雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

前九年の役 (1) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )

2017-08-13 08:36:03 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          前九年の役 (1) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )

今は昔、
後冷泉院の御時に、奥州六郡のうちに安陪頼良(アベノヨリヨシ)という者がいた。その父を忠良といった。父祖代々、相次いで俘囚(フシュウ・帰順した蝦夷)の長であった。
威勢強大で、彼に従わぬ者はなかった。その一族は四方に勢力を広げ、遂には衣川(コロモガワ)の外にまで広がっていた。公事(クジ・朝廷への租税や労役)を努めようとしなかったが、代々の国司は、これを咎めることが出来なかった。

さて、永承年間(1046~1053)の頃、国司藤原登任(ナリトウ)という人が、大軍を発(オコ)してこれを攻めたが、頼良は多くの徒党を糾合して迎え撃ち、国司の軍勢は撃退され、多くの死者を出した。
朝廷は報告を聞いて、ただちに頼良を討伐すべきとの宣旨を下された。これにより、源頼義(ミナモトノヨリヨシ)朝臣が派遣されることになった。
頼義は鎮守府将軍に任じられ、太郎(長男)義家、二郎(次男)義綱、並びに多くの軍勢を率いて、頼良討伐のために即座に陸奥国に下った。
ところが、にわかに天下に大赦が行われ、頼良も許されたので、頼良は大いに喜び、名を頼時と改めた。これは、新しく国司(鎮守府将軍と陸奥守を兼務)となった頼義と同じ呼び名をはばかったものである。
こうして、頼時は陸奥守に忠誠を誓ったので、守の任期中には何事もなかった。
任期が終わる年、守が執務のため鎮守府に入って数十日滞在したが、頼時は側近として奉仕に努めた。また、駿馬に黄金などの財宝を添えて贈った。

こうして、守が国府(国府と鎮守府とは遠く離れている。)に帰る途中に、阿久利河(アクトガワ・迫川。北上川に合流する。)の岸辺で野宿をしたが、権守藤原説貞(トキサダ)の子の光貞・元貞らの宿所に矢が射かけられた。人や馬が少々殺された。いったい誰の仕業なのか分からなかった。
夜が明けて、守はこの事を聞き、光貞を呼んで犯人の心当たりを訊ねた。
光貞は、「先年、頼時の息子の貞任(サダトウ)が、『この光貞の妹を妻に欲しい』と言いました。しかし、貞任は家柄が卑しいので承知しませんでした。貞任はこの事を深く恥辱に思っています。これらを推察しますと、きっと貞任の仕業と考えます。この他には思い当たる者はおりません」と答えた。

守は、「これは、ただ光貞を射たと考えるべきではない。わしを射ることなのだ」と大いに怒り、貞任を呼び寄せて罰しようとしたが、頼時は貞任に向かって、「人が世にあるのは、みな妻子のためである。貞任は我が息子である。見捨てることなど出来ない。お前が殺されるのを見ていて、わしがこの世に生き長らえることなど出来ようか。門を閉じて、その命令は聞かなかったことにせよ。それに、守の任期はすでに満ちている。上京する日も近い。いかに腹を立てているとしても、自ら攻めてくることは出来まい。また、わしには防戦することが出来る。お前は何も嘆くことないのだ」と言って、衣川の関(もともとは、蝦夷の侵入に備えて設置した朝廷側の関所。)を固めて、道を閉鎖して人の通行を止めた。
そのため守はいよいよ怒り、大軍を発(オコ)して攻め寄せたので、国内は大騒ぎとなり、ことごとく守になびき従った。

頼時の婿の散位(サンイ/サンニ・位階を有しているが官職に就いていない者)藤原経清(ツネキヨ)や平永衡(タイラノナガヒラ)などもみな舅に背いて守に従った。
ところで、その永衡は銀の冑(カブト)を着けて出陣していたが、ある人が守に、「永衡は頼時の婿なので、表面上は守に従っていますが、内心では謀反をたくらんでいます。きっと、密かに使者を出して、味方の軍勢の様子を告げるに違いありません。また、着ている冑は皆と違っています。これは、合戦となった時に、頼時軍に攻撃されないための目印に違いありません」と告げた。
守はこれを聞いて、永衡とその一族四人を捕えて首を刎ねた。

経清はこれを見て、恐れおののき、親しい者に相談した。「わしもいつか殺されるに違いない」と。それに答えて、「あなたがいくら守に忠節を誓っても、きっと讒言(ザンゲン)され、間違いなく殺されるでしょう。ぜひとも、素早く逃げて、安大夫(アンタイフ・安倍大夫の略で頼時を指す。)に従うべきです」と言った。
経清はこの忠告を信用して、「逃げよう」と思って、計略を立てて、軍兵に向かって、「頼時軍が間道を通って国府を攻撃して、守の奥方を奪おうとしている」と言った。
これを聞いて守の軍勢は、一大事と騒ぎ立てた。その混乱に乗じて、経清は自分の手兵八百余人を引き連れて、頼時の陣営に逃れた。

そうこうしているうちに、頼義の任期が終わったので、新国司として高階経重(タカシナノツネシゲ)が任じられたが、合戦が起きていると聞いて辞退して、任国に下ろうとしなかった。その為、再び頼義が重任となった。これは、頼時を討伐させるためであった。
そこで頼義は、公文書でもって朝廷に、「金為時(コンノタメトキ・この地の豪族らしい)ならびに下野守興重(シモツケノカミオキシゲ・正しくは下野氏という豪族らしい)などに命じて、奥州各地の豪族らを味方につけて、頼時を討つべきです」と上申した。
朝廷は直ちにその旨の宣旨を下されたので、銫谷(カナヤ)・仁土呂志(ニトロシ)・宇曾利(ウソリ)の三郡(いずれも未詳)の俘囚たちが、安倍富忠を頭にして、大軍で攻撃した。
頼時は大いに奮戦したが、二日間にわたる合戦の中、遂に頼時は流矢に当たって、鳥の海の楯(城砦)において戦死した。

                                        ( 以下 (2) に続く )

     ☆   ☆   ☆


* 「前九年の役」とは、西暦 1051~1062 年に渡って、朝廷軍と奥州の安倍氏との戦いを言う。朝廷から言えば、安倍軍側は反乱軍なので、このように名付けられた。
もともとは、「奥州十二年合戦」と呼ばれていたらしいが、どういうことで「前九年の役」となったかは諸説あるらしい。また、安倍氏は奥州の一部の覇権を握っていたことから、反乱軍を鎮圧すると言った意味の「役」は不適として、「前九年合戦」とも呼ばれる。

* 「前九年の役」に対して、「後三年の役」と呼ばれる合戦もあるが、これは、西暦 1083~1087 年の間に勃発した、清原氏と藤原氏(朝廷)との合戦を指す。この合戦は、奥州藤原氏を誕生させた戦いでもある。

     ☆   ☆   ☆
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前九年の役 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )

2017-08-13 08:35:02 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          前九年の役 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )

     ( (1) より続く )

その後、陸奥守源頼義は、三千百余人の軍勢を率いて、貞任らを討とうとした。
貞任らは、四千余人の兵を率いて防戦し、守の軍は敗れて、多くの戦死者を出した。
守の息子義家は、勇猛なこと人に勝れ、射る矢は的をはずすことはなく、敵を射る矢に無駄がない[ 一部欠字あり推定ある。]。蝦夷たちは風になびくように逃げまどい、あえて向かって来る者はいなかった。この男を八幡太郎という。

この戦いで、守の軍兵は、ある者は逃げある者は討死した。
僅かに残るところは六騎となった。息子の義家、修理少進藤原景道、大宅光任(オオヤノミツトウ)、清原貞廉(サダヤス)、藤原範季(ノリスエ)、同則明(ノリアキラ)などである。敵勢は二百余騎である。左右から包囲して攻撃し、飛んでくる矢は雨のようであった。
守の乗馬は矢に当たって斃(タオ)れた。景道が放れ馬を捕えて守に与えた。義家の馬もまた矢に当たって死んだ。すると、則明が敵の馬を奪って義家を乗せた。このような状態で、脱出は不可能と思われた。
しかし、義家は、次々と敵兵を射殺していた。また、光任らも死を覚悟して戦い続けたので、敵はしだいに引いていった。

その時、守の郎等で散位佐伯経範(サエキノツネノリ)という人がいた。相模国の住人である。守はこの人物を特に頼りにしていた。
守の軍勢が敗れた時、経範は敵の包囲の隙を見つけて、ようやく脱出したものの、守の行方を見失っていた。散り散りになった味方の兵士に尋ね回ると、ある兵士が「守は敵勢に囲まれていて、従っている者は僅かでした。あの様子では、きっと脱出は難しいと思われます」と答えた。経範は、「わしは守に仕えてきてすでに老齢となった。守もまた若いとはいえぬ。この最期の時におよんで、どうして離れて死ぬことなど出来ようか」と言った。その随兵三騎ばかりも、「殿はすでに守と共に死ぬつもりで敵陣に突っ込んだ。我らだけ生き残るわけにはいかぬ」と言って、共に敵陣に飛び込んで戦い、十余人を射殺したが、彼らも敵前で討死した。

また、藤原景季は景道の子であるが、年二十余歳にして敵陣に馳せ入り、敵兵を射殺しては返ること七、八度に及んだが、遂には敵陣で馬が倒れてしまった。敵勢は景季の武勇を惜しんだが、守の親衛兵であるため討ち取った。
このように、守の側近の郎等たちは皆力の限りを尽くして奮戦したが、敵に殺される者が続出した。
また、藤原茂頼は守の側近であるが、戦いに敗れた後、数日守の行方が分からなかった。「すでに敵に討たれてしまった」と思って、泣く泣く、「せめて守の遺骨を探し求めてとむらおう。たが、戦場には僧でなければ入れない」と言って、ただちに髪を剃って僧侶姿になり、戦場に向かう途中で守に出会い、喜び、かつ悲しんで、守と共に帰った。

こうして、貞任らはいよいよ威を振るい、至る所の郡で住民を支配した。
経清(ツネキヨ)は大軍を率いて衣川の関に出張り、通達を諸郡に発して、官税物を徴収して、「白符(シロフ)を用いよ。赤符を用いてはならない」と命令した。
白符というのは、経清の私的な徴税命令書で、国印が押されていないので白符と言った。赤符というのは、国司が発したもので、国印が押されていたので赤符と言ったのである。
守は、これを制止しようとしたが、どうすることも出来なかった。

さて、守はことあるごとに、出羽国の山北(横手盆地から見て山の北側という意味で、秋田県の一部になる。)の俘囚の長、清原光頼ならびに弟の武則らに加勢するように働きかけていた。
光頼らは態度を決めかねていたが、守は常に珍しい立派な物などを贈り懇願したので、光頼・武則らはしだいに心を許すようになり、加勢を承知した。
その後、守はしきりに光頼・武則らに出兵を要請した。そこで、武則は、子弟ならびに一万余人の軍勢を発(オコ)して、陸奥国への国境を越え、守に来援を告げた。
守は大いに喜び、三千余人の軍兵を率いて出迎えた。栗原郡の営岡(タムロオカ)において、守は武則と会った。そして、互いに意見を述べ合い、次に諸陣の指揮官を定めたが、いずれも武則の子や一族の者であった。

武則は、遥かに王城の方角を拝し誓いを立てて、「我はこれより子弟・一族こぞって、将軍の命令に従います。死ぬことを躊躇しません。願わくば八幡三所(石清水八幡に祀られている三神。)我が忠誠心をご照覧ください。我はいささかも命を惜しまない」と言った。
多くの軍兵はこの言葉を聞いて、皆一斉に奮い立った。その時、鳩が軍勢の上を舞った。守を始めことごとくがこれを拝した。

そして、ただちに松山の道を進み、磐井郡の中山の大風沢で宿泊した。翌日、その郡の萩の馬場に着いた。宗任(ムネトウ・安倍貞任の弟)の叔父である僧・良照(リョウジョウ)の小松の楯(城)から五町余りの所である。
しかし、日柄が良くない上に日も暮れてきたので攻撃しなかった。武則の子らが敵の軍勢の様子を見るために近付いて行った時、配下の歩兵たちが楯の外の宿舎に火を放った。たちまち城内は大騒ぎとなり、石つぶてを投げて反撃してきた。
この為、守は武則に、「合戦は明日と考えていたが、自然と事が起きてしまった。もう日を選んではおれない」と言うと、武則も、「その通りです」と答えた。

そこで、深江是則、大伴員秀(カズヒデ)という者が、猛者二十余人を率いて、剣で城の崖を削り、鉾(ホコ)を突いて巌に登り、楯(城)の下を切り壊して場内に乱入し、敵味方剣での打ち合いとなった。場内は混乱し、人々は右往左往する。
宗任は八百余騎を率いて場外に出て戦ったが、守は大勢の勇猛な兵士を送り込んで戦ったので、遂に宗任軍は敗れた。城兵が楯を捨てて逃げたので、ただちにその楯を焼き払った。

                               ( 以下 (3) に続く )

     ☆   ☆   ☆




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前九年の役 (3) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )

2017-08-13 08:33:49 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          前九年の役 (3) ・ 今昔物語 ( 25 - 13 )

     ( (2) より続く )

その後、守(源頼義)は兵士たちを休息させるため、あえて追撃しなかった。また、長雨のため十八日間この地に留まった。
その間に、兵士らの兵糧が尽き、食物がなくなってしまった。守は、多くの兵士をあちらこちらに派遣して食糧を求めたが、貞任らがこの事を漏れ聞いて、隙を伺って、大軍を率いて攻撃してきた。
そこで、守ならびに義家・義綱・武則らが全軍を励まし、力の限りを尽くし命を棄てて戦ったので、貞任らは敗れて逃走した。
守ならびに武則らは軍勢と共に追撃し、貞任の高梨の宿と石坂の楯の所で追いつき合戦となったが、貞任軍は再び敗れて、その楯を捨てて、貞任は衣川の関に逃げ込んだ。
追撃軍は、ただちに衣川を攻めた。この関は、もともと大変険しい上に、繁茂した樹木が道をふさいでいる。守は、三人の指揮官に手分けして攻撃させた。

武則は馬から下りて、岸辺を回って見て、久清という兵士を呼び、「両岸に幹が曲がった木がある。その枝が川の面を覆っている。お前は身軽で、飛び越えることが得意だ。あの木を伝って向こう岸に渡り、密かに敵陣に潜入して、あの楯のもとに火を付けよ。敵はその火を見て驚くだろう。その時に我らは必ず関を打ち破ろう」と命じた。
久清は武則の命令に従って、猿の如く向こう岸にある木に取り付き縄を付けた。その縄に取り付いて、三十余人の兵士が対岸に渡った。その中の藤原業道(フジワラノナリミチ)が密かに楯のもとに行き火を放って焼いた。
貞任らはこれを見て驚き、戦わずして逃走し、鳥の海の楯に入った。

守ならびに武則は、この楯を落したのち、鳥の海の楯を攻撃に向かった。この軍勢が到着する前に、宗任・経清らは楯を捨てて逃げ、厨川(クリヤガワ)の楯に移った。
守は、鳥の海の楯に入り、しばらく兵を休めたが、ある建物の中にたくさんの酒が置いてあった。歩兵たちがこれを見つけて喜び、急いで飲もうとした。守はこれを制して、「これはきっと毒入りの酒であろう。飲んではならない」と言った。
ところが、雑兵の中の一人二人がこっそりと飲んだが害がなかった。そこで、全軍の兵士こぞってこの酒を飲んだ。

さて、武則は、正任(マサトウ・宗任と兄弟)の黒沢尻の楯、鶴脛(ツルハギ)の楯、比与鳥の楯などを攻め落として、次いで厨川と嫗戸(ウバト)の二つの楯に至って取り囲み、陣を張って終夜看視した。そして、翌日卯の時(午前六時頃)から終日終夜(ヒネモスヨモスガラ)戦い続けた。
その時、守は馬から下りて、遥かに王城の方角を拝して、自ら火を手にして、「これは神火である」と誓言してそれを投げた。すると、鳩が現れ、陣の上を舞い飛んだ。守はこれを見て、涙を流して礼拝した。
その時、突然暴風が起こり、城内の建物はすべて同時に焼け落ちた。城内の男女数千人は、声を合わせて泣き叫んだ。敵兵は、ある者は淵に飛び込み、ある者は敵前に身をさらした。
守の軍勢は、川を渡って攻撃し、包囲して戦った。敵軍は身を捨てて剣を振るい、囲みを破って脱出しようとした。武則は配下の兵士に、「道を開けて、敵兵を出してやれ」と命じた。兵士たちは命令に従って道を開いた。
すると、敵兵たちは戦うのを止めて脱出していった。守の軍勢は、これを追撃して、ことごとく殺してしまった。また、経清を捕縛した。

守は経清を召し出して、「お前は我が家の先祖伝来の従者である。そうでありながら、長年わしをないがしろにし、朝廷を軽んじてきた。その罪はまことに重い。こうなっても、まだ白符を使うことが出来るのか、どうか」と言った。経清は頭を垂れて言葉もなかった。
守は鈍刀で、少しずつ経清の首を切った。

貞任は、剣を抜いて敵の軍勢に切り込んだが、軍勢は鉾(ホコ・槍)でもって貞任を刺し殺した。そして、大きな楯(これは矢を防ぐための楯)に乗せて、六人がかりで担いで守の前に置いた。身の丈六尺余り、腰の回り七尺四寸、容貌は厳めしく色白である。年は四十四歳であった。
守は貞任を見て喜び、その首を切り落とした。また、弟の重任の首も切った。ただ、宗任は深い泥の中に隠れて逃げのびた。
貞任の子は年十五の童にて、名を千世童子という。姿形麗しい少年であった。楯の外に出て雄々しく戦った。守はその姿を哀れに感じ許そうと思ったが、武則はそれを制して、首を切らせた。
楯が破られた時、貞任の妻は三歳の子を抱いて、「あなたはもう殺されようとしています。私一人生きてはおれません。あなたの見ている前で死のうと思います」と夫に向かって言うと、子を抱いたまま深い淵に身を投じて死んだ。

その後、日を経ずして、貞任の伯父安倍為元、貞任の弟の家任が降伏してきた。また、数日して、宗任ら九人が降伏してきた。
その後、朝廷に国解(コクゲ・報告書)を奉り、首を取った者、降伏してきた者の名を上申した。

次の年、貞任・経清・重任の首三つを朝廷に奉った。それが京に入る日、京じゅうの上中下の人々が大騒ぎして見物した。
これらの首を京に運ぶ途中で、使者が近江国甲賀郡で、箱を開け首を出して、その髻(モトドリ)を洗わせた。箱を持つ雑役はもとは貞任の従者で降伏した者であった。その者が、首の髪をすく櫛が無いと申し出た。使者は、「お前たちの自分の櫛ですけ」と言った。雑役は自分の櫛で泣きながらすいた。
首を持って京に入る日、朝廷は検非違使らを賀茂河原に派遣して、これを受け取らせた。

その後、除目が行われた時に、その功を賞せられ、頼義朝臣は正四位下に叙して出羽守に任じられた。二郎義綱は左衛尉(サエジョウ・左衛門尉の略。宮中の諸門警護の武官の役所の三等官。)に任じられ、武則は従五位下に除して鎮守府の将軍に任じられた。首を奉った使者の藤原秀俊は左馬允(サマノジョウ・馬を司る役所の三等官。)に任じられた。物部長頼は陸奥大目(ムツノサカン・国府の四等官)に任じられた。

このように、賞があらたかに行われたことを見て、世の人は皆褒め称え喜んだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆





 
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後三年の役 (欠文) ・ 今昔物語 ( 25 - 14 )

2017-08-13 08:00:57 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          後三年の役 (欠文) ・ 今昔物語 ( 25 - 14 )

本話は、「源義家朝臣罸清原武衡等語第十四」という表題だけで、本文はすべて欠文となっている。
表題から推定すれば、後三年の役について書かれたものと考えられるが、当初から欠文となっていたようである。

     ☆   ☆   ☆

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様変わりの人とは

2017-08-12 08:22:30 | 麗しの枕草子物語
           麗しの枕草子物語

               様変わりの人とは

「生まれ変わって天人になってしまったのだろうか」と思われるほど、様変わりしてしまう人っておりますわよねぇ。

平凡な女房として宮仕えしていた女性が、皇子の御乳母となられたなどは、まさにそうですわ。
女房の制服ともいうべき唐衣も着ないで、どうかすると裳さえ着けない格好で、皇子に添え臥し、畏れ多くも御帳台の内を当然のように居場所にしているのです。
女房たちを当然のように使い、自分の部屋への用事なども申しつけたり、手紙の取り次ぎをさせたりしているのですよ。いやはや、大変なものですわよ。

雑色の身分の者が、抜擢されて六位の蔵人に昇進した場合も、それはそれはすばらしいものです。
昨年の賀茂の臨時祭の時には、御琴を支えていて人並みにさえ見られていなかった人が、蔵人となった今年は、君達(キンダチ)と連れ立って歩いているのですから、「一体どこの御方かしら」と思ってしまいます。
まあ、同じ六位の蔵人といっても、雑色からではなく、然るべき立場の方が就かれた場合は、それほどでもありませんが。


(第二百二十八段・身を変へて・・、より)
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