かなり古い手許のメモ帳の中から、こんな言葉を見つけました。
『自分の力で出来ないことは心配するな』というものですが、確か、格言を集めたような物の中から抜粋したはずです。著作名は記録していないので、完成された作品からの引用ではないはずです。
改めて読んでみても、どう理解すればよいのか、なかなか難しい言葉のように感じました。
格言ですから、教訓のようなことを示唆しているのでしょうが、「物事にあまりくよくよするな」程度にしか受け取れないのですが、それではあまりにも安直すぎるような気がして、メモ帳に記録したものの消化不良のまま放置していたようです。
この言葉は、ユダヤの格言です。
「ユダヤ」というのは、ユダヤの人々や、ユダヤ教、あるいはそうした人々の文化などを指していると思うのですが、私などは、あまり馴染みがなく遠い存在のような気がしています。
私などが接する機会の多い格言や教訓などは、わが国の物に加え、やはり古代中国の物が多く、仏教や儒教や道教などの思想家たちが伝えている物が中心で、古代ギリシャやキリスト教関係の物も目にする機会も少なくありませんが、今一つしっくりこないことが多いような気がします。
そこで、ユダヤの格言のような物を少し調べてみました。
まず最初に目につきましたのは、「一つの嘘は嘘である。二つの嘘も嘘である。三つの嘘は、政治である」というものでした。なかなか含蓄がある言葉とも言えますが、これなどは、すでにユダヤ世界などの限定的な格言ではないようです。
「明日を心配することはない。今日どんな災難が降りかかってくるか分らないから」という物もあります。これなどは、私がメモしていた格言と同類のような気がします。もしかすると、ユダヤの人々や文化の一つの特徴を示しているのかも知れません。
「豊かな人生を送る人は、自分の持ち物で満足できる人である」
「お金をなくしたところで何も失う物はないが、誇りをなくすと多くの物を失う。勇気をなくすと全てを失う」
こうした類いの格言も多いようです。ユダヤの人々はお金儲けがうまく拘りも強いといった話を聞きますが、もしそれが事実だとした場合、そうした人々がこのような格言を残していることに大きな意味があるような気がします。
他にも、なかなか味のある言葉もたくさんありますので、三つばかり紹介させていただきます。
「結婚へは急ぐな。離婚へは急げ」
「小さな穴は、大きな舟を沈めてしまう」
「山羊には前から近づくな。馬には後ろから近づくな。愚か者にはどの方角からも近づくな」
上のような格言などをそれなりに考えてみましたが、『自分の力で出来ないことは心配するな』という言葉を「なるほど」と納得できるような答を見つけ出すことは出来ませんでした。
ただ、ユダヤの格言といっても、確かに若干の特徴は感じられますが、これまで目にしてきた東洋を中心にした格言や教訓とそれほど差があるとも思えませんでした。つまり、人々の願いや悩み、喜びや悲しみ、事の善悪も大差がないように思うのです。
しかし、それでいて、様々な格言が生まれているということは、同じような価値観や願いを抱いている人々であっても、対立することの少なくないことを物語っているように思われます。
各地で絶えることのない紛争も、結局その延長線上にあるのかと思いますと、何とも複雑な気持ちになってしまいます。
( 2024 - 03 - 16 )
『私たちは、一生のうち5年間は風邪をひいている』という記事を目にしました。
エスエス製薬さんの調査だそうですが、もちろん個人差はありますが、人は平均して1年に3回前後風邪をひき、完治するまで7日あまりかかり、平均寿命を85歳として計算すると、この程度になるそうです。
この3年あまり、わが国ばかりでなく、ほぼ全世界が新型コロナウィルスに席巻されたかのような状態になり、現時点でも、私たちの周辺からは新型コロナウイルスに感染したという情報は消えることなく、さらに、2~3年静かにしてくれていたインフルエンザもかなり流行しているようで、小さな医院の発熱患者への対応は大忙しのようです。
そうして診察を受けた患者さんのほぼほとんどの人は、「普通の風邪ですね」という医師の診断に、「ああ、良かった」という顔を見せるそうです。
昔から、「風邪は万病の元」という教えがありますように、あまり軽く考えるのは良くありませんが、「インフルエンザならまだましだが、コロナだったらどうしよう」という気持ちの人は、まだまだ少なくないようです。直接間接に入ってくる情報では、「普通の風邪とほとんど変らない」という人がかなり多いように思いますが、その一方で、大変な思いをされたり、後遺症に苦しんでいるという声も聞きます。著名人でもコロナで亡くなったという人が報じられてきただけに、まだしばらくは、「風邪で良かった」という風潮は続きそうですね。
「風邪」という言葉の語源は今一つはっきりしませんが、「風」に関係していることは多分間違いなく、「風の神(悪神)」がもたらすものと考えられていたようです。古くは、風邪といわれる病は、現代よりも広範囲なものを指していて、それで亡くなる人も少なくなかったようです。
「風邪は万病の元」という教訓も、その辺りのことが加味されているのかも知れません。
とても身近な病気ですが、いわゆる風邪に直接効く薬は未だに存在していないそうです。数多くの風邪薬が市販されていますし、医師に診てもらいますと、当然のように注射や薬を処方してくれますが、いずれも対処療法の物で、熱を下げたり、のどの痛みを和らげたり、咳や鼻水を抑えてくれる効果はあるとしても、風邪の病原を根治させる薬はないそうです。
「バカは風邪をひかない」
「これくらいで風邪をひいていては話にならない」
「風邪をひくなよ、転ぶなよ、義理は欠け」
「春に風邪をひけば夏の暑さに負けず、秋に風邪をひけば冬の寒さにも耐えられる」
などと言った、風邪にまつわる味わい深い言葉が幾つもあります。
また、いわゆる民間信仰に近いような、風邪への対処方法も数多くありますが、特効薬がないことを思えば、案外有効な物が含まれているようにも思われます。
それにしても、人間と最も付き合いの長い病の一つと思われる風邪ですが、私たちの生涯のうち「5年間」も風邪をひいているというのは少々驚きです。
平均寿命85年をベースにして考えてみましても、睡眠時間が1/3として「28年間」、学業や仕事が通う時間も含めて10時間×60年として「25年間」、その間の友人などとの付き合いが2時間×60年として「5年間」、食事や洗面入浴などにも一日3時間とすれば「10年間」、避けられない義理事が年に10日として「2年間」、人生の最初と最後の能動的に動けない時間を「5年間」としますと、残された時間は「10年間」・・まあ、この計算式は落語のネタになってしまいますが、この中から風邪をひかなくてはならない「5年間」を捻出しなくてはならないのですから、私たちの生涯は「風邪をひく間もない」ほど忙(セワ)しい物なのでしょう。
なんだか与太話になってしまいましたので、時間の計算を確認するのは勘弁して欲しいのですが、「自分が自分らしく生きられる時間」というのは、そう多くはないというのは本当ではないでしょうか。
心して一日一日を生きたいものです。
( 2024 - 03 -19 )
この冬はインフルエンザが大流行するのではないかと、昨年夏頃から警鐘を鳴らす専門家の方が何人かいました。
新型コロナウイルスの新規感染者数が落ち着きを見せかけるとともに、このまま完全収束に向かうと考える人はほとんどいなかったと思いますが、次の波がやって来る以上に、インフルエンザが大流行する方が心配される、といった論調でした。
そうした予測のベースになる一番大きな要因は、新型コロナウイルスが大流行している間、劇的といってよいほどにインフルエンザに罹る人が少なかったことから、免疫力が落ちたり全く有していない小児などへの感染が心配されるというものでした。
確かに、インフルエンザの発症は、この季節になって再び増加に転じているようですが、どうだったのでしょうか、学級閉鎖なども報じられていましたが、手が付けられないと言うほどの大流行ではなかったようです。一方の新型コロナウイルスの方も、このところは減少に向かっているようですが、5類に変更したところで、そうそう簡単には危険から免れるものではないようです。
新型コロナウイルスに関しては、ワクチン接種政策に関しても、いくつかの意見が渦巻いています。
こうした問題に関して、私は全く無知なので、その上での意見ですが、おそらく、社会的にはワクチンは有効だと思われますが、個々の人に関しては、副反応による深刻な状況に陥った人も少なくなく、死に至った人もいるようです。社会全体が、あれほどのパニック状態になっている時には、ワクチンにしろ治療方法にしても、万全を求める時間などなかったことでしょうから、有効と有害を差し引きして政策なり方針なりを決定していくのは仕方がないようにも思いますが、なかなか難しいところです。
コロナウイルスに限らず、様々なウイルスや、人体に害を与える病原菌は数多くあり、しかも私たちの身の周りにも存在しています。しかし、その多くを私たちの身体はブロックしてくれます。つまり免疫力と呼ばれるものですが、これどう高めるかということは、日々の生活の中で重要だということは確かでしょう。
昔と比べて、といっても何も大昔と言うことではなく、5~60年ぐらい前と比べてみても、アレルギー体質の子供が増えているような気がしますし、花粉症などは明らかに深刻さを増しています。
環境が変化してきているということもあるでしょうし、医学の進歩により、以前は見逃されていたものが正確に診断されていることもあるのでしょう。それ以外にも要因はあるのでしょうが、免疫力の低下も原因しているのではないかという気がしてなりません。
「5秒ルール」というものがあります。この「5秒」というのにはいくつかの言い伝えがあるようですが、「食べ物を地面に落した場合、5秒以内なら拾って食べてもセーフ」という、子供たちの厳粛なルールがありました。不衛生とか文化的でないとかいえばそれまでですが、もしかすると、免疫力を高めるのに役立っていたのかも知れません。
他にも、衛生的でないとされる事象が同じ働きをしているかもしれませんし、多くの疾病を制御してきた薬品なども、免疫力を低下させる方向に働いているのかも知れません。
世界の大スターとなった大谷翔平選手の関係者から、とんでもない事件が報じられました。
事件の全容はまだ明らかでないようですが、「賭博にのめり込んで作った数億円の借金を、大谷選手の口座から送金した」というもののようです。
ここに至る過程で何があったのかは、推定さえ難しいのですが、残念でなりません。
適切な事例ではないかもしれませんが、「年取ってからの色恋沙汰は質が悪い」とか、「最近の子供はあまり喧嘩をしないので、ちょっとした諍いでも手加減が出来ず、相手に大怪我をさせることになる」などと言われることがあるように、免疫力は疾病に限ったことではないようです。
しかし、今時の子供や若者は、賭博まがいのゲームなどに接する機会が多いように思いますが、どうも、それらは免疫力の向上には役立たず、賭博的性格を助長している可能性があるのかも知れません。
疾病以外の免疫力も高めて、打たれ強い人間になりたいと思うのですが、なかなか難しいことのようです。
( 2024 - 03 - 22 )
桜前線が停滞しています。
この数日、かなり寒くなり雨も多く、所によっては風雪に襲われたようで、桜前線は半歩踏み出したところで停滞を余儀なくされています。
「女心と秋の空」という言葉があります。移り気なものの象徴として使われますが、江戸時代には、「男心と秋の空」と使われることの方が多かったようで、女も男もいい勝負のようです。同様に、秋の空が移り変わりが激しいように、春のお天気もなかなか荒々しいものです。
毎年のように、気象予報士の方が桜の開花日予想をされていますが、今年は、二度三度と変更なさっているようで、僅か半月ばかりのお天気でさえ、プロの方でさえ予想は難しいようです。
いわんや、三年とか五年、さらにもっと長期の事柄を予測することは、至難の業というもののようです。「30年以内に発生する可能性は60%」などといった、まことにお見事と言いたいような予測の立て方も堂々と行われているようですが、先行きを予測することは簡単なことではないようです。
「少年は大志を抱きなさい」「老後に備えなさい」「八十代をどう生きるか」などと、私たちは折々に将来の計画を立てることを求められます。また、自ら積極的に立案し、果敢に挑戦する人もいらっしゃるようです。
「そうは問屋が卸さない」という言葉があります。
「世間で100円で売られている商品を、60円で仕入れて80円で売っていけば大儲けは出来ないが、着実な利益を積み重ねることができる」という名案を見つけ出したのですが、さて実行しようとすると、「そうは問屋が卸さない」という現実が立ちはだかります。
「当て事と越中褌は向こうから外れる」という言葉もあります。少々下品な言葉ですが、そうそう簡単には消え去らないところをみると、この言葉も真実の一端を捉えているのでしょう。私たちが立てる計画は、ややもすると、家族も含めた第三者の善意や時には犠牲さえも加味されていることがあり、やがては「向こうから外れる」ということになりかねません。
「好事魔多し」という言葉は、中国の元末期頃の「琵琶記」という劇中で使われた台詞から誕生したもののようですが、延々700年に渡って現代に伝えられていることになります。しかし、考えてみますと、「好事魔多し」という状況は、この時に誕生したものであるわけはなく、おそらく、ヒトが地球上に姿を現わしたその時から体験し続けてきたことではないのでしょうか。
いくら才能に恵まれていても、いくら努力を重ねた結果であっても、永遠に続く「好事」などあるものではなく、必ずといってよいほど「魔」が姿を見せるものなのでしょう。
そして、本当に大切なことは、そうした状況になったときに、どう対処し、どこに自分の価値を見つけ出すかということではないでしょうか。
私たちが歩き続けている道端には、きれいな花がたくさん咲いていますが、雨も降れば強い風も吹いてきます。そして、その雨も風も含めたものが私たちが歩くべき道なのでしょう。
この数日、つくづくと教えられました。
( 2024 - 03 - 25 )
大谷翔平選手が、通訳だった水原一平氏の違法賭博疑惑や、自分に絡むことなどに関して、報道陣に説明を行いました。
わが国の多くのテレビは実況の状態で伝えていましたが、私もしっかり拝見しました。それどころか、その後のさまざまなニュースやワイドショー番組などで、断片的な物を加えると、すでに何回見たことになるのでしょうか。少なくとも10回や20回ではないはずで、しかも、時間が経つにつれて、大谷選手の説明では判明できていない点などに関して、様々な推定がなされたりしています。
個人的には、大谷選手の説明は十分なものだと思っています。水谷氏がどうして大谷選手の口座から振り込みをすることが出来たのかなどは、水谷氏が説明することであり、捜査当局が調べることだと思うのです。それよりも、水谷氏の発言を信じて、おそらく誤報となるであろう報道をしたり、報告をしたりした部分の責任も問われるべきのような気もします。
事件の全容は未だ明らかでなく、無責任な推定は避けるべきだと承知していますが、ただ、大谷選手と水谷氏の関係は、単なる選手と通訳という関係を遙かに超えた特別なものと思っていましたし、しかも世界最高レベルのプロスポーツ選手にまで上り詰めているのですから、今回の出来事はあまりにも残念でありません。
水谷氏に関して、「水に落ちた犬は打て」という残酷な言葉そのままに、いくつかのマイナス情報が出て来ています。現在の事件が、大谷選手の言葉をそのまま信じての意見ですが、信頼関係を逆手に取った残念な事件と言わざるを得ないと思うのですが、その一方で、今日の大谷選手の実績・名声の陰には、水谷一平氏という存在が幾ばくかの貢献を果たしていることは確かだと思うのです。
貢献と裏切りを相殺することなど出来ることではありませんが、残念でなりません。
「後悔先に立たず」という言葉があります。常々思うことですが、「後悔とは後で悔やむこと」ですから先に立つことなどあるはずがなく、当たり前すぎる言葉だと思うのですが、いやに説得力があり、どこか哀しさが感じられるのです。
この言葉には、特別な出典などはないようですが、1200年代の文献には同様の言葉が幾つか使われているようですから、相当古い時代から、人々はこの言葉を噛みしめてきているようです。
「後悔先に立たず」という言葉の同意語を調べてみますと、「少し違うのでないか」という物を含めますとたくさんあるようです。
よく目にするもののうち、「覆水盆に返らず」とか「臍を噛む」などは中国の古典からの言葉のようですし、「こぼしたミルクを嘆いても無駄」は英語で勉強した記憶があります。どうやら、無駄と知りながらも起きてしまったことを悔やむのは、洋の東西を問わないようです。
しかし、私たちは、毎日とは言わないまでも、頻繁に後悔しながら暮らしているのではないでしょうか。致命的なという程の物は少ないでしょうが、哀しいかな私たちは、後悔を山ほど積み上げながら懸命に歩き続けているのではないでしょうか。
後悔は先には立たず、後から悔いるしかありませんが、どんな失敗であっても、無かったことにすることは出来ませんし、別の手段で穴埋めするのも簡単なことではないでしょう。それでも私たちは、歩み続けなくてはならないです。
後悔は先に立たないけれど、起きたことを噛みしめながら歩き続ける手段を求めるのも、一つの人生かも知れません。
( 2024 - 03 - 28 )
今年の桜前線は、ほとんどの地域で迷走気味だったようです。
季節外れの寒さに襲われたためですが、今月初め頃の予想とはかなり遅れていて、ここらきてどうやら開花がかなり進んだようです。昨日からは、数日前の寒さを埋め合わせるわけではないのでしょうが、初夏を思わせるようなお天気になっているので、開花から満開へは一気に進むのではないでしょうか。
お花見を予定していた人たちや、それ以上に、それを見込んでいた業者の方々はかなり予定が狂って苦労なさっている様子です。本来なら、昨日今日あたりが絶好のお花見日のはずですが、せいぜい ちらほら咲き程度の所が多いのではないでしょうか。
そして、多くの企業や官庁なども今年度の最終日に当たります。
三月から四月の上旬にかけては、年度替わりに関わる行事があり、個々の人にとっても、別れや出会いの多い季節でもあります。
学校の卒業式はすでに終っていますが、年を経て、その頃のことを思い出してみますと、わずかに記憶が残っており、いささかの感傷もないわけではないのですが、取り立てて強調するような出来事でもなかったような気もします。その時々には、例え小学校の卒業の時であっても、失われていく人間関係に切ない思いをしたはずですが、そうした思いは、何十年も経ってから色あせたというものではなく、数日とは言わないまでも、せいぜい数か月で過去の出来事に紛れ込んでしまったように思うのです。
卒業、転勤、転職、引っ越し等々、私たちは幾つもの別れを経験します。もっと個人的な問題としての別れ、異性間であれ、同性間であれ、上下関係であれ、仲間関係であれ、こちらは少々後をひくようです。
そうした多くの別れ、相当深刻な別れも含めて、ほとんどの場合は時間の経過ととも薄れていくもののようです。絶対に薄れない辛い別れがないわけではないのでしょうが、それでもそのほとんどは、客観的に見れば薄れていくものです。その要因の多くは、時間の経過でしょうが、もう一つは、新しい出会いだと思われます。
「五十になれば五十の縁あり」という言葉があります。もとは、男女の縁のことを言っているのですが、人の出会い全般に広げることも可能だと思うのです。また、「五十にして四十九年の非を知る」という言葉もありますが、こちらの方は、生きてきた過去を見直せと言った意味と考えられます。そして、二つの言葉とも古くからあるようですから、今日に直せば、七十、あるいは八十と読み替えるべきかも知れません。
二つの言葉からは、幾つになっても新しい出会いはあり、その時にも自我を通すだけでは駄目だと教えているように思うのです。
私たちの生涯には、幾つになっても新しい出会いの可能性はありますが、すべての出会いの数だけ別れがあるのも厳然たる事実です。
それだけに、あらゆる出会いを大切にしたいと思うのですが、もしその出会いが大切なものであるならば、必ずやって来る別れの時までを大切にしたいものです。
こんな理屈は誰でも分ることのはずですが、何故か、その大切な人が良い人であればあるほど「ないがしろ」にしがちなのは、どういう事なのでしょうか。
「五十にして四十九年の非を知る」という言葉は、大切な人とのこうした接し方を諫めているのかもしれないようにも思うのです。
( 2024 - 03 - 31 )
自民党が揺れ動いています。
安倍元首相が暗殺されるという悲劇は、もちろん、単に自民党の問題ではなく、わが国の政治体制、社会体制のあり方、あるいは脆弱性に対して一石が投じられた事件で、残念で不幸な出来事ではありましたが、このような事で、わが国が曲がりなりにも積み上げてきている民主主義体制は、びくともするものではないと考えていました。
実際その通りに事件処理は進められていると思うのですが、この事件を一つの切っ掛けとして自民党はいくつかの難題が表面化してきているように見えます。
政治的な支持・不支持とか、賛否などは別にして、一政党が揺らごうがどうなろうがどうでもよいことですが、ただ、現代の私たちの社会は、自民党を中心とした政権で運営されていることは、厳然たる事実です。その政党が揺れ動き、内向きのことに精力が注がれ、国家運営がないがしろにされかけているように感じるのは、不気味な気がします。
安倍派を中心とした自民党の派閥の政治資金パーティーの裏金事件は、どうやら明日にも処分内容が決定しそうです。
国政にブレーキをかけ続けているように見える案件は、党内的には、これで一つの山を越えるのでしょうが、政治家に関係する様々な法制度に対する不明朗さは、何も解決できていないように思われます。
例えば、今回の裏金事件に関していえば、明らかになった裏金と評されている資金については、各人の収入にして所得税なり延滞税を払うというのが当然だと考えている国民も、決して少なくはないと思うのです。訂正さえすれば何のおとがめもないというのは、僅かな経費処理に汲々としている国民からすれば、虚しくなってしまうのではないでしょうか。
民主主義制度における意思決定の根源にあるものは、多数決です。わが国の首相選出も、国会議員の多数決によって決定されます。
選出されるためには、支持者を増やす必要があり、その為には価値観が一致する人たちが団結しようとするのは当然であり、さらには、少々意見が合わなくても様々な条件闘争を経て発言権を強めようとするのも自然なことです。
派閥が諸悪の根源のような意見もありますが、そんな単純なことではなく、呼び名はともかく、議員一人では何も出来ないでしょうし、天下国家をとうとうと語るだけでは支持者が集まらない例はよく目にするところです。
一つの仕事をなすためには、それなりの仲間が集まることは必須条件です。それは十分理解できることですが、今回の裏金事件に関して、報道されているものを見る限り、国会議員とは、これほど自己の主義主張が弱いものかと痛感しました。選挙における主張や、マスコミなどに対するご高説の多くは、演技でありようやく覚えた台詞に過ぎないのではないかと思ってしまいました。
スポーツにおいて、自分に技術がなくとも名選手を育てることが出来ますし、チームを優勝に導くことも出来ます。しかし、それに至るには、血のにじむような努力が求められ、相応の覚悟が必要なはずです。
いくら選出された国会議員といえども、備えている知識や能力に限界があるのは当然のことです。それだからこそ、国家国民を導く立場に就いた以上は、それなりの努力と覚悟が求められるのも当然だと思うのです。
その覚悟が有りや無しやと、問いかけたいような思いでいっぱいです。
( 2024 - 04 - 03 )
自民党は、派閥の政治資金パーティーの裏金事件に関して、議員三十九人の処分を決定しました。自民党としては、この問題を早く収束させたいというのが本音でしょうから、決着を急ぎ、処分もおそらく党内の当初の思惑よりは厳しいものになったのではないでしょうか。
この決定に対する各方面からの評価はまだはっきりしていませんが、自民党首脳が期待しているほどすっきりとは行かないことでしょう。
野党などから、早速厳しい意見が出ていますが、これは、自民党がどんな結論を出したところで非難する意見しか出ないはずですから、正確な評価に当たらないと思うのですが、自民党内の意見や、国会議員以外の評価がどう動くのか、まだまだ事件は胸突き八丁といった所ではないでしょうか。
このところ、不愉快な難題が表面化し続けている同党ですが、この裏金事件に関してだけで言えば、不正を行っていた対象者が80数人に上っており、しかも、個人的な意見としては、この種の資金処理は、パーティ券に限らず、多くの議員が行っていることだという気がしています。
今回は、安倍派という大派閥で表面化してしまったため、一網打尽といった形で大勢の不正が表面化してしまいましたが、よく似たような不正な処理でも、たいていは、訂正という形で逃げ切れており、それでは無理な場合でも、会計責任者や秘書の責任ということで議員本人は無傷という事例を嫌というほど見せつけられてきました。
本件の党内処理などは二の次のことであって、政治活動という錦の御旗がまかり通るような資金処理を是正させることこそ重要だと思うのです。
それにしても、今回の党内処理については、二転三転を重ねたようですが、結果に対しても処分を受けた人からも、それ以外の人からも不満が出ているようです。
「離党勧告」という厳しい処分を受けた人が二人出ましたが、英断という見方も出来ますが、それ以下の人との差はそれほど明確なのでしょうか。
また、処分対象者とお構いなしになった人との差は、キックバックを受けた金額が判断基準の大きな要因になったようです。江戸時代には、「十両盗めば首が飛ぶ」という定めがあったそうですが、何だかそれを連想してしまいました。安倍派の議員の場合、キックバックの金額の多寡は、支持者から資金を集める能力にほぼ比例しており、金額が少ないのは、品行方正とは関係なく、資金集めが弱かっただけの話で、乱暴な線引きだったような気がします。
また、政治家として未熟であったり、今回のキックバックが違法との認識が薄かった人などは大目に見られたかのように見えるのですが、議員に関するこの程度の法律も理解していなかったとすれば、その方が恐ろしくなってしまいます。
そうだとしても、どこかに落とし所を見つけならなければならないわけで、今回のものが最善と判断したのでしょう。そして、その判断の中には、総裁には何の罪も無いとの判断も入っていたのでしょうね。
いずれにしても、今回の騒動は、まだまだ後を引くことでしょう。
自民党内の流動性が増し、国会内では国民不在の論争が続くでしょう。どこかで、議員に関わる法律の改正が行われるものと期待していますが、きっと、絶妙の改正が行われるのでしょうねぇ。
国会での論争も、聞くに堪えないような口汚い絶叫がみられ、交通違反や事務員を泣かせているような輩が、正義について語るのかと思うと少々うんざりしますが、考えようによっては、聖人君子などそうそういるわけではありませんから、全身をメッキで固めて振る舞うことも重要なのかもしれません。
わが国の国民を導く立場にある国会議員は、せめてその任期にある間は、例えメッキであってもその輝きを磨き続けてほしいものです。
( 2024 - 04 - 06 )
ドジャースのMVPトリオは、前評判通りの破壊力を見せています。
べッツ・オオタニ・フリーマンと並ぶ打線は、ネームバリュー十分ですが、名前負けしない力を見せています。
ただ、大谷翔平選手が第1号ホームランが出るまでは、ベッツとフリーマンが絶好調の滑り出しを見せている中で、大谷選手の不調が目立ちました。全く不調と言うほどでもないのでしょうが、前後の二人が素晴らしすぎただけに、いかにもブレーキになっているように見えて、きっと、多くのファンばかりでなく、球団関係者の方々も気掛かりだったのではないでしょうか。
第1号ホームラン以後は、どうやら本来の状態を取り戻した様子で、個人的な記録も球団の成績も、大きな期待が抱ける状態になってきました。
そして、大谷選手の、開幕後わずか数試合の成績で一喜一憂してしまった背景には、水谷一平氏の問題がありました。
この事件に関しては、多くの報道はなされてはいますが、全容が明らかになってはいませんので、あまり無責任な意見を述べるのは控えなければならないことは承知しています。しかし、それでもなお、どうしてこのような事に至ってしまったのか残念でなりません。
私などは、単なる選手と通訳という関係を超えた、信頼をベースとした特別な関係を築いているのだと感動を持ってみていましただけに、いまだに、いつ、何があって、水谷氏がこういう方向に走ってしまったのかと考えてしまいます。
この事件が表面化した時、私は「マズローの欲求の五段階説」という言葉を思い浮かべました。
私には、心理学に関する知識などなく、もちろん勉強したこともありませんが、ずっと以前に、雑学の一つとして、この説を読んだことがありました。
マズロー(アブラハム・ハロルド・マズロー。1908 - 1970 )は、アメリカの心理学者です。マズローは、20世紀の始めにロシアにおける集団迫害から逃れてアメリカに移住してきた、ユダヤ系ロシア人移民の子としてニューヨークのブルックリンで誕生しました。七人兄弟の長男だったようで、相当貧しい家庭であったようですが、両親が教育熱心であったこと、アメリカ社会のバイタリティーもあって、マズローは大学で法律学と心理学を学び、その後も心理学の探究を続け心理学博士号を取得、大学で教鞭を取り、心理学学会の会長を務めるなど、この学界の大家となったようです。
もっとも、その意見には異論もあり、また、初め法律を学んでいたのが、二年で中退して心理学に移ったのは、成績も品行も良くなかったという話も伝えられていますが、心理学に新しい息吹を吹き込んだ人物ではあったようです。
「マズローの欲求の五段階説」と言いますのは、素人の乱暴な説明で申し訳ありませんが、人間の欲求には五段階があり、順に次の段階を求めていくというものです。
一段階目は、「生理的欲求」で、生き延びるための欲求です。食欲・睡眠・排泄など、究極の段階での欲求を指すようです。
二段階目は、「安全欲求」で、一段階目が満たされると、人は安心・安全を求めるようになります。天災や犯罪、戦乱、経済不安などからの安全を求め、法律・警察・社会保障などの充実を求めます。
三段階目は、「所属と愛情欲求」とされるもので、グループに属したり、仲間を求めたり愛情を求めるようになります。人間関係に関する欲求と言えるでしょう。
四段階目は、「承認欲求(自尊欲求)と言われるもので、他者に認められたい、尊敬されたい、尊重されたい、と言ったもので、地位や人気などへの欲求です。
五段階目は、「自己実現欲求」で、自身が抱いている欲求を実現させたい、自己の使命を達成させたいと言ったもので、マズローはこれを最高の欲求と説明しています。
さて、拙い説明が長くなりましたが、学説としてはともかく、まあまあ平和な日常を頂戴している私たちの社会においては、マズロー先生が唱えられているように、欲求が一段階ずつ進んでいくわけではなく、折々に、様々な欲求が台頭し、時には、それを手に入れるためにとんでもないミスを犯してしまったり、犯罪に走ってしまったりすることがあるようです。
そして、私たちが大切にしなくてはならないことは、そのような危険な立場に陥った時、ぎりぎりの所で思い止まらせてくれるのは何なのか、知識なのか知恵なのか人なのか神仏なのか・・、よく分らないのですが、心身に刻みつけたいものです。
水谷一平氏には、そのチャンスはなかったのか、重ね重ね残念でなりません。
( 2024 - 04 - 09 )
今年は、桜の開花に当たる時期の天候が荒れ気味で、桜前線は行ったり来たり止まったりと、待ちわびている人々をやきもきさせたようですが、律儀なもので、少々の前後はあっても、絢爛たる姿を見せてくれたようで、多くの人々がお花見に興じている様子が伝えられていました。
日本人は、どうしてこれほど桜の花が好きなのかと思ってしまうのですが、テレビで報じられている様子を見る限り、海外から訪れている人々も、洋の東西を問わず満開の桜に感動している姿を見ますと、やはり、桜の花そのものに人々を惹き付ける何かがあるのでしょうねぇ。
桜前線はすでに本州の北端あたりまで達していて、関東以西の地域では、桜の名所といわれる所の多くは、満開の時期を終えようとしているようです。
ところが、当地は温暖な気候に当たる地域だと思うのですが、自宅近くの公園などには桜が植えられている所が何か所かありますが、そのいずれも、昨日でもほぼ満開で、直近の嵐のような風雨にもほとんど散っておらず、今週末も花ふぶき混じりのお花見が楽しめそうです。
ただ、散歩のコースの一つである公園の桜は、残念ながら、とてもみすぼらしい満開を迎えていました。
公園内には、二、三十本はあると思われる桜のほとんどが、枝の多くを大胆に切られてしまっていて、例年の三分の一も花を付けていないのです。
かつては、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という格言があるように、桜の木は切らずに育てるのが基本だったようですが、いつの頃からか、大胆に剪定することによって寿命を延ばすことが出来るということが分かり、剪定するのが一般的になっているようです。ある有名な桜守りの方が、弱っている桜の木を大胆に剪定することで元気を取り戻させていったことから定着してきたという話を聞いたことがあります。
ソメイヨシノの寿命は60年ほどで、著名な名所の桜の多くが寿命を迎えつつある、といった記事を見た記憶があります。
桜といっても多くの種類があり、現存している物の中には、2000年に達している桜もあるそうですが、ヤマザクラの寿命は2~300年、ソメイヨシノは特に短くて60年程度といわれているようです。
自宅近くの、大胆に剪定された桜もソメイヨシノですから、少しでも寿命を延ばすために行われたのであれば、不満を述べるなどはもってのほかで、数年は、切られてもなお必死に花を付けている姿に感謝しなければなりませんし、愛おしさを感じます。
「雨は嫌だけれど、虹を見るためには雨が降るのを待たねばならない」といった文章を見た記憶があります。
何か良い事を得ようとするのであれば、何かを辛抱しなければならないということを教えてくれているのでしょうが、「雨が降ったからといって、必ず虹を見ることが出来るわけではない」というのが現実だと言うことも出来ます。
私たちは、思い通りにならない事、欲しいのに手にできない物、いくら訴えても聞いてくれない事、等々にいらつくことの多い日々を送っています。しかし、何かを得るためには、何らかの犠牲や辛抱は必要であって、しかもそのように努力しても、「雨が降ったからといって、必ず虹が現れるわけではない」ということも、承知しておく大らかさが必要なようです。
( 2024 - 04 - 12 )