雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ちょっとした出会い ・ 小さな小さな物語 ( 1741 )

2024-08-31 15:31:13 | 小さな小さな物語 第三十部

いつも拝見しているブログの中に、『おめでたいことだが、少し寂しい』といった記事に出会いました。
そのお方は、三週間余り前に手術されて、現在はリハビリに頑張っておいでです。ご本人も言われていますが、「命に別状のない部分の手術」ではありますが、相当の大手術ですのに、病院での様子を実に明るく伝えていらっしゃいます。蔭ながら無事を祈っているつもりだったのですが、実際は、その明るさに元気をもらっています。
そのお方が、病室で知り合った人が退院していくにあたって、「知り合えたことに感謝。おめでたいことだが、別れることは寂しい」といったことを記されていました。
( 許可を得ないで勝手に引用させていただきました。ご勘弁下さい。)

「一期一会」という言葉があります。
この言葉は、千利休の言葉とされていますが、茶席に臨む際の心構えとして諭した言葉のようです。つまり、「その機会は、二度と繰り返されることのない一生に一度の出会いと心得て、亭主も客も互いに誠意を尽くす心構え」を表現しているようです。
現在でも、この言葉にお目に掛かる機会は多いですが、茶会など限られた場面に限らず、「人との出会いを大切にしなさい」といった意味で使われているようです。また、「一生に一度だけの機会」といった意味で使われることもあるようです。
現在は、千利休の時代に比べますと、交通手段も、通信手段も桁違いに広がっていますが、それでも、私たちが一生の間に出会う人の数は限られています。たとえ数日の、それも会っている時間にすればごくごく短いものであっても、「別れるのが少し寂しい」という出会いをしたいものです。

しかし、私たちは、知らないうちに他人を傷つけていることは少なくないようです。時には、ちょっとした心ない言動が、ある人の生涯にわたっての傷になったり、時には生死に関わってしまうことさえあるものです。
もちろん、人の出会いは五分と五分ですから、相手の意志にかかわらず、自分が大きな屈辱を感じたり、大変な憎悪を抱くこともあるかも知れません。「人を憎むのも自分、人を許すのも自分」と教えて下さった先輩もおりますが、なかなか簡単なことではありません。
「君子の交わりは淡きこと水の如し」という言葉は、中国の古典「荘氏」の中にある言葉ですが、「君子の交わりは淡泊で、小人の交わりは濃密」と対比されていますが、おそらく、「立派な人どうしの交わりは、営利や情愛などの絡まない」ものであって、大切なことは、「水の如く、いつまでも変らない」ということだと思うのです。

私たちは、生涯に何人の人と出会うのでしょうか。出会いの基準をどこに置くかによってその数は大きく変るのでしょうが、確かなことは、「出会いの数だけ別れがある」ということです。
生涯のうちの長い時間を共にする人もいます。ごく短い期間であっても、とても心に刻み込まれる人もいます。この身に替えても守りたいと思う人もいれば、たとえ自分の一生が破滅してもあいつだけは許せないという人と出会ってしまうかも知れません。
けれども、出会った相手のすべてが、それぞれの命があり生涯があるのです。自分と同じように、もしかするとそれ以上に、懸命の生涯を模索しているのです。
接する期間が長くとも短くとも、私たちは、この世を去ることによって、すべての出会いを清算することになります。ちょっとした「あたたかな出会い」をもっともっと大切にしなければならないと思うのです。

( 2024 - 02 - 24 )


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