『 稲見萌寧さん 賞金女王に 』
女子プロゴルフ 賞金女王争いは 最終戦までもつれたが
稲見選手が 古江選手の猛追を受けながらも 逃げ切って
見事 今年の賞金女王に輝いた
それにしても このところの女子ゴルフは
若い選手の台頭が めざましく 面白い試合が多い
どうやら 女子プロゴルフは 黄金期が続きそうだ
☆☆☆
『 謎多き歌人 』
題しらず 作者 (一本) 大友黒主
春雨の 降るは涙か さくら花
散るは惜しまぬ 人しなければ
( 巻第二 春歌下 NO.88 )
はるさめの ふるはなみだか さくらばな
ちるはをしまぬ ひとしなければ
* 歌意は、「 春雨が降るのは 花の散るのを惜しむ人の涙なのだろうか 桜の花が散るのを 惜しまぬ人はいないのだから 」といったもので、ごく分かりやすい歌と思われます。
なお、作者名の前に(一本)とありますのは、数多くある伝承本の中には、作者を「読人しらず」となっているものがあるという意味です。
* 作者の大友黒主(オオトモノクロヌシ)は、現代の私たちに比較的馴染みのある歌人のように思われます。しかし、その代表的な和歌となりますと、よく知られた歌は見当たりません。
本稿の表題を「謎多き歌人」としましたのは、少々大げさかも知れません。出自などは正否はともかくかなりのものが伝えられており、「古今和歌集」では、撰者の一人である紀貫之は仮名序の中で、六歌仙の一人として紹介しているほどですから、古今和歌集に収録されている歌人たちの中では、伝えられている情報が特別に少ないというわけではありません。
しかし、やはり謎めいた人物のように、私には思えてならないのです。
* 黒主の生没年は未詳です。いくつかの資料カラは、誕生年が 830年前後、没年を 920年前後と推定できそうです。歌会などに登場している記録が、887年、897年、917年などに残されていますので、この時代に活躍していたことは確かでしょう。
生没年の推定が正しいとすれば、中央の歌壇で知られるようになったのは、五十歳を過ぎた老齢期に入ってからと考えられ、長命であったらしいことが推定できます。
* 出自についても、いくつかの説があるようです。
まず、文献によっては作者を大伴黒主と記録しているものもあることから、大伴家持や大伴旅人などで知られる古代豪族の大伴氏の分派というものです。ただ、これには少々無理があって、姓が「村主」とされていることから渡来系の子孫と考えられます。家持などの姓は「連」で身分的な差が大きく、さらに、黒主の時代には、大伴氏は「伴氏」を名乗っているのです。これは、823年に淳和天皇(大伴親王)の即位にともなって、その諱をはばかって改姓したもので、「大伴氏」という氏は無くなっていたのです。
もう一つは、弘文天皇(大友皇子)の皇子で大友姓を賜った予多王の孫にあたる、というものです。弘文天皇は、天智天皇の第一皇子ですが、壬申の乱において天武天皇と戦って敗れた人物で、歴代天皇に列せられたのは明治時代になってからのことです。当然、壬申の乱で大敗を喫した後の混乱で、子孫などの消息は多くが消え去っていると考えられますので、黒主が天智天皇の末裔だという説を完全否定することは出来ないかも知れませんが、やはり、「村主」を名乗っていたとすれば、事実では無いように思われます。
* おそらく、黒主は、近江国にあった大友郷に拠点を持つ豪族の一人であったのではないでしょうか。地理的なことを考えますと、祖先が天智天皇の近江朝廷に仕えていた可能性はあるかも知れませんが、宮廷にまで歌人として名が知られ、しかもかなり長命であったと考えられますが、その官位は「八位」程度であったとも伝えられていますので、とても皇族につながる家系だったとは思えないのです。
* 黒主を謎めいた人物にした一番の原因は、紀貫之が書いたとされる古今和歌集の仮名序の中で、六歌仙とされる人物の一人に加えたことのように思われてならないのです。もっとも、六歌仙という言葉は後世になって付けられたもので、現在のところ初出は、鎌倉時代初期の頃のようです。私もそうですが、現代人の場合、六歌仙とえば、和歌の名人といった感じで受け取ってしまうのですが、これは明らかに間違いだと思われます。
その理由は、単に紀貫之が選んだ六人であり、その選定基準が全く分からないということです。そして、和歌は、平安時代前期の人物である紀貫之( 945年没)以降に、多くのすぐれた歌人が登場していますので、そうした歌人を紀貫之は当然知らないのですから。
* 紀貫之は仮名序の中で、「柿本人麿を歌の聖としたうえで、『人麿は(山部)赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける。』」とした後で、「近き世にその名聞こえたる人は・・・」として六人の歌人を評価しています。後世、ここから六歌仙という言葉が誕生したわけです。
ただ、そこに書かれている黒主の評価といえば、「そのさまいやし。いはば、薪(タキギ)負へる山人の花の陰に休めるがごとし。」となっています。「そのさま」は歌の姿を指しているのでしょうが、この評価をどう受け取ればいいのでしょうか。
* 黒主の和歌は、古今和歌集に四首採録されていますが、そのうちの一首は読人しらずとなっていて、左注で「ある人のいはく、大友黒主がなり」となっています。掲題の和歌も、「一本」となっているように、このあたりも、何か謎を感じさせます。
古今和歌集には、実に多くの「読人しらず」となっている和歌が採録されています。柿本人麿とされている歌もかなりありますが、もしかすると、かなりのものは、歌人名が分かっているのに故意に「読人しらず」になっているような気がしてならないのです。その理由などを機会があれば推定を進めたいと思うのですが、黒主の和歌も、もっとあるような気もするのです。
* 小倉百人一首の撰者とされる藤原定家は、黒主より三百年ほど後の人物ですが、その選定において、六歌仙の中でただ一人、黒主を選んでいないのです。これは、単なる偶然なのか、忌避すべき何らかの理由があったのか、気になります。
* 地方豪族として栄えていた一人の人物が、類い希な歌の才能を持っていたが、ふとした切っ掛けからそれが中央に伝わることになり、晩年は中央歌壇で活躍することになるが、身分や門閥など、歌の才能だけでは活躍の場の制約を受けながら一流歌人となった人物・・・。まことに勝手に、こんな人物像を描いてみたのですが、もし、それに近いものであったとすれば、大友黒主にとって、どんな生涯であったのか、などと考えさせられてしまうのです。
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