マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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法蓮会所二月の阿弥陀講

2012年03月26日 07時43分44秒 | 奈良市へ
嘉永年間(1848~)に始まったとされる法蓮会所の阿弥陀講。

平成6年には講中は42軒だった。

農業を勤めてきた法蓮の人たち。若くはない。

一昨年には男性一人、女性二人が入会されたが、そのあとに長老たちが亡くなった。

入れ替わりがあるものの講を維持していくのは難しいと話される。

一昨年3月の慰霊祭は40人も集まったが、この日は20人。

冷え込む日には出席もし辛いそうでどうしても欠席が多くなるという二月の阿弥陀講。

堺県から奈良県に遷った明治時代に字法蓮ができ、そのときに組織されたのが「法蓮会所方」で120年の歴史をもっている法蓮会所。

明治維新の際に廃仏毀釈が起った。

そのときに貰ってきたとされる蝋燭台。

聖武天皇御陵(佐保山陵墓)を守っていた眉間寺(みけんじ)の什物であったのではないかと話すWさん。

延宝三年(1675)に発刊された南都名所集に描かれている寺だ。

眉間寺は松永弾正久秀が同寺を毀(こわ)して多聞山城を築造(永禄三年・1560)し始めたとされている。

その絵図はかつての残影を描いたのではないだろうかと推定されているが、実際の城閣は現在の若草中学校辺りである。

同寺は寛永三年(1791)に発刊された大和名所圖會にも描かれている。

眉間寺は陵墓内。

その地から300mほど南西にあるのが法蓮会所だ。

「随分前のことだが」と前置きされてIさんが語られた法蓮の「アマヨロコビ」。

旱(ひでり)が続いて田んぼは干上がった。

3日間もカンカンに照ってしまうと田んぼも干上がるのだ。

池の水を管理するのは水利組合。

田んぼがひび割れするときには池の水を入れる。

それでも雨が降らない日が続く。

そのときに「アマヨロコビ」をしていた。

「今日はアマヨロコビや」と言って鉦を叩いて町内を振れ回っていた。

カン、カン、カンと聞こえてくる鉦の音は農作業を休む合図。

仕事を休んで一日中遊んだという。

百姓が多かった法蓮。

雨が降れば喜んで農作業を休んだというのだ。

骨休みだと言って、雨を喜んで鉦を叩き振れ回る。

鉦を打つ場所は辻ごとであったそうだが、それは戦中時代までで戦後に途絶えたという。

そのときに使われたものかどうか判らないが阿弥陀講が数珠繰りをされる際に叩かれる鉦がある。

「法蓮村會所 京大仏住 西村左近宗春作」の刻印が見られる鉦だ。



導師が数珠の輪の中に入って鉦を叩く。

香偈、三唱禮、略懺悔の念仏を唱えてから数珠繰りをする。

阿弥陀講のご詠歌を唱えながら数珠を繰る。

善光寺の三番を唱えて、八番、十五番の飛び番になる。

阿弥陀如来も唱えられて法蓮観音菩薩の念仏和讃に移る。

その二番にそのアマヨロコビを詠ったのではないかと伝えられている和讃がある。

「みほとけを たのむやがてに ふるあめの おときくこそは とふとかりけり」だ。

法蓮会所方地蔵尊三番には「ありがたや 法蓮会所の じぞうそん むらの(人々)もろもろ まもりたまうぞ」とある。

その番唄は、雨がほしいときにはたいそうなご利益があるといって近隣地区から貸し出されたこともあったという。

ありがたい観音さんはとても大きな掛け図だ。

一般的に上から吊るす掛軸だが、法蓮では床の間。

普段は扉を閉めている。

その扉が開けられると観音さんが出現するのだ。



お軸というよりも巨大な仏画のように思える観音さんを描いた掛け図にはカミナリさんが描かれている。

大きく口を開けたその姿は左に青鬼、右は赤鬼のように見える。

鞴で風を起こす風神と雷鼓を打ち鳴らす雷神であろうか。

乗っている雲下からはザンザンと降り注ぐ雨にカミナリが光っている。

そのカミナリさん絵は後世に書き足されたものだと伝えられている。

下部には波がしらや蓮の葉も見られるというが暗がりで生憎感知できなかった。

観音菩薩の和讃、カミナリさんが描かれた観音像図に「アマヨロコビ」の雨乞い風習の三題が揃った法蓮会所の阿弥陀講の日。

念仏を終えたあとはいつもの会食。

男性、女性の席になぜか別れて巻き寿司をよばれる。

(H24. 2.11 EOS40D撮影)