昨年末に加夜奈留美命神社で行われた「山の神」を拝見させていただいたきっかけに再び栢森を訪れた。
奈良朝時代以前は飛鳥の時代。
古の都が築造されたのが飛鳥の地である。
飛鳥の名が付く宮には板蓋宮、川原宮、後岡本宮、浄御原宮があり天皇の詔によりその都度、都を替えて造営、変遷していった。
そもそも飛鳥時代と呼んだのは現代の美術史や建築史で使われたからであるが、飛鳥の名に憧れて奈良明日香村を訪れる人は多い。
かつての都に川が流れていた。
それは飛鳥川。
源流は高取町との境の山間。
入谷や畑集落を抜けて北上する清流である。
古代の都から飛鳥川に沿って遡っていこう。
起点は伝板蓋宮だ。
島庄、祝戸を通過した2.5km先が稲渕だ。
さらに上流を目指せば栢森に着く。
稲渕から2kmぐらいだ。
それぞれの集落の入り口に長い勧請縄が掛けられている。
それは川を跨ぐような様相である。
稲渕では4日前に新しく綱が掛け替えられていた。
栢森では昨年に掛けられた太い綱が残っている。
大きな房も現存していた。
その地は「カンジョバ(勧請場)」。
大きな岩は「フクイシ(福石)」と呼ばれている。
集落に入った少し先。そこはかつての出荷場。

村の男たちが集まって綱を結っている。
用意した稲藁は石などに叩いて埃を取る。
いわゆるシビ取りだ。
藁を叩けば強くなる。
各地でワラウチと呼ばれている作業だ。
それを束にして綱結いに足していく。
綱は三本撚りで梯子に掛けて太い綱にしていく。
掛け声は特にない。
綱には黄色の化繊ロープが中にある。
それは心棒。
こうしておくと綱が長持ちするのだという。
そうであったか。
綱は雨が降ったりして一年ももたない。
風雨にさらされた綱は朽ちて半年ほどで落下するのだ。
カンジョバに残されていたのはロープという強い味方が隠されていたのだ。
栢森は27戸の集落。
昭和30年代後半は46戸もあったそうだ。
それが昭和45年には34戸、平成17年では27戸。
徐々に村外へ移る家が増えていって集落の戸数が減った。
女性だけの家では綱組みに携わることができない。
作業ができるのは男性だけとなれば20軒ぐらいになるという。
30年ほど前に立ち上げた「お綱掛け保存会」の法被を着た男たち。
3年交替で回ってくる7人(2人のねんぎょを含む)が綱作り作業を行う。
そこに2年任期の総代と副総代が手伝う。
手伝うといっても重要な部分を担うのである。
栢森のツナカケ、正しくは「勧請縄の綱掛け」と呼ぶのだとK総代は話す。
稲渕から栢森にかけての地を奥飛鳥と呼ぶ人がいる。
祝戸も含むという人もいる。
「そう呼ばれるのが辛いのだ」と総代は顔をしかめる。
栢森の地は飛鳥川を挟んだ狭隘な地だ。
植林された杉が大きくなった。
それだけに陽がまともにあたる時間は昼間ぐらい。
午後3時ともなれば太陽は西の山陰に隠れてしまって薄暗くなる。
そんな景観だけに暗いイメージを彷彿させる「奥飛鳥」と呼ばれるのが辛いと仰るのであった。
たしかにそういう地名は存在しない山間栢森の地に綱が掛けられる。
「シシ(猪)は川の岩をめくってサワガニを獲って食べる。シカ(鹿)は新芽を喰い荒らす。ウサギも野鳥も・・・。それだけ山の作物を喰いつくす。被害はたまらんぐらい多い」と話す作業人。
「生活してみたら栢森がどんなところかよー判るで」と仰った。
作業が進むにつれて見学するギャラリーが増えてきた。
少人数のグループ、ハイカー、一人旅と思われる人たちに混ざって外国の人も・・・。
綱は勧請縄。
災いをもたらす悪霊が村に入ってこないようにする結界でもある。
古来の人は疫病、悪病を怖れた。
村人を病に伏せさせる疫神を怖れたのである。
それは下流から昇ってくると信じていた。
それゆえ川に綱を張って見えない疫神を防いだのである。
勧請綱は川切りの行いである。
道切りだという人もいる。
道は村人が移動する生活道だけに疫病をもたらす道理がない。と、思っている。

そんな大切な綱作り。
足して、足して長くなる。
その長さは上流の橋を越えて集会所辺りまで。
それぐらい伸ばせば川を跨げる長さになるという。
神聖な綱はこうして作られていった。
それゆえ綱を跨ぐことは一切ならない。
地元の婦人たちも綱向こうにある小屋には到底行くことができない。
「女の神さんの綱掛けだけに、女性は綱を触ることも許されない」と話す総代。
「跨るなんてとんでもない。心の中では跨がんといてほしいと思っているんだ。」と重ねて心中を訴えた。
かつては酒を飲んで唄を歌いながら賑やかな作業をしていた。
その際には「祝いだ」と言って押し合いへしあい。
一年間が無病息災になると、藁や綱の中に人を埋めたりしていたそうだ。
綱は力強く結っていかねばならない。
掛け声は見られないが気合いを込めてできあがった。
その間、総代らはオソナエを作る。
太い真竹を四つに割って中央辺りに楔を入れる。
先のほうに細い竹を四方に挿し込む。
そこにはミカンが16個も並ぶ。
何を現す個数なのか聞きそびれた。

綱ができあがるころには大きな房が作られる。
それが女綱。奇麗な藁束を丸い扇のように広げる。
丁寧に広げたそれを桶に入れる。
広げたままである。
桶は黄色い漬物樽だ。
その内部に藁屑(シビ)を丸めて詰め込んでいく。
しっかりと詰め込む。

そうして広げた藁の端を集合させて紐で括る。
これも力仕事である。
こうしておかないと女綱が崩れてしまうのだ。
桶から取りだせばほぼ完成。
女綱と呼ばれている房の下部に竹を挿してハッサク(またはダイダイ)を取り付ける。
手結した綱を女綱に巻き付けて縛る。
そこにサカキを3本に3枚の紙垂れを取り付ける。
これは勧請綱にも取り付ける。
これらは「カザリ」と呼んでいる。
出来上がる頃を見計らって福龍寺の住職を迎えに行く。
綱作りが始まってから2時間経過したころだ。
迎えの役目は年番のねんぎょ(年行)があたる。
かつて栢森は高取領だった。
戦前までは高取の僧侶と明日香の僧侶が毎年交替してお勤めをしていたと総代は話す。

竹の幣(ススンボ竹)も作られてすべての勧請縄が揃った。
長い綱はぐるぐる巻きにしてオーコに通す。
かなりの重さの綱を二人で担いでいく。
女綱、オソナエ、幣、カザリ綱など分担して持つ村人たち。

リンを打つ住職を先頭にカンジョバまでのお渡り。
村中を通り抜けて川幅が広くなった飛鳥川沿いの道路を歩いていく。
およそ10分、ねんぎょが抱えてきた風呂敷包みは住職が勤行(祈祷)される道具であろう。
カンジョバに到着して勧請縄、女綱、オソナエなどをフクイシ(福石)に置き、路傍の石仏前に三方を設え勤行道具を並べた。
15分ほど、住職による綱の祈祷法要が行われる。

下流の稲渕では飛鳥坐神社の宮司によって行われているが栢森では仏式行事である。
カンジョバを清めて散杖で宙に円を描く。
読経が唱えられ灌水を振りかける。
こうして祈祷を終えれば、一年間に亘って村を守り続けてきた前年の綱を取り外す。
長い綱だけに入れ替え作業は時間を要する。
川向こうの丘上に繋いだ綱を引っぱって川渡し。
そのときの綱はだらりと垂らしておく。

川岸で女綱を取り付けて御幣を挿す。
その両端には稲渕でも見られたような垂れ縄を取り付ける。
その確認ができれば道路側の丘上から引っぱり上げる。

その頃、前年の綱は川原で燃やしてしまう。
綱を掛け終えて小縄はフクイシに巻きつける。
無事に終えた綱掛け。

お下がりのミカンを参拝者に配られて帰路につく。
勧請縄の綱はこうして再び疫病が入り込まないように村を守ってくれる。

ここはフクイシを含めて村を守る結界だと総代は話す。
奈良県教育委員会が3カ年に亘り調査し平成21年に発刊した『奈良県祭り・行事調査報告書 奈良県の祭り・行事』によれば、綱掛けの行事は宝暦元年(1751年)に纏められた地誌『古跡略考』や『大和国高取領風俗問状答』文化年間(1804年~1818年)に記載されているという。
ところが、稲渕の男綱や栢森の女綱を示すような文字は見当たらないそうだ。
「オツナカケ」は「御綱掛け」であったと考えられるが、両集落の綱の呼称や造りものの大きな房がいつ発生したのか判っていないと報告されている。
(H24. 1.11 EOS40D撮影)
奈良朝時代以前は飛鳥の時代。
古の都が築造されたのが飛鳥の地である。
飛鳥の名が付く宮には板蓋宮、川原宮、後岡本宮、浄御原宮があり天皇の詔によりその都度、都を替えて造営、変遷していった。
そもそも飛鳥時代と呼んだのは現代の美術史や建築史で使われたからであるが、飛鳥の名に憧れて奈良明日香村を訪れる人は多い。
かつての都に川が流れていた。
それは飛鳥川。
源流は高取町との境の山間。
入谷や畑集落を抜けて北上する清流である。
古代の都から飛鳥川に沿って遡っていこう。
起点は伝板蓋宮だ。
島庄、祝戸を通過した2.5km先が稲渕だ。
さらに上流を目指せば栢森に着く。
稲渕から2kmぐらいだ。
それぞれの集落の入り口に長い勧請縄が掛けられている。
それは川を跨ぐような様相である。
稲渕では4日前に新しく綱が掛け替えられていた。
栢森では昨年に掛けられた太い綱が残っている。
大きな房も現存していた。
その地は「カンジョバ(勧請場)」。
大きな岩は「フクイシ(福石)」と呼ばれている。
集落に入った少し先。そこはかつての出荷場。

村の男たちが集まって綱を結っている。
用意した稲藁は石などに叩いて埃を取る。
いわゆるシビ取りだ。
藁を叩けば強くなる。
各地でワラウチと呼ばれている作業だ。
それを束にして綱結いに足していく。
綱は三本撚りで梯子に掛けて太い綱にしていく。
掛け声は特にない。
綱には黄色の化繊ロープが中にある。
それは心棒。
こうしておくと綱が長持ちするのだという。
そうであったか。
綱は雨が降ったりして一年ももたない。
風雨にさらされた綱は朽ちて半年ほどで落下するのだ。
カンジョバに残されていたのはロープという強い味方が隠されていたのだ。
栢森は27戸の集落。
昭和30年代後半は46戸もあったそうだ。
それが昭和45年には34戸、平成17年では27戸。
徐々に村外へ移る家が増えていって集落の戸数が減った。
女性だけの家では綱組みに携わることができない。
作業ができるのは男性だけとなれば20軒ぐらいになるという。
30年ほど前に立ち上げた「お綱掛け保存会」の法被を着た男たち。
3年交替で回ってくる7人(2人のねんぎょを含む)が綱作り作業を行う。
そこに2年任期の総代と副総代が手伝う。
手伝うといっても重要な部分を担うのである。
栢森のツナカケ、正しくは「勧請縄の綱掛け」と呼ぶのだとK総代は話す。
稲渕から栢森にかけての地を奥飛鳥と呼ぶ人がいる。
祝戸も含むという人もいる。
「そう呼ばれるのが辛いのだ」と総代は顔をしかめる。
栢森の地は飛鳥川を挟んだ狭隘な地だ。
植林された杉が大きくなった。
それだけに陽がまともにあたる時間は昼間ぐらい。
午後3時ともなれば太陽は西の山陰に隠れてしまって薄暗くなる。
そんな景観だけに暗いイメージを彷彿させる「奥飛鳥」と呼ばれるのが辛いと仰るのであった。
たしかにそういう地名は存在しない山間栢森の地に綱が掛けられる。
「シシ(猪)は川の岩をめくってサワガニを獲って食べる。シカ(鹿)は新芽を喰い荒らす。ウサギも野鳥も・・・。それだけ山の作物を喰いつくす。被害はたまらんぐらい多い」と話す作業人。
「生活してみたら栢森がどんなところかよー判るで」と仰った。
作業が進むにつれて見学するギャラリーが増えてきた。
少人数のグループ、ハイカー、一人旅と思われる人たちに混ざって外国の人も・・・。
綱は勧請縄。
災いをもたらす悪霊が村に入ってこないようにする結界でもある。
古来の人は疫病、悪病を怖れた。
村人を病に伏せさせる疫神を怖れたのである。
それは下流から昇ってくると信じていた。
それゆえ川に綱を張って見えない疫神を防いだのである。
勧請綱は川切りの行いである。
道切りだという人もいる。
道は村人が移動する生活道だけに疫病をもたらす道理がない。と、思っている。

そんな大切な綱作り。
足して、足して長くなる。
その長さは上流の橋を越えて集会所辺りまで。
それぐらい伸ばせば川を跨げる長さになるという。
神聖な綱はこうして作られていった。
それゆえ綱を跨ぐことは一切ならない。
地元の婦人たちも綱向こうにある小屋には到底行くことができない。
「女の神さんの綱掛けだけに、女性は綱を触ることも許されない」と話す総代。
「跨るなんてとんでもない。心の中では跨がんといてほしいと思っているんだ。」と重ねて心中を訴えた。
かつては酒を飲んで唄を歌いながら賑やかな作業をしていた。
その際には「祝いだ」と言って押し合いへしあい。
一年間が無病息災になると、藁や綱の中に人を埋めたりしていたそうだ。
綱は力強く結っていかねばならない。
掛け声は見られないが気合いを込めてできあがった。
その間、総代らはオソナエを作る。
太い真竹を四つに割って中央辺りに楔を入れる。
先のほうに細い竹を四方に挿し込む。
そこにはミカンが16個も並ぶ。
何を現す個数なのか聞きそびれた。

綱ができあがるころには大きな房が作られる。
それが女綱。奇麗な藁束を丸い扇のように広げる。
丁寧に広げたそれを桶に入れる。
広げたままである。
桶は黄色い漬物樽だ。
その内部に藁屑(シビ)を丸めて詰め込んでいく。
しっかりと詰め込む。

そうして広げた藁の端を集合させて紐で括る。
これも力仕事である。
こうしておかないと女綱が崩れてしまうのだ。
桶から取りだせばほぼ完成。
女綱と呼ばれている房の下部に竹を挿してハッサク(またはダイダイ)を取り付ける。
手結した綱を女綱に巻き付けて縛る。
そこにサカキを3本に3枚の紙垂れを取り付ける。
これは勧請綱にも取り付ける。
これらは「カザリ」と呼んでいる。
出来上がる頃を見計らって福龍寺の住職を迎えに行く。
綱作りが始まってから2時間経過したころだ。
迎えの役目は年番のねんぎょ(年行)があたる。
かつて栢森は高取領だった。
戦前までは高取の僧侶と明日香の僧侶が毎年交替してお勤めをしていたと総代は話す。

竹の幣(ススンボ竹)も作られてすべての勧請縄が揃った。
長い綱はぐるぐる巻きにしてオーコに通す。
かなりの重さの綱を二人で担いでいく。
女綱、オソナエ、幣、カザリ綱など分担して持つ村人たち。

リンを打つ住職を先頭にカンジョバまでのお渡り。
村中を通り抜けて川幅が広くなった飛鳥川沿いの道路を歩いていく。
およそ10分、ねんぎょが抱えてきた風呂敷包みは住職が勤行(祈祷)される道具であろう。
カンジョバに到着して勧請縄、女綱、オソナエなどをフクイシ(福石)に置き、路傍の石仏前に三方を設え勤行道具を並べた。
15分ほど、住職による綱の祈祷法要が行われる。

下流の稲渕では飛鳥坐神社の宮司によって行われているが栢森では仏式行事である。
カンジョバを清めて散杖で宙に円を描く。
読経が唱えられ灌水を振りかける。
こうして祈祷を終えれば、一年間に亘って村を守り続けてきた前年の綱を取り外す。
長い綱だけに入れ替え作業は時間を要する。
川向こうの丘上に繋いだ綱を引っぱって川渡し。
そのときの綱はだらりと垂らしておく。

川岸で女綱を取り付けて御幣を挿す。
その両端には稲渕でも見られたような垂れ縄を取り付ける。
その確認ができれば道路側の丘上から引っぱり上げる。

その頃、前年の綱は川原で燃やしてしまう。
綱を掛け終えて小縄はフクイシに巻きつける。
無事に終えた綱掛け。

お下がりのミカンを参拝者に配られて帰路につく。
勧請縄の綱はこうして再び疫病が入り込まないように村を守ってくれる。

ここはフクイシを含めて村を守る結界だと総代は話す。
奈良県教育委員会が3カ年に亘り調査し平成21年に発刊した『奈良県祭り・行事調査報告書 奈良県の祭り・行事』によれば、綱掛けの行事は宝暦元年(1751年)に纏められた地誌『古跡略考』や『大和国高取領風俗問状答』文化年間(1804年~1818年)に記載されているという。
ところが、稲渕の男綱や栢森の女綱を示すような文字は見当たらないそうだ。
「オツナカケ」は「御綱掛け」であったと考えられるが、両集落の綱の呼称や造りものの大きな房がいつ発生したのか判っていないと報告されている。
(H24. 1.11 EOS40D撮影)