『 鬼に魅入られた后 ・ 今昔物語 ( 20 - 7 ) 』
今は昔、
染殿の后と申すのは、文徳天皇の御母である。良房太政大臣と申される関白の御娘であり、容姿の美しいことは、格別であった。
ところが、この后は、常に物の怪に悩まされていらっしゃったので、様々なご祈祷などが行われた。その中に、世間で霊験あらたかと評判の僧を召し集めて、いろいろと修法を行ったが、露ほども験(シルシ)がなかった。
ところで、大和の葛木山の頂に、金剛山(コンゴウサン・金峯山のことらしい。)という所があり、その山に一人の貴い聖人が住んでいた。
長年ここで修行していて、鉢を飛ばしては食べ物を得、瓶を遣っては水を汲んだ。このように修行を続けていて、験力は並ぶ者とてない。
やがて、その評判が高くなり、天皇並びに后の父の大臣がこれをお聞きになり、「彼を召して、この御病の祈祷をさせよう」と思われて、参内するようにとの仰せが下った。使者が聖人のもとに行き、この由を伝えたが、聖人は何度もこれを辞退したが、宣旨に背くことも出来ず、遂に参内した。
御前に召して、加持を行わせたところ、その験(シルシ)はあらたかにして、たちまち后の侍女の一人が錯乱してに泣き叫び、何かが乗り移って叫びながら走り回った。
聖人は、ますます力を込めて加持を続けると、加持の力で侍女は縛られて打ち責められているうちに、侍女の懐の中より一匹の老狐が飛び出し、転んで倒れ込み、走って逃げることも出来ない。
その時、聖人は、人に命じて狐を結わえて、悪事を止めるよう教化した。
父の大臣はこれを見て、お喜びになること限りなかった。后の病は、一両日のうちに治った。
大臣はお喜びになって、「聖人、しばらくお留まり下さい」と仰せになったので、仰せに従ってしばらく内裏に留まっていた。
季節は夏のことなので、后は単衣のお召し物だけを着ておいでであったが、風が御几帳の帷(カタビラ・垂れ絹)をひるがえした隙間から、聖人は微かに后の御姿を見てしまった。これまで経験したこともないことで、かくも美しいお姿を見てしまい、聖人は、たちまち心の平静を失い、肝も砕けるような思いがして、后に深い愛欲の気持ちが生じた。
とは言っても、どうすることも出来ないので思い悩んでいたが、胸を火で焼くかのようで、垣間見た姿が片時も忘れ去ることが出来ず、遂に分別を失って、人の見ていない時を見計らって、御帳の内に入り、伏せっておられる后の御腰に抱きついた。后は目を覚まし、狼狽し汗みずくになって恐れ抵抗なさったが、后の力ではとても及ばない。聖人は力の限りを尽くして思いを遂げようとしたが、女房たちがその様子を見て大声で騒いだ。
その時、侍医の当麻鴨継(タイマノカモツグ・873 年没)という者が、宣旨を承って、后の御病を治療するために宮中に伺候していたが、殿上の間の方から突然騒ぎ罵る声がしたので、鴨継は驚いて駆け込むと、御帳の内よりこの聖人が飛び出してきた。
鴨継は聖人を捕らえて、天皇にこの由を奏上した。天皇はたいそうお怒りになり、聖人を縛り上げて牢獄に入れさせた。
聖人は牢獄に入れられたが、何も言い訳することなく、天を仰いで泣く泣く誓いを立てていた。「私は、今すぐに死んで鬼となり、この后がこの世に在(マ)しますうちに、わが願いの通りに情を通じるのだ」と。
獄舎の役人は、これを聞いて、父の大臣にこの事を申し上げた。大臣はこれを聞いて驚かれ、天皇に奏上して、聖人を許して、本の山に返らせなさった。
そこで、聖人は本の山に返ったが、后への思いはなお堪えられず、何とか后に近付くことを強く願い、頼みとしている三宝に祈請したが、現世ではとても叶えられないと知ってか、「本の願いの如く、鬼になろう」と思い入れて、絶食を行ったので、十日ばかりを経て餓死した。そして、すぐさま鬼となった。
その姿は、身は裸で、頭は禿(カブロ・おかっぱ、のような形らしい。)である。身の丈は八尺(約 2.4m )ばかりで、肌は真っ黒で漆を塗ったようである。目は鋺(カナマリ・金属製の器。らんらんと輝いているとの表現。)を入れたようであり、口は大きく、開けば剣のような歯が生え、上下の牙が食い出ている。そして、赤い褌をつけ、槌(ツチ・霊鬼が持つ呪具の一つ。)を腰に差している。
この鬼が、突然、后がいらっしゃる御几帳の側に立った。
人々はその姿を目の当たりにして、気を失うばかりに心を惑わせ、倒れるように逃げ出した。女房などは、その姿を見て、ある者は気絶し、ある者は着物を頭から被ってうずくまった。
ふつうの人は、立ち入ることが出来ない所なので、その姿は見ていない。
そして、この鬼の魂は、后の正気を失わせたので、后はとても美しく身繕いなさって、笑みを浮かべて、扇で顔を差し隠し、御帳の内にお入りになり、鬼と二人でお伏せりになった。
女房などが聞いていると、ひたすら鬼は、いつもいつも恋しく辛い思いをしていたなどと申し上げている。后も、嬉しげに声を出して笑っていらっしゃる。
女房たちは皆逃げ去っていたが、しばらく経って、日暮れになると、鬼は御帳から出てきて去って行ったので、「后はどうなられているだろう」と思って、女房たちが急いで后のもとに参ると、后はふだんとまったく変わることなく、「そのようなことがあったのか」と思われる様子も見せず、座っておいてであった。ただ、少しばかり御まなざしに怖ろしげな気配が感じられた。
この由を天皇に奏上すると、天皇はそれをお聞きになると、奇怪で怖ろしいと思われるより先に、「后は、この先どうなるのだろうか」とたいそうお嘆きになった。
その後、この鬼は毎日同じ姿でやって来て、后もまた、恐れる様子もなく、正気をなくして、ひたすらこの鬼を恋しい者とお思いであった。
そのため、宮中の人は皆この様子を見て、哀れで悲しく、たいそう嘆くばかりであった。
そうした時、この鬼はある人に乗り移って、「我は、必ずあの鴨継に恨みを晴らしてやる」と言った。
鴨継はそれを聞いて、恐れおののいていたが、それから幾日もしないうちに、急死してしまった。また、鴨継には男子が三、四人いたが、いずれも気が錯乱する病で死んでしまった。
これを聞いて、天皇並びに父の大臣はたいそう恐怖を感じ、多くの高僧たちに命じて、この鬼を降伏させるように、懇ろに祈祷を行わせたところ、様々な御祈祷の効験があったのか、この鬼が三月ばかり来なかったので、后の御気分も少し治り、以前のようになられた。
天皇はそれをお聞きになってお喜びになり、「今一度、后の様子を見よう」と、后の御殿に行幸なさった。それは、いつも以上に心のこもった行幸であった。百官も一人も欠けることなく随行した。
やがて、天皇は后の御殿に入られ、后をご覧になられ、涙ながらにしみじみとお話になられると、后もたいそう感激なさる。そのお姿は、以前のままである。
その時、例の鬼が突然部屋の角から躍り出てきて、御帳の内に入ってきた。
天皇はそれを見て、「何と言うことだ」とご覧になっていると、后は例の様子になって、御帳の内にいそいそとお入りになった。
しばらくすると、鬼は南面(ミナミオモテ・正面)に躍り出てきた。大臣・公卿を始め百官皆が目の当たりにこの鬼を見て、恐れ惑い、「あきれたことだ」と思っていると、后もまた続いて出てきて、多くの人が見ている前で、鬼と一緒に横になり、何とも見苦しいことを、はばかることなく行った。やがて、鬼が起き上がり、后も起き上がって御帳にお入りになった。
天皇は、為す術も無く、ただお嘆きになるばかりで、お帰りになられた。
されば、高貴な女人は、この事を聞いて、絶対にこのような法師に近付いてはならない。この事は、極めて不都合な事で、公言するのははばかりある事だが、末の世の人に伝えて、このような法師に近付くことを強く戒めるために、
此くなむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 欠話 ・ 今昔物語 ( 20 - 8 ) 』
本稿の本文は、全文が欠話になっています。ただ、表題は残されていて、
『 良源僧正成霊来観音院伏余慶僧正語 第八 』とあります。
この部分から推定しますと、良源僧正が怨霊となって、余慶僧正を降伏した、といった内容のようです。良源は山門派で、余慶が寺門派と激しく対立していたので、それを背景とする説話と推定されますが、残念ながら、まったく伝えられていません。
☆ ☆ ☆
『 天狗の術を習おうとした男 ・ 今昔物語 ( 20 - 9 ) 』
今は昔、
京に外術(ゲジュツ・外道の術といった意味で、幻術、奇術などを指す。)という事を好み、それを仕事にしている下衆な法師がいた。
履いている足駄(アシダ・下駄のような履き物。)や尻切れ草履などを、さっと犬の子などに変えて這わせたり、懐から狐を出して鳴かせたり、立っている馬や牛の尻より入って口から出てくる、などのことをして見せた。
長年このようなことをしていたが、隣に住んでいた若い男が[ 欠字。「うらやましい」といった意味の文字か? ]ましく思って、この法師の家に行き、この事を習いたいと切々と頼んだが、法師は、「この術はそう簡単に人に教える事ではない」と言って、すぐには教えなかったが、男は熱心に「そこを何とか教えて下さい」と言うので、法師は、「お前が本当にこの術を習おうという志があるのなら、決して人に知られぬようにして、堅固に精進を七日行い、清く新しい桶を一つ用意して、まぜ飯を特に清浄に作ってその桶に入れて、それを自分で担って持つのだ。そして、尊い所に詣でて習うことだ。わしはとても教えることが出来ない。ただ、その場所に連れて行くだけだ」と言った。
男はそれを聞くと、法師の言うのに従って、決して誰にも知られないように、その日から堅固の精進を始め、注連縄(シメナワ)を引き渡して人にも会わず、七日の間家に籠もった。そして、極めて清浄にまぜ飯を作って清浄な桶に入れた。
すると、法師がやって来て、「お前が本当にこの術を習得しようと思う志があるのなら、決して腰に刀を差していてはならない」と真剣に戒めるので、男は、「刀を持たないことなど簡単なことです。もっと難しいことでも、この術を何としても習おうという志があるので、決して嫌とは申しません。いわんや、刀を差さないことなど、難しいことではありません」と答えたが、心の内では、「刀を差さないことは簡単なことだが、この法師が、これほど拘っているのは、何とも怪しい。もし刀を差さずにいて、怪しいことがあれば、困ったことになるぞ」と思ったので、密かに小さな刀を入念に研いでおいた。
精進の七日が明日で終るという日の夕方、法師がやって来て、「決して誰にも知らさないで、あのまぜ飯の桶をお前一人で持って、出立するのだ。くれぐれも刀を持っていてはならぬぞ」と念を押して帰っていった。
明け方になると、二人だけで出掛けた。男は、なお怪しく思っていたので、刀を懐に隠して差し、桶を肩に担ぎ、法師が先に立って歩いて行った。
何処ともしれぬ山の中を、遙々と行くうちに、いつしか巳の時(午前十時頃)になった。
「遙かにも[ 欠字があるようだが不詳。このままでも意味は通じる。]来たものだ」と思っていると、山の中にきれいに造られた僧房があった。
男を門前に残して、法師は中に入った。見ていると、法師は小柴垣(コシバガキ・低い柴垣)がある辺りでひざまづいて、咳払い(来訪を知らせる仕草)をすると、障子戸を引き開けて出てくる人がいた。
見ると、年老いた睫毛の長い、いかにも貴気な僧で、その人がこの法師に、「そなた、どうして長らく顔を見せなかったのか」と言うと、法師は、「暇がございませんでしたので、久しく参ることが出来ませんでした」などと言った後で、「ここに、宮仕えしたいという男が控えております」と言うと、僧は、「この法師は、いつものようにつまらぬ事を言ったのであろう」と言って、「どこにいるのか。ここへ呼べ」と言ったので、法師は、「出て参れ」と言うので、男は入って法師の後ろに立った。持っていた桶は、法師が受け取って縁の上に置いた。
男が柴垣の辺りに控えていると、僧房主の僧は、「この男はもしか刀を差しているのではないか」と言う。
男は、「決して差しておりません」と答えて、この僧をよく見ると、実に薄気味悪く怖ろしい。僧が人を呼ぶと、若い僧が出てきた。老僧は縁に立って、「その男の懐に刀を差していないか捜せ」と命じた。すると、若い僧は男に近寄り、男の懐を探ろうとした。
男は、「自分の懐には刀がある。きっと捜し出されるだろう。そうなれば、自分に良いことなどあるまい。たちまち殺されてしまうに違いない。同じ死ぬのであれば、あの老僧に襲いかかって死んでやろう」と思って、若い僧がまさに目の前にやって来た時に、密かに懐の中の刀を抜いて持ち、縁に立っている老僧に飛びかかったが、そのとたんに、老僧は消えてしまった。
そして、見渡すと、僧房も消え失せている。不思議に思って辺りを見回すと、何処かは分からないが、大きなお堂の内であった。
その時、あの連れてきた法師が手を打って悔しがり、「お前は、このわしを駄目にしてしまったなあ」と言って、激しく泣き罵った。
男は、何とも弁解のしようもない。そして、さらに辺りを見回してみると、「遙かにやって来てた」と思っていたが、何と、一条西洞院にある大峰という寺(未詳)に来ていたのである。
男は、呆然自失の状態で家に帰った。
法師も泣きながら家に帰ったが、二、三日ばかり後に、突然死んでしまった。天狗を祭っていたのであろうか、詳しい理由は分からない。男の方は、別に死ぬようなことはなかった。
このような術を行う者は、極めて罪深いことをするようだ。
されば、いささかでも「三宝(ここでは「仏」といった意味)に帰依しよう」と思う者は、決して、ずっとこのような術を習おうと思ってはならない。このような術を行う者を天狗と名付けて、人間とは違う者なのだ、
と語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 滝口の武者の災難 ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 20 - 10 ) 』
今は昔、
陽成院の天皇の御代に、滝口の武者(宮中警備を担当)に、金の使い(コガネノツカイ・陸奧国の産金を運送上納する使者。)として陸奧国に遣わしたが、道範(ミチノリ・伝不詳)という武者は、宣旨を承って下る途中、信濃国[ 欠字。地名が入るが不詳。]という所に宿を取った。
その土地の郡司(コオリノツカサ・その土地の有力者が任命された。)の家に泊まったので、郡司は待ち受けていて、たいそう歓待した。食物などのもてなしがすべて終ると、家主の郡司は郎等共を引き連れて家を出て行ってしまった。
道範は旅の宿なので寝付かれないので、そっと起きだしてそのあたりを見歩いているうちに、郡司の妻の部屋を覗くと、屏風や几帳などを立ち並べていた。畳などもきれいな物を敷いて、二段造りの厨子(ズシ・飾り棚)なども感じよく置かれている。虚薫(ソラタキ・それとなく香を焚きしめること。)なのであろうか、たいそう香ばしいかおりがしている。
これほどの田舎でも、このように奥ゆかしいことがあるのだと、さらに覗き込んでみると、年の頃二十歳余りで、髪の様子も体つきも細やかで、額つきも美しく、非の打ち所がない女が優雅に寝ていた。
道範はその姿を見て、とても見過ごすことが出来ず、辺りに人影もないので、近寄って抱き締めても咎める人もいない思い、そっと遣戸を引き開けて中に入った。「誰だ」という人もいない。灯台は几帳の後ろに立てているので、とても明るい。たいそう心を込めて接待してくれている郡司の妻を、このような後ろめたいことに及ぶのは申し訳ない気もしたが、女の様子を見ると、その思いを抑えることが出来ず、忍び寄っていった。
そして、女の側に近寄って添い伏したが、気分を悪くしたようでもあるが騒ぎ立てることはなかった。衣の袖で口を覆うようにして伏している顔は、近くで見れば見るほど、言いようもないほど愛らしい。道範は嬉しさに舞い上がるような気持ちであった。
九月の十日頃のことなので、着物をそれほど重ね着していない。紫苑色(シオンイロ・表が薄紫で裏が黄緑の襲 (カサネ) )の綾衣一重(アヤギヌヒトカサネ)に濃い紅の袴のみ着ている。薫物の香りが周囲の物からも匂っている。
道範は、自分の着物を脱ぎ捨てて、女の懐に入った。女は、しばらくは着物を引き合わせて拒む仕草を見せていたが、機嫌は悪そうではあるが激しく拒むこともなかったので、そのまま懐に入った。
そうしているうちに、道範は一物が痒くなってきたので、手で探ってみると、毛があるだけで一物が無くなっていた。道範は驚き、奇怪に思って、さらに探ってみたが、まるで頭の髪を探っているようで、まったく跡形もない。
道範は驚き仰天し、女のすばらしかったことも消し飛んでしまった。女は、道範がこのように探り回ってうろたえている様子を見て、少し微笑んでいた。
道範は、ますます何が何だか分かず、怪しく思われたので、そっと起き上がって、もとの寝所に返り、また探ってみたが、やはり無い。
何とも奇怪なので、側近く使っている郎等を呼んで、奇怪な事情は話さず、「あそこに、すばらしい女がいるぞ。わしも行ってきたが、何も遠慮はいらない。お前も行けばよい」と言うと、郎等は喜びながら、女の部屋へ行った。
しばらくすると、その郎等が返ってきた。実にいぶかしげな様子なので、「此奴も、同じ目に遭ったのだろう」と思い、また別の郎等を呼んで、同じように勧めてやったところ、その者も返ってくると、空を仰ぎ、大変腑に落ちない様子である。
このようにして、七、八人の郎等を行かせたが、皆返ってくると、その様子は同じようであった。
返す返す奇怪に思っているうちに、夜が明けたので、道範は心の内で、昨夜は、この家の主が親切にしてくれたのを、「有り難い」と感謝していたが、この事が大変腑に落ちず怪しいので、何もかも投げ棄てて、夜が明けると共に急いで出立した。
そして、七、八町ばかり行った時、後ろから呼ぶ声があった。見ると、馬を急がせてくる者がいた。追いついてきた者を見ると、泊まった家で食事などの世話をしてくれた郎等であった。その者が、白い紙に包んだ物を捧げ持っている。
道範は馬を止めて、「それは何か」と訊ねると、郎等は、「これは、郡司様が『差し上げよ』と申された物です。このような物を、どうして棄てて行かれるのですか。決まり通りに、今朝の食事などご用意しておりましたのに、よほどお急ぎだったのか、このような物まで落されていましたよ。そこで、拾い集めてお持ちしました」と言った。
そこで、差し出された物を、「何だろう」と思って開けてみると、松茸を集めて包んだようにして、一物が九つあった。
道範はあきれる思いで、郎等共を呼び集めてこれを見せると、八人の郎等共は、誰もが不審に思いながら、近寄って見てみると、九つの一物がある。それと同時に、あっという間にすべて消え失せた。使いの男は、これを渡すとすぐに引き返していった。
その時になって、郎等共は、「わしにも、そのようなことがあった」と言い出して、全員が自分の物を探ってみると、もとのように戻っていた。
そして、一行は陸奧国に無事到着し、金(コガネ)を受け取って返ったが、その途中、あの信濃の郡司の家に行き、宿泊した。
( 以下 ( 2 ) に続く )
☆ ☆ ☆
『 滝口の武者の災難 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 20 - 10 ) 』
( ( 2 ) から続く )
さて、道範の一行は、陸奧国からの帰途、あえて、あの郡司の家に宿泊することにした。
郡司には、馬や絹など様々の品を多く与えたので、郡司は大いに喜んで、「これはまた、どういうわけでこれほどの品々を頂戴するのでしょうか」と言った。
道範は郡司の近くににじり寄って、「まことに申し上げにくいことではありますが、以前ここにお世話なりました時、極めて怪しいことがございましたので、あれはどういう事だったのでしょうか。極めていぶかしい事なので、お尋ねしたいのです」と言った。
郡司は、たくさんの品物をもらったので、隠すことなくありのままのことを答えた。
「それは、私がまだ若い頃の事です。この国の奥の郡に、年老いた郡司に若い妻がおりましたが、その許に忍んで言い寄ったところ、一物を失ってしまいました。それで、何とも不審に思い、その郡司に熱心に頼み込んであの術を習ったのです。もし、本気であの術をお習いになりたいのでしたら、今回は多くの官物をお持ちのようですから、急いで上京なさって、その後に、改めておいでになって、心静かにお習いなさい」と言ったので、道範はその約束をして、京に上って金などを官に届けた上で、暇をいただいて信濃に向かった。
道範は、然るべき品を持って信濃へ行き、手土産として郡司に与えたので、郡司は喜び、「自分が持っているすべての術を教えよう」と思って、「この術は簡単に習得できるものではありません。七日の間堅固に精進して、毎日水を浴び、十分に身を清浄にしてから習うものですから、明日から精進を始めて下さい」と言った。
そこで、道範は精進を始め、毎日水を浴びて身を清めた。七日目が終る後夜(ゴヤ・一夜を初、中、後の三つに分けた最後の部分で、夜半から明け方にかけての頃。)の頃に、郡司と道範は他には誰も連れず、深い山に入った。やがて、大きな川が流れている辺りに着くと、「いつまでも三宝(ここでは「仏」といった意味。)を信じない」という願を立てて、様々なことを行い、言葉に出来ないような罪深い(仏の教えに反する、といった意味。)誓願を立てた。
その後、郡司は、「私は川上の方へ行きます。その川上からくる者があれば、鬼であれ神であれ、近寄って抱きつきなさい」と言い置くと、郡司は川上の方に行った。
しばらくすると、川上の方では、空が曇り雷が鳴り、風が吹き出し雨も降ってきて、川の水かさが増してきた。
しばらくその様子を見ていると、川上から、頭が一抱えほどもある蛇が、目は鋺(カナマリ・金属製の器)を入れたかのようにらんらんと輝き、首の下は紅の色で、背中は紺青や緑青を塗ったようにつやつやと光っている。
道範は郡司から、「下ってきた者に抱きつけ」と教えられていたが、大蛇を見ると、極めて怖ろしく、草の中にもぐり込んで隠れた。
しばらくすると、郡司がやって来て、「どうでしたか。抱きつくことが出来ましたか」と訊ねるので、「とても怖ろしくて、抱きつくことが出来ませんでした」と道範が応えると、郡司は、「大変残念なことでしたねぇ。そのようなことでは、とてもこの術を習得できませんよ。とはいえ、今一度試みてみましょう」と言って、川上に向かった。
しばらく見ていると、身の丈四尺ばかりもある猪が牙をむきだして、岩をハラハラと喰い崩し、火をヒラヒラと吹き出しながら、毛を逆立てて突進してくる。
道範は極めて怖ろしく思ったが、「これが最後だ」と覚悟して、飛びかかって抱きつくと、それは、三尺ばかりの朽木であった。
そこで、道範はとても残念で悔しく思った。「最初の大蛇も、きっとこのような物であったのだろう。どうして抱きつかなかったのか」と思っていると、郡司がやって来て、「どうでしたか」と訊ねるので、「今度はこのように抱きつきました」と答えると、郡司は、「あの、一物を失う術は習うことが出来なくなりました。けれど、何かを他のちょっとした物に変えたりする術は習うことが出来るようです。それをお教えしましょう」と言ったので、道範は、それを習って帰った。ただ、一物を失う術を習うことが出来なかったことは残念に思っていた。
さて、京に帰った道範は、参内し、滝口の陣において、武者たちが脱ぎ散らかしている沓などを、賭けをして、それらを犬の子に変えて這わせた。
また、古藁沓を三尺ほどの鯉に変えて、大盤(ダイバン・正しくは台盤。食物を盛った器を載せる足つきの台。)の上で、生きながら踊らせる、などといったことをした。
ある時、天皇がこの事をお聞きになって、道範を黒殿(黒戸の御所。滝口の陣に隣接している。)に召して、この術を習得なさった。
その後、御几帳の横木の上に、賀茂祭の行列を通らせることなどをなさった。
ところが、世間の人は、この事を良くは言わなかった。その故は、帝王の御身でありながら、絶対に三宝に反する術をなさることを、誰もが非難申し上げたのである。そうした術は、つまらない下賤の者がするのでさえ罪深いことなのに、帝王ともあろう御方が、このようなことをなさったので、後に、錯乱なさったのだのであろうか。
この術は、天狗を祭って三宝を欺くものであろう。
人間界には生まれ難く、仏法に巡り会うことは、さらにそれよりも難しい。それなのに、たまたま人間界に生まれて、仏法に会い奉りながら、仏道を棄てて、魔界に趣(オモム)こうとすることは、まさに、宝の山に入りて空手で帰り、石を抱いて深い淵に入て命を失うようなものである。されば、決してこのような術を習ってはならない、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 竜と僧との助け合い ・ 今昔物語 ( 20 - 11 ) 』
今は昔、
讃岐国[ 欠字。「那珂」が入る。]郡に、万能の池(満濃池)という極めて大きな池がある。その池は、弘法大師が、この国の人々を哀れんでお造りになった池である。
池の周囲は遙かに広く、堤を高く築き廻らしている。とても池のようには見えず、海のように見えた。池の内は底知れぬほど深いので、大小の魚は数知れず、また、竜の住み処になっていた。
ある時、その池に住んでいる竜が、日光を浴びようと思ったのであろうか、池から出て、人気の無い堤の辺りで、小さな蛇の姿になって、とぐろを巻いていた。
その時、近江国の比良山に住んでいる天狗が、鵄(トビ)の姿になってその池の上を飛び回っていたが、堤にこの小さな蛇がとぐろを巻いているのを見つけて、その体を反らすようにして降下して、あっという間にこの蛇を掴んで、空高く舞い上った。
竜は力の強い者ではあるが、思いがけず突然掴まれたので、抵抗しようもなく、ただ掴まれたままで連れて行かれた。天狗は、小さな蛇なので、掴み潰して喰おうとしたが、竜の筋骨は強力なので、思うように掴み砕いて喰うことが出来ず、もてあまし、遙か離れたもとの住み処である比良山に持っていった。そして、狭い洞穴の身動き出来ないような所に押し込めたので、竜は狭くて身動きもならず、どうすることも出来なかった。
一滴の水も無いので、空に飛び出すことも出来ない。ただ死ぬのを待つようにして、四、五日が過ぎた。
その間、この天狗の方は、「比叡の山に行って、隙を狙って、貴い僧をさらってやろう」と思って、夜に、東塔の北谷にある高い木に座って窺っていると、その正面に造りかけの僧房があり、そこにいる僧が縁側に出て、小便をして手を洗うために、水瓶を持って手を洗って中に入ろうとしているのを、この天狗が木から飛んできて、僧を引っ掴んで、遙か離れた比良山の住み処の洞穴に連れて行き、竜を閉じ込めている所に放り込んだ。僧は、水瓶を手にしたまま、呆然としていた。
「私もこれ限りか」と思っていると、天狗は僧を置くと、そのままどこかへ行ってしまった。
その時、暗い所から声が有り、僧に訊ねた。「お前は何者だ。どこから来たのか」と。
僧は、「私は、比叡山の僧です。手を洗うために僧房の縁側に出たところ、突然天狗に掴み取られて、連れて来られたのです。それで、水瓶を持ったまま来てしまったのです。ところで、そう申されるあなたは誰ですか」と答えた。
竜は、「わしは讃岐国の万能の池に住んでいる竜です。堤に這い出ていたところを、あの天狗が空から飛び降りてきて、突然掴んでこの洞穴に連れてきたのです。狭くて動くことも出来ず、どうすることも出来ないのですが、一滴の水も無いので、空に飛び出すことも出来ないのです」と言った。
すると僧は、「この持っている水瓶に、もしかすると一滴の水くらいは残っているかも知れません」と言った。
竜はそれを聞くと、喜んで、「わしはここに連れて来られて日を重ね、もはや命も絶えようとしています。幸いあなたが来て下さったので、お互いに命が助かることが出来そうです。もし一滴の水があれば、必ずあなたを本の住み処にお連れします」と言った。
僧も喜んで、水瓶を傾けて竜に与えると、ほんの一滴の水を受けた。
竜は喜んで、僧に教えて言った。「決して恐がらずに、目をつぶってわしに負ぶさって下さい。この恩は、次の世までも決して忘れることはありません」と。
そして、竜はたちまちに小童の姿に化して、僧を背負って、洞穴を蹴破って出たが、同時に、雷鳴がとどろき空は雲に覆われ雨が激しく降り出し、まことに奇怪な現象であった。
僧は体が震え肝を潰して恐ろしい限りであったが、竜を信頼できると思って我慢をして負ぶさっていくうちに、あっという間に比叡山の本の僧房に着いた。
僧を縁側に置くと、竜は飛び去って行った。
僧房の人々は、雷鳴がとどろき僧房に落雷したと思った瞬間、にわかに僧房の辺りは闇夜のようになった。しばらくすると晴れてきたが、見てみると、昨夜突然いなくなっていた僧が縁側にいた。僧房の人々は不審に思い訊ねると、事の有様を詳しく語った。
人は皆、それを聞いて、驚き不思議に思った。
その後、竜はあの天狗に恨みを晴らそうと思って捜していると、天狗が京で寄進を募る荒法師の姿になって歩いていたので、竜はそれを見つけて空から降り下って殺してしまった。すると、天狗は翼の折れた糞鵄(クソトビ)になって、道行く人に踏みつけられていた。
あの比叡山の僧は、竜の恩に報いるために、常に経を誦し、善根を修め続けた。
まことにこれは、竜は僧の徳によって命が助かり、僧は竜の力によって山に帰ることが出来たのである。
この話は、かの僧が語ったのを、聞き継いで、
語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 浄土に迎えられたはずの聖人 ・ 今昔物語 ( 20 - 12 ) 』
今は昔、
美濃国に伊吹山という山がある。
その山で長年修行している聖人がいた。浅学無知で法文を学ばず、ただ弥陀の念仏を唱える以外の事は何も知らない。名は三修禅師(829 - 900 ・権律師になっているので、浅学無知が正しいかどうか疑問。)といった。余念なくただ念仏を唱えて、長年が過ぎた。
ある時、夜深くに念仏を唱えながら仏前に座っていると、空から声がして、聖人に告げた。「汝は熱心に我を頼みとしている。念仏の数も多く積もったので、明日の未時(ヒツジノトキ・午後二時頃)に我がやって来て汝を迎えよう。努々(ユメユメ・決して)念仏を怠ることなかれ」と。
聖人はこの声を聞いて後、いよいよ心を込めて念仏を唱えて怠ることがなかった。
そして、明くる日になったので、聖人は沐浴し身を清浄にして、香をたき花を散らして、弟子たちに告げて、一緒に念仏を唱えながら、西に向かって座っていた。
やがて、未時が過ぎようとする頃、西の山の峰の松の木の間から、しだいに光り輝くものが見えた。聖人はこれを見て、ますます熱心に念仏を唱え、手を合わせて礼拝し、見れば、仏(阿弥陀仏)の緑の御頭が差し出されてきた。金色の光に包まれている。御髪の生え際は金色に磨かれたようであり、眉間の白毫(ビャクゴウ)は秋の月が空に輝くように、御額(ヒタイ)に白い光りがきらめいている。二つの眉は三日月の如くして、二つの青蓮花のような御眼は遠くを見やり、静かに月が昇って来るかのようである。
また、様々の菩薩は、妙なる音楽を奏で、その尊さはたとえようもない。
また、空からは様々な花が雨のように降ってくる。
仏は眉間の光りを放たれて、聖人の顔をお照らしになる。
聖人はまったく他念なく、ひたすら拝み入り、念珠の緒も切れんばかりであった。
やがて、紫の雲が厚くたなびき、聖人の庵の上を覆った。同時に、観音は紫金の蓮花台を捧げ持って聖人の前にお寄りになる。聖人は這い寄ってその蓮花台に乗る。仏は、聖人を迎え取って、遙かなる西に向かってお還りになった。
弟子たちはこれを見て、念仏を唱えながら尊ぶことこの上なかった。
その後、弟子たちはその日の夕べより、その僧房において念仏の法事を始めて、熱心に聖人の後世を弔った。
その後、七、八日を経て、その僧房の下仕えの僧たちが、念仏供養をしている僧たちに沐浴させるために、薪を取るために奥の山に入ったが、谷あい遙かに覆っている高い杉の木があった。
その木の梢で必死に叫んでいる者の声がする。よく見てみると、法師が裸で縛られて、木の梢に結びつけられている。これを見て、木登り上手の法師がすぐに登ったみると、極楽に迎えられた我が師僧が、切り取った蔦で縛り付けられていたのである。
木に登った法師はこれを見て、「お師僧様はどうしてこんな目にお遭いなのですか」と言って、泣く泣く近寄って解こうとすると、聖人は、「御仏が『すぐに迎えに来てやる。しばらくこのままにしておれ』と申されたのだ。どうして、解いて下ろそうとするのか」と言ったが、かまわず近寄って解くと、「阿弥陀仏さまァ、私を殺そうとする人がありますゥ、おう、おう」と大声を挙げて叫んだ。
それにかかわらず、法師たちは何人も登って、蔦を解いて木から下ろし、僧房に連れ帰ると、僧房にいた弟子たちは、皆情けなくなって泣き合った。
聖人は、すっかり正気をなくし、錯乱したまま二、三日経って死んでしまった。強い信仰心を持った尊い聖人といえども、知恵(物事の道理を判断する力。信仰心だけでは十分ではない、ということらしい。)がなければ、このように天狗にたぶらかされるのである。弟子たちも又、何も気付かず、ふがいないことだ。
このような魔縁(マエン・悪魔などで、天狗もその仲間としている。)と三宝(ここでは、仏の世界といった意味。)とは、まったく似てもいないが、知恵がないためにそれに気付かず、このようにたぶらかされたのである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 菩薩に矢を射た猟師 ・ 今昔物語 ( 20 - 13 ) 』
今は昔、
愛宕護の山(愛宕山に同じ。京都北西部にある。比叡山と対峙して王城鎮護の地として知られる。)に長らく仏道修行する持経者(ジキョウシャ・経典、とくに法華経を信奉する修行者。)の聖人がいた。
長年、法華経を信奉して他に心を移すことなく、僧房の外に出ることもなかった。しかし、知恵なくして法文を学んだことがなかった。
さて、その山の西の方に、一人の猟師が住んでいた。鹿や猪を射殺すのを仕事にしていた。ところが、この猟師はこの聖人をたいそう尊んで、常に自ら訪れて、時には然るべき物などを供養した。
ある時、猟師はしばらくこの聖人のもとを訪れていなかったので、餌袋(エブクロ・食糧を入れた。)に然るべき果物などを入れて持って行った。
聖人は喜んで、会わなかった間の気掛かりなことなどを話していたが、そのうちに身を近づけて、「最近、極めて貴い事がありましたよ。私が長い間、余念なく法華経を信奉している霊験なのか、このところ毎晩、普賢菩薩様がお姿をお見せになられるだよ。だから、今夜はここに留まって拝み奉りなさい」と言った。
猟師は、「極めて貴いことでございますなあ。それでは、このままここに留まっていて、拝ませていただきましょう」と言って、留まった。
ところで、この聖人の弟子に幼い童がいた。
猟師は、その童に「聖人は『普賢菩薩様がお姿をお見せになる』と仰せですが、お前さんもその普賢菩薩様を拝見したのか」と訊ねた。
童は、「はい、五、六度ばかり拝見しました」と答えた。
猟師は、「それでは私でも拝見できるかも知れない」と思って、聖人の後ろで寝ないで待っていた。
九月二十日余りの事なので、夜もたいそう長い。今や今やと待っていると、真夜中も過ぎたかと思われる頃、東の峰の方から、月が顔を出した時のように、白々と明るくなり、峰の嵐が辺りを吹き払うように吹くと、この僧坊の内にも月の光が差し込んできたように明るくなった。
見れば、白い色の菩薩が、白象(ビャクゾウ・白象は普賢菩薩の乗り物。)に乗って、しだいに下って来られる。
その有様は、まことに有り難く貴い。菩薩は近付いてきて、僧房の正面のごく近くにお立ちになった。
聖人は、涙を流して礼拝恭敬して、後ろにいる猟師に「いかがか。お前さんも拝み奉ったか」と言った。猟師は、「たいそう有り難く拝ませていただきました」と答えたが、心の内では、「聖人は、長年法華経を信奉し奉っていらっしゃるので、目に見えるのも尤もかもしれない。だが、この童やわしなどは経も知らず信奉もしていないのに、このように姿が見えたのは、極めて怪しいことだ。ほんとうかどうか試してみても、信仰心を起こすためであれば、きっと罪を得るようなことはあるまい」と思って、鋭雁矢(トガリヤ・先が鋭く4枚の羽をつけた矢。)を弓につがえて、聖人が懸命に拝み臥している上を越して、弓を強く引いて矢を放てば、菩薩の御胸に命中したと思われたと同時に、火を打ち消すように光が消えた。そして、谷の方に向かって地響きを立てて逃げていく音がした。
聖人は驚き、「いったい何をなされたのか」と言って、大声で叫び泣きながら大騒ぎする。
猟師は、「お静かになさい。どうも納得がいかず怪しい気がしましたので、試してやろうと思いまして矢で射たのですよ。決して罪を受けるようなことはありませんよ」と丁寧になだめたが、聖人の悲しみはおさまらない。
夜が明けてから、菩薩が立っていた所に行ってみると、血がたくさん流れていた。その血の跡を辿っていくと、一町ばかり下った谷底に、大きな野猪(クサイナギ・狸との説もあるが、よく分らない。)が、胸から背中に掛けて鋭雁矢に射貫かれて倒れて死んでいた。聖人はそれを見て、悲しみの気持ちも醒めてしまった。
されば、聖人だといっても、知恵なき者はこのように謀(タバカ)られるのである。専らに殺生の罪を犯している猟師であっても、思慮があれば、このように野猪を射て化けの皮を剥がすことが出来るのである。
このような獣は、このように人を謀ろうとするのである。しかしながら、このように命を失うことになり、実につまらないことだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 欠話 ・ 今昔物語 ( 20 - 14 ) 』
第十四話は、「野干変人形請僧為講師語第十四」という標題があるだけで、本文はまったく記されていません。
標題の中の「野干」は、狐のことのようなので、狐が人を化かした、といった話かと想像できますが、当初から本文は書かれていなかったようです。
☆ ☆ ☆
『 放生の功徳 ・ 今昔物語 ( 20 - 15 ) 』
今は昔、
摂津国東生郡撫凹村(ナデクボムラ・大阪市東成区ともされるが、所在よく分らない。)という所に住んでいる人がいた。家は大いに富み、財産は豊かであった。
さて、その人は神の祟りを受け、それから遁(ノガ)れようとして祈祷しお祭りをしたが、その為に毎年一頭の牛を殺したので、その祭を七年間続けたので、その間に七頭の牛を殺したのである。
七年間の祭が終った後、その人は重い病にかかった。それから又七年間、医師に掛かって治療を続けたが治らないので、陰陽師に尋ねてお祓いをしたがやはり治らない。
そのうち、病はますますひどくなり、体はしだいに衰弱して、まさに死を待つばかりになった。
そこで、病者は心のうちで、「自分がこのように重い病にかかり、もだえ苦しむのは、長年にわたって牛を殺した罪によるものだ」と思って、この事を悔い悲しんで、毎月の六節日(ロクセチノヒ・六斎日のこと。月に六日、八戒を守り功徳を積む日。)には必ず戒律を守り、また方々に使いを出して、多くの生類(生き物)を買って、放生を行った。
ところが、その七年目になって、遂に死んでしまった。
その死に際に、どう思ったのか妻子を呼んで、「私が死んだ後、すぐに葬ることなく、九日間そのままにしておくように」と言い置いた。
そこで、妻子は遺言にしたがって、しばらく葬らずにいると、九日目に蘇(ヨミガエ)って、妻子に語った。
「私が死んだ時、頭が牛の頭で体は人の形をした者が七人やって来て、私の髪に縄を付け、その縄を取って、私を取り囲んで連行したが、道の先を見ると、厳めしく造られた楼閣がありました。
『これはどういう宮殿ですか』と訊ねると、この七人の者は眼を怒らせて、私を睨むだけで何も言わない。そのまま門の内に連行すると、気高く立派な人が出てきて、私とこの七人を呼んで、向かい合わせて仰せになった。「この者は、お前たち七人を殺した者だ」と。
すると、この七人の者は、まな板と刀を持っていて、『膾(ナマス)にして食ってやろう。此奴は、我等を殺した敵なのだからな』と言いました。
ところが、その時にわかに、千万の人が現れて、私が縛られている縄を解いて言いました。「この事は、この者の罪ではない。この者は、祟っている鬼神を祭るために殺したのだ。だから、鬼神の罪なのだ』と言いました。
こうして、この七人の者と千万の人の間で、罪が有るか無いかを連日に渡って訴えあったが、火と水の如く結論が出ませんでした。そのため、閻魔大王はこの理非の判断をなさることが出来ませんでした。
ところが、七人の者は、なお頑強に『この者は我等の四本の手足を切り、神霊の廟に祭りました。だから、何としてもこの者をもらい受けて、膾にして食うのだと主張しました。
千万の人も『我等はこの事情をよく知っています。決してこの者に罪は有りません。鬼 神の罪なのです』と王に申し上げて、争いました。
王はこの事の裁定に悩まれて『明日また参れ。そこで判断しよう』と仰せになられて、それぞれ引き取らせました。
九日目になり、また集まりましたが、訴え合うことは前と同じでした。そこで、王は「数が多い方ということで、この判定をしよう』と仰せになって、千万の人の方が正しいと判定を下されました。
七人の者はこれを聞いて、舌なめずりをして唾を呑み込み、膾を作る真似をして、それを食べるような格好をしながら、悔しがり嘆いて、それぞれが『恨みを報いられなかったことは極めて残念だ。我等は絶対をこれを忘れない。後で必ずこの報復をしてやる』と言って、去って行きました。
千万の人は私を敬い、取り囲んで王宮を出ると、私を輿に乗せて送ってくれました。
その時、私は『あなた方はどういうお方ですか。どうして私を助けてくれたのですか』と訊ねました。すると、その人たちは『我等は、あなたが長年にわたって、買い取って放してくれた生き物です。あの時のご恩を忘れられず、今お返ししたのです』と言いました」
と、こう語ったのである。
その後は、いよいよ心から信仰心を起こして、鬼神を崇めることなく、深く仏法を信じて、自分の家を寺にして、仏を安置し奉り、修行に勤めた。また、ますます放生を行い、怠ることなく続けた。
これ以来、この人のことを那天宮(ナテングウ・人名として扱っているが、ほんとうは寺の名前のことらしい。)と言うようになった。
やがて、臨終を迎えた時、身に病はなく、年九十余りで命を終えた。
されば、放生は、信仰心のある人であればもっぱら行うべきことである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆