雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  想夫恋

2013-07-07 08:00:57 | 運命紀行
          運命紀行
               想夫恋


『 亀山のあたりちかく、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞきこえける。
峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめてゆくほどに、片折戸したる内に琴をぞひきすまされたる。
ひかえて是をききければ、すこしもまがふべうもなき、小督殿の爪音なり。楽はなんぞとききければ、夫を想うて恋ふとよむ、想夫恋といふ楽なり。
さればこそ、君の御事思ひ出で参らせて、楽こそおほけれ、此楽をひき給ひけるやさしさよ。ありがたうおぼえて、腰より横笛ぬきいだし、ちッとならいて、門をほとほととたたけば、やがてひきやみ給ひぬ。
高声(コウショウ)に、「是は内裏より、仲国が御使に参って候。あけさせ給へ」とて、たたけどもたたけどもとがむる人もなかりけり 』

以上は、平家物語からの抜粋である。
高倉帝と小督(コゴウ)との哀しくも美しい物語は、平家物語の中でも秀逸と言っても過言ではないだろう。
特に、一部を抜粋した嵯峨野に仲国が小督を捜しに行くあたりは、「能」の舞台でも演じられ、また、民謡黒田節の二番にも詠われ、今日に伝えられている。

中納言・藤原成範の娘小督は、類稀な美貌の持ち主であり、筝(ソウ・琴)の名手として貴族たちに広く知られていた。
やがて、大納言・冷泉隆房が小督のもとに通いつめていた。隆房にはすでに正妻がいたが、美しい小督に強く魅かれ、小督もその愛情を受け入れて二人は結ばれる。
それから間もなく、その小督に宮中からのお召があったのである。

高倉帝はもともと体が弱かったようであるが、この頃には皇位や摂関家、あるいは平家との軋轢が絶えることなく、精神的にも追い込まれていた。
その帝を慰めるべく、筝の名手と噂の高い小督に声がかかったのである。
しかし、高倉帝は、演奏の素晴らしさにも増して小督の美しさに魅かれ、たちまちのうちに第一番の寵妃となってしまったのである。当時、天皇ばかりでなく、貴族たちの殆どが何人もの妻を持つことは当然であり、高倉帝にも何人もの妃がいたので、本来難しい問題になることではなかった。

だが、小督に対して大変な憎しみを示す人物が登場するのである。時の実力者平清盛であった。
高倉帝の中宮は清盛の娘であるが、小督の前の想い人である冷泉隆房の正妻も清盛の娘だったのである。
二人の娘の夫の寵愛を奪い取ってゆく小督はけしからん、というわけである。
身の危険を感じた小督は密かに御所を脱出して、嵯峨野のあたりに身を隠したのである。

小督が宮中からいなくなると、高倉帝の病状は悪化し、その原因を知っている側近たちは小督を捜し始める。そして、ついに、嵯峨のあたりの、片折戸(カタオリド・片開きの扉)のある家に隠れ住んでいるとの情報を掴んだのである。
帝の近臣である源仲国は、片折戸と筝の音色を頼りに嵯峨のあたりを捜しまわり、ついにその家を見つけたのが、冒頭の場面である。

再び宮中に戻った小督に対する帝の寵愛はさらに増し、清盛の憎しみもさらに増していった。
そして、治承元年(1177)十一月、小督が高倉天皇の第二皇女を出産すると、清盛は小督を強引に御所から追放し、清閑寺において出家させられてしまうのである。
その後二人は二度と逢うことはなく、失意の高倉帝は治承五年(1181)一月、二十一歳という短い生涯を終える。
さらに、それから間もない閏二月には、清盛も亡くなっているが、単なる偶然に過ぎないのだろうか。

出家後の小督の消息は、ほとんど伝えられていないようである。
わずかに、元久二年(1205)に、藤原定家が小督の病床を見舞ったとの記録が、その日記に残されているばかりで、哀しくも華やかな宮中での生活はあまりにも短く、強制的に選ばされた出家後の生活は少なくとも三十年に近く、その一端を知りたいものである。


     * * *

高倉帝と小督の美しい物語は大切にするとして、僅かな資料をもとにしてであるが、小督の本当の生涯がどのようなものであったかさぐってみよう。

小督は保元二年(1157)に誕生した。父は中納言・藤原成範である。また、この頃政治の中枢で活躍していた信西(藤原通憲)は、祖父にあたる。
もっとも、信西は小督が四歳の頃には、平治の乱の混乱の中殺害されているが、平清盛との関係は悪くなかった。
従って、わが娘のことを心配してのこととはいえ、清盛が小督の身に危険が及ぶほどの迫害を加えたというのは、少々大げさのようにも思える。

小督が見目麗しく笙の名手であったことは事実らしい。当時のことであるから、多くの公達たちからの誘いがあったものと思われるが、大納言・冷泉隆房の愛を受け入れる。
隆房には、すでに清盛の娘が正妻になっていたし、他にも通う女性はいたはずである。ただ、当時は通い婚であり、貴族が複数の妻を持つのは普通であった。また、女性も夫あるいは想い人を替えていくのも珍しいことではなかった。純愛とか貞操とかといった観念は、江戸時代の武家社会と同一視することは出来ない。

やがて、高倉天皇のもとに参内することになるが、この切っ掛けを作ったのは、清盛の娘である中宮徳子であった。高倉帝の寵愛していた葵前が身分が低いため離されることになり、気落ちしていた高倉帝を慰めるために小督を宮中に迎えたらしい。
おそらく小督が十九歳くらいの時と思われるが、そうすると高倉帝は十五歳、徳子は二十一歳くらいである。
中宮徳子が小督を参内させたのは、単に笙の名手としてなのか、天皇の寵愛を受けることを前提にしていたのかは分からないが、美貌の持ち主として知られていたというから、天皇の御手付きになることは覚悟していたと思われる。ただ、予想以上に高倉帝は小督にのめり込んでしまったらしい。

源仲国の努力により宮中に戻った小督は、再び高倉帝の寵愛を受け、治承元年(1177)十一月に皇女を生む。
この時点では、中宮徳子には子供はなく、清盛が小督をひどく憎んだというのは、徳子より先に他の妃に皇子が誕生することを恐れたからだと考えられる。小督は、このあと清盛の迫害を受け、出家させられるが、もし皇女ではなく皇子を生んでいれば、さらに悲惨な結果を招いていたかもしれない。

小督が出家させられた清閑寺は、当時は清水寺と並ぶほどの大寺であったらしい。
この後、小督の消息は極端に少なくなる。同時に、幾つもの伝承があるようだ。
まず、高倉帝が葬られた御陵にも近い、清閑寺の近くの庵で、帝の後生を弔いながら四十四歳くらいで亡くなったと伝承されている。
また、黒田節の中に「峰の嵐か松風か・・・」と詠われているのは、小督が九州に下ったからで、二十数歳の若さで世を去ったという伝承もあるらしい。
あるいは、長年嵯峨あたりで隠遁生活をしたあと、大原に移り、八十歳で往生したとするものもある。

その中で、歴史的資料として信頼性が高いと思われるものは、藤原定家の日記にある「嵯峨で小督の病床を見舞った」というものと考えられる。また、時期ははっきりしないが、定家の同母姉にあたる人物が「嵯峨で二十余年ぶりに出会い、その変りように驚いた」といった記事を書き残している。
二つの情報は同じものかもしれないが、これらを合わせれば、少なくとも元久二年(1205)、つまり小督は四十九歳の頃までは健在であったと思われる。
ただ、定家の姉の記事の内容から、零落した小督の晩年を想像しがちになってしまう。

しかし、本当にそうであったのだろうか。少なくとも私は、出家後の小督の生活は、世捨て人のようなものであったかもしれないが、それなりに充実した月日を送ったと思うのである。
そのヒントは、小督が高倉帝との間に設けた皇女にある。

その女の子は、母が出家した後は、中納言藤原光隆の七条坊門の邸で育てられた。
同時に、母は清盛に追放されたとされているが、その娘である中宮徳子の猶子とされ、翌年には内親王宣下を受け範子(ハンシ/ノリコ)内親王と命名されている。正式な皇女として認知されたわけである。
内親王宣下と共に賀茂斎院に卜定され、慣例に従い二年後に紫野院(斎院御所)に入った。但し此処での生活は、高倉上皇の崩御により一年ほどで終わる。

その後は、再び七条坊門の邸で育てられ、生活したと思われるが、時代は源平が激突する激しい戦乱の時へと移っていった。戦乱を避けるため、再三、五辻第に避難したようである。この邸は、鳥羽天皇の第七皇女頌子(ショウシ/ノブコ)内親王の邸であるが、やがて譲り受けて住居としている。頌子内親王も賀茂斎院を勤めており、範子内親王に好意的であったのかもしれない。
やがて、平氏は滅亡し、範子内親王を取り巻く環境は変わっていった。

建久六年(1195)には、准三后の待遇を受け、建久九年(1198)に土御門天皇が即位すると准母となり、やがて皇后待遇を与えられている。建永元年(1206)には院号が宣下され、坊門院が与えられている。
そして、承元四年(1210)、三十四歳で病気のため一条室町第で亡くなっている。
結婚や子をなすことはなかったが、第一級の皇族女性としての生涯を送ったのである。

時代が鎌倉時代へと移っていく中で、准三后や皇后、あるいは女院(門院)に対する経済的な恩恵は少なくなっていると考えられるが、並の貴族などに引けを取らない待遇は与えられていたはずである。
そうだとすれば、東山にしろ嵯峨野にしろ都近くにいる母親を少なくとも経済的には零落させるようなことはなかったはずである。
定家の姉が、「二十余年前とは変わり果てた姿」と小督の様子を伝えているが、それは決して零落した姿ということではなく、宮中にあった艶やかな姿に対して墨染の衣に身を包んだ姿を指したのではないだろうか。

宮中を去った後の小督は、身は墨染に包まれながらも、精神的には豊かな時を送ったものと思うのである。おそらく、娘の成長を遠く離れてはいても楽しみにしながら、経済的には決して困窮することなどなく、慎ましやかな日々を送ったはずである。
そして、嵯峨野から大原に移ったという伝承があるようだが、もしかすると、案外事実だったのかもしれないと思うのである。いや、思いたいのである。
大原の地には、壇ノ浦の悲劇を抱きながら念仏三昧の日々を送っている建礼門院(中宮徳子)がいたからである。もしかすると二人は、時には共に白湯など飲みながら、人の世の無常などを語り合ったのかもしれない、と思うのである。

                                       ( 完 )



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