マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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かつてあった信貴南畑の弓打ち

2013年10月23日 09時48分46秒 | 三郷町へ
平成13年ころまで存在していた信貴南畑素盞嗚尊神社の宮座。

一老から十五老までの十五人である。

4月初めぐらいであった弓打ちの名残が拝殿に残されている。

毎年作っていたと思われる弓は竹製だ。

弓打ちの場は神社本殿の裏側。

ちょっとした広場であった。

弓打ちは一老が指名した若い人はたいがいが十五老。

裃に着替えてから刀を持って踊った。

踊ったというよりも舞であったかも知れない。

弓打ちをする前に「コン」をしていたと云う。

「コン」と云うのは若い人に酒を飲ますことであると云うから充てる漢字は「献」であろう。

「コンせー コンせー」とせがむ一老。

その声があがれば酒を飲まざるを得ない。

「なんかやったらコンしよ」と云われて飲んだ。

「全部せなあかん ごくろう」と云われるまで飲まなければならなかった若い座中。

「ただいまから行ってきます」と一老に伝えて弓と矢を持って広場に出向いた。

その途中で声を掛けられる一老の「コン」。

素焼きカワラケのような盃は小さかった。

カワラケを持つ人も若い人だった。

何段も積んでいたというカワラケは数枚の盃であったろう。

始めに「コン」。

向かう途中でも「コン」に飲んでいた酒である。

十五老は矢をもち、十四老が弓を射る。

「今年はどっちの方角や」と云ったことから、毎年方角が替る恵方の方角であったかも知れない。

矢は5本ぐらいだった。

裃姿の若い二人は東西南北の四方に向かって頭を下げる。

所作前の一拝であろう。

その年の方角には鬼の的を置く。

1.5mぐらいの四辺形の的は竹で編んでいた。

半紙を張って中央に三重丸を描く。

中心の円は真っ黒に塗った。

それが鬼の的であった。

最初に東西南北に矢を打つ。

山の方に飛んでいった矢を取りにいったのは子供たちだ。

取りあいになったぐらいに競争が激しかった。

的辺りに待機していた子供は直ちに走っていく。

2本の矢を手にした子供もいたが、分け合った。

それが楽しみだったと話す村人たち。

その矢は一年間も床の間に飾って奉ったと云う。

最後に打つ方角は、「今年の鬼はこっちやな」と指示があって弓を射った。

災いが村に入ってこないようにという願いの方角が恵方であったのだろう。

村を流れる川がある。

「ドンド」と呼ばれる辺りにはオオサンショウウオが生息していた。

手で掴んでいたと云う。

その川の名は「サネモリガワ」。

充てる漢字は「実盛川」だ。

ウナギやケガニ、サワガニ、カワエビがどっさりいたという。

アカハライモリが居たのは川を下った「トックリ池」だ。

今ではブラックバスが増えてバス釣りする若者を見かけると云う。

信貴山下にはダイモンダムがある。

元々堰きとめていた土手を郡山土木が工事して近代的な人工物になった。

堰きの木材は発掘されて年代測定法で判った80年前の造りもの。

そんな話題を話してくれた直会の場。

ありがたいことである。

南畑に多い名字に「実光(じっこう)」がある。

それは前述した川の名の「実盛」と関係があるのかも知れない南畑にはかつて鉄道が走っていた。

信貴山門から高安まで。山の上を電車が走っていたと云う。

村の歴史は近代の話題。昨日に拝見した「南畑歌舞伎一座」や「外のお大師さん」を聞きそびれた。

かつて大晦日に正月の土まきをしていたと県立民俗博物館の鹿谷勲氏が報告する。

東垣内は地蔵さんで西は宮さん。

掘った土は自宅ニワ(家内の土間)に撒いていたそうだ。

(H25. 7. 2 EOS40D撮影)