夏至入りする数日前の6月16日辺り、東山間では村ごとに田の虫送りが行われている。
害虫退散、虫供養を願って、松明を燃やして害虫を村から送りだす風習である。
田植を終えて稲苗が生育する時期にはウンカなど稲を食い荒らす虫が大量に発生する。
松明を焚いた灯りで虫を集め駆除する虫送りの習わしは害虫の発生が多くなるこの時期に行われている。
夏至の前後に行われる室生小原・下笠間地区もあるが、ほとんどが16日である。
同室生では染田・無山も見られるが、旧都祁村においては針ヶ別所・小倉もある。
村内で唯一の山添村では切幡がある。
それより少し北になる天理市山田町では上山田、中山田、下山田の3地区でそれぞれが田の虫送りを行っている。
いずれも田の虫送りをする際には、お寺で予めに虫の供養をされる。
祈祷したお札には「奉修 虫送り害虫駆除五穀豊饒」とある。
虫を送って害虫を駆除した稲は五穀豊穣を願うお札を祈祷をされたのである。
このお札は村の境界、それぞれの地に挿す田の虫送りであるが、松明を繰りださない地域もある。
旧都祁村では南之庄、吐山、上深川の3カ村。
吐山では祈祷の作法に太鼓を打つ数珠繰りが行われている。
天理市の上仁興では鉦や太鼓を打って「ナンマイダ」を百念仏唱える処もある。
桜井市の北白木では「ヤイトヤイト」と唱えて、太鼓と鉦を打つ。
さまざまな在り方で行われている虫の祈祷の目的はいずこも同じである。
虫送りの日は雨が降らないケースも多いが、昨年は違った。
暴風雨のような雨嵐だったことを覚えている昨年の状況は、翌日に日を替える、或いは中止せざるを得なかった各地の対応。
滅多にないことである。
空梅雨で取水制限を余儀なくされた地域を伝えるニュースが流れる蒸し暑い日だったこの年の虫送りは、天理市山田町を訪れた。
上山田地区と下山田地区は隔年交替で団体の一般観光客の受け入れをしている。
山田町の虫送りは天理市の無形民俗財に指定されている関係の受け入れである。
ところが、中山田地区では、村の行事であるからと云って受け入れはしていない。
中山田地区はおよそ20軒。
かつては子どもが大勢いた中山田。
成長して大きくなれば参加はしないが、この年は三人の子どもが集まってきた。
大きな松明を抱える子どもは実に嬉しそうである。
3年前まではもっと多くいた子どもたち。
中学生ともなれば参加しなくなると云う。
それより直前のことである。
会所で打つ太鼓の音が聞こえてくる。
村の行事の始まる合図は遠くまで聞こえてくる。
呼出の音が聞こえた村人たちは大きな松明を抱えてきた。
集まる場所は真言宗高野山派の蔵輪寺だ。
山田道安の菩提寺として名高い。
日が暮れる時間帯。
住職は本堂にあがって予め午前中に祈祷されたお札を区長に手渡す。
用意しておいた棒に挿し込むお札は3本だ。
それから始めた法要。
堂内に灯されたローソクの火が揺らぐ。
何故に予めの祈祷札であるのか、それは上、下山田の虫送りのお札とも祈祷していたのである。
3地区で始まる時間帯は若干のずれがあるが、1地区ごとに祈祷しておれば走り回らなければならない。
蔵輪寺の在所が中山田であるだけに、お寺さんの法要を伴うこの年の田の虫送りは中山田に限定したと話す。
法要する間は本堂下で待つ村人。
しばらく経って本堂で灯したローソクのオヒカリを境内に持ちだす住職。
群がるように松明をつきだす村人たち。
枯れた割木の竹を括った松明の先にはこれもまた枯れた杉葉がある。
オヒカリの火が移ってまたたく間に大きな火となった松明である。
寺から降りる階段下では鉦叩きと太鼓打ちが待っていた。
松明送りの人たちを見送ってから後方についた鉦叩きと太鼓打ち。
長老が思い出した田の虫送りの唄がある。
「たーのむーし おーくるわっ」で太鼓をドン・ドン・ドン。「あーとは さーかい さーかいや」で太鼓をドン・ドン・ドンと叩いていた。
その繰り返しだったと云う田の虫送りの唄にでてくる「さーかい」は村の境界のことだと思ったが、違っていた。
「さーかい」は「栄える」の意であって、田の虫を送れば稲が実る、五穀豊穣で村が栄えるということであると住職は話す。
蔵輪寺から出発した一行は旧道を南に向かって新道と交差する地をぐるりと旋回して新道に入る。
その地は「ホヤクチ」と呼ばれる小字。
上山田との境界である。
そこに1本の祈祷札を立てる。
北に向かって新道を一直線。
歩道がある新道である。
ガードレール越しに突きだす松明の先は田んぼである。
田に住みつく虫を送る現代の景観である。
川を渡った小字「オタグチバシ(橋)」にも、お札を立てた。
昔はここから東の峠に行っていたと云う。
峠の向こうは旧都祁村の針にあたる。
ここも村の境界である。
その時代にしていた虫送りは太鼓と鉦は行かずに架かる橋で打って待っていたそうだ。
そうとう遠かったようで、待ち時間は長かったと話す。
現在の田の虫送りは祈祷札立てを待たずにそのまま進行する。
さらに北へと新道を歩く一行。その先は下山田との境界地だ。
その場ですべての松明を燃やす小字は「ヨコミネ」或いは「サルゴテン」と呼ぶ。
かつては旧道での虫送りであったことから川向こうの地の「イワガケフドウ(岩掛不動)」。
山田道安の碑があると云う。
およそ800mの距離になる田の虫送りは火点けから始まって20分ほどで終えた。
叩いていた鉦は寺檀家所有の「ヨセガネ」だ。
葬儀の家で葬式が始まる合図に打つ鉦は、村人に告知する「寄せ鉦」であると話す。
松明の火が消えた山田町の夜。
団体客は山田公民館でバスに乗っていた。
下山田地区ではこの夜に集まるサナブリの日。
虫送りを終えて一旦は家に帰る。
再び集まる時間帯は夜8時だ。
サナブリとは村のすべてが終わった田植え終い。
風呂敷き包みを手にした村人は広出垣内が地蔵寺で、東村は会所のそれぞれの場で会食をされる。
翌日の天気は一転して曇り空になった。
18日にはしょぼしょぼ降った雨も夕方にはざざ降りになった。
夜には更に勢いが激しくなった大雨。
台風4号の影響もあってか、全国的な状況で大雨の様子を伝えるニュース。
奈良県北部も大雨警報が発令された。
19日、20日、21日と続く大雨はほぼ全国的。
池水は満水になったと思うが洪水や崖崩れが心配だ。
(H25. 6.16 EOS40D撮影)
害虫退散、虫供養を願って、松明を燃やして害虫を村から送りだす風習である。
田植を終えて稲苗が生育する時期にはウンカなど稲を食い荒らす虫が大量に発生する。
松明を焚いた灯りで虫を集め駆除する虫送りの習わしは害虫の発生が多くなるこの時期に行われている。
夏至の前後に行われる室生小原・下笠間地区もあるが、ほとんどが16日である。
同室生では染田・無山も見られるが、旧都祁村においては針ヶ別所・小倉もある。
村内で唯一の山添村では切幡がある。
それより少し北になる天理市山田町では上山田、中山田、下山田の3地区でそれぞれが田の虫送りを行っている。
いずれも田の虫送りをする際には、お寺で予めに虫の供養をされる。
祈祷したお札には「奉修 虫送り害虫駆除五穀豊饒」とある。
虫を送って害虫を駆除した稲は五穀豊穣を願うお札を祈祷をされたのである。
このお札は村の境界、それぞれの地に挿す田の虫送りであるが、松明を繰りださない地域もある。
旧都祁村では南之庄、吐山、上深川の3カ村。
吐山では祈祷の作法に太鼓を打つ数珠繰りが行われている。
天理市の上仁興では鉦や太鼓を打って「ナンマイダ」を百念仏唱える処もある。
桜井市の北白木では「ヤイトヤイト」と唱えて、太鼓と鉦を打つ。
さまざまな在り方で行われている虫の祈祷の目的はいずこも同じである。
虫送りの日は雨が降らないケースも多いが、昨年は違った。
暴風雨のような雨嵐だったことを覚えている昨年の状況は、翌日に日を替える、或いは中止せざるを得なかった各地の対応。
滅多にないことである。
空梅雨で取水制限を余儀なくされた地域を伝えるニュースが流れる蒸し暑い日だったこの年の虫送りは、天理市山田町を訪れた。
上山田地区と下山田地区は隔年交替で団体の一般観光客の受け入れをしている。
山田町の虫送りは天理市の無形民俗財に指定されている関係の受け入れである。
ところが、中山田地区では、村の行事であるからと云って受け入れはしていない。
中山田地区はおよそ20軒。
かつては子どもが大勢いた中山田。
成長して大きくなれば参加はしないが、この年は三人の子どもが集まってきた。
大きな松明を抱える子どもは実に嬉しそうである。
3年前まではもっと多くいた子どもたち。
中学生ともなれば参加しなくなると云う。
それより直前のことである。
会所で打つ太鼓の音が聞こえてくる。
村の行事の始まる合図は遠くまで聞こえてくる。
呼出の音が聞こえた村人たちは大きな松明を抱えてきた。
集まる場所は真言宗高野山派の蔵輪寺だ。
山田道安の菩提寺として名高い。
日が暮れる時間帯。
住職は本堂にあがって予め午前中に祈祷されたお札を区長に手渡す。
用意しておいた棒に挿し込むお札は3本だ。
それから始めた法要。
堂内に灯されたローソクの火が揺らぐ。
何故に予めの祈祷札であるのか、それは上、下山田の虫送りのお札とも祈祷していたのである。
3地区で始まる時間帯は若干のずれがあるが、1地区ごとに祈祷しておれば走り回らなければならない。
蔵輪寺の在所が中山田であるだけに、お寺さんの法要を伴うこの年の田の虫送りは中山田に限定したと話す。
法要する間は本堂下で待つ村人。
しばらく経って本堂で灯したローソクのオヒカリを境内に持ちだす住職。
群がるように松明をつきだす村人たち。
枯れた割木の竹を括った松明の先にはこれもまた枯れた杉葉がある。
オヒカリの火が移ってまたたく間に大きな火となった松明である。
寺から降りる階段下では鉦叩きと太鼓打ちが待っていた。
松明送りの人たちを見送ってから後方についた鉦叩きと太鼓打ち。
長老が思い出した田の虫送りの唄がある。
「たーのむーし おーくるわっ」で太鼓をドン・ドン・ドン。「あーとは さーかい さーかいや」で太鼓をドン・ドン・ドンと叩いていた。
その繰り返しだったと云う田の虫送りの唄にでてくる「さーかい」は村の境界のことだと思ったが、違っていた。
「さーかい」は「栄える」の意であって、田の虫を送れば稲が実る、五穀豊穣で村が栄えるということであると住職は話す。
蔵輪寺から出発した一行は旧道を南に向かって新道と交差する地をぐるりと旋回して新道に入る。
その地は「ホヤクチ」と呼ばれる小字。
上山田との境界である。
そこに1本の祈祷札を立てる。
北に向かって新道を一直線。
歩道がある新道である。
ガードレール越しに突きだす松明の先は田んぼである。
田に住みつく虫を送る現代の景観である。
川を渡った小字「オタグチバシ(橋)」にも、お札を立てた。
昔はここから東の峠に行っていたと云う。
峠の向こうは旧都祁村の針にあたる。
ここも村の境界である。
その時代にしていた虫送りは太鼓と鉦は行かずに架かる橋で打って待っていたそうだ。
そうとう遠かったようで、待ち時間は長かったと話す。
現在の田の虫送りは祈祷札立てを待たずにそのまま進行する。
さらに北へと新道を歩く一行。その先は下山田との境界地だ。
その場ですべての松明を燃やす小字は「ヨコミネ」或いは「サルゴテン」と呼ぶ。
かつては旧道での虫送りであったことから川向こうの地の「イワガケフドウ(岩掛不動)」。
山田道安の碑があると云う。
およそ800mの距離になる田の虫送りは火点けから始まって20分ほどで終えた。
叩いていた鉦は寺檀家所有の「ヨセガネ」だ。
葬儀の家で葬式が始まる合図に打つ鉦は、村人に告知する「寄せ鉦」であると話す。
松明の火が消えた山田町の夜。
団体客は山田公民館でバスに乗っていた。
下山田地区ではこの夜に集まるサナブリの日。
虫送りを終えて一旦は家に帰る。
再び集まる時間帯は夜8時だ。
サナブリとは村のすべてが終わった田植え終い。
風呂敷き包みを手にした村人は広出垣内が地蔵寺で、東村は会所のそれぞれの場で会食をされる。
翌日の天気は一転して曇り空になった。
18日にはしょぼしょぼ降った雨も夕方にはざざ降りになった。
夜には更に勢いが激しくなった大雨。
台風4号の影響もあってか、全国的な状況で大雨の様子を伝えるニュース。
奈良県北部も大雨警報が発令された。
19日、20日、21日と続く大雨はほぼ全国的。
池水は満水になったと思うが洪水や崖崩れが心配だ。
(H25. 6.16 EOS40D撮影)