雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

痛いの痛いの飛んで行け ・ 小さな小さな物語 ( 1742 )

2024-08-31 15:30:07 | 小さな小さな物語 第三十部

とても怖い夢を見ました。
恐いと言うより、苦しいと言った方が正しいのかも知れませんが、ずいぶん昔の仕事に関係した夢です。その出来事は、私が当事者だったわけではないのですが、危うく大事に至りそうなミスだったのですが、夢の中では私が中心人物になって、何かを背負って色々な人に助けを求めていました。もちろん、昔の出来事とは内容は一致していないのですが、いやに具体的で、鮮明でした。
目覚めたとき、「ああ、夢でよかった」と、かなり本気で嬉しかったのです。
夢については、当コラムでも、何度か取り上げた記憶がありますが、つくづく不思議なものです。

目覚めた後、起床時間には少し早かったのですが、そのまま起き出しました。「こんな夢の続きを見せられてはたまらない」という気持ちがあったからのようで、顔を洗っているうちに、さすがに自分が可笑しくなりました。そして、こういうのを「悪夢」というのだろうなあ、と思いましたが、同時に、「本当にそうかなあ」という気持ちも湧いてきました。
確かに、夢の中ではとても苦しい思いをしましたが、目覚めて夢だと認識した時の、あのほっとした時の気持ちは、そうそう経験できないほど有り難かったのです。もしかすると、あの夢は悪夢でも何でもなく、むしろ「良い夢」だったのではないかと思いました。逆に、夢の中で大変良い思いをしていて、まさに願いが成就するという寸前に目覚めた場合、夢の中でいくら幸福感を味あわせてもらっても、目覚めて落胆するようでは、それを良い夢といえるのでしょうか。

「禍福は糾(アザナ)える縄の如し」という言葉があります。中国の歴史書にある言葉のようですが、禍と福が目まぐるしく入れ替わることを見事に言い表していますし、禍と福が、簡単に判別できないことを示しているような気もするのです。
まだ幼い頃、あるいは青少年期に、不幸な時期や苦しい時に、周囲の人から差し伸べられた手によって、禍と思っていた事を福に変えていき、あるいは、福であるゆえに堕落への道へと進んでしまう例も、決して特殊なことではないでしょう。
乳幼児に関する悲しい事件が跡を絶ちません。青少年の残虐な、あるいは非常識すぎる事件も同様です。
これらの事件や当事者に対して、周囲から適切な手を差し伸べてくれる人がいてくれたなら、その寸前で立ち止まれたり、禍を福に変える切っ掛けが生まれていたかも知れないと思うのです。

「手当て」という言葉は、広い意味を持っていますが、痛みのある場所に手を当てることによって和らげることが出来る、という意味も持っています。お母さんが幼い子供の痛みの場所に手を当てて、「痛いの、痛いの、飛んで行け」と唱える呪文のような言葉は、きっとその子供は、折りに付けて思い出すでしょうし、お母さんがそうした気持ちを持ち続けている限り、子供たちは逞しく成長してくれることでしょう。
もちろん、子供は母親だけが育てるわけではなく、父親はもとより、家族や近隣の人々、学校や職場、社会全体のあらゆる影響を受けながら育っていきます。
幼い子供や少年たちが、悲しい環境に追込まれたり、とんでもない事件の当事者になってしまうのを、親や家庭の責任だけにして良いのか、地域の問題としてどう手当てすることが出来るのか、情けないことに全く無知なのですが、子供たちが育つ環境、つまり「社会力」のようなものが、劣化しつつあるのではないかという懸念を抱いております。

( 2024 - 02 - 27 )



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