『奈良惣町中諸事覚帳』に記された享保十四年(1729)の坊屋敷町(ぼうやしきちょう)の役家数は22軒だった。
町内の北側は奈良女子大学。
そこは南都奉行人の屋敷跡があったそうだ。
昭和57年に遺跡を発掘調査された奈良女子大学構内。
慶長八年(1603)から九年にかけて掘ったとされる「惣講ノ掘」。
その堀の一部がかかっていた坊屋敷町。
初期の奈良奉行所に任ぜられた中坊氏の旧住居(屋敷跡)に由来すると思われる。
都市部と云ってもいいほどの奈良市の町内を通り抜ける道筋は昔も今も変わらず狭く一方通行の標識に従って車を進めなければならない。
坊屋敷町もその一つで現在はマンションなど新町も増えて45軒になった。
町内の家々には「家内安全 弁財天」の行燈が掲げられている。
この日に行われる「弁財天」の祭りを示す行燈である。
ローソクを灯すのは日が暮れてからである。
坊屋敷町弁財天は氷室神社の末社の一つ。
それより数時間前、弁財天の宵宮に氷室神社から神職がこられて神事が行われる。
発掘調査資料に記された概観図がある。
それによれば近世の町名は田中町で、坊屋敷町はそれより西側にあった奉行所西の法蓮道に沿った南北縦長の町であった。
地図で確認すれば弁財天社は旧田中町内にある。
子供が多くいた時代は翌日の7日も祭りであった。
町内運営の金魚すくいに集まっていた。
弁財天の祭りが終われば夏休み。
それまでは期末試験の真っ最中。
梅雨の半ばは大雨が降ることもなかったそうだ。
宵宮のお供えは自治会や各家から持ってきた。
スイカも供えている。
昨年は氷室神社からの献氷柱もあったそうだ。
町内10数人が集まって神事を見守る。
祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠など神事を終えても参拝者が訪れる。
小雨だった雨も止んだ。
(H25. 7. 6 EOS40D撮影)
町内の北側は奈良女子大学。
そこは南都奉行人の屋敷跡があったそうだ。
昭和57年に遺跡を発掘調査された奈良女子大学構内。
慶長八年(1603)から九年にかけて掘ったとされる「惣講ノ掘」。
その堀の一部がかかっていた坊屋敷町。
初期の奈良奉行所に任ぜられた中坊氏の旧住居(屋敷跡)に由来すると思われる。
都市部と云ってもいいほどの奈良市の町内を通り抜ける道筋は昔も今も変わらず狭く一方通行の標識に従って車を進めなければならない。
坊屋敷町もその一つで現在はマンションなど新町も増えて45軒になった。
町内の家々には「家内安全 弁財天」の行燈が掲げられている。
この日に行われる「弁財天」の祭りを示す行燈である。
ローソクを灯すのは日が暮れてからである。
坊屋敷町弁財天は氷室神社の末社の一つ。
それより数時間前、弁財天の宵宮に氷室神社から神職がこられて神事が行われる。
発掘調査資料に記された概観図がある。
それによれば近世の町名は田中町で、坊屋敷町はそれより西側にあった奉行所西の法蓮道に沿った南北縦長の町であった。
地図で確認すれば弁財天社は旧田中町内にある。
子供が多くいた時代は翌日の7日も祭りであった。
町内運営の金魚すくいに集まっていた。
弁財天の祭りが終われば夏休み。
それまでは期末試験の真っ最中。
梅雨の半ばは大雨が降ることもなかったそうだ。
宵宮のお供えは自治会や各家から持ってきた。
スイカも供えている。
昨年は氷室神社からの献氷柱もあったそうだ。
町内10数人が集まって神事を見守る。
祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠など神事を終えても参拝者が訪れる。
小雨だった雨も止んだ。
(H25. 7. 6 EOS40D撮影)