雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

余五将軍合戦記 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 5 )

2017-08-13 09:03:33 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          余五将軍合戦記 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 5 )

     ( (1) より続く )

さて、妻子を逃した余五(平維茂)は心安らかとなり、屋敷内を駆け巡り手配りしているうちに、敵勢は家近くまで押し寄せてきて取り囲んで攻撃してくる。
防戦に努めるも、味方の人数は少なくとても対抗しきれない。敵は屋敷のあちらこちらに火をつけて焼き払う。家から飛び出して戦おうとする者には、雨あられと矢を射かけてくるので、内に籠って右往左往する。
やがて、夜が明けると、家の様子は丸見えとなり、一人として逃げ出すことが出来ない。全員屋敷に閉じ込められたまま、ある者は射殺され、ある者は焼き殺されてしまった。

火が消えたあと、敵がみな家の中に討ち行ってみると、焼け死んだ者は、身分の上下を問わず、子供なども合わせて八十余人にのぼった。
「余五の死骸はどれだ」と、死体をひっくり返しひっくり返し見ていくも、いずれも真っ黒に焼け焦げており、中には、誰の死骸とも分からないほど焼け縮んでいる者もある。
「犬さえも逃がすことなく皆殺しにしたのだから、きっと、余五も討ち果たしたに違いない」と、安心して兵士たちは引き返して行った。
寄せ手の郎等も、二、三十人ほどが射られ、ある者は死に、ある者は馬に担ぎ乗せられて返ったが、大君(オオギミ)という者の所に立ち寄った。

この大君というのは、能登守橘惟通(タチバナノコレミチ)という人の子である。思慮深い武者であり、おくゆかしく分別があり、敵対する者などなく誰からも信頼されていた。 
余五を夜討ちした沢胯(藤原諸任)は、この大君の妹を妻にしていたので、このように一晩中激しく戦っての返りなので、「兵士たちに何か食べさせて、酒を飲ませてやろう」などと思って寄ったのだが、大君は沢股に会うと、「かくも鮮やかに余五を打ち破ったとは見事なものだ。武勇に勝れ意気盛んな者を、家に閉じ込めて討ち取ったとは思いもよらないことだ。それで、その余五の首は確かに取って、鞍の後ろに結び付けて参ったのか、如何だ」と言った。

沢胯は、「ばかなことを申されますなァ。家に閉じ込めたまま戦いながら、余五は大声で下知し、馬に乗って駆け巡って戦っているうちに夜が明けたので、逃げ出す者ははっきりと見えたので、蠅であっても逃さず、ある者はその場で射倒し、あるいは家に閉じこめたまま焼き殺し、遂にはかすかな声さえ出す者がいなくなるまで焼き殺したのだ。それを、どうして、その汚げな焼けた首を取ってくる必要があろうか。露ほどの疑いもないことなのだから」と、いかにも得意満面の様子で、脇を掻いて(「胸をたたいて」と言った意味で、得意な時の所作をこのように表現したようだ。)言い放った。

大君はこれを聞いて、「なるほど、そのようだ。そなたがそのように思われるのはもっとだ。但し、この翁が思うには、それでもなお、余五の首を、『此奴は生き返るかもしれない』と考えて、鞍の後ろに結び付けてこそ、後々安心というものであろう。そうしない限り、気がかりなことになる。この翁は、彼の人物をいささか知っているから申すのである。
ここで時間をつぶすのはよしなされ。大変な迷惑な事なのだ。老いの果てに、つまらない人に関わって、今更合戦などはまったく無益な事ですからなあ。長年人と付き合ってきたが、さいわい合戦騒ぎなどには関わらず来たというのに、今更関わりたくもない。さあ、今すぐここを立ち去って下され」と、つれなく追い出そうとしたので、これまで大君を実の親のように思って従ってきていたのに、沢胯は追われるままに出て行った。

その時、大君は、「さぞお疲れでしょう。食べ物などは翁の方から差し上げましょう。だから、すぐに行ってくれ」と、あれこれ考える間もなく言ったので、沢胯は、「何と賢い爺さんだことだ」と密かに苦笑いして、馬に乗って皆出て行った。
五、六町ばかり行くと、野笹が生えている西側に小川が流れている所があり、その岸辺に寄って、馬より下り、「ここで休もう」と言って、武具などを皆外して休んでいると、大君の所から酒を大樽に入れて十樽ばかり、魚の鮨(保存できる押し鮨らしい)を五、六桶ばかり、さらに、鯉、鳥、酢、塩に至るまで、たくさん担いで持ってきた。
まず、酒をあたためてそれぞれすくって飲む。昨日の宵から戦の準備を始め、巳時(ミノトキ・午前十時頃)まで戦い続けたので、疲れ切っていた。喉が渇くままに、空きっ腹に酒を四、五杯も飲んだので、皆、死んだように酔いつぶれた。
馬に喰わせる干し草・まぐさ・大豆もたくさん届けられていたので、鞍も下ろし、轡(クツワ)も外し、指縄(サシナワ・馬の口に付けて引く縄)だけ付けて餌を喰わせた。馬も同じように疲れていたので、足を伸ばし、反り返って伏していた。

                                  ( 以下、(3) に続く )

     ☆   ☆   ☆





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余五将軍合戦記 (3) ・ 今昔物語 ( 25 - 5 )

2017-08-13 09:02:05 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          余五将軍合戦記 (3) ・ 今昔物語 ( 25 - 5 )

     ( (2) より続く )

さて、夜討ちされた余五(平維茂)は、その家の中で、夜が明けるまで走り回って、下知しながら奮戦し、敵を多く射殺したが、遂に矢も尽きて、味方の人数も少なくなってしまったので、「これ以上戦っても無駄だ」と思って、自分が着ている着物を脱ぎ捨て、下女が着ていた襖(アオ・あわせの着物)というそこにあった物を引っ被り、髪を乱して下女のような姿になって、太刀だけを懐に入れて、煙がくすぶっている中に紛れ込んで、飛ぶようにして脱出し、西側に流れている川の深みに飛び込み、向こう岸近くの葦などが生い茂っている所に慎重に泳ぎ着いた。そして、倒れている柳の根のあたりに掴まっていた。
やがて家が燃え尽き、沢胯(藤原諸任)の軍勢が焼け跡に打ち寄せて、焼け死んだり射殺された者たちの数を数え、「余五の首はどこだ」などと言い、「これがそうだ」などと言う奴もいる。そうしたうえで、全員が引き上げていった。

もはや敵勢は四、五町も行ったかと思われる頃、屋敷の外に住んでいる余五の郎等たちが三、四十騎ばかりが駆けつけてきた。そして、この焼け焦げた首などを見て、声を合わせて泣き叫んだ。
騎馬の武者が五、六十人ほども集まってきたと思われる頃、余五は大声で叫んだ。「わしはここに居るぞ」と。
武者たちはその声を聞いて、馬から転げ落ちて、嬉しき泣きする声は、先ほどの泣き叫ぶ声に劣らなかった。
余五が岸に上がると、郎等たちはそれぞれ自分の家に人をやり、ある者は着物、ある者は食物、ある者は弓矢や太刀など、ある者は馬や鞍などを持ってきたので、余五は、皆が衣裳を改め、食事を終えるのを待って言った。
「わしは昨夜襲われた時、初めは山に逃げ込んで命を長らえようと思ったが、『逃げたという汚名を世に残すまい』と思って、その結果、このような目に遭ってしまった。お前たち、これからどうすれば良いと思うか」と。
郎等たちは、「敵勢は多く、四、五百人ほどもいます。こちらは、僅かに五、六十人しかおりません。この人数をもって、今すぐどうすることも出来ません。ですから、後日、武者たちを集めて、存分に戦うのがよろしいと思います」と答えた。

余五はこの進言を聞いて、「お前たちの言うことは全くその通りだ。だが、わしが思うには、『わしが、昨夜家の中で焼き殺されていれば、今まで命があっただろうか。何とか策を弄して逃げ出したのだから、もはや生きているとはいえまい。一日でもお前たちにこのような姿を見せたことは、大変な恥である。されば、我が命は露ほども惜しくない。お前たちは、後日、軍勢を集めて戦うのがよい。ただ、わしは、わしはただ一人で奴の家に向かい、「わしを焼き殺した」と思っている奴らに、「わしは、このように生きているぞ」と姿を見せてやり、一矢なりとも射かけた上で死にたい』と考えている。さもなくば、今回のことは、子々孫々までのこの上ない恥辱ではないか。後日に軍勢を整えて攻撃するなど、実に愚かなことだ。命の惜しい者はついて来るな。わし一人で行くぞ」と言って、すぐさま出立しようとする。

そこで、「後日戦おう」と進言していた郎等たちも、余五の決意を聞いて、「ごもっともなお考えです。このうえ何も申し上げることはございません。ただちに出立なさいませ」と賛同した。
余五は出立の前に、「わしの言うことに、間違いはあるまい。奴らは、一晩中の戦いに疲れ果てて、何々の川のほとりか、あるいは、これこれの丘の向こう側の櫪原(クヌギハラ)の辺りで、死んだようになって寝ているだろう。馬なども轡(クツワ)をはずし、まぐさを与えて休ませているだろう。弓などもみなはずして油断しているだろうから、そこに喊声(カンセイ)をあげて襲いかかれば、たとえ千人の軍勢といえども何ほどのこともない。もし、今日やらなければ、いつやれるというのか。命の惜しい者は留まるがよい」と言って、自らは、紺の襖(アオ・ここでは、狩衣に裏を付けた物らしい)に山吹色の衣を着て、鹿の夏毛の行縢(ムカバキ・腰から脚にかけての覆い)をつけ、綾藺笠(アヤイガサ・いぐさの茎を綾状に編んだ笠)をかぶり、征矢(ソヤ・ふつうの矢)三十本ほどに雁股の矢(カリマタノヤ・先が又の形に開き、その内側に刃のある矢尻をつけた矢)を二本上に差した胡籙(ヤナグイ・矢を入れる武具)を背負い、手には所々に革を巻いた太い弓を持ち、打出(ウチイデ・新刀)の太刀を佩き、腹葦毛の馬で丈が四尺七寸ほどもある、ひときわ背が高く進退自由の逸物にまたがって、軍勢の数を数えると、騎馬武者七十余騎、歩兵三十余人、合わせて百余人が集まっていた。
これらの者は、屋敷に近い者たちが急を聞いていそぎ馳せ参じたのであろう。家が遠い者たちは、知らせが届かず到着が遅れているのであろう。

                                  ( 以下、(4)に続く )

     ☆   ☆   ☆



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余五将軍合戦記 (4) ・ 今昔物語 ( 25 - 5 )

2017-08-13 09:01:09 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          余五将軍合戦記 (4) ・ 今昔物語 ( 25 - 5 )

     ( (3) より続く )

さて、反撃の体制を整えた余五(平維茂)軍は、沢胯(藤原諸任)軍の跡を尋ねつつ追って行くと、かの大君の屋敷の前を通り過ぎるので、使者に挨拶をさせた。「平維茂、昨夜打ち破られて落ちて行くところでございます」と。
大君はかねてより「もしかすると襲われるかもしれない」と思っていたので、使者の挨拶を聞くと、屋敷内に郎等二、三十人ばかり置き、数人を櫓に登らせて遠見をさせ、門を固く閉じさせた。
そのうえで大君は、郎等たちに「何も答えるな」と命じたので、余五の使者は、声をかけただけで戻っていった。

大君は、櫓に登っている者を呼んで、「どのような様子であったか。よく見定めたか」と訊ねると、「見定めました。一町ほど先の大路を過ぎると、軍勢百人ばかりが、駿馬に鞭打って、飛ぶようにして過ぎ去りました。その中に、ひときわ大きな葦毛の馬に乗り、紺の襖に山吹色の衣を着た者が、綾藺笠をかぶり、鹿の夏毛の行縢をつけた者が、とりわけ優れていて、大将と見受けました」と答えた。
大君は、「それは、余五であろう。彼が持っている大葦毛に違いない。それは格別の逸物と聞いている。余五がそれに乗って押し寄せたなら、誰が手向かい出来ようか。沢胯はひどい死に方をする奴だ。わしの言うことを馬鹿にして、大勝利したと得意顔であったが、きっと、あの丘の辺りで戦いに疲れて寝ているのであろう。そこに、あの軍勢が襲いかかれば、一人残らず射殺されてしまうだろう。よいか、よく聞け。よもや、わしの言うことに間違いはあるまい。されば、門を固く閉じて、鳴りを静めておれ。よく分かったな。ただ、櫓に登って遠見は続けよ」と言った。

さて、前方に物見を走らせ、「沢胯の居場所を正しく突き止めて知らせよ」と命じていたが、その物見が走って帰ってきて、「これこれの丘の南側の沢のような所で、物を食い、酒を飲みなどして、ある者は寝込み、ある者は病人のようになっています」と報告した。
余五はこれを聞いて喜び、「さあ、すばやく攻め込め」と急き立てて、飛ぶように走り出した。
その丘の北側に馬を乗り上げて、丘の上より南の斜面を馬を駆け下らせた。下り坂なので馬場のような野を、笠懸(カサカケ・騎射の一つ。馬上から的を射る。)を射るように、雄叫びをあげ鞭を打って、五、六十騎ばかりで襲いかかった。

その時、沢胯四郎をはじめ兵士たちは驚いて起き上がり、敵勢を見て、ある者は胡錄(ヤナグイ)を取って背負い、ある者は鎧を取って着、ある者は馬の轡をはめ、ある者は倒れ惑い、ある者は武器を棄てて逃げだし、ある者は楯を取って戦おうとしていた。馬たちは混乱に驚き走り騒ぐので、しっかりつかまえて轡を付ける者もいない。中には、舎人を蹴倒して走る馬もいる。
瞬く間に三、四十人ほどの兵士がその場で射倒された。中には、馬に乗っても戦う気力がなく、鞍を打って逃げ出す者もいた。
そして、沢胯を射倒して首を切った。

その後、余五は全軍を率いて、沢胯の屋敷に向かった。
沢胯の家の者たちは、「主君が戦いに勝って帰ってくるぞ」と思って、食物を準備して喜んで待っているところに、余五の軍勢がしゃにむに攻め込んできて、屋敷に火をつけ、手向かう者は射殺し、家の中に兵士を入れて、沢胯の妻を侍女一人と共に引き出して、妻を馬に乗せて市女笠(イチメカサ・女性が外出時に用いた笠)を被らせて顔を隠してやり、侍女も同じようにして余五の馬のそばに立たせ、すべての建物に火を放って、「女であれば、身分の上下を問わず手をかけるな。男であれば、見つけ次第すべて射倒せ」と命じたので、片っ端から皆射殺してしまった。なかには、寄せ手の目をくぐって逃げおおせた者もあった。

焼け落ちて後、日暮れ頃になって引き上げたが、かの大君の屋敷の門に立ち寄り、使者をやって、「自らは参上いたしませんが、沢胯の君のご妻女には、いささかも恥を見させておりません。貴殿の御妹でおありなので、それにはばかり申して、確かにお連れ致しました」と伝えさせたので、大君は喜んで門を開き、妹君を受け取り、確かに頂戴した旨を伝えたので、使者は返ってきた。

これより後、維茂は東八ヶ国に名を挙げ、いよいよ並ぶ者のない武者と称せられた。
その子の左衛門大夫滋定の子孫は、今も朝廷に仕えている、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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源頼光の武勇 ・ 今昔物語 ( 25 - 6 )

2017-08-13 08:47:42 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          源頼光の武勇 ・ 今昔物語 ( 25 - 6 ) 

今は昔、
三条院(三条天皇)が春宮(トウグウ・東宮。皇太子。)でいらっしゃった頃、東三条殿にお住まいであったが、寝殿の南面(ミナミオモテ・正面にあたる)を春宮が歩いて行かれたところ、西の透渡殿(スキワタドノ・寝殿造りの回廊部分)に殿上人が二、三人ばかり伺候していた。

その時、辰巳(タツミ・東南)の方角にある御堂の西の軒に狐が現れ、丸くなって寝ているのが見えた。源頼光朝臣(ミナモトノヨリミツアソン・酒呑童子退治などで有名)は、春宮大進(トウグウダイシン・春宮職の三等官)として仕えていたが、この人は多田満仲入道の子で、大変優れた武者だったので、朝廷もその分野でお使いになり、世間からも恐れられていた。その頼光がこの時伺候していたので、春宮は御弓とひきめの矢(うなりを立てて飛ぶように細工された矢で、魔よけの力があるとされた。)を与えられ、「あの辰巳の軒にいる狐を射よ」と仰せられた。
頼光は、「かたくご辞退申し上げます。他の人であれば射はずし(この部分欠字あり、一部推定。)ましても、どうということはございません。しかし、この頼光が射はずしましては、この上ない恥辱でございます。さりとて、射当てるということも出来そうもありません。まだ若かりし頃には、偶然鹿などに出合い、まがりなりにも射たことはございますが、最近では久しくそのような事も致しませんので、このような的を当てるなどと言うことは、今では矢がどこへ飛んでいくかも分らぬほどでございます」と申し上げながら、「しばらく射るのを控え、このような事を申し上げているうちに、狐は逃げていくだろう」と思っていたが、憎らしいことに、西向きに伏してよく眠っており、逃げようとはしない。

それに、春宮は、「真剣に射よ」と厳しく命じられるので、頼光はご辞退申し上げることも出来なくなり、御弓を取り、ひきめの矢をつがえて、また申し上げた。「弓に力がありさえすれば、射当てることが出来ましょう。しかし、このように遠い的には、ひきめの矢は重うございます。征矢(ソヤ・ふつうの矢)でなら射当てることが出来ますが、ひきめの矢ではとても無理でございます。矢が途中で落ちてしまうようでは、射はずしますより情けないことでございます。これは、何とすればよいのでしょうか」と言いながら、紐を結んだままで上衣の袖をまくり、弓の先端を少し伏せて、弓の竹の部分一杯まで引き絞り、矢を放つと、矢の行く先は暗くてよく見えないと思った瞬間、狐の胸に命中していた。
狐は頭をのけぞらせ、転び回って池の中に落ちた。
「力の弱い御弓に重いひきめの矢で以って射れば、非常に強い弓を引く者であっても、命中はおろか途中で落ちるはずだ。それを、見事狐を射落としたとは驚くべきことだ」と、春宮はじめそこに伺候していた殿上人たちは皆驚嘆した。
狐は池に落ちて死んでしまったので、すぐ人をやって取り棄てさせた。

この後、春宮はたいそう感嘆なさって、早速主馬署(シュメノツカサ・春宮関係の乗馬・馬具などを管理する役所)の御馬を引き出させて、頼光にお与えになった。
頼光は庭に下りて御馬を頂戴し、礼拝して御殿に上がった。そして、「これは頼光が射た矢ではございません。先祖の恥になるようなことはさせまいと、守護神(シュゴノカミ・源氏の守護神を指し、石清水八幡神のことであろう。)が助けて射させてくださったものです」と申し上げて、退出した。

その後、頼光は親しい兄弟や親族に会っても、「決して私が射た矢ではない。すべて神の力によるものだ」と言った。また、世間にもこの事が伝わり、たいそう頼光を褒め称えた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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盗賊袴垂 ・ 今昔物語 ( 25 - 7 )

2017-08-13 08:46:40 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          盗賊袴垂 ・ 今昔物語 ( 25 - 7 )

今は昔、
世に袴垂(ハカマダレ)というたいそうな盗人の大親分がいた。肝っ玉が太く力が強く、足が速く、腕っぷしが強く、頭も切れて、世に並ぶ者のいない大盗人であった。
すきを窺っては、あらゆる人の物を奪い取ることを仕事にしていた。

この男が、十月の頃、着る物が必要となり、着物を少しばかり手に入れようと思って、しかるべき所をあちらこちらと伺い歩いていたが、真夜中頃、人は皆寝静まり、月もおぼろにかすんでいる中を、偶然にも、大路を幾重にも衣を重ね着した人が、指貫と見える袴に挟みこんで、狩衣(カリギヌ・もとは狩猟用の衣を指すが、平安時代以降は貴族の平服となった。)らしい柔らかな衣を着て、ただ一人笛を吹きながら、行くともなくゆったりと歩いていた。

袴垂はこれを見て、「ありがたい。これこそ俺に着物を与えようとして出てきた人だろう」と思ったので、喜んで走りかかり、打ち倒して着物を剥ぎ取ろうと思ったが、何とはなくその人が恐ろしく思われたので、その後をつけて二、三町ばかり行ったが、その人は、「自分を誰かがつけているぞ」と思っている様子もない。
変わらず静かに笛を吹きながら行くので、袴垂は、「やってやれ」と思って、足音高く走り寄ったが、少しも騒ぐ気配もなく、笛を吹きながら振り返ったが、その様子は、とても襲いかかれるものではなく、飛びさがった。

このようにして何度も、此様彼様(トザマコウザマ・あれこれ工夫をしている表現。面白いのであえて紹介させていただいた。)に打ちかかろうとしたが、少しも動じる様子がないので、「これは、世にもまれな豪の者だろう」と思って、十町ほどついて行った。
「そうとはいえ、このまま引き下がるわけにもいかぬ」と思って、袴垂は刀を抜いて走りかかると、その時はじめて笛を吹くのを止めて、「いったい何者だ」と訊ねた。たとえ、どのような鬼であれ神であれ、このような夜道を一人で歩いている者に襲いかかるのは、それほど恐ろしいはずがないのに、いったいどうしたことか、気力も何も消え失せて、ただ死ぬほど怖ろしい思いがして、その場に膝をついてしまった。
「いったい何者だ」と重ねて訊くので、「いまさら、逃げようにも逃げられまい」と思い、「追剥でござる。名を袴垂と申す」と答えると、この人は、「そういう者が世に居ると聞いている。かくもつけまわすとは、何とも物騒な奴だ。一緒についてこい」とだけ言って、また先ほどと同じように笛を吹きながら歩きだした。

袴垂は、この人の様子を見て、「これは並たいていの人ではないぞ」と怖ろしくなって、世間で言うところの、鬼神に魂を抜かれたようになって、茫然とついていくうちに、この人はお大きな家の門に入っていった。沓(クツ)を履いたまま縁側に上がったので、「この家の主人だったのか」と思っていると、入ってすぐに出てきて、袴垂を呼んで、綿の厚く入った着物を一枚与えて、「今後もこのような物が必要となった時には、ここへ参って申せ。気心もしれぬ者に襲いかかったりすれば、お前はひどい目に遭うぞ」と言って、家の中に入っていった。

そのあとで、この家は誰の家なのかと考えてみると、摂津の前司藤原保昌という人の家であった。
「ということは、あの人は保昌という人だったのだ」と思うと、死ぬほど怖ろしくなり、生きた心地もしないままに家から出た。
その後、袴垂は捕えられ、「何とも薄気味悪く、恐ろしい様子の人でした」と語ったという。

この保昌朝臣の家は、代々武人の家柄というわけではなく、[ 欠字あり。「藤原致忠(ムネタダ)」が入る。]という人の子である。しかし、武家出身の武者にも劣らぬ豪胆にして、腕が立ち、剛力で思慮深いので、朝廷はこの人を武道の方面で仕えさせたが、いささかも心もとないということはなかった。それ故に、世間の人は皆この人を恐れること限りなかった。
ただ、子孫に武勇に優れた人物が出ないのは、武人の家柄ではないからである、
となむ語り伝へたるとや。

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源頼親(欠文) ・ 今昔物語 ( 25 - 8 )

2017-08-13 08:45:10 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          源頼親(欠文) ・ 今昔物語 ( 25 - 8 )

本話は、『 源頼親朝臣令罸清原[欠字あり]語第八 』という表題のみで、本文はすべてが欠文となっている。
当初から欠脱していたらしい。

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名将 源頼信 ・ 今昔物語 ( 25 - 9 )

2017-08-13 08:42:44 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          名将 源頼信 ・ 今昔物語 ( 25 - 9 )

今は昔、
河内守源頼信朝臣という者がいた。これは、多田満仲入道という武者の三男である。
武道について、いささかも心もとないということはなかったので、朝廷も彼を重んじていた。それゆえ、世間の人もみな畏怖の念を抱いていた。

さて、この頼信が常陸守になって、その国に下っていた頃、下総国に平忠恒(タダツネ)という武者がいた。私兵を抱えていてその勢力は極めて大きく、上総・下総両国を思いのままに行動していて、国政に従わず租税なども無視していた。
また、常陸守の命令も、何事につけ従おうとしなかった。常陸守はこれを大いに咎め、下総に兵を進めて忠恒を攻めようと気負い立ったが、常陸国の左衛門大夫・平惟基(タイラノコレモト)という者がおり、この事を聞いて、守(カミ・源頼信を指す)に進言した。「あの忠恒は、強い兵力を有している者です。また、その本拠地は容易く攻め寄せられる所ではありません。それゆえ、少々の軍勢ではとても攻略できないでしょう。軍勢を多く集めてから進攻なさいませ」と。
守はこれを聞いて、「その通りだとしても、このまま黙っているわけにはいかない」と言って、次々と兵を進め、下総国に入ったが、惟基は三千騎の軍勢を集めて、鹿島神社の前で合流した。

見渡す限り白く広い砂浜に、ちょうど朝の事なので、二十町(2km余り)ばかりの間が、兵士の持つ弓すべてが朝日にきらめいていた。
守は、国庁の者や国内の兵士たちを率いて、二千人ほどの軍勢であった。そして、この合流した軍勢は、鹿島郡の西の浜辺を出立したが、人の姿は見えず、きらきらと輝く弓の林立が進軍するかのようで、まるで雲の如くであった。
これほどの大軍は、世に残る昔話には聞いているが、実際にはまだ見たこともないと人々は驚嘆した。

衣河(鬼怒川)の河口は、さながら海のようである。鹿島の香取の渡しの対岸にいる人の顔が見えないほどの広さである。
しかも、あの忠恒の屋敷は、内海(湖)を遥か中に入り込んだ奥にあった。従って、攻め寄るには、この湖の岸を迂回して進むとすれば、七日ほどもかかるであろう。真直ぐ湖を渡れば、その日のうちに攻め込まれてしまうので、この地の有力者である忠恒は、その渡しの船を皆取り隠してしまっていた。

その為、湖を渡るすべもなく、全軍が浜辺に立ち止って、「岸を回らなければならない」などと思っていたが、守は大中臣成平という者を呼び寄せて、小船に乗せて忠恒の許へ遣わした。
成平には、「敵に戦意がないと思ったなら、速やかに戻って来い。敵が戦うつもりなら、戻ってくることは出来ないであろうから、ただ、船を下流に向けよ。我らはそれを合図に押し渡ろう」と言った。成平は、この指示を受けて小舟に乗って出発した。
すると、惟基は馬から下りて、守の馬の口を取るのを見て、全軍の兵がばらばらと馬から下りた。その様子は、風が草をなびかせるようであり、馬から下りる音は、風が吹くかのごとくであった。

さて、成平は船を下流に向けた。
というのは、忠恒の守に対する返答は、「守殿は、ご立派なお方であられる。当然、降伏に参るべきでありますが、惟基は先祖以来の敵である。その者がいる前で馬から下りてひざまずくなどということは出来ることではありません」というものであったので、船を下流に向けたのである。

守はこれを見て、「この湖を迂回して攻め寄せるならば、数日を要するであろう。それでは、敵に防御態勢を構えるだろう。今日のうちに寄せて攻撃してこそ、あいつは不意を打たれて慌てるに違いない。それにしても、船は皆隠されてしまった。どうしたらよいのか」と、大勢の軍兵たちに問いかけると、軍平たちは、「他に良い策がないのであれば、迂回して攻め寄せるべきでしょう」と答えた。
守は、「この頼信が坂東(バンドウ・関東)を見たのはこの度が初めてである。それゆえ道の案内は全く知らない。しかし、わが家の伝えで聞いていることがあり、それには、『この湖には浅瀬が堤のように、幅一丈(約3m)ほどで真っすぐに渡っており、その深さは馬の太腹(フトバラ・馬の腹の一番膨れているところ)が水がつく位』とある。その浅瀬の道は、きっとこの辺りを通っているはずである。この軍勢の中に必ずそれを知っている者がいるはずだ。されば、その者が先頭に立って渡れ。頼信はその者に続いて渡ろう」と言って、馬を早めて岸辺に寄ると、真髪高文(マカミノタカフミ)という者が、「私が度々渡ったことのある道です。先導させていただきましょう」と言って、葦を一束従者に持たせて、湖中に乗り入れると、馬の後ろに葦を突き刺しながら渡って行くと、これを目印に他の軍兵たちも次々と渡って行ったが、途中に泳ぐ所が二か所あった。
軍兵が五、六百人ほど渡った後、それに続いて守も渡った。

多くの軍兵たちの中でも、この道のことを知っているのは三人ほどであった。その他の者は、まったく聞いたこともないことなので、「この守殿は、この度はじめてこの地に見えられたのだ。それなのに、我らとて知らないのに、どうしてこの事を知っていたのか。やはり、人に優れた武将なのだ」と皆思い、畏怖の念を抱いた。

さて、守の軍勢は湖を渡って行ったが、忠恒は、「敵は湖を迂回して攻めてくるだろう。船は隠してあるので、渡ることは出来まい。また、湖中の浅瀬の道は、おそらく知っておるまい。わしだけしか知らないはずだ。迂回して来るには数日かかるはずだから、その間に逃げてしまえば、我らを攻めることは出来まい」と思って、のんびりと軍備を整えていると、家の周囲に配置していた郎等が走ってきて、「常陸殿はこの湖の中にある浅瀬の道を、大軍を率いて、すでに渡ってきています。何となさりますか」と、訛りのある声であわてふためいて報告した。
忠恒は、考えていた段取りがすっかり崩れて、「わしは攻め込まれてしまったか。今となっては、何のすべもない。もう駄目だ。降参しよう」と言って、ただちに名符(ミョウブ・ここでは、降伏して家来となる旨の証の名札。)を書いて、文差(フミサシ・文書を挟んで貴人に差し出す白木の杖。)に差し、謝罪状を添えて郎等に持たせて、小舟に乗って迎えさせた。
守はこれを見て、名符を取ってこさせ、「このように名符に怠状(タイジョウ・降伏が遅れたことを謝罪する書状。)を添えて差し出したからには、すでに[ 欠字あるも、推定できず。]したのであろう。それを強いて攻撃すべきではない」と言って、「この名符を取って、速やかに引き上げるべきである」と言って、馬を返したので、全軍が従った。

それ以来、この守を大変優れた武将だと知って、人々はますます畏怖するようになった。
この守の子孫は、優れた武人として朝廷に仕え、今も栄えている、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆





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いらぬ一言 ・ 今昔物語 ( 25 - 10 )

2017-08-13 08:41:04 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          いらぬ一言 ・ 今昔物語 ( 25 - 10 )

今は昔、
源頼光(ミナモトノヨリミツ・酒呑童子退治などで有名)朝臣の家に、客人が多数集まってきて酒宴をしていたが、その中に、弟の頼信朝臣も来ていた。
また、頼光朝臣の郎等に、平貞道という武士がいた。

この日、貞道が徳利を手にして席に出て来たところ、頼信朝臣は来客たちも聞いているのに、大きな声で貞道を呼び寄せて、「駿河国にいる[ 欠字あり。人名が入るが不詳。]という者は、この頼信に無礼を働きよった。あいつのそっ首を取って参れ」と言った。
貞道はこれを聞いて、「自分は、ここの殿(頼光)にお仕えしている。その御弟でおいでなので、確かに主人の御一族であるが、直接お仕えしてるわけではない。それに、このような事はご自分の腹心の者に命じられるべきである。もし、自分がここの殿に仕えているという関係から申し付けられるのであれば、人のいない所でそっと命じられるべきで、このように多くの人がいる所で、首を取ってこいなどと大声で申し付けられるとはどういうことだ。呆れたことを言われる人だなぁ」と、心の中で思った。それで、はっきりした返事もしないで、その場をすましてしまった。

それから三、四ヶ月ばかり過ぎ、所用があり、貞道は東国に出かけた。
あの頼信朝臣から言い付けのことは、その時に「つまらないことだ」と思ったで、すっかり忘れてしまっていた。ところが、貞道はその道中で、あの頼信朝臣が首を取って来いと命じていた男と出会ったのである。二人は馬を止めて、穏やかに話などしてから別れようとした。
その男は、頼信が貞道に言い付けたことをすでに知っていたが、貞道はまったく話題にしなかったので、風の噂に聞いていたその男は、別れ際になって、「然々の事は、ご承知されたのですか」と訊ねた。

こう言われて初めて貞道は思い出して、「そう言えば、そういうこともあった。わしは、兄の殿にはお仕えしているが、これまで、あの殿にお仕えしたことはない。それに、数多くの人が聞いている所で、故なくそのような事を仰せになられたので、『おかしなことを言うものだ』と思って、それきりになりました。あのようなことを言い出すとは、おかしなことですよ」と言って笑うと、この男は、「京から知人がそのような事を知らせてきましたので、『私を討つつもりなのか』と思いまして、今日なども胸がどきどきしていたのです。貴殿が『つまらないことだ』と思われたことは、よい判断をしてくださいました。大変ありがたいことです。ただ、たとえあの殿の命令を拒みがたくて、拙者を討とうとなされても、そうそう容易くは討ち果たすことは出来ませんでしょうがねぇ」と微笑みながら言うと、貞道は、「『自分も貴殿が拙者をお討ちになるとは思いません』などと言っておれば、こ奴を殺すことはないものを。また、『咎めを受けるとお聞きして、恐れていたのですが、今日からは安心できて嬉しく思います』などと素直に言えばいいのに、小癪なことを言う奴だ。それでは、いっそのことこ奴を射殺して首を取り、河内殿(頼信)に奉ろう」と思う気持ちが生じ、言葉少なく、「なるほど」などと言って別れた。

そして、相手の姿が見えなくなるほど離れると、貞道は郎等たちにその考えを知らせて、馬の腹帯を締め直し、胡録(ヤナグイ・矢を入れる武具)などを整えて、取って返して追っていった。
曲がりくねっている海岸線を進むうちに、やがて追いついた。木々が茂っている辺りを行き過ぎさせ、少しばかり広い野原に出た時に、大きな喚声を上げて襲いかかると、「こんな事だと思っていたわ」と言って押し返してきたが、この愚か者は、「討ち果たすつもりなどない」と貞道が言ったことを本気だと思っていたのであろう、戦仕度がされていない乗換用の馬に乗るなど油断していたので、矢を一度だに射ることなく、真っ逆さまに射落とされてしまった。主人が射落とされてしまうと、彼の郎等たちは逃げる者は逃げ、手向かった者は射られてしまい、誰もいなくなってしまった。
そこで、この男の首を取り、それを京に持ち帰って、頼信朝臣に献上すると、頼信朝臣は喜び、立派な馬に鞍を置いて褒美として与えた。

その後、貞道はこの事を人に、「無事に通り過ぎていけるはずの奴が、つまらぬことをひとこと言った為に、射殺されてしまったが、考えてみれば、河内殿(頼信)が腹を立てておられたのも尤もなことだ。それにしても、何とも恐れ入った河内殿の武威である」と語った。
そこで、これを聞く人はますます頼信朝臣に畏怖の念を抱いた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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武者たるものは ・ 今昔物語 ( 25 - 11 )

2017-08-13 08:38:03 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          武者たるものは ・ 今昔物語 ( 25 - 11 )

今は昔、
河内守源頼信朝臣が上野国(コウズケノカミ)としてその任国にいた頃、その乳母子(メノトゴ・頼信の乳母の子を指す)である兵衛尉(ヒョウエノジョウ)藤原親孝(チカタカ)という者がいた。
この男も優れた武者で、頼信と共にその国に住んでいたが、その親孝が住んでいる家の中に盗人を捕えて縛り付けておいたが、どうしたことか、手足の枷(カセ)をはずして逃げ出したが、逃げ切れることが出来なかったのであろうか、この親孝の子の、五、六歳になる愛らしい男の子が走り回っていたのをつかまえて、人質にして、納戸の中に入り、膝の下にこの子をねじ伏せて、刀を抜いて子供の腹に突きつけていた。

その時は、親孝は国守の居館に行っていたので、家の者が走って行き、「若君が盗人の人質に取られました」と告げると、親孝は驚き慌てて駆け戻ってみると、本当に盗人が納戸の中で、わが子の腹に刀を突き付けていたのである。
これを見て、目の前が暗くなり、どうすればよいか分からない。「強引に飛びかかって子供を奪い返そう」とも思ったが、大きなぎらぎらと光った刀をこれ見よがしに子供の腹に突き付けて、「近付きなさるな。近付けば突き殺してしまうぞ」と言う。
「言っているように、本当に突き殺したなら、百千にこ奴を切り刻んだとしても、何の役にも立たぬ」と思い、郎等たちにも、「よいか、決して近づくな。ただ遠巻きにして見張っておれ」と言って、「まず、殿の屋敷に参って、報告して来る」と言って、駆けて行った。

国守の居館はすぐ近くなので、守(源頼信)の部屋にあわてふためいて駆け込むと、守は驚いて、「いったい何事だ」と訊ねると、親孝は、「たった一人の幼い子が、盗人に人質に取られてしまいました」と言って泣くと、守は笑って、「そなたが泣くのももっともだが、ここで泣いてどうなるのか。鬼であれ神であれ組み合ってやるという気構えが大切なのに、まるで子供のように泣きわめくなど馬鹿げているぞ。そんな小童(コワッパ)の一人ぐらい、突き殺させてしまえ。そういう気構えがあってこそ武士というものだ。自分の身を思い妻子のことを案じるのでは、武人としての面目が立つまい。ものおじしないというのは、わが身を捨て、妻子を捨ててこそ生まれるものだ。それはともかく、わしが行って見てみよう」と言って、太刀だけを手に取って、親孝の家に向かった。

盗人のいる納戸の入り口に立って中を見ると、盗人は、「守がやって来た」と見て取って、親孝に言ったようには息まかず、伏し目になって、刀をさらに突き付け、少しでも近づけば刺し貫く気配を見せていた。その間も、子供は激しく泣き続けていた。
守は盗人に向かって、「お前がその子を人質に取ったのは、自分の命を全うするためなのか、それとも、ただその子を殺そうと思ってのことなのか。しかと思うところを申せ。この不埒者め」と言った。
盗人は蚊の鳴くような声で、「どうして、この子を殺そうなどと思いましょうか。ただ我が命が惜しく、生きのびたいと思えばこそ、もしかすればうまく行くかと思い人質を取ったのです」と言う。
「よし、分かった。それならば、その刀を投げよ。この頼信がこれほど言ったからには、投げないわけにはいくまい。お前に子供を突かせて、黙って見ているわしではないぞ。わしという男の事は、噂にでも聞いているだろう。さあ、さっさと投げよ。こ奴め」と守が言うと、盗人はしばら思案していたが、「恐れ入りました。どうして仰せに背くことなど出来ましょうか。刀を投げます」と言って、刀を遠くに投げた。子供は、抱き起して放してやったので、起き上がり走って逃げていった。

そこで、守はその場から少し立ち退き、郎等を呼んで、「あの男をこちらに連れてこい」と命じると、郎等は盗人のそばに行き、襟首をつかんで前の庭に引き出して坐らせた。
親孝は、「盗人を斬りすてよう」と主張したが、守は、「こ奴は、殊勝にも人質を許した。貧しさゆえに、盗みを働き、命が助かりたいばかりに人質も取ったのであろう。そうそう憎むべき奴ではない。それに、わしが人質を『解放しろ』と言うのに従って、子供を解放したのは、物の道理の分かった奴だ。すぐにこ奴を放してやれ」と言い、「何が欲しいか、申せ」と聞いたが、盗人は泣くばかりで、答えようともしなかった。

守は、「こ奴に食糧を少し与えてやれ。また、こんな悪事を働いた奴だから、行く先で人を殺すかもしれない。厩にいる草刈り馬の中で強そうなのに、粗末な鞍を置いて連れてこい」と言って、取りに行かせた。また、同じように粗末な弓や胡録(ヤナグイ・矢を入れる武具)を取りに行かせた。
それらをみな持ってくると、盗人に胡録を背に負わせ、その場で馬に乗せ、十日分ほどの食糧として干飯(ホシイイ)を袋に入れて、布袋に包んで腰に結び付け、「ここから馬をまっしぐらに走らせて消え去れ」と言うと、守の言う通りに懸命に馬を走らせて逃げ去っていった。

盗人も、頼信の一言に恐れ入って、人質を解放したのであろう。これを思うに、この頼信の武威はまことに大したものである。
あの質に取られた子供は、その後、成人して金峰山(ミタケ・吉野の金峯山寺のこと)で出家し、遂には阿闍梨(アジャリ)となり、名を明秀(ミョウジュウ)と称した、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆



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武者の心映え ・ 今昔物語 ( 25 - 12 )

2017-08-13 08:37:06 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          武者の心映え ・ 今昔物語 ( 25 - 12 )

今は昔、
河内前司 源頼信朝臣という武者がいた。
東国で良い馬を持っていると聞いた人のもとに、この頼信朝臣が馬を譲ってもらえないかと使いを行かせたところ、馬の持ち主は断りかねてその馬を都に上らせることにした。
ところが、その道中で、ある馬盗人がこの馬を見て、どうしても欲しくてたまらず、「何とかして盗もう」と思って、密かに後をつけていたが、この馬について都に向かっている武士たちは隙を見せることがなかったので、盗人は道中では盗むことが出来ず、京まで後を追って上ってしまった。
馬は無事京に着いたので、頼信朝臣の厩に入れられた。

すると、ある人が頼信朝臣の子の頼義に、「あなたのお父上の所に、すばらしい馬が届けられましたよ」と教えたので、頼義は「その馬が詰まらぬ人に貰われてしまうかもしれない。そうならないうちに自分が行って見て、本当に良い馬ならば、わしがぜひ貰ってしまおう」と思って、父の家に出かけて行った。
雨が激しく降っていたが、その馬をどうしても見たかったので、雨をものともせず夕方に訪れると、父は子を見て、「どうして長い間顔を見せなかったのか」などと言いながら、なるほどと気が付いて、「さては、『この馬が来た』と聞いて、『これを貰おう』と思って来たのだろう」と思ったので、頼義がまだ言い出す前に、父は、「『東国から馬を連れて来た』と聞いているが、わしはまだ見ていない。馬をよこした者は、『良い馬だ』と言っている。今夜は暗くて何も見えない。明朝見て気に入れば、すぐに持って行け」と言った。
頼義は、自分から言い出す前にこう言われたので、「ありがたい」と思って、「それでは、今夜は父上の御宿直(オントノイ・警護として泊ること)を勤めまして、明朝拝見いたします」といって、泊ることになった。
宵の内は雑談などして過ごし、夜が更けると父は寝所に入って寝た。頼義も脇に寄って物に寄りかかって横になった。

こうした間も、雨音はやむことなく降り続いていた。
真夜中頃、雨にまぎれて馬盗人が忍び込み、この馬を引き出して逃げ去ってしまった。
その時、厩の方で下人が大声で叫んだ。「昨夜連れて参った御馬を、盗人が連れて行ってしまったぞ」と。
父の頼信は、この声をかすかに耳にするや、近くで寝ている頼義に、「あの声を聞いたか」と呼びかけもせず、飛び起きると同時に着物を引き寄せ裾をはしょって、胡録(ヤナグイ・矢を入れる武具)を掻き背負い、厩に走って行って、自分で馬を引き出して、そこにあった粗末な鞍を置くと、それに乗ってただ一騎で関山(セキヤマ・関所があったことからの呼称で、逢坂山のこと。)に向かって追って行った。
心中で、「この盗人は、東国の奴で、あれが名馬だと見て、『盗んでやろう』と後をつけてきたが、道中では盗むことが出来ず、京まで来て、この雨にまぎれて盗んで逃げたのであろう」と思い定めて、このように追って行ったのである。

一方、頼義も下人の声を聞いて、父が考えたのと同じように判断して、父に様子を告げることなく、まだ昼の装束のままで寝ていたので、起きるや否や、父と同じように胡録を掻き背負って、[ 欠字あるようで、意味不詳な部分ある。]馬を引き出し関山目指して、ただ一騎で追って行った。
父は、「わしの子は必ず追いかけてくるだろう」と思っていた。子は、「わが父は必ず追いかけていて、前を行っているだろう」と思い、それに遅れまいと、馬を走らせて行ったが、賀茂川原を過ぎると、雨が止み空も晴れてきたので、さらに馬を早めていくうちに、関山にさしかかった。

かの盗人は、盗んだ馬に乗り、「もう逃げ切れた」と思ったので、関山の脇の水のある所を、それほど急がせもせず、水たまりをじゃぶじゃぶと音を立てて歩かせていたが、頼信はその音を聞くと、暗くて近くに頼義がいるかどうかも分からないのに、まるで前もって攻撃する場所を決めていたかのように、「射よ。あいつだ」と頼信が叫ぶと、その声が終わるか終わらないかのうちに、弓の音がした。
矢が的中したらしい音が聞こえてきたうえに、走って行く馬の鐙(アブミ・足をかける馬具)が人が乗っていない音がカラカラと聞こえてきたので、さらに頼信は、「盗人は、もはや射落としたぞ。急いで馬に追いつき、馬を取ってこい」とだけ命じると、馬をつかまえてくるのを待たず、そこから引き返して行った。頼信は、馬に追いつき、連れて帰途に着いた。
この騒ぎを聞きつけた郎等たちが、一人、二人と追ってきたのと出会った。京の家に帰り着く頃には、二、三十人になっていた。
頼信は家に帰り着き、ああだった、こうだったといったことは一切口にせず、まだ夜明け前だっので、もとのように寝所に入って寝てしまった。
頼義も、取り返してきた馬を郎等に預けると、寝てしまった。

その後、夜が明けて、頼信が起き出してきて頼義を呼び、「よくも馬を取られなかったことだ。よく射たものだ」などとはまったく口に出さず、「あの馬を連れて参れ」とだけ言ったので、引き出してきた。
頼義が見ると、なるほど、まことに良い馬であったので、「それでは頂戴いたします」と言って、貰い受けた。その上、昨夜は何も話がなかったのに、立派な鞍が置いてあった。夜に盗人を射た褒美と考えてのことであろう。
実に不思議な者たちの心映えである。優れた武者の心映えとはこのようなものなのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆



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