『 神のまにまに 』
このたびは 幣もとりあえず たむけ山
紅葉の錦 神のまにまに
作者 すがはらの朝臣
( 巻第九 羈旅歌 NO.420 )
このたびは ぬさもとりあえず たむけやま
もみぢのにしき かみのまにまに
* 歌意は、「 この度は 幣の用意もしないで参りました ここは たむけ山ですから 紅葉の錦を 神様のお気持ちのままにお受け取り下さい 」といった、比較的分かりやすい歌でしょう。
この歌の前書き(詞書)には、「朱雀院の奈良におはしましたりける時に、手向山にてよみける 」とありますので、おそらく、即興的に詠んだものでしょう。
なお、「朱雀院」とは宇多上皇のこと。「幣」とは布や紙で作って、神に祈るときに供えた物。「手向山」とは旅行者が山越えなどに際して安全を祈願する場所のこと。
* 作者の「すがはらの朝臣」とは、菅原道真(スガワラノミチザネ・ 845 - 880 )のことです。
父は菅原是善( 812 - 880 ・従三位参議)、母は伴氏です。父も幼い頃からその俊才ぶりが知られており、公卿の地位まで上っています。
道真も同様に早くから詩歌・学問に優れていて、862 年、十八歳で文章生となり、優秀者として選ばれる文章得業生を経て、867 年に正六位下野権少掾に叙任されています。
874 年、従五位下に叙爵され貴族の仲間入りを果しています。この頃は、朝廷のトップにあった藤原基経の信頼が厚かったようです。
891 年、宇多天皇に抜擢されて、蔵人頭に就きました。これにより、宇多天皇・醍醐天皇の側近としての地位を高めていきました。
894 年、遣唐大使に任ぜられますが、唐の混乱を理由に再検討を建言しました。ただ、この件はあまり協議されなかったようで、長く遣唐大使であり続けたようですが、907 年に唐が滅亡したため、遣唐使制度は幕を閉じることになりました。
* 893 年、参議となり、遂に公卿の地位に達します。895 年には従三位権中納言に上 ります。
掲題の和歌は、898 年のものと考えられますので、道真が絶頂期にあった頃のものです。
899 年、右大臣に就きます。
この順調すぎる出世の背景には、藤原氏の急激すぎる台頭を抑えたいという、宇多・醍醐天皇の思惑があったことは否めないでしょう。
果して、901 年の正月七日に従二位に上りますが、同月二十五日に、「太宰員外帥」に左遷となります。
そして、903 年に太宰府の地で波乱の生涯を終えます。
* 菅原道真の生涯を語るには、本稿はあまりにも荷が重すぎます。
しかも、菅原道真を知るとすれば、その生前の活躍などほんの序の口に過ぎず、死してのち怨霊となり、朝廷を悩まし続け、時には雷神となり人々の恐怖の対象となります。朝廷は、道真の霊を鎮めるために、次々と位階を贈り、正一位太政大臣に上っています。
そして、現在の私たちは、学業の神様「天神さま」として親しまれています。
雷さまと天神さま、菅原道真は今も私たちの近くにいらっしゃるのかもしれません。
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます