運命紀行
滋藤の弓
『 おきの方より尋常にかざったる少舟一艘、みぎはへむいてこぎ寄せけり。磯へ七八段ばかりになりしかば、舟を横様になす。
「あれはいかに」と見る程に、舟のうちよりよはひ十八九ばかりなる女房の、まことに優にうつくしきが、柳の五衣(イツツギヌ)に紅の袴着て、みな紅の扇の日いだしたるを、舟のせがいにはさみたてて、陸(クガ)へむいてぞまねいたる。
判官(ホウガン・源義経)、後藤兵衛実基を召して、
「あれはいかに」
と宣(ノタマ)へば、
「射よとにこそ候めれ。ただし大将軍、矢おもてにすすんで傾城を御覧ぜば、手たれにねらうて射おとせとのはかり事とおぼえ候。さも候へ、扇をば射させらるべうや候らん」
と申す。
「射つべき仁(ジン)はみかたに誰かある」
と宣へば、
「上手どもいくらも候なかに、下野国(シモツケノクニ)の住人、那須太郎資高(ナスノタロウスケタカ)が子に与一宗高こそ小兵で候へども手ききで候へ」
「証拠はいかに」
と宣へば、
「かけ鳥なんどをあらがうて、三つに二つは必ず射おとす者で候」
「さらば召せ」
とて召されたり。
与一其此(ソノコロ)は廿ばかりの男子(ヲノコ)なり。かちに、赤地の錦をもっておほくび、はた袖いろへたる直垂(ヒタタレ)に、萌黄縅(モエギオドシ)の鎧着て、足白の太刀をはき、切斑(キリフ・白黒の矢羽)の矢の、其日のいくさに射て少々のこったりけるを、頭高に負ひなし、うす切斑に鷹の羽はぎまぜたるぬた目の鏑(カブラ・鏑矢)をぞさしそへたる。
滋藤(シゲトウ)の弓脇にはさみ、甲をばぬぎ高紐にかけ、判官の前に畏(カシコマ)る。 』
以上は、平家物語からの抜粋である。
那須与一が、平家方が小舟に掲げた扇を矢で射落とすという、有名な場面である。
須磨一の谷の合戦に敗れた平家方は、海路四国に渡り、讃岐国屋島に陣を敷いた。
しかし、源義経率いる源氏軍の追撃は厳しく、平家方は再び海上に逃れる。
那須与一の登場は、その激しい戦いの最中の、両軍がほっと一息ついた時のエピソードともいえる。
平家物語は、いわゆる公的な歴史書ではなく軍記物語であることはその通りであるが、この時代の歴史の流れを見る上では捨て難い資料である。
この那須与一が登場するあたりは、最も物語的要素が大きい部分であるが、同時に、どこまでを事実として捉まえるかによって違ってくるが、世相であるとか、人々の考え方の一端がみえてくる部分である。
抜粋部分の続きを、もう少し追ってみよう。
大将軍である源判官九郎義経の前に畏まった那須与一に対して、義経は、「あの扇の真ん中を射抜いて、平家どもに見せてやれ」と命じる。
これに対して、有力御家人とも思えない那須資高の息子に過ぎない与一は、こう答えているのである。
「うまく当てることがどうか分かりません。射損なえば、長く源氏方の傷となりましょう。確実に当てられる人に命じられるのがよろしいでしょう」と、堂々と反論しているのである。
これに対して義経はたいそう怒って、「鎌倉をたって西国に向かう武者たちは、義経の命令に背いてはならない。少しでも文句を言いたい者は、さっさと此処から帰るべきだ」
与一は、重ねて辞退するのはよくないだろうと考えて、「外れるかどうかは分かりませんが、御命令でございますから、致してみましょう」と答えて、御前を下がる。
与一は、太くて逞しい黒い馬に乗り、弓を持ち直し、手綱を操りながら水際まで馬を進める。味方の武者たちはその後ろ姿を見送りながら、「この若武者はきっとうまくやり遂げると思われます」と申し上げると、義経も頼もしげに見つめている。
矢を射るには少し遠かったので、海に一段(距離の単位。六間で、11m弱くらいか)ばかり乗り入れたが、まだ扇との間隔は七段ばかりありそうに見えた。波も高く、舟は揺れており、的の扇も固定されておらずひらひらとひらめいている。
与一は目をふさいで、
「南無八幡大菩薩、わが国の神は、日光権現、宇都宮大明神、那須の温泉(ユゼン)大明神、どうぞあの扇の真ん中を射させ給え。これを射損ずれば、弓を切り折って自害して、人に二度と顔を合わせるつもりはない。今一度本国へ迎えてやろうと思し召しならば、この矢外させ給うな」
と、心の中で祈念して、目を見開くと、風も少し弱まり、扇も射よと言っているようになっている。
与一は鏑矢を取って弓につがえ、十分引きしぼって放つ。小兵ということで普通の矢より少し長いだけだが、弓は強弓である。鏑矢は浦一帯に響くほど長く鳴りわたり、誤ることなく扇の要の一寸ばかり上を射抜いた。
鏑矢は海に落ち、扇は空に舞い上がった。しばらくは大空にひらめいていたが、春風に一もみ二もみされて、海へさっと散っていった。
夕日が輝いているなかに、金の日輪を描いた紅の扇が白波の上に漂い、浮きつ沈みつ揺られていたので、沖では平家の人々が船端をたたいて感心し、陸では源氏武者たちが箙(エビラ・矢を入れて背負う武具)をたたいてどよめいていた・・・。
* * *
以上は全て平家物語の場面の紹介であるが、幾つかの面白い様子が窺える。
まず、総大将に対して、一介の武者である与一が堂々意見を述べている点である。描かれている様子が事実そのものというわけではないとしても、当時は大将と武者の間は案外近い関係だったのかもしれない。
同時に、それに対する義経の言葉に見られるように、軍団を組んだ上は大将の命令は絶対である、ということである。当時は、そのような約束事の上で参陣していたのであろう。そして、守れないのなら帰れ、ということで成敗するとまではしなかったのかもしれない。
次に、急襲を受けて、命からがら海上に脱出したと考えられる平家軍の舟から、このような挑発が本当にあったのだろうか、ということである。事実だとすれば、負け惜しみからなのか、何らかの軍事的あるいは呪詛的な意味合いでもあったのか、それともこのような戦況下にあっても、雅な心を持ち続けていたのだろうか。
与一が扇を打ち落とした後の平家方が称賛する姿も、命のやり取りをしているなかで、このような振舞いこそが勇者であるといった美意識が定着していたのだろうか。
そして、これは全く私の個人的な関心であるが、矢を射る前に与一が神々に念じる部分であるが、当時のわが国は仏教思想が広く浸透していたと考えられているが、この場面を見る限り、わが国は八百万の神々のおわす国なのだと可笑しくなり、嬉しいような気もしてしまうのである。
さて、本稿の主人公である那須与一の生年には諸説あるが、平家物語に従えば、仁安元年(1166)前後のことになる。
父の名は那須資隆(スケタカ・平家物語では資高)、与一の本名も宗隆(平家物語では宗高)であるが家督相続後は資隆を名乗ったようである。なお、与一というのは通称名で、「十に一余る」という意味で、十一男であることを指している。与一という通称名は珍しいものではなかったらしい。
那須氏が下野国に領地を持つ豪族であることは平家物語から推察できるが、与一の父資隆が初代のようであるから、古くからの豪族ということではないらしい。
実際に、平家物語に一場面の主役として活躍している与一であるが、鎌倉幕府の公的記録書ともいえる吾妻鏡には登場していないため、実在を疑う研究者もいるようである。
しかし、華々しい活躍があったか否かはともかく、一の谷から屋島へ、さらには壇ノ浦へと転戦した東国武者の数はおびただしいもので、後に幕府の中枢で活躍した者を除けば、吾妻鏡に記録されている人物の数などごく一部に過ぎないはずである。
従って、吾妻鏡に限らないが、記録が乏しいことをもって実在を疑うことはないが、それほど有力な御家人というほどのことはなかったらしい。
治承四年(1180)というから、屋島の合戦の五年ほど前のことになるが、那須温泉神社に必勝祈願のために訪れた義経に父の資隆が出会う機会があり、この時に、十男の十郎為隆と十一男の与一宗隆を源氏方に従軍させることを約束したという。
ところが、あとの兄たち九人は平家方として戦ったため、平家滅亡後は四散してしまい、十郎為隆も罪を犯したことから、十一男である与一宗隆が家督を継ぎ那須家二代目当主となった。
与一は、源平合戦の後、戦功により丹波・信濃・若狭・武蔵・備中の五カ国に荘園が与えられた。おそらく、平家方の一門や貴族などから召し上げた膨大な数の荘園が、源氏の武者たちには恩賞として与えられたのであろう。
これらの荘園から、どれほどの恩恵を手にすることが出来たのか分からないが、那須家の二代目当主となった与一は、逃亡していた兄たちの赦免を受けて呼び戻し、全員に分地している。
長男の太郎光隆から十男の十郎為隆までの十人に、本家周辺の領地を分け与え、那須家の地盤を築いていったのである。
ただ、本家を継いだ与一は、若くして亡くなっている。没年は、文治五年(1189)とも建久元年(1190)とも伝えられている。いずれにしても、二十五歳前後という若さである。
亡くなった場所も、山城国とされているが、京都での任務にあたっていたのかもしれない。
与一の妻は、新田義重の娘とも伝えられているが、子孫はいなかったとされている。与一の死後は、五番目の兄、五郎之隆が継いでいる。
また、那須地方を中心に代々繁栄を続けた他、拝領した荘園の関係からか、越後国や備中国でも一族が土着したようである。
那須与一宗隆、源平合戦の最中に華麗に咲き誇った若武者は、若くして亡くなったため、後の世に記録されるものは少ないが、滋藤の弓から発せられた強烈な鏑矢の鳴り響く音は、なお今日でも多くの人々に感銘を与えているはずである。
( 完 )
滋藤の弓
『 おきの方より尋常にかざったる少舟一艘、みぎはへむいてこぎ寄せけり。磯へ七八段ばかりになりしかば、舟を横様になす。
「あれはいかに」と見る程に、舟のうちよりよはひ十八九ばかりなる女房の、まことに優にうつくしきが、柳の五衣(イツツギヌ)に紅の袴着て、みな紅の扇の日いだしたるを、舟のせがいにはさみたてて、陸(クガ)へむいてぞまねいたる。
判官(ホウガン・源義経)、後藤兵衛実基を召して、
「あれはいかに」
と宣(ノタマ)へば、
「射よとにこそ候めれ。ただし大将軍、矢おもてにすすんで傾城を御覧ぜば、手たれにねらうて射おとせとのはかり事とおぼえ候。さも候へ、扇をば射させらるべうや候らん」
と申す。
「射つべき仁(ジン)はみかたに誰かある」
と宣へば、
「上手どもいくらも候なかに、下野国(シモツケノクニ)の住人、那須太郎資高(ナスノタロウスケタカ)が子に与一宗高こそ小兵で候へども手ききで候へ」
「証拠はいかに」
と宣へば、
「かけ鳥なんどをあらがうて、三つに二つは必ず射おとす者で候」
「さらば召せ」
とて召されたり。
与一其此(ソノコロ)は廿ばかりの男子(ヲノコ)なり。かちに、赤地の錦をもっておほくび、はた袖いろへたる直垂(ヒタタレ)に、萌黄縅(モエギオドシ)の鎧着て、足白の太刀をはき、切斑(キリフ・白黒の矢羽)の矢の、其日のいくさに射て少々のこったりけるを、頭高に負ひなし、うす切斑に鷹の羽はぎまぜたるぬた目の鏑(カブラ・鏑矢)をぞさしそへたる。
滋藤(シゲトウ)の弓脇にはさみ、甲をばぬぎ高紐にかけ、判官の前に畏(カシコマ)る。 』
以上は、平家物語からの抜粋である。
那須与一が、平家方が小舟に掲げた扇を矢で射落とすという、有名な場面である。
須磨一の谷の合戦に敗れた平家方は、海路四国に渡り、讃岐国屋島に陣を敷いた。
しかし、源義経率いる源氏軍の追撃は厳しく、平家方は再び海上に逃れる。
那須与一の登場は、その激しい戦いの最中の、両軍がほっと一息ついた時のエピソードともいえる。
平家物語は、いわゆる公的な歴史書ではなく軍記物語であることはその通りであるが、この時代の歴史の流れを見る上では捨て難い資料である。
この那須与一が登場するあたりは、最も物語的要素が大きい部分であるが、同時に、どこまでを事実として捉まえるかによって違ってくるが、世相であるとか、人々の考え方の一端がみえてくる部分である。
抜粋部分の続きを、もう少し追ってみよう。
大将軍である源判官九郎義経の前に畏まった那須与一に対して、義経は、「あの扇の真ん中を射抜いて、平家どもに見せてやれ」と命じる。
これに対して、有力御家人とも思えない那須資高の息子に過ぎない与一は、こう答えているのである。
「うまく当てることがどうか分かりません。射損なえば、長く源氏方の傷となりましょう。確実に当てられる人に命じられるのがよろしいでしょう」と、堂々と反論しているのである。
これに対して義経はたいそう怒って、「鎌倉をたって西国に向かう武者たちは、義経の命令に背いてはならない。少しでも文句を言いたい者は、さっさと此処から帰るべきだ」
与一は、重ねて辞退するのはよくないだろうと考えて、「外れるかどうかは分かりませんが、御命令でございますから、致してみましょう」と答えて、御前を下がる。
与一は、太くて逞しい黒い馬に乗り、弓を持ち直し、手綱を操りながら水際まで馬を進める。味方の武者たちはその後ろ姿を見送りながら、「この若武者はきっとうまくやり遂げると思われます」と申し上げると、義経も頼もしげに見つめている。
矢を射るには少し遠かったので、海に一段(距離の単位。六間で、11m弱くらいか)ばかり乗り入れたが、まだ扇との間隔は七段ばかりありそうに見えた。波も高く、舟は揺れており、的の扇も固定されておらずひらひらとひらめいている。
与一は目をふさいで、
「南無八幡大菩薩、わが国の神は、日光権現、宇都宮大明神、那須の温泉(ユゼン)大明神、どうぞあの扇の真ん中を射させ給え。これを射損ずれば、弓を切り折って自害して、人に二度と顔を合わせるつもりはない。今一度本国へ迎えてやろうと思し召しならば、この矢外させ給うな」
と、心の中で祈念して、目を見開くと、風も少し弱まり、扇も射よと言っているようになっている。
与一は鏑矢を取って弓につがえ、十分引きしぼって放つ。小兵ということで普通の矢より少し長いだけだが、弓は強弓である。鏑矢は浦一帯に響くほど長く鳴りわたり、誤ることなく扇の要の一寸ばかり上を射抜いた。
鏑矢は海に落ち、扇は空に舞い上がった。しばらくは大空にひらめいていたが、春風に一もみ二もみされて、海へさっと散っていった。
夕日が輝いているなかに、金の日輪を描いた紅の扇が白波の上に漂い、浮きつ沈みつ揺られていたので、沖では平家の人々が船端をたたいて感心し、陸では源氏武者たちが箙(エビラ・矢を入れて背負う武具)をたたいてどよめいていた・・・。
* * *
以上は全て平家物語の場面の紹介であるが、幾つかの面白い様子が窺える。
まず、総大将に対して、一介の武者である与一が堂々意見を述べている点である。描かれている様子が事実そのものというわけではないとしても、当時は大将と武者の間は案外近い関係だったのかもしれない。
同時に、それに対する義経の言葉に見られるように、軍団を組んだ上は大将の命令は絶対である、ということである。当時は、そのような約束事の上で参陣していたのであろう。そして、守れないのなら帰れ、ということで成敗するとまではしなかったのかもしれない。
次に、急襲を受けて、命からがら海上に脱出したと考えられる平家軍の舟から、このような挑発が本当にあったのだろうか、ということである。事実だとすれば、負け惜しみからなのか、何らかの軍事的あるいは呪詛的な意味合いでもあったのか、それともこのような戦況下にあっても、雅な心を持ち続けていたのだろうか。
与一が扇を打ち落とした後の平家方が称賛する姿も、命のやり取りをしているなかで、このような振舞いこそが勇者であるといった美意識が定着していたのだろうか。
そして、これは全く私の個人的な関心であるが、矢を射る前に与一が神々に念じる部分であるが、当時のわが国は仏教思想が広く浸透していたと考えられているが、この場面を見る限り、わが国は八百万の神々のおわす国なのだと可笑しくなり、嬉しいような気もしてしまうのである。
さて、本稿の主人公である那須与一の生年には諸説あるが、平家物語に従えば、仁安元年(1166)前後のことになる。
父の名は那須資隆(スケタカ・平家物語では資高)、与一の本名も宗隆(平家物語では宗高)であるが家督相続後は資隆を名乗ったようである。なお、与一というのは通称名で、「十に一余る」という意味で、十一男であることを指している。与一という通称名は珍しいものではなかったらしい。
那須氏が下野国に領地を持つ豪族であることは平家物語から推察できるが、与一の父資隆が初代のようであるから、古くからの豪族ということではないらしい。
実際に、平家物語に一場面の主役として活躍している与一であるが、鎌倉幕府の公的記録書ともいえる吾妻鏡には登場していないため、実在を疑う研究者もいるようである。
しかし、華々しい活躍があったか否かはともかく、一の谷から屋島へ、さらには壇ノ浦へと転戦した東国武者の数はおびただしいもので、後に幕府の中枢で活躍した者を除けば、吾妻鏡に記録されている人物の数などごく一部に過ぎないはずである。
従って、吾妻鏡に限らないが、記録が乏しいことをもって実在を疑うことはないが、それほど有力な御家人というほどのことはなかったらしい。
治承四年(1180)というから、屋島の合戦の五年ほど前のことになるが、那須温泉神社に必勝祈願のために訪れた義経に父の資隆が出会う機会があり、この時に、十男の十郎為隆と十一男の与一宗隆を源氏方に従軍させることを約束したという。
ところが、あとの兄たち九人は平家方として戦ったため、平家滅亡後は四散してしまい、十郎為隆も罪を犯したことから、十一男である与一宗隆が家督を継ぎ那須家二代目当主となった。
与一は、源平合戦の後、戦功により丹波・信濃・若狭・武蔵・備中の五カ国に荘園が与えられた。おそらく、平家方の一門や貴族などから召し上げた膨大な数の荘園が、源氏の武者たちには恩賞として与えられたのであろう。
これらの荘園から、どれほどの恩恵を手にすることが出来たのか分からないが、那須家の二代目当主となった与一は、逃亡していた兄たちの赦免を受けて呼び戻し、全員に分地している。
長男の太郎光隆から十男の十郎為隆までの十人に、本家周辺の領地を分け与え、那須家の地盤を築いていったのである。
ただ、本家を継いだ与一は、若くして亡くなっている。没年は、文治五年(1189)とも建久元年(1190)とも伝えられている。いずれにしても、二十五歳前後という若さである。
亡くなった場所も、山城国とされているが、京都での任務にあたっていたのかもしれない。
与一の妻は、新田義重の娘とも伝えられているが、子孫はいなかったとされている。与一の死後は、五番目の兄、五郎之隆が継いでいる。
また、那須地方を中心に代々繁栄を続けた他、拝領した荘園の関係からか、越後国や備中国でも一族が土着したようである。
那須与一宗隆、源平合戦の最中に華麗に咲き誇った若武者は、若くして亡くなったため、後の世に記録されるものは少ないが、滋藤の弓から発せられた強烈な鏑矢の鳴り響く音は、なお今日でも多くの人々に感銘を与えているはずである。
( 完 )