事は必ず記録しておくべき事である」と言って、この文章を記録して、同じ年の六月一日に多くの人を集めて、その記録を次々見せた。
集まった人々はこれを見て、もともと懺悔の心のない者は、これを見てはじめて心を改めて善行を行うようになった。もともと因果の道理を知っている者は、ますます心から悪行をやめる決意をした。

まことに、これを思うに、たとえ銅(アカガネ)の湯を飲むことになっても、寺の物を勝手に食べてはならない。これは、極めて罪深い事であることを知ったのだから、決してこういう罪を犯してはならない、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後世での償い ・ 今昔物語 ( 20 - 22 )

2024-09-08 10:11:35 | 今昔物語拾い読み ・ その5

     『 後世での償い ・ 今昔物語 ( 20 - 22 ) 』


今は昔、
紀伊国名草郡の三上の村に一つの寺を造って、名を薬王寺(伝不詳)と名付けた。
その後、喜捨を募って多くの薬を備えて、それをその寺に準備しておいて、すべての人々に施した。

さて、聖武天皇の御代に、その薬の費用に充てる稲を、岡田村主(オカダノスグリ・伝不詳)という者の姑の家に保管していた。
ところが、その家の主人がその稲で酒を造り、それを人に与えて利益を上げようとしたが、その時、どこからか斑の子牛がやってきて、薬王寺の境内に入り込み、いつも塔の下の辺りに伏せるようになった。
寺の者がその子牛を追い出したが、すぐに返ってきて寝そべり去ろうとしない。寺の者たちはこれを不思議に思って、「これは誰の家の牛なのか」と、あちらこちらと尋ねたが、一人として「わが家の牛だ」という者がいない。
そこで、寺の者が子牛を捕まえて、繋いで飼っているうちに、子牛は年を経て大きくなり、寺の雑役に使われるようになった。
そうして、いつしか五年が経った。

その頃、寺の檀家の岡田石人(オカダノイワヒト・伝不詳)という者の夢に、この牛が現れて、石人を追いかけて角でもって突き倒し、足でもって踏みつけた。石人は恐れおののいて叫ぶと、牛は石人に尋ねた。「あなたは我を知っていますか」と。石人は、「知らない」と答えた。
すると、牛は放れて後ろに下がって、膝を曲げて地面に臥して、涙を流して「我は、実は桜村の物部麿(伝不詳)なのです。我は前世でこの寺の薬の費用に充てるべき酒二斗を借用して、まだそれを返さないうちに死んでしまいました。その後、牛の身となって生まれ、その借りを償うために使役されているのです。使役される期間は八年に限られています。既に五年が経ったので、残りはあと三年です。寺の者たちは哀れみの心がなく、我が背中を打ってこき使います。痛くてたまりません。あなたのような檀家以外に誰に訴えることが出来ましょう。それであなたに訴えているのです」と言った。
石人は、「そう言われるが、それが本当かどうか、どうしたら分るのですか」と尋ねた。
牛は、「桜村の大娘(ダイジョウ・長女のこと。)に尋ねていただければ、嘘か本当か分るでしょう」と言った。その大娘というのは、酒を造っている主であり、岩人の妹にあたる。

このような夢を見たが、夢が覚めた後、大いに驚くと共に不思議に思って、妹の家に行き、この夢のことを話した。
妹はそれを聞くと、「それは本当です。言っていたように、その人は酒二斗を借用して、未だ返さないうちに死にました」と言った。
石人はこれを聞くと、多くの人に話したので、寺の僧である浄達(ジョウタツ・薬王寺の住職か?)がこれを聞き、牛を哀れに思い、牛のために誦経を行った。
その後、牛は八年すると姿を消した。その行方は全く分からず、遂に見つからないままになった。まことに不思議なことである。

これを思うに、人の物を借用した場合には、必ず返すべきである。まして、寺の物であれば、大いに恐れるべきである。死後に、このように畜生として生まれて償うということは、実につまらないことである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極楽往生の心得 ・ 今昔物語 ( 20 - 23 )

2024-09-08 10:11:08 | 今昔物語拾い読み ・ その5

     『 極楽往生の心得 ・ 今昔物語 ( 20 - 23 ) 』


今は昔、
比叡の山の横川(ヨカワ・東塔、西塔と共に比叡山三塔の一つ。)に一人の僧がいた。
道心を起こして、長年の間、弥陀の念仏を唱えて、ひたすら極楽に生まれることを願っていた。法文に関しても知識が深かったが、ただひたすらに極楽往生のみを願って、全く他の事には興味を示さなかった。されば、他の聖人たちも、「この人はきっと極楽往生を遂げる人だ」と皆が尊んでいた。

このようにして、この聖人はこの願いを怠ることなく、長い年月を重ねているうちに、七十を過ぎた。身体は強健であったが、ややもすれば風邪をひきがちになり、食欲も衰え、体力も弱くなっていったので、聖人は、「死期が近くなってきたのだ」と覚悟して、ますます道心を深めて、念仏を唱える数も増したゆむことがなかった。

やがて、重態になったが、病床に伏しながらも、ますます心を込めて念仏を唱えた。
弟子たちにも、「今は私に、ひたすら念仏を勧め、他の事は一切しないで、極楽往生のことだけを話して聞かせよ」と命じたので、弟子たちは尊い往生の事などを言って、聖人に念仏を途切れることなく勧めた。
こうして、九月二十日の申時(サルノトキ・午後四時頃)の頃に、心臓が弱ってきたように思われたので、枕元に阿弥陀仏を安置して、その御手に五色の糸を付け奉って、それを持って、念仏を唱えること四、五十遍ばかりすると、寝入るが如くに息絶えた。
そこで、弟子たちは、「長年の本意に違わず、きっと極楽に参られた」と尊び喜んで、没後の葬儀などがすべて終り、七々日(ナナナノカ・四十九日)も過ぎると、弟子たちは皆散り散りに去って行った。

ところで、弟子の一人は、その僧房を受け継いで住んでいたが、師の聖人がいつも酢を入れて置いていた、白地の小さな瓶があったのを、受け継いだ僧房の主がそれを見つけて、「故聖人がお持ちになっていた酢の瓶はここにあったのか。『なくなった』と思っていたのに」と言って取り出して、洗わせようとしたとき、瓶の中に動く物がいた。覗いてみると、五寸ばかりの小さな蛇がとぐろを巻いていた。恐くなって、離れた間木(マギ・長押の上などに設けた棚のようなもの。)の上に上げて置いた。

その夜、僧房主の夢に、故聖人が現れて、このように告げた。「私は、お前たちが見ていたように、ひたすら極楽往生を願い、念仏を唱えることの他は何もしなかった。臨終を迎えたときには、『余念を抱かず念仏を唱えて息絶えよう』と思っていたが、棚の上に酢の瓶があるのが、ふと目について、『これをだれが持っていくのだろう』などと、口では念仏を唱えながら、心の中ではたった一度思ったが、それを罪とも思わず、『わるいことを考えた』とも思わず、反省することなく息が絶えた。その罪によって、その瓶のうちに小さな蛇となって生まれ変わったのだ。速やかに、その瓶を布施として、ねんごろに私のために仏像と経典を供養してほしい。そうすれば、私は極楽往生が出来るだろう」と言って姿を消した、と見たところで夢が覚めた。

その後、僧房主は、「それでは、あの小さな瓶の中にいる小さな蛇は、故聖人でおありであったのか」と思うと、たいへん悲しく、明くる朝に、夢のお告げのように、小さい瓶を中堂に誦経料として奉った。そして、ただちに仏像と経典を準備して、ねんごろに供養し奉った。

これを思うに、あれほど尊く信じ込んで息絶えた聖人でさえ、最後につまらぬ物に目が奪われたために、小さな蛇に生まれ変わったのである。いわんや、妻子に囲まれて死ぬ人は、たとえ深い信仰心を起こしていても、よほどの仏縁でもなければ、極楽に往生することは難しい事であると思えば、なんとも悲しい事である。
されば、「臨終の時には、つまらない物は取り隠して、仏以外の物を見てはならない」と、横川の源信僧都(ゲンシンソウズ・942 - 1017 日本浄土教の大成者。)はお話になられた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銭を惜しんで毒蛇となる ・ 今昔物語 ( 20 - 24 )

2024-09-08 10:10:33 | 今昔物語拾い読み ・ その5

     『 銭を惜しんで毒蛇となる ・ 今昔物語 ( 20 - 24 ) 』


今は昔、
奈良に馬庭山寺(マニワノヤマデラ・所在未詳)という所があった。
その山寺に一人の僧が住んでいた。長い間その所に住んで、熱心に修業を積んでいたが、知恵がないために邪見(ジャケン・よこしまな考え方)の心が深く、人に対して物を与えることを惜しみ、何一つ与えることがなかった。

このようにして、長年を過ごしているうちに、僧もすっかり年老いて、病にかかり、遂に臨終を迎えた時に、弟子を呼んで告げた。「私が死んだ後、三年の間は、この僧房の戸を開けてはならない」と言い残すと、すぐに死んだ。

その後、弟子は師の遺言通りに僧房の戸を開くことがなかったが、七日を過ぎて、ふと見てみると、大きな毒蛇がその僧房の戸の前にとぐろを巻いていた。
弟子はそれを見て恐れおののき、「あの毒蛇は、きっと我が師の邪見ゆえに生まれ変わられたに違いない。師の遺言があるので、『三年の間は僧房の戸を開けない』とはいえ、師を教化(仏道を説いて人を善道に導くこと。師僧を毒蛇からの転生を願って仏道を行うこと。)しよう」と思って、すぐに僧房の戸を開いてみると、壺屋(納戸)の中に銭三十貫が隠されていた。
弟子はそれを見つけると、その銭を、ただちに大寺に持って行き、誦経料として師の罪報消滅を祈った。
弟子たちは、「師僧は銭を貪り、これを惜しむあまり、毒蛇の身となって、なおもその銭を守っていたのだ」と知った。そのため、「三年の間、僧房の戸を開けてはならない」と遺言したのである。

これを思うに、まことに愚かな事である。「生きている時に、銭を『惜しい』と思うことがあったとしても、その銭を以て、三宝(仏法僧を指す)を供養し、功徳を積んでいれば、けっして毒蛇の身を受けることはなかっただろうに」と、人々は語った、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乞食僧を殴る ・ 今昔物語 ( 20 - 25 ) 

2024-09-08 10:09:54 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 乞食僧を殴る ・ 今昔物語 ( 20 - 25 ) 』


今は昔、
古京(コキョウ・平城京より前の京。飛鳥京、藤原京などを指す。)の時に、一人の男がいた。
愚か者で、因果というものを信じようとしなかった。

ある時、乞食(コツジキ・乞食修行)の僧がやってきて、その男の部屋に入ってきた。
その男は乞食僧を見て、大変怒り殴ろうとしたので、乞食僧は逃げて田の水の中に逃げたが、その男は追いかけていって殴りつけた。乞食僧はどうすることも出来ず、常に受持している呪(真言)を唱え、「本尊様、お助け下さい」と念じた。
すると、その男はたちまちのうちに呪縛された。そして、突然あちこちと走り回り、倒れもだえた。
その間に、乞食僧は逃げ去った。

その男には、二人の子がいた。父が縛られたのを見て、父を助けようと思って、ある僧房に行き、貴い僧を招こうとすると、その僧は「何のために招くのか」と尋ねた。
二人の子が事の次第を詳しく話すと、僧はその事を恐れて行こうとしなかった。
それでも、二人の子は父を助けんがために、礼を尽くして懸命に頼んだので、僧は渋々ながら行った。
その間も、父は狂ったようにもだえていた。
ところが、僧が法華経の普門品(フモンボン・観音経)の初めの段を唱えると、たちまち父の呪縛は解かれたので、父は心から信仰心を起こして、僧を礼拝した。二人の子も喜んで、礼拝恭敬した。

されば、努々(ユメユメ・くれぐれも)乞食僧を軽蔑し殴ったりすることは、たとえ戯れであってもしてはならない、
となむ語り伝へたるとや。   

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする