白土町は環濠集落のひとつ。
白坂神社から西へ、そして南から北へと囲まれている。
集落の垣内は北、西、中に東垣内。
さらに南は城垣内と称される。
東隅に鎮座する白坂神社の存在が知られるのは天文年間(1532~1555)以降のこと。
永禄年間(1558~)に土豪の白土氏は筒井党(順慶)とともに松永久秀の大和侵攻に戦った。
そのころの居館跡が白坂神社になったのではないだろうか。
念仏講のNさんの話では白土は寄せ集めの村だったという。
それぞれに神社があった。
それを合祀したのが白坂神社であるという。
先に記述した城垣内。
旧地名が示すように付近に鎮座する天神神社辺りがおそらく旧在所の平城郭であったろうと思われる。
そこは個人で所有する神社。
数軒が関係者らしい。
天神神社は合祀に賛同されず現代に至っているそうだ。
その集落の環濠周囲を巡って辻ごとに太鼓と鉦を打ち鳴らす子供の念仏講がある。
白土の念仏講は大人の念仏講と子供の念仏講が実在する。
大人より子供の念仏講のほうが古いとされている。
『浄福寺念仏講享保21年(1736)2月15日覚帳』が残されている子供の念仏講。
明治、大正、昭和の時代も連綿と記帳されている重要な証しだ。
享保21年といえば甲府から柳沢世吉里が転じて郡山城に入部した13年後のことだ。
子供の念仏講が始まったいきさつは定かでないが、昔は・・・と前置きされて語ったNさん。
「村の旦那さんは古い家ばかりだった。お念仏は旦那さんがするんじゃなくて子供にささはった。出て行くのがおっくうだったのだろう。」と。
最初にドンチャンドンチャンチャチャチャのリズムで太鼓を叩く。
これを10回ぐらい繰り返す。
すかさず両手にバチを持ってホデホテスッテントン、ホデホテスッテントンと連打する。
これを3回ほど繰り返す。
昭和50年代ごろまではバチはヤナギの枝だった。
子供が採ってきて皮を剥いで細工した。
持つ位置は皮付きのままだった。
鉦はチャンチャンチャチャチャと打つ。
太鼓の打ち方は変わっても、鉦の打ち方は同じ調子だ。
太鼓打ちが先導し、形がつくまで練習していた。
それから何十年も経つが今でもその様子を覚えていると語る経験者。
役目を担うのは小学6年生までの男の子だけだ。
3人だけになった時代もあったが続けてきた。
少なくなった男の子。
女の子入れたらどうかと何度も会合で検討されてきた。
数人になった現在は「頼みの子」を入れて継続している。
春の彼岸にはお寺に集まって、子供が何人いて、継承できるかどうか対応策を検討しているそうだ。
その会合ではお寺で保管している念仏講の大きな曼荼羅の掛図を掲げるという。
毎日が暑さ厳しい夏日。
夕方近くになってもその暑さは衰えない。
7日から始まった子供の念仏講は今日で7日目を迎えた。
毎日のお勤めにほとほと感服する。
子供だからできるのだろうか。
大人の念仏講が一日だけになったが元気な子供は毎日だ。
合図もなくいきなり始まった太鼓打ち。
ドンチャンドンチャンチャチャチャの音色に合わせてチャンチャンチャチャチャと鉦を打つ。
打ち方も一週間すれば慣れたものだ。
いつものようにお寺の門下で打って本堂前の念仏の音を響かせる。
彼らは自転車に跨って次の場所に飛んでいった。
今日の太鼓持ちは講中の家族。
自転車の後ろに乗せて後をついていく。
かつて仲家の玄関先であった辻、フダバ(フダワとかフザワと訛る場合もあるが漢字にすれば札場)の辻、セセンボ(祖先墓が訛った)の前の辻、旧仲家の墓地の前の辻へと移動して太鼓、鉦を打ち鳴らす。
先祖供養でもあるようだが、それぞれの辻で打ち鳴らすのは厄払い。
悪霊が地区に入ってこないようにしているのだという。
中央の辻は別格として北と南は橋の上。
そこは現在も生活水路として残る環濠を示す北と南の辻でもある。
白土の村は仲家と喜多家の両家で支えられてきた。
N家はその一字をもらって名字にされたそうだ。
字地に箕田があるという。解体されそうになった唐箕を貰った。
そこには箕ノ田と書いてあった。
実る田のことだろうと話すNさん。
稗田も念仏講があるという。
喜多家は藤原氏の末裔だという。
半数が子供の念仏講中だそうだ。
もしかとすればだが。
両家の発案に拠って始められてもおかしくはないと思うのは私だけであろうか。
(H22. 8.13 EOS40D撮影)
白坂神社から西へ、そして南から北へと囲まれている。
集落の垣内は北、西、中に東垣内。
さらに南は城垣内と称される。
東隅に鎮座する白坂神社の存在が知られるのは天文年間(1532~1555)以降のこと。
永禄年間(1558~)に土豪の白土氏は筒井党(順慶)とともに松永久秀の大和侵攻に戦った。
そのころの居館跡が白坂神社になったのではないだろうか。
念仏講のNさんの話では白土は寄せ集めの村だったという。
それぞれに神社があった。
それを合祀したのが白坂神社であるという。
先に記述した城垣内。
旧地名が示すように付近に鎮座する天神神社辺りがおそらく旧在所の平城郭であったろうと思われる。
そこは個人で所有する神社。
数軒が関係者らしい。
天神神社は合祀に賛同されず現代に至っているそうだ。
その集落の環濠周囲を巡って辻ごとに太鼓と鉦を打ち鳴らす子供の念仏講がある。
白土の念仏講は大人の念仏講と子供の念仏講が実在する。
大人より子供の念仏講のほうが古いとされている。
『浄福寺念仏講享保21年(1736)2月15日覚帳』が残されている子供の念仏講。
明治、大正、昭和の時代も連綿と記帳されている重要な証しだ。
享保21年といえば甲府から柳沢世吉里が転じて郡山城に入部した13年後のことだ。
子供の念仏講が始まったいきさつは定かでないが、昔は・・・と前置きされて語ったNさん。
「村の旦那さんは古い家ばかりだった。お念仏は旦那さんがするんじゃなくて子供にささはった。出て行くのがおっくうだったのだろう。」と。
最初にドンチャンドンチャンチャチャチャのリズムで太鼓を叩く。
これを10回ぐらい繰り返す。
すかさず両手にバチを持ってホデホテスッテントン、ホデホテスッテントンと連打する。
これを3回ほど繰り返す。
昭和50年代ごろまではバチはヤナギの枝だった。
子供が採ってきて皮を剥いで細工した。
持つ位置は皮付きのままだった。
鉦はチャンチャンチャチャチャと打つ。
太鼓の打ち方は変わっても、鉦の打ち方は同じ調子だ。
太鼓打ちが先導し、形がつくまで練習していた。
それから何十年も経つが今でもその様子を覚えていると語る経験者。
役目を担うのは小学6年生までの男の子だけだ。
3人だけになった時代もあったが続けてきた。
少なくなった男の子。
女の子入れたらどうかと何度も会合で検討されてきた。
数人になった現在は「頼みの子」を入れて継続している。
春の彼岸にはお寺に集まって、子供が何人いて、継承できるかどうか対応策を検討しているそうだ。
その会合ではお寺で保管している念仏講の大きな曼荼羅の掛図を掲げるという。
毎日が暑さ厳しい夏日。
夕方近くになってもその暑さは衰えない。
7日から始まった子供の念仏講は今日で7日目を迎えた。
毎日のお勤めにほとほと感服する。
子供だからできるのだろうか。
大人の念仏講が一日だけになったが元気な子供は毎日だ。
合図もなくいきなり始まった太鼓打ち。
ドンチャンドンチャンチャチャチャの音色に合わせてチャンチャンチャチャチャと鉦を打つ。
打ち方も一週間すれば慣れたものだ。
いつものようにお寺の門下で打って本堂前の念仏の音を響かせる。
彼らは自転車に跨って次の場所に飛んでいった。
今日の太鼓持ちは講中の家族。
自転車の後ろに乗せて後をついていく。
かつて仲家の玄関先であった辻、フダバ(フダワとかフザワと訛る場合もあるが漢字にすれば札場)の辻、セセンボ(祖先墓が訛った)の前の辻、旧仲家の墓地の前の辻へと移動して太鼓、鉦を打ち鳴らす。
先祖供養でもあるようだが、それぞれの辻で打ち鳴らすのは厄払い。
悪霊が地区に入ってこないようにしているのだという。
中央の辻は別格として北と南は橋の上。
そこは現在も生活水路として残る環濠を示す北と南の辻でもある。
白土の村は仲家と喜多家の両家で支えられてきた。
N家はその一字をもらって名字にされたそうだ。
字地に箕田があるという。解体されそうになった唐箕を貰った。
そこには箕ノ田と書いてあった。
実る田のことだろうと話すNさん。
稗田も念仏講があるという。
喜多家は藤原氏の末裔だという。
半数が子供の念仏講中だそうだ。
もしかとすればだが。
両家の発案に拠って始められてもおかしくはないと思うのは私だけであろうか。
(H22. 8.13 EOS40D撮影)