『 新庄新監督 会見 』
ロッテの ビッグボス・シンジョウが記者会見
いやはや 全く 何と申しますか・・・
異例づくしの 新監督会見だったが
所々では はっとさせられるような 発言もあった
もしかすると プロ野球に新風を送り込むだけではなく
もっと大きな変化をもたらすかも知れない と思ってしまったのは
早くも ペースに乗せられてしまったのかな!?
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『 賜姓一族でありながら 』
深草の帝の御国忌の日、よめる 文屋康秀
草深き 霞の谷に 影かくし
照る日のくれし 今日にやはあらめ
( No.846 巻第十六 哀傷歌 )
くさふかき かすみのたにに かげかくし
てるひのくれし けふにやはあらぬ
* 歌意は、「草深い 霞のこめた谷に 姿を隠し 光が失せてしまったのは 昨年のこの日ではなかったのか 」と、亡き天皇を偲ぶ歌です。
なお、深草の帝は仁明天皇 ( 850 崩御 ) のこと。国忌 ( コキ・先帝などの命日 ) 。
* 作者 文屋康秀(フンヤノヤスヒデ) は、六歌仙の一人として名高い歌人です。
六歌仙というのは、古今和歌集の撰者の一人である紀貫之によるとされる仮名序の中で、「近き世にその名聞こえたる人は」として挙げられた六人のことを指します。
ただ、その評価は、「言葉の使い方は巧みだが、歌の姿が内容に合っていない。言うならば、商人が立派な衣装を身につけたようなものだ」といったものです。当時の商人は社会的地位が低かったので、どう見ても、それほど高い評価には見えません。さらに言えば、紀貫之の個人的な評価ですから、偏りもあるでしょうし、当然のことながら、後世の著名な歌人は対象にもなっていないわけです。従って、六歌仙をわが国の歌人の中で特に優れた六人だと考えるのは間違いといえます。
* 例えそうだとしても、作者が当時の代表的歌歌人の一人であったということは事実でしょう。さらに、当時の「和歌を詠む」力は、社会的な地位、官職における立場を高めるのに有力な能力であったと考えられます。
しかし、作者 文屋康秀は、官位で見る限り、恵まれたものではなかったようです。
* 文屋氏は、天武天皇の皇子・長皇子の子である智努王らが文室(文屋)の姓を給わったのに始まります。賜姓一族として、中納言や参議を輩出しているようですが、有力一族にはなれなかったようです。
康秀の生年は不詳ですが、没年は 885 年とされています。官職として伝えられている最初は 860 年 の中判事であり、最高位は 880 年の縫殿助 ( 正六位上 ) で、殿上人の資格に必要な五位に昇ることも出来ませんでした。康秀の享年は分かりませんが、中判事が最初の官職だと推定しますと、四十歳代、あるいは五十歳代前半と考えられます。
* 康秀の和歌で私たちに最もなじみ深いものは、小倉百人一首に入っている「古今和歌集 NO.249 」の和歌と思われます。
『 吹くからに 秋の草木の しほるれば むべ山風を 嵐といふらむ 』
本稿では、あえて掲題の和歌を選びましたのは、思いのままにならぬ官職に不満を抱きながらも、宮廷や皇族近くで懸命に和歌を詠んでいる姿を伝えていると思ったからです。
* 文屋康秀には、次のような逸話が伝えられています。
康秀が三河掾 ( 三河国の三等官。首長は「守」) として同国に赴任するに当たって、親しかった小野小町に同行するよう誘ったというのです。それに対する小町の答えは、
『 わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘う水あらば いなむとぞ思ふ 』
( こんなに落ちぶれて 空しくなったわたしですから お誘いいただけるのであれば どこまでもお供いたしましょう )
というものでした。
この時、二人の年令は何歳と何歳だったのでしょうか。小町には、晩年たいそう零落したという伝説が複数伝えられていますが、この時の小町の状況はどういうものだったのでしょうか。そして、小町は、ほんとうに河内国に同行したのでしょうか。
いずれも、真実とも伝説とも確定できる資料は無いようですが、たとえ官職に恵まれなかったとしても、康秀の生涯は豊かなものであったような気もするのです。
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