雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  青葉の笛

2013-07-01 08:00:55 | 運命紀行
          運命紀行
               青葉の笛


『 「あはれ大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」
と扇をあげてまねきければ、招かれてとってかえす。
汀にうちあがらんとするところに、おしならべてむずとくんでどうどおち、とっておさへて、頸(クビ)をかかんと甲をおしあふのけてみければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧して、かね黒なり。我子の小次郎がよはひ程にて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。

「抑(ソモソモ)いかなる人にてましまし候ぞ。名のらせ給へ。たすけ参らせん」
と申せば、
「汝はたそ」
と問ひ給ふ。
「物その者で候はねども、武蔵国住人、熊谷次郎直実」
と名のり申す。
「さては、なんぢにあうてはなのるまじいぞ。なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をとって人に問へ。見知らうずるぞ」
とぞ宣(ノタマ)ひける。

熊谷、「あっぱれ大将軍や。此人一人うち奉ったりとも、まくべきいくさに勝つべきやうもなし。又うち奉らずとも、勝つべきいくさにまくる事もよもあらじ。小次郎がうす手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、此殿の父、うたれぬと聞いて、いか計(バカリ)かなげき給はんずらん。あはれたすけ奉らばや」
と思ひて、うしろをきっと見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりでつづいたり。

熊谷涙を押さへて申しけるは、
「たすけ参らせんとは存じ候へども、御方(ミカタ)の軍兵雲霞(ウンカ)のごとく候。よものがれさせ給はじ。人手にかけ参らせんより、同じくは直実が手にかけ参らせて、後の御孝養をこそ仕(ツカマツ)り候はめ」
と申しければ、
「ただとくとく頸をとれ」
とぞ宣ひける。 』

以上は平家物語からの抜粋である。
少し長くなったが、平家が西国へ落ちていく途上、須磨一の谷の合戦の名場面である。

時は、寿永三年(1184)二月、鎌倉方の御家人、熊谷次郎直実(クマガイジロウナオザネ)は、源義経の軍勢に加わっていた。
鎌倉軍の主力部隊は、源範頼が率いていて、海岸線からの正面攻撃を目指していた。
一方の義経軍は、奇襲部隊として丹波路から内陸部を進み、平家軍の背後を襲う奇襲部隊であった。
そして、険しい山中を進み、平家陣営の背後から鵯越えの逆落しと呼ばれる急襲をかけた。一の谷での激しい戦いで、熊谷直実は、息子の小次郎直家と郎党と共に一番乗りで突入する武功を上げている。しかし、平家の軍兵に囲まれて、同僚の平山季重らと共に討死しかけている。息子の直家はこの時傷を受けたらしい。

戦いは鎌倉方の勝利が明らかになってゆき、平家軍は舟で海上に逃れ始めた。おびただしい軍船を備えている平家軍は、逃れてくる武者たちを収容しながら沖へと漕ぎ出ていった。
直実は、傷を負った直家の敵を討つべく、軍船に逃れようとする大将格の武者を捜し求めていた。
そこへ、平家の公達、平敦盛が現れ、冒頭の場面となるのである。

直実は、涙ながらに敦盛の頸(首)を取る。そして、若武者が錦の袋に入れた笛を腰に差しているのに気付いた。
さては、この日の明け方、敵陣から聞こえてきた笛の音はこの人が奏でていたのか。味方の東国武士は何万騎もいるだろうが、戦陣に笛を持ってきているものなどいるまい・・・。
直実が、この若武者が修理大夫経盛の子息敦盛であることを知るのは、頸を御大将源義経に披露した時だが、まだ十七歳(実際は十六歳)の若武者の頸を取ったことに悔いる気持ちは膨らんでいった。

敦盛が身につけていた笛は、敦盛の祖父平忠盛が鳥羽院から与えられたもので、父経盛を経て相伝した物であった。
笛の名は、平家物語によれば「小枝(サエダ)」という。ただ、敦盛の物語は謡曲でも伝えられており、こちらでは「青葉の笛」となっている。
謡曲「敦盛」は、織田信長が「人間五十年 下天のうちにくらぶれば 夢幻のごとくなり・・」と事あるごとに詠ったことでも知られていて、一の谷の悲劇は今に伝えられているのである。


     * * *

「平家物語」の名場面であり、さらに謡曲「敦盛」も加わって、一の谷の合戦の一エピソードは史実を超えて、一つの物語として完成しているかに見える。
そして、その物語の主人公は、敦盛であり、熊谷直実という人物は脇役に甘んじているように思われる。
しかし、直実の生涯の一端を覗いてみると、当時の東国武士の意気地が色濃く出ているように思われるのである。

熊谷直実は、永治元年(1141)、武蔵国大里郡熊谷郷(現在の熊谷市)で誕生した。
幼名は弓矢丸と名付けられたが、長じて後も弓の名手であり豪の者であったらしい。
熊谷氏は、桓武平氏・平貞盛のの孫維時の子孫と称していたが、武蔵七党と呼ばれる豪族の流れともいわれる。
父・直定の時代から大里郡熊谷郷の領主となり熊谷氏を名乗った。従って、地方領主の息子ということになる。

しかし、父が早くに亡くなったため、母方の伯父・久下直光に養われている。このあたりの経緯が今一つはっきりしないが、どうやら領地ごと久下氏の庇護を受けることになったらしい。
久下氏も、熊谷郷と隣接する久下郷を領有する豪族であり、親しい関係にあったのだろう。
保元元年(1156)の保元の乱では源義朝の指揮下で働き、平治の乱では源義平に属していたようだ。まだ十代の頃のことであるが、さしたる戦功は伝えられておらず、むしろ、生き延びられたことが幸運ともいえる。
その後、久下直光の代理人として京都に上ったが、久下氏の家人扱いで一人前の武士として扱われないことに不満を抱き、久下氏のもとを離れ自立することを決意し、平知盛(清盛の四男)に仕えた。
この時には、熊谷郷は直実の管轄下にあったようであるが、直光にすれば、直実は自分の代官か家来という立場と考えていて、熊谷郷も管理させてるつもりだったと思われる。
このため、熊谷郷の所有をめぐって両者は対立を続けることになる。

源頼朝が挙兵する直前に、直実は大庭景親に従って東国に下った。当然平家軍の一員としてである。
治承四年(1180)の石橋山の戦いを機に頼朝に臣従して御家人の一人となっている。常陸国の佐野氏との戦いで戦績をあげ、熊谷郷の支配権を安堵された。
これにより、直実は歴とした熊谷郷の領主となったはずだが、久下直光にすれば、だまし取られたような気持ちだったのかもしれない。

その後、源平の戦いでは各地を転戦し相当の武勲も上げている。
謡曲「敦盛」では、一の谷の合戦で嫡男直家が戦死したことになっているが、実際は負傷を負っただけである。直家も武勇に優れた人物だったようで、直実が出家した後は家督を継いでいる。

建久三年(1192)のことであるから、頼朝が征夷大将軍について鎌倉幕府が本格稼働し始めた頃のことである。
不仲が続いていた直実と久下直光とは、かねてからの領地の境界を巡る争いが激しさを増し、ついに頼朝の面前で決着させることになった。
武勇に優れているが口下手な直実は、頼朝の質問にうまく応答することが出来なかった。応答の拙さに加え、有力御家人の梶原景時が直光びいきであったらしく、直実に質問が集中し、詰問されるような状態になった。ついに堪忍袋の緒が切れてしまった直実は、
「景時めが直光を贔屓にして、都合の良いことばかりをお耳に入れたらしい。直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は、何を申し上げても無駄なことだ」
と大声をあげ、証拠書類を投げ捨てて座を立ってしまった。そして、刀を抜くと、髻(モトドリ)を切り、自宅にも帰らず、逐電してしまったという。
頼朝は、あまりのことにただ唖然としていたと伝えられている。

この後、ほどなくして直実は出家したようであるが、家督を没収されたということはなく、嫡男直家が熊谷郷を相続している。
このあたりまでの熊谷直実という人物の行動を見ていると、東国武士の心意気が感じられる。
まず、武士にとって、領地が何よりも大切だということがよく分かる。「いっしょうけんめい」という言葉があるが、現在では「一生懸命」と書くのが普通だが、もともとは「一所懸命(イッショケンメイ)」の意味とした使われていたのである。つまり、わが領地を命を懸けて守るということである。それは、直実ばかりでなく、直光にとっても譲れない意地であったのだと思われる。

さらに、直実は、主君を次々と替えている。まず、主君とも親代わりともいえる久下直光を捨て、平知盛の旗下に移っている。理由は、自分を生かすことのできる主人を選ぶことに罪悪感などなかったと思われる。主君を平氏から頼朝に替えるのも同じ心境と思えるし、その頼朝に対しても、わが領地のためであれば、いくら口下手であっても不満であることを堂々と意思表示しているのである。
そして、もう一つ、見事なまでの身の振り方である。出家に至るには、敦盛の一件が少なからずあったのかもしれないが、我が意叶わずとなれば、見事なまでに決断することが出来たのである。それが、東国武士の心意気なのか、熊谷次郎直実という人物なればこその行動なのかは分からないが。

頼朝のもとを去った翌建久四年(1193)の頃、直実は法然の弟子として出家している。法名は法力房蓮生という。
出家の時期や経緯などについては幾つかの伝承がある。

敦盛を討ったことへの想いからも出家を考えていたが、その方法が分からず、直実は法然のもとを訪ねる。強引に面会を求めた直実は、「後生」について、真剣に訪ねたという。
法然は、「罪の軽重はいはず、ただ念仏だにも申せば往生するなり。別の様なし」と答えたという。
その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本も斬り落とそうかと思っていた直実は、涙にむせんだという。

出家後も、衣の下に鎧を着けていたり、後に頼朝と面会した時には、武士に復帰することを勧められたともいう。出家後も、武士の雰囲気を滲ませていたのかもしれない。
出家後の直実がどのような僧侶であったのか、幾つかの資料を読んでみても今一つよく分からない。
ただ、次々と寺を創建しているのである。開山した寺院は十を越える。
どうやら直実は、城を築くような気持ちで寺院を創建していったのではないだろうか。

敦盛を始め、これまで討ち取ってきた人の命は数知れず、あるいは父母や近親者に対する弔いの気持ちは小さくなかったことであろう。
しかし、熊谷次郎直実という男には、たとえ頭を丸め墨染めの衣をまとっていても、念仏三昧の生活は似合わないように思えてならない。悔恨の気持ちがどれほど大きくとも、もっと積極的な形で亡くなった人たちの霊を慰めようとしたように思うのである。
その行動の一つが、次から次へと寺院を創建することであったのではないか。そう思うのである。

                                   ( 完 )

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