運命紀行
祇王哀れ
『 入道相国、一天四海を、たなごころのうちににぎり給ひしあひだ、世のそしりをもはばからず、人の嘲(アザケリ)をもかへりみず、不思議の事をのみし給へり。たとへば其比(ソノコロ)、都に聞こえたる白拍子の上手、祇王、祇女とて、おとといあり・・・ 』
平家物語でよく知られている祇王の物語は、このような書き出しで始まる。
つまり、「入道相国(平清盛)は、天下を握ると世間の非難に耳も貸さず、不思議(わがまま放題)の事ばかりされた。例えば、その頃都で評判の白拍子の名手に、祇王、祇女という姉妹がいたが・・・」と、清盛の無頼な振舞いの例として、祇王の物語は紹介されているのである。
少し長くなるが、物語のあらましを追ってみよう。
とじという白拍子に、祇王、祇女という二人の娘がいた。姉妹共に白拍子の上手として都に知れ渡っていた。
ところで、この時代、「白拍子」という存在がよく登場してくる。源義経の恋人静御前も白拍子である。この言葉について少し調べてみよう。もともとは、「白・拍子」という意味で、雅楽などで無伴奏あるいは拍子だけで歌うことを指す。また、この時代に起こった歌舞を指すこともある。
一般的には、その歌舞を演じる遊女を指すことが多い。水干に立烏帽子、白鞘の刀を指して舞う男舞である。神仏の縁起・恋愛・慶賀などを内容とした今様を謡いながら舞うもので、清盛の時代の頃には、貴族層にも人気があった。
本題に戻る。
清盛は、姉の祇王を寵愛したが、それによって世間の人々は妹の祇女ももてはやすことひととおりでなかった。清盛は、母のとじに立派な家を造ってやり、毎月米百石、銭百貫が与えられ、一家は豊かなことこの上なかった。
都中の白拍子たちは祇王の幸運のすばらしさを、うらやむ者もあり、ねたむ者もあった。
うらやむ者たちは、「何とすばらしい祇王の幸運でしょう。あそび女となるからには、誰も皆があのようになりたいものだ。きっとこれは、『祇』という文字を名に付けているからなのだろう。そうだ、我らも『祇』という字を名前に付けよう」ということで、祇一とつけ、祇二とつけ、あるいは祇福・祇徳などと名乗る者もあった。
ねたむ者どもは、「どうして、名前によったり、文字によることがあろうか。幸運は前世からの約束事なのだ」と言って、そのような名前を付けない者もいる。
こうして、清盛の寵愛を受けて三年ばかり経った頃、また京都で評判の高い白拍子の名手が一人現れた。
加賀国の者で、名前を仏御前といった。年は十六歳ということである。
「昔から多くの白拍子がいたが、これほどすばらしい舞を見たことがない」と都中の人々がもてはやすこと、一通りでない。
仏御前が申すには、「我は天下に知られているが、今あれほどめでたく栄えておられる平家太政の入道殿に、召されないのが残念だ。あそび女の常として、こちらから押しかけて不都合などあるまい。いざ、推参してみよう」とて、ある時西八条邸に参上した。
家人が「今都で評判の仏御前が参っています」と清盛に取り次ぎますと、
「何ということだ。そのようなあそび女は、人の招きによって参るものだ。いきなり推参などということがあるか。それに、祇王の居る所へは、神であれ仏であれ参ることなど許されないぞ。さっさと退出させよ」と仰せになった。
仏御前は、そっけない清盛の言葉に、退出しようとしていたが、それを聞いた祇王は清盛に、
「あそび女の推参は、常のことでございます。その上まだ歳も若いことであり、たまたま思い立って参ったのでしょう。そっけなく言われて帰らされたのでは、あまりにかわいそうです。白拍子はわたしが生計を立てていた道でもあり、他人事とは思われません。たとえ舞をご覧になられず、歌をお聞きにならずとも、ご対面だけでもなされた上でお帰しになれば、この上ないお情けでございます。どうぞ道理を曲げて、呼び戻してお会い下さいませ」
清盛は、祇王の申し出を聞き入れて、仏御前を呼び戻した。
「今日会うつもりはなかったが、祇王の熱心な勧めがあったので会ったのだ。会ったからには、お前の声を聞かないわけにもいくまい。今様を一つ歌ってくれ」
と言われ、仏御前は今様を披露する。
『 君をはじめて見る折は 千代も経ぬべし姫小松 御前(オマエ)の池なる亀岡に 鶴こそむれゐてあそぶめれ 』
と、繰り返し繰り返し、三度見事に歌い終わると、見聞の人々は驚きの声をあげる。清盛も、興味深く聞いておられて、「お前の今様は見事なものだ。この様子では、舞もさぞかし上手と見える。一番見たいものだ。鼓打ちを呼べ」と言われ、一番舞わせる。
仏御前は、髪の姿をはじめ、みめ麗しく、声がよく節廻しもうまく、舞姿も見事なものであった。
清盛は舞姿に感心し、仏御前に心を奪われてしまい、そのまま召し置くことにした。
「自分は推参の身で、祇王御前の取り成しで追い出されずに舞を披露させてもらったのです。このまま召し置かれたのでは、祇王御前のご好意に対して恥ずかしゅうございます。早々に退出させて下さいませ」
と、仏御前は訴えたが、「それはならぬ。但し、祇王が気になるのであれば、祇王の方を追い払おう」と言いだしたのである。
仏御前の再三の退出願いも受け付けようとはせず、反対に清盛は祇王を追い出してしまったのである。
祇王も、いずれはこのような日が来るものと覚悟はしていたものの、さすがにこれほど急なことになろうとは思いもよらず、再三の退出命令の中、部屋などを掃き清め、見苦しいものなどを片付けた上で退出した。
旅先で一樹のかげで同じ川の水を飲むほどの縁であっても、別れというものは悲しいのが世の常である。まして、この三年間住み慣れた邸を追われるのは、名残も惜しく悲しもあり、つい涙もこぼれてしまう。
しかし、いつまでもそうしていられるわけもなく、祇王はこれまでと退出しようと思い切ったが、居なくなった後の忘れ形見としてとでも思ったのか、襖に泣く泣く一首の歌を書きつけた。
『 萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき 』
祇王は自宅に戻り、泣き崩れる。母や妹はただ驚き、供の女から事情を教えられたが、どうすることも出来ない。そのうち、与えられていた米百石も銭百貫も止められてしまった。
今度は、仏御前のゆかりの人たちが栄華を誇った。
このことを知った都中の貴人も下人も、「祇王と遊ぼう」とて、文を寄こす者、使者を送ってくる者が続いたが、祇王にはそれに対応する気力もなかった。
こうしてこの年も暮れ、翌年の春の頃に、祇王のもとに清盛からの使者がきた。
「その後如何している。仏御前があまりに寂しそうなので、こちらへ参って、今様を歌い、舞など舞って仏を慰めてくれ」というものであった。
これに対して祇王は返事をしなかった。
清盛からは、「何故返事をしない。参らないつもりなら、取り計らうことがある」と脅迫めいた催促がくる。
祇王の母とじは、返事をすることを促すが、祇王は、
「参上する気がないのですから返事は無用です。返事がなければ仕置きをするとのことですが、都の外へ追放されるか、あるいは命を召されるとでもいうのでしょうか。追放されても嘆くことでもないし、命を召されても、それが惜しい我が身でもありません。一度嫌な者だとされた上は、再び入道殿に対面するつもりなどありません」と、きっぱりと拒絶する。
母は、なおも祇王に参上するように勧めた。
「天が下に住む上は、入道殿の仰せに背くことなど出来ないよ。
この世であてにならないのが男女の仲というものだ。千年万年も添い遂げようと契っても、間もなく別れる仲もある。ほんのかりそめと思って添いながら、そのまま生涯を送ることもある。それにお前は、この三年の間、入道殿のご寵愛を受けたのだから、特別のことなのだよ。
参上しないからといって命を失うことはあるまいが、都の外に追放されることになるだろう。追放されても、若いお前たちは暮らすことは容易かろうが、年老いた母には、なれない田舎暮らしを考えるだけでも悲しいことだ。何とかこの母を、都の中で一生住めるようにしておくれ。それが、現世、来世での親孝行だと思っておくれ」
と、かき口説かれて、祇王は泣き泣き西八条邸に参上することを承諾するのであった。
一人で参上するのは余りにも辛いので、妹の祇女も同行した。他にも白拍子二人も加わり四人で同じ牛車に乗って西八条邸に参上した。
すると、以前参上した時に案内されていた部屋には入れてもらえず、ずっと下手の所に、座席が設えられていた。
「これは一体どういうことなのか。わが身に過失がないのに捨てられて、この度は座席までもこのような扱いを受けるとは」と心の中で思いながらも、人には知られたくないと祇王はくやし涙を押さえていたが、その袖の間から涙がこぼれおちた。
その様子に気付いた仏御前は、
「これはどういうことなのでしょう。いつもお召しになられていたのですから、こちらにお呼びなさいませ。そうでなければ、わたしにお暇をください。わたしが出ていったお会いしましょう」と、申し出たが、清盛は、
「それはならぬ」と強く止められ、仏御前の方から祇王に会いに行くことは出来なかった。
それから清盛は、祇王の心情など察することもなく、
「その後どうしているのか。どうも仏御前が寂しげなので、今様の一つも歌ってくれ」と命じた。
祇王は煮えたぎる気持ちながらも、母の願いで参上したからには、清盛の仰せに背くまいと、涙を押さえて今様を一つ歌った。
『 仏も昔は凡夫なり 我等も終(ツヒ)には仏なり いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそかなしけれ 』
と、泣く泣く二へん歌ったので、その場にたくさん居並んでいた平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に至るまで、みな感動して涙を流した。
清盛も感動した様子で、
「なかなか殊勝な出来栄えだった。さらに舞も見たいものだが、今日は他に用事ができた。今後は召さなくとも、常に参って、今様をも歌い、舞など舞って、仏御前を慰めてくれ」と言う。
祇王は、何とも返事を返さず、涙を押さえて退出した。
「親の命令に背くまじと、辛い道に出掛けて行って再び悲しい目に合ってしまった。このようにこの世にある間は、また悲しい目に合うだろう。今はただ身を投げようと思う」
と祇王が言えば、妹の祇女も「わたしも一緒に身を投げます」と言う。
母のとじは、これを聞くと悲しくて、どうしたらよいか分からない。
「まことに、お前が恨めしく思うのも道理だ。そのようなことがあろうとも知らず、教訓して参上させたことが何とも辛い。但し、お前が身を投げれば、妹も一緒に身を投げるという。二人の娘に先立たれた後、年老いた母が、生きながらえても仕方がないから、わたしも共に身を投げようと思う。
しかしながら、いまだ死期に来ていない親に身を投げさせるのは、五逆罪(仏教での五種の重い罪)にあたるだろう。この世は仮の宿のようなものだ。恥をかいてもかかなくても何ということはない。ただ、未来永劫にわたり闇の世界を転々とする事こそ辛く情けない。この世ではともかく、次の世でさえお前が悪道に赴く事こそ悲しいことだ」
と、さめざめとかき口説けば、祇王は涙をこらえて、
「まことによく分かりました。わたしが五逆罪にあたることは疑いありません。それならば自害は思いとどまりました。しかしこうして都に居るならば、同じ辛い目に合うでしょう。今はただ、都の外へ行きましょう」
と、決意した祇王は二十一歳で尼になり、嵯峨の奥の山里に粗末な庵を結び、念仏を唱えて過ごすことにした。
妹の祇女も十九歳で尼となり、姉と共に籠って、後世の安寧を願う姿は哀れであった。
母のとじも、二人の娘の姿を見て、「若い娘たちでさえ尼となっているのに、年老いて衰えた母が、白髪を付けて残っていても仕方がない」と、四十五歳で髪を剃り、二人の娘と共に、念仏に専心して、ただひたすらに後生を願う生活に入ったのである。
* * *
物語は続く。
かくて、春も過ぎ、夏も盛りを過ぎ、初秋の頃となった。
夕日が西の山の端に隠れるのを見て、「日の入り給う所は、西方浄土だそうな。いつかは我等もあそこに生まれて思い悩むことなく過ごせるようになるだろう」と母娘三人は願いながらも、思い出すのは辛かった日々のことで、ただ涙を流しあったりしていた。
たそがれ時も過ぎると、竹の網戸を閉め、小さな灯りを頼りに親娘三人で念仏を唱えていると、竹の網戸をとんとんと叩く音がした。
尼たちは肝をつぶして、
「これは、意気地のない我等が念仏しているのを邪魔しようとて、魔縁が来たのだろう。昼でさえ訪れる者のない山里に、こんな夜更けに誰が訪れよう。わずかな竹の網戸なので、こちらで開けなくても押し破るのは簡単なことなので、いっそこちらから開けて入れよう。それなのに相手が情けをかけずに命を取るのなら、いつもお頼み申し上げている弥陀の本願を強く信じて、南無阿弥陀仏の名号を唱え続けましょう。その声を尋ねて迎えに来て下さる仏菩薩がたの来迎に預かれば、きっと浄土にお連れ下さるだろう。決して念仏を怠らないようにな」
と、互いに心を戒めあって竹の網戸を開けてみると、魔縁ではなかった。
仏御前が入ってきたのである。
驚く祇王に、仏御前は切々と訴える。
「こんなことを申しますとわざとらしいのですが、申さねば人情をわきまえぬ身となってしまいますので申します」と前置きして語り出した。
祇王御前のお取り成しで入道殿と対面できた身なのに、自分だけが残されることになったことは心外のことで、とても辛いことでした。
さらに、いつぞやあなたが入道殿に召され、今様を謡われました時の姿に感じるものがありました。また、襖に書き残されていた『 萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき 』という筆の跡を見て、ああ、いずれはわが身だと思ったのです。
その後、皆さまの消息が分かりませんでしたが、このようにお姿を変え一所でお暮らしとお聞きしてからは、とてもうらやましく、お暇を申し出ていましたがお許しが出ませんでした。
しかし、考えをめぐらす程に、ひと時の栄華に得意になって、死後の世界を知らないでいることに堪えられなくなって、今朝、邸を忍び出て、こうなって参りました。
被っていた衣を払いのけると、尼の姿になっていたのです。
「お許しいただけるなら、一緒に念仏を唱えて、極楽浄土の同じ蓮の上に生まれ変わりたいと願っています」と、涙ながらに訴えると、
「あなたがそれほどまでお苦しみとは夢にも思いませんでした。我が身の不運を思うべきなのに、ややもするとあなたのことが恨めしくて、現世も来世も中途半端で、とても極楽往生など遂げられないところでした」
と、祇王も自らの心情を反省し仏御前を迎え入れることになった。
僅か十七歳で尼となった仏御前を加えた四人は、共に、朝夕は仏前に花や香を供え、一心に往生を願う日々を送り、死期に遅い早いの差こそあれ、四人の尼たちは皆往生の本願を遂げたという。
それゆえに、後白河法皇の長講堂の過去帳にも、「祇王、祇女、仏、とじらが尊霊」と四人一緒に書き入れたのです・・・。
さて、祇王らが生きたとされる時代から八百余年を経た今日、嵯峨野の地に祇王寺という寺院がある。
祇王寺は、明治時代、当時の府知事北垣國道氏が祇王らを偲び嵯峨の別荘にあった庵を寄進し、これを本堂として多くの方々の支援により再建されたものだそうである。
もともとこの地には、祇王ゆかりの寺院とされる往生院があったが、江戸末期の頃に荒廃してしまったらしい。それを復興させるべく再建された祇王寺本堂には、祇王、祇女、仏、刀自(トジ)の木造があり、また、祇王らの墓や清盛の供養塔もあって、祇王の哀しくも雄々しい生涯を思い浮かべる世界を護り続けてくれている。
( 完 )
祇王哀れ
『 入道相国、一天四海を、たなごころのうちににぎり給ひしあひだ、世のそしりをもはばからず、人の嘲(アザケリ)をもかへりみず、不思議の事をのみし給へり。たとへば其比(ソノコロ)、都に聞こえたる白拍子の上手、祇王、祇女とて、おとといあり・・・ 』
平家物語でよく知られている祇王の物語は、このような書き出しで始まる。
つまり、「入道相国(平清盛)は、天下を握ると世間の非難に耳も貸さず、不思議(わがまま放題)の事ばかりされた。例えば、その頃都で評判の白拍子の名手に、祇王、祇女という姉妹がいたが・・・」と、清盛の無頼な振舞いの例として、祇王の物語は紹介されているのである。
少し長くなるが、物語のあらましを追ってみよう。
とじという白拍子に、祇王、祇女という二人の娘がいた。姉妹共に白拍子の上手として都に知れ渡っていた。
ところで、この時代、「白拍子」という存在がよく登場してくる。源義経の恋人静御前も白拍子である。この言葉について少し調べてみよう。もともとは、「白・拍子」という意味で、雅楽などで無伴奏あるいは拍子だけで歌うことを指す。また、この時代に起こった歌舞を指すこともある。
一般的には、その歌舞を演じる遊女を指すことが多い。水干に立烏帽子、白鞘の刀を指して舞う男舞である。神仏の縁起・恋愛・慶賀などを内容とした今様を謡いながら舞うもので、清盛の時代の頃には、貴族層にも人気があった。
本題に戻る。
清盛は、姉の祇王を寵愛したが、それによって世間の人々は妹の祇女ももてはやすことひととおりでなかった。清盛は、母のとじに立派な家を造ってやり、毎月米百石、銭百貫が与えられ、一家は豊かなことこの上なかった。
都中の白拍子たちは祇王の幸運のすばらしさを、うらやむ者もあり、ねたむ者もあった。
うらやむ者たちは、「何とすばらしい祇王の幸運でしょう。あそび女となるからには、誰も皆があのようになりたいものだ。きっとこれは、『祇』という文字を名に付けているからなのだろう。そうだ、我らも『祇』という字を名前に付けよう」ということで、祇一とつけ、祇二とつけ、あるいは祇福・祇徳などと名乗る者もあった。
ねたむ者どもは、「どうして、名前によったり、文字によることがあろうか。幸運は前世からの約束事なのだ」と言って、そのような名前を付けない者もいる。
こうして、清盛の寵愛を受けて三年ばかり経った頃、また京都で評判の高い白拍子の名手が一人現れた。
加賀国の者で、名前を仏御前といった。年は十六歳ということである。
「昔から多くの白拍子がいたが、これほどすばらしい舞を見たことがない」と都中の人々がもてはやすこと、一通りでない。
仏御前が申すには、「我は天下に知られているが、今あれほどめでたく栄えておられる平家太政の入道殿に、召されないのが残念だ。あそび女の常として、こちらから押しかけて不都合などあるまい。いざ、推参してみよう」とて、ある時西八条邸に参上した。
家人が「今都で評判の仏御前が参っています」と清盛に取り次ぎますと、
「何ということだ。そのようなあそび女は、人の招きによって参るものだ。いきなり推参などということがあるか。それに、祇王の居る所へは、神であれ仏であれ参ることなど許されないぞ。さっさと退出させよ」と仰せになった。
仏御前は、そっけない清盛の言葉に、退出しようとしていたが、それを聞いた祇王は清盛に、
「あそび女の推参は、常のことでございます。その上まだ歳も若いことであり、たまたま思い立って参ったのでしょう。そっけなく言われて帰らされたのでは、あまりにかわいそうです。白拍子はわたしが生計を立てていた道でもあり、他人事とは思われません。たとえ舞をご覧になられず、歌をお聞きにならずとも、ご対面だけでもなされた上でお帰しになれば、この上ないお情けでございます。どうぞ道理を曲げて、呼び戻してお会い下さいませ」
清盛は、祇王の申し出を聞き入れて、仏御前を呼び戻した。
「今日会うつもりはなかったが、祇王の熱心な勧めがあったので会ったのだ。会ったからには、お前の声を聞かないわけにもいくまい。今様を一つ歌ってくれ」
と言われ、仏御前は今様を披露する。
『 君をはじめて見る折は 千代も経ぬべし姫小松 御前(オマエ)の池なる亀岡に 鶴こそむれゐてあそぶめれ 』
と、繰り返し繰り返し、三度見事に歌い終わると、見聞の人々は驚きの声をあげる。清盛も、興味深く聞いておられて、「お前の今様は見事なものだ。この様子では、舞もさぞかし上手と見える。一番見たいものだ。鼓打ちを呼べ」と言われ、一番舞わせる。
仏御前は、髪の姿をはじめ、みめ麗しく、声がよく節廻しもうまく、舞姿も見事なものであった。
清盛は舞姿に感心し、仏御前に心を奪われてしまい、そのまま召し置くことにした。
「自分は推参の身で、祇王御前の取り成しで追い出されずに舞を披露させてもらったのです。このまま召し置かれたのでは、祇王御前のご好意に対して恥ずかしゅうございます。早々に退出させて下さいませ」
と、仏御前は訴えたが、「それはならぬ。但し、祇王が気になるのであれば、祇王の方を追い払おう」と言いだしたのである。
仏御前の再三の退出願いも受け付けようとはせず、反対に清盛は祇王を追い出してしまったのである。
祇王も、いずれはこのような日が来るものと覚悟はしていたものの、さすがにこれほど急なことになろうとは思いもよらず、再三の退出命令の中、部屋などを掃き清め、見苦しいものなどを片付けた上で退出した。
旅先で一樹のかげで同じ川の水を飲むほどの縁であっても、別れというものは悲しいのが世の常である。まして、この三年間住み慣れた邸を追われるのは、名残も惜しく悲しもあり、つい涙もこぼれてしまう。
しかし、いつまでもそうしていられるわけもなく、祇王はこれまでと退出しようと思い切ったが、居なくなった後の忘れ形見としてとでも思ったのか、襖に泣く泣く一首の歌を書きつけた。
『 萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき 』
祇王は自宅に戻り、泣き崩れる。母や妹はただ驚き、供の女から事情を教えられたが、どうすることも出来ない。そのうち、与えられていた米百石も銭百貫も止められてしまった。
今度は、仏御前のゆかりの人たちが栄華を誇った。
このことを知った都中の貴人も下人も、「祇王と遊ぼう」とて、文を寄こす者、使者を送ってくる者が続いたが、祇王にはそれに対応する気力もなかった。
こうしてこの年も暮れ、翌年の春の頃に、祇王のもとに清盛からの使者がきた。
「その後如何している。仏御前があまりに寂しそうなので、こちらへ参って、今様を歌い、舞など舞って仏を慰めてくれ」というものであった。
これに対して祇王は返事をしなかった。
清盛からは、「何故返事をしない。参らないつもりなら、取り計らうことがある」と脅迫めいた催促がくる。
祇王の母とじは、返事をすることを促すが、祇王は、
「参上する気がないのですから返事は無用です。返事がなければ仕置きをするとのことですが、都の外へ追放されるか、あるいは命を召されるとでもいうのでしょうか。追放されても嘆くことでもないし、命を召されても、それが惜しい我が身でもありません。一度嫌な者だとされた上は、再び入道殿に対面するつもりなどありません」と、きっぱりと拒絶する。
母は、なおも祇王に参上するように勧めた。
「天が下に住む上は、入道殿の仰せに背くことなど出来ないよ。
この世であてにならないのが男女の仲というものだ。千年万年も添い遂げようと契っても、間もなく別れる仲もある。ほんのかりそめと思って添いながら、そのまま生涯を送ることもある。それにお前は、この三年の間、入道殿のご寵愛を受けたのだから、特別のことなのだよ。
参上しないからといって命を失うことはあるまいが、都の外に追放されることになるだろう。追放されても、若いお前たちは暮らすことは容易かろうが、年老いた母には、なれない田舎暮らしを考えるだけでも悲しいことだ。何とかこの母を、都の中で一生住めるようにしておくれ。それが、現世、来世での親孝行だと思っておくれ」
と、かき口説かれて、祇王は泣き泣き西八条邸に参上することを承諾するのであった。
一人で参上するのは余りにも辛いので、妹の祇女も同行した。他にも白拍子二人も加わり四人で同じ牛車に乗って西八条邸に参上した。
すると、以前参上した時に案内されていた部屋には入れてもらえず、ずっと下手の所に、座席が設えられていた。
「これは一体どういうことなのか。わが身に過失がないのに捨てられて、この度は座席までもこのような扱いを受けるとは」と心の中で思いながらも、人には知られたくないと祇王はくやし涙を押さえていたが、その袖の間から涙がこぼれおちた。
その様子に気付いた仏御前は、
「これはどういうことなのでしょう。いつもお召しになられていたのですから、こちらにお呼びなさいませ。そうでなければ、わたしにお暇をください。わたしが出ていったお会いしましょう」と、申し出たが、清盛は、
「それはならぬ」と強く止められ、仏御前の方から祇王に会いに行くことは出来なかった。
それから清盛は、祇王の心情など察することもなく、
「その後どうしているのか。どうも仏御前が寂しげなので、今様の一つも歌ってくれ」と命じた。
祇王は煮えたぎる気持ちながらも、母の願いで参上したからには、清盛の仰せに背くまいと、涙を押さえて今様を一つ歌った。
『 仏も昔は凡夫なり 我等も終(ツヒ)には仏なり いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそかなしけれ 』
と、泣く泣く二へん歌ったので、その場にたくさん居並んでいた平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に至るまで、みな感動して涙を流した。
清盛も感動した様子で、
「なかなか殊勝な出来栄えだった。さらに舞も見たいものだが、今日は他に用事ができた。今後は召さなくとも、常に参って、今様をも歌い、舞など舞って、仏御前を慰めてくれ」と言う。
祇王は、何とも返事を返さず、涙を押さえて退出した。
「親の命令に背くまじと、辛い道に出掛けて行って再び悲しい目に合ってしまった。このようにこの世にある間は、また悲しい目に合うだろう。今はただ身を投げようと思う」
と祇王が言えば、妹の祇女も「わたしも一緒に身を投げます」と言う。
母のとじは、これを聞くと悲しくて、どうしたらよいか分からない。
「まことに、お前が恨めしく思うのも道理だ。そのようなことがあろうとも知らず、教訓して参上させたことが何とも辛い。但し、お前が身を投げれば、妹も一緒に身を投げるという。二人の娘に先立たれた後、年老いた母が、生きながらえても仕方がないから、わたしも共に身を投げようと思う。
しかしながら、いまだ死期に来ていない親に身を投げさせるのは、五逆罪(仏教での五種の重い罪)にあたるだろう。この世は仮の宿のようなものだ。恥をかいてもかかなくても何ということはない。ただ、未来永劫にわたり闇の世界を転々とする事こそ辛く情けない。この世ではともかく、次の世でさえお前が悪道に赴く事こそ悲しいことだ」
と、さめざめとかき口説けば、祇王は涙をこらえて、
「まことによく分かりました。わたしが五逆罪にあたることは疑いありません。それならば自害は思いとどまりました。しかしこうして都に居るならば、同じ辛い目に合うでしょう。今はただ、都の外へ行きましょう」
と、決意した祇王は二十一歳で尼になり、嵯峨の奥の山里に粗末な庵を結び、念仏を唱えて過ごすことにした。
妹の祇女も十九歳で尼となり、姉と共に籠って、後世の安寧を願う姿は哀れであった。
母のとじも、二人の娘の姿を見て、「若い娘たちでさえ尼となっているのに、年老いて衰えた母が、白髪を付けて残っていても仕方がない」と、四十五歳で髪を剃り、二人の娘と共に、念仏に専心して、ただひたすらに後生を願う生活に入ったのである。
* * *
物語は続く。
かくて、春も過ぎ、夏も盛りを過ぎ、初秋の頃となった。
夕日が西の山の端に隠れるのを見て、「日の入り給う所は、西方浄土だそうな。いつかは我等もあそこに生まれて思い悩むことなく過ごせるようになるだろう」と母娘三人は願いながらも、思い出すのは辛かった日々のことで、ただ涙を流しあったりしていた。
たそがれ時も過ぎると、竹の網戸を閉め、小さな灯りを頼りに親娘三人で念仏を唱えていると、竹の網戸をとんとんと叩く音がした。
尼たちは肝をつぶして、
「これは、意気地のない我等が念仏しているのを邪魔しようとて、魔縁が来たのだろう。昼でさえ訪れる者のない山里に、こんな夜更けに誰が訪れよう。わずかな竹の網戸なので、こちらで開けなくても押し破るのは簡単なことなので、いっそこちらから開けて入れよう。それなのに相手が情けをかけずに命を取るのなら、いつもお頼み申し上げている弥陀の本願を強く信じて、南無阿弥陀仏の名号を唱え続けましょう。その声を尋ねて迎えに来て下さる仏菩薩がたの来迎に預かれば、きっと浄土にお連れ下さるだろう。決して念仏を怠らないようにな」
と、互いに心を戒めあって竹の網戸を開けてみると、魔縁ではなかった。
仏御前が入ってきたのである。
驚く祇王に、仏御前は切々と訴える。
「こんなことを申しますとわざとらしいのですが、申さねば人情をわきまえぬ身となってしまいますので申します」と前置きして語り出した。
祇王御前のお取り成しで入道殿と対面できた身なのに、自分だけが残されることになったことは心外のことで、とても辛いことでした。
さらに、いつぞやあなたが入道殿に召され、今様を謡われました時の姿に感じるものがありました。また、襖に書き残されていた『 萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき 』という筆の跡を見て、ああ、いずれはわが身だと思ったのです。
その後、皆さまの消息が分かりませんでしたが、このようにお姿を変え一所でお暮らしとお聞きしてからは、とてもうらやましく、お暇を申し出ていましたがお許しが出ませんでした。
しかし、考えをめぐらす程に、ひと時の栄華に得意になって、死後の世界を知らないでいることに堪えられなくなって、今朝、邸を忍び出て、こうなって参りました。
被っていた衣を払いのけると、尼の姿になっていたのです。
「お許しいただけるなら、一緒に念仏を唱えて、極楽浄土の同じ蓮の上に生まれ変わりたいと願っています」と、涙ながらに訴えると、
「あなたがそれほどまでお苦しみとは夢にも思いませんでした。我が身の不運を思うべきなのに、ややもするとあなたのことが恨めしくて、現世も来世も中途半端で、とても極楽往生など遂げられないところでした」
と、祇王も自らの心情を反省し仏御前を迎え入れることになった。
僅か十七歳で尼となった仏御前を加えた四人は、共に、朝夕は仏前に花や香を供え、一心に往生を願う日々を送り、死期に遅い早いの差こそあれ、四人の尼たちは皆往生の本願を遂げたという。
それゆえに、後白河法皇の長講堂の過去帳にも、「祇王、祇女、仏、とじらが尊霊」と四人一緒に書き入れたのです・・・。
さて、祇王らが生きたとされる時代から八百余年を経た今日、嵯峨野の地に祇王寺という寺院がある。
祇王寺は、明治時代、当時の府知事北垣國道氏が祇王らを偲び嵯峨の別荘にあった庵を寄進し、これを本堂として多くの方々の支援により再建されたものだそうである。
もともとこの地には、祇王ゆかりの寺院とされる往生院があったが、江戸末期の頃に荒廃してしまったらしい。それを復興させるべく再建された祇王寺本堂には、祇王、祇女、仏、刀自(トジ)の木造があり、また、祇王らの墓や清盛の供養塔もあって、祇王の哀しくも雄々しい生涯を思い浮かべる世界を護り続けてくれている。
( 完 )