前九年の役 (1) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )
今は昔、
後冷泉院の御時に、奥州六郡のうちに安陪頼良(アベノヨリヨシ)という者がいた。その父を忠良といった。父祖代々、相次いで俘囚(フシュウ・帰順した蝦夷)の長であった。
威勢強大で、彼に従わぬ者はなかった。その一族は四方に勢力を広げ、遂には衣川(コロモガワ)の外にまで広がっていた。公事(クジ・朝廷への租税や労役)を努めようとしなかったが、代々の国司は、これを咎めることが出来なかった。
さて、永承年間(1046~1053)の頃、国司藤原登任(ナリトウ)という人が、大軍を発(オコ)してこれを攻めたが、頼良は多くの徒党を糾合して迎え撃ち、国司の軍勢は撃退され、多くの死者を出した。
朝廷は報告を聞いて、ただちに頼良を討伐すべきとの宣旨を下された。これにより、源頼義(ミナモトノヨリヨシ)朝臣が派遣されることになった。
頼義は鎮守府将軍に任じられ、太郎(長男)義家、二郎(次男)義綱、並びに多くの軍勢を率いて、頼良討伐のために即座に陸奥国に下った。
ところが、にわかに天下に大赦が行われ、頼良も許されたので、頼良は大いに喜び、名を頼時と改めた。これは、新しく国司(鎮守府将軍と陸奥守を兼務)となった頼義と同じ呼び名をはばかったものである。
こうして、頼時は陸奥守に忠誠を誓ったので、守の任期中には何事もなかった。
任期が終わる年、守が執務のため鎮守府に入って数十日滞在したが、頼時は側近として奉仕に努めた。また、駿馬に黄金などの財宝を添えて贈った。
こうして、守が国府(国府と鎮守府とは遠く離れている。)に帰る途中に、阿久利河(アクトガワ・迫川。北上川に合流する。)の岸辺で野宿をしたが、権守藤原説貞(トキサダ)の子の光貞・元貞らの宿所に矢が射かけられた。人や馬が少々殺された。いったい誰の仕業なのか分からなかった。
夜が明けて、守はこの事を聞き、光貞を呼んで犯人の心当たりを訊ねた。
光貞は、「先年、頼時の息子の貞任(サダトウ)が、『この光貞の妹を妻に欲しい』と言いました。しかし、貞任は家柄が卑しいので承知しませんでした。貞任はこの事を深く恥辱に思っています。これらを推察しますと、きっと貞任の仕業と考えます。この他には思い当たる者はおりません」と答えた。
守は、「これは、ただ光貞を射たと考えるべきではない。わしを射ることなのだ」と大いに怒り、貞任を呼び寄せて罰しようとしたが、頼時は貞任に向かって、「人が世にあるのは、みな妻子のためである。貞任は我が息子である。見捨てることなど出来ない。お前が殺されるのを見ていて、わしがこの世に生き長らえることなど出来ようか。門を閉じて、その命令は聞かなかったことにせよ。それに、守の任期はすでに満ちている。上京する日も近い。いかに腹を立てているとしても、自ら攻めてくることは出来まい。また、わしには防戦することが出来る。お前は何も嘆くことないのだ」と言って、衣川の関(もともとは、蝦夷の侵入に備えて設置した朝廷側の関所。)を固めて、道を閉鎖して人の通行を止めた。
そのため守はいよいよ怒り、大軍を発(オコ)して攻め寄せたので、国内は大騒ぎとなり、ことごとく守になびき従った。
頼時の婿の散位(サンイ/サンニ・位階を有しているが官職に就いていない者)藤原経清(ツネキヨ)や平永衡(タイラノナガヒラ)などもみな舅に背いて守に従った。
ところで、その永衡は銀の冑(カブト)を着けて出陣していたが、ある人が守に、「永衡は頼時の婿なので、表面上は守に従っていますが、内心では謀反をたくらんでいます。きっと、密かに使者を出して、味方の軍勢の様子を告げるに違いありません。また、着ている冑は皆と違っています。これは、合戦となった時に、頼時軍に攻撃されないための目印に違いありません」と告げた。
守はこれを聞いて、永衡とその一族四人を捕えて首を刎ねた。
経清はこれを見て、恐れおののき、親しい者に相談した。「わしもいつか殺されるに違いない」と。それに答えて、「あなたがいくら守に忠節を誓っても、きっと讒言(ザンゲン)され、間違いなく殺されるでしょう。ぜひとも、素早く逃げて、安大夫(アンタイフ・安倍大夫の略で頼時を指す。)に従うべきです」と言った。
経清はこの忠告を信用して、「逃げよう」と思って、計略を立てて、軍兵に向かって、「頼時軍が間道を通って国府を攻撃して、守の奥方を奪おうとしている」と言った。
これを聞いて守の軍勢は、一大事と騒ぎ立てた。その混乱に乗じて、経清は自分の手兵八百余人を引き連れて、頼時の陣営に逃れた。
そうこうしているうちに、頼義の任期が終わったので、新国司として高階経重(タカシナノツネシゲ)が任じられたが、合戦が起きていると聞いて辞退して、任国に下ろうとしなかった。その為、再び頼義が重任となった。これは、頼時を討伐させるためであった。
そこで頼義は、公文書でもって朝廷に、「金為時(コンノタメトキ・この地の豪族らしい)ならびに下野守興重(シモツケノカミオキシゲ・正しくは下野氏という豪族らしい)などに命じて、奥州各地の豪族らを味方につけて、頼時を討つべきです」と上申した。
朝廷は直ちにその旨の宣旨を下されたので、銫谷(カナヤ)・仁土呂志(ニトロシ)・宇曾利(ウソリ)の三郡(いずれも未詳)の俘囚たちが、安倍富忠を頭にして、大軍で攻撃した。
頼時は大いに奮戦したが、二日間にわたる合戦の中、遂に頼時は流矢に当たって、鳥の海の楯(城砦)において戦死した。
( 以下 (2) に続く )
☆ ☆ ☆
* 「前九年の役」とは、西暦 1051~1062 年に渡って、朝廷軍と奥州の安倍氏との戦いを言う。朝廷から言えば、安倍軍側は反乱軍なので、このように名付けられた。
もともとは、「奥州十二年合戦」と呼ばれていたらしいが、どういうことで「前九年の役」となったかは諸説あるらしい。また、安倍氏は奥州の一部の覇権を握っていたことから、反乱軍を鎮圧すると言った意味の「役」は不適として、「前九年合戦」とも呼ばれる。
* 「前九年の役」に対して、「後三年の役」と呼ばれる合戦もあるが、これは、西暦 1083~1087 年の間に勃発した、清原氏と藤原氏(朝廷)との合戦を指す。この合戦は、奥州藤原氏を誕生させた戦いでもある。
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今は昔、
後冷泉院の御時に、奥州六郡のうちに安陪頼良(アベノヨリヨシ)という者がいた。その父を忠良といった。父祖代々、相次いで俘囚(フシュウ・帰順した蝦夷)の長であった。
威勢強大で、彼に従わぬ者はなかった。その一族は四方に勢力を広げ、遂には衣川(コロモガワ)の外にまで広がっていた。公事(クジ・朝廷への租税や労役)を努めようとしなかったが、代々の国司は、これを咎めることが出来なかった。
さて、永承年間(1046~1053)の頃、国司藤原登任(ナリトウ)という人が、大軍を発(オコ)してこれを攻めたが、頼良は多くの徒党を糾合して迎え撃ち、国司の軍勢は撃退され、多くの死者を出した。
朝廷は報告を聞いて、ただちに頼良を討伐すべきとの宣旨を下された。これにより、源頼義(ミナモトノヨリヨシ)朝臣が派遣されることになった。
頼義は鎮守府将軍に任じられ、太郎(長男)義家、二郎(次男)義綱、並びに多くの軍勢を率いて、頼良討伐のために即座に陸奥国に下った。
ところが、にわかに天下に大赦が行われ、頼良も許されたので、頼良は大いに喜び、名を頼時と改めた。これは、新しく国司(鎮守府将軍と陸奥守を兼務)となった頼義と同じ呼び名をはばかったものである。
こうして、頼時は陸奥守に忠誠を誓ったので、守の任期中には何事もなかった。
任期が終わる年、守が執務のため鎮守府に入って数十日滞在したが、頼時は側近として奉仕に努めた。また、駿馬に黄金などの財宝を添えて贈った。
こうして、守が国府(国府と鎮守府とは遠く離れている。)に帰る途中に、阿久利河(アクトガワ・迫川。北上川に合流する。)の岸辺で野宿をしたが、権守藤原説貞(トキサダ)の子の光貞・元貞らの宿所に矢が射かけられた。人や馬が少々殺された。いったい誰の仕業なのか分からなかった。
夜が明けて、守はこの事を聞き、光貞を呼んで犯人の心当たりを訊ねた。
光貞は、「先年、頼時の息子の貞任(サダトウ)が、『この光貞の妹を妻に欲しい』と言いました。しかし、貞任は家柄が卑しいので承知しませんでした。貞任はこの事を深く恥辱に思っています。これらを推察しますと、きっと貞任の仕業と考えます。この他には思い当たる者はおりません」と答えた。
守は、「これは、ただ光貞を射たと考えるべきではない。わしを射ることなのだ」と大いに怒り、貞任を呼び寄せて罰しようとしたが、頼時は貞任に向かって、「人が世にあるのは、みな妻子のためである。貞任は我が息子である。見捨てることなど出来ない。お前が殺されるのを見ていて、わしがこの世に生き長らえることなど出来ようか。門を閉じて、その命令は聞かなかったことにせよ。それに、守の任期はすでに満ちている。上京する日も近い。いかに腹を立てているとしても、自ら攻めてくることは出来まい。また、わしには防戦することが出来る。お前は何も嘆くことないのだ」と言って、衣川の関(もともとは、蝦夷の侵入に備えて設置した朝廷側の関所。)を固めて、道を閉鎖して人の通行を止めた。
そのため守はいよいよ怒り、大軍を発(オコ)して攻め寄せたので、国内は大騒ぎとなり、ことごとく守になびき従った。
頼時の婿の散位(サンイ/サンニ・位階を有しているが官職に就いていない者)藤原経清(ツネキヨ)や平永衡(タイラノナガヒラ)などもみな舅に背いて守に従った。
ところで、その永衡は銀の冑(カブト)を着けて出陣していたが、ある人が守に、「永衡は頼時の婿なので、表面上は守に従っていますが、内心では謀反をたくらんでいます。きっと、密かに使者を出して、味方の軍勢の様子を告げるに違いありません。また、着ている冑は皆と違っています。これは、合戦となった時に、頼時軍に攻撃されないための目印に違いありません」と告げた。
守はこれを聞いて、永衡とその一族四人を捕えて首を刎ねた。
経清はこれを見て、恐れおののき、親しい者に相談した。「わしもいつか殺されるに違いない」と。それに答えて、「あなたがいくら守に忠節を誓っても、きっと讒言(ザンゲン)され、間違いなく殺されるでしょう。ぜひとも、素早く逃げて、安大夫(アンタイフ・安倍大夫の略で頼時を指す。)に従うべきです」と言った。
経清はこの忠告を信用して、「逃げよう」と思って、計略を立てて、軍兵に向かって、「頼時軍が間道を通って国府を攻撃して、守の奥方を奪おうとしている」と言った。
これを聞いて守の軍勢は、一大事と騒ぎ立てた。その混乱に乗じて、経清は自分の手兵八百余人を引き連れて、頼時の陣営に逃れた。
そうこうしているうちに、頼義の任期が終わったので、新国司として高階経重(タカシナノツネシゲ)が任じられたが、合戦が起きていると聞いて辞退して、任国に下ろうとしなかった。その為、再び頼義が重任となった。これは、頼時を討伐させるためであった。
そこで頼義は、公文書でもって朝廷に、「金為時(コンノタメトキ・この地の豪族らしい)ならびに下野守興重(シモツケノカミオキシゲ・正しくは下野氏という豪族らしい)などに命じて、奥州各地の豪族らを味方につけて、頼時を討つべきです」と上申した。
朝廷は直ちにその旨の宣旨を下されたので、銫谷(カナヤ)・仁土呂志(ニトロシ)・宇曾利(ウソリ)の三郡(いずれも未詳)の俘囚たちが、安倍富忠を頭にして、大軍で攻撃した。
頼時は大いに奮戦したが、二日間にわたる合戦の中、遂に頼時は流矢に当たって、鳥の海の楯(城砦)において戦死した。
( 以下 (2) に続く )
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* 「前九年の役」とは、西暦 1051~1062 年に渡って、朝廷軍と奥州の安倍氏との戦いを言う。朝廷から言えば、安倍軍側は反乱軍なので、このように名付けられた。
もともとは、「奥州十二年合戦」と呼ばれていたらしいが、どういうことで「前九年の役」となったかは諸説あるらしい。また、安倍氏は奥州の一部の覇権を握っていたことから、反乱軍を鎮圧すると言った意味の「役」は不適として、「前九年合戦」とも呼ばれる。
* 「前九年の役」に対して、「後三年の役」と呼ばれる合戦もあるが、これは、西暦 1083~1087 年の間に勃発した、清原氏と藤原氏(朝廷)との合戦を指す。この合戦は、奥州藤原氏を誕生させた戦いでもある。
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