浴衣姿の男性が歩いておられた天理市の武蔵町。
もしやと思って集落を目指す。
そこには神社があった。素盞嗚神社である。
境内にはずらりと吊るされた提灯の列がある。
提灯道のように設えている。
鳥居の横には老人会の人たちが予め作った七夕飾りがあった。
歩いていた男性は拝殿におられた。
この日の行事は何であるのか尋ねた結果は祇園祭。
例祭には法貴寺宮司が来られるが、祇園祭では宮座五人衆が唱える般若心経をすると云う。
宮座五人衆は座入りした年齢順。
毎年、一人が卒業されて、一人が新しく加わる。
一年巡繰りの宮座五人衆である。
そうして5年間を勤めるという五人衆の中から選ばれるトーヤがマツリを勤める。
神社のマツリは10月15日。
前日の宵宮では法貴寺の里巫女が来られて神楽を舞うと宮司から聞いている。
その地であったのだ。
たしか本祭においても里巫女が神楽を舞う鈴で祓ってくださるようだ。
いずれは再訪したい武蔵町の行事に興味を覚える。
武蔵町は35戸の旧村集落。
北、東、西の三垣内に分けている。
それぞれの地区の人たちがお供えを持ってくると云う。
7日が北垣内で、10日は東垣内だ。
14日は西垣内のお供えに替るが、祭典は毎回唱える般若心経だと話す座中。
戦前までは7日から14日までの毎日が祇園さんだった。
戦後まもないころにあったお供えはオニギリに自家栽培のハランキョ、モモ、マクワなどの夏の果物だった。
祭典を終えて御供のお下がりは子供が真っ先に貰いにくる。
戦後はお菓子に替った。
家の紋が入った提灯を持ってきて神社に並べていたが、いつしか一般的な神社提灯になったものの、壮観な姿はあまり変わらないらしい。
今では第三土曜、日曜だけになった田原本町の津島神社の祇園祭もかつては7日から14日の毎日であったと聞いている。
かつては祇園社と呼ばれた津島神社もそうである。
県内、郡山市内の祇園祭を調べていけば、すべてではないが、牛頭天王社の祭りとする祇園祭が行われているような気がした。
江戸時代の神社名は牛頭天王社であった武蔵町の素盞嗚神社。
境内にある燈籠に「牛頭天王 元禄十□(一若しくは六であろう)年五月」とある。
神宮寺になる長福寺は真言宗豊山派。
天正年間(1573~)における松永久秀兵火によって焼失したが、元禄時代(1688~)に再建したと伝わる。
燈籠はそのときに建之されたものであろう。
もう一つの燈籠には」「川東村武蔵」とある。
狛犬は「安政二卯年(1855)十一月建之氏子中」とある。
また地蔵大菩薩の燈籠もある。
それには寛保二年(1742)の刻印があった。
武蔵町を抜ける街道は橘街道。
戦時中は鳥居辺りから出征していた。
焼夷弾が落とされて1軒の家が焼けだされた歴史をもつ武蔵町。
素盞嗚神社拝殿には鉄錆びたロケット弾がある。
武蔵町より東側には柳本飛行場跡がある。
そこからは戦闘機の機銃掃射の弾がザクザクと出たという。
その話を聞いて思い出した送迎者の思い出話し。
矢田に住むⅠ婦人は「学徒動員で柳本飛行場へ毎日出掛けてモッコ担ぎしていた」と云っていた。
額田部住民のYさんは「尋常小学校(小学6年生)のころに柳本飛行場の整地に動員された。近くの農家に置いたモッコとオーコで土運び。整地は人力でローラーを引いた。予科練の人がいて、出撃(特攻隊)に出るときには挨拶してはった。知覧やと思う。戦争に出征するときに片桐の小泉神社に参って竹串に挿したヒトカタを富雄川に流した」と云っていた。
戦時中の件はともかく七夕さんの飾りつけを作っていたのは参拝に来た浴衣姿の姉妹。
小学三年生と幼稚園児の二人の願い事は「もっと絵がうまくなりますように」、「おいしいマカロンが食べられますように」である。
お姉ちゃんは漫画イラストをもっと上手く書きたいと笑って応える。
妹が何時知ったのかマカロンの味。
「家ではまだ食べたことがないのに、どこで知ったのやら」と一緒にいた母親がそう話す。
短冊をもっと長くしたいと云ってわざわざ家まで取りに帰ったおねえちゃん。
愛くるしい二人の会話が境内をにぎわす。
時間ともなれば空っぽの袋を持ってきた。
受け取るのは宮座五人衆である。
般若心経を終えればお供えを貰うことができる。
それを入れていただく袋なのである。
ベビーカーに赤ちゃんを乗せた母親もきた。
上の子は男の子。母親とともに手を合わせる。
家ではいつもそうしているから自然体だと話す母親。
愛おしさを感じる村の子どもたちに感服する。
そうして始まった五人衆による般若心経は三巻。
いぜんは五巻も唱えていたと話す。
沈む夕陽が拝殿を照らす。
掲げられている明治三十八年十一月に奉納された絵馬は日露戦争旅順攻撃占領図。
當村の若連中が寄進したものだ。
他にもたくさんの絵馬がある。
ほとんどが武者絵である。
心経を終えたら再びやってきた子供たち。
袋に入れたお下がりの御供を分けて貰って帰る。
その後は御供の箱を開けてお菓子やジュースなどの飲み物を家数に分ける五人衆。
けっこうな時間がかかる作業である。
分けたころにやってきた御供した北垣内の人たち。
氏神さんに供えた御供は村人がありがたく貰う。
昔ながらの良き風情を保っている武蔵町の行事を拝見して村の温もりを感じたのであった。
(H25. 7. 7 EOS40D撮影)
もしやと思って集落を目指す。
そこには神社があった。素盞嗚神社である。
境内にはずらりと吊るされた提灯の列がある。
提灯道のように設えている。
鳥居の横には老人会の人たちが予め作った七夕飾りがあった。
歩いていた男性は拝殿におられた。
この日の行事は何であるのか尋ねた結果は祇園祭。
例祭には法貴寺宮司が来られるが、祇園祭では宮座五人衆が唱える般若心経をすると云う。
宮座五人衆は座入りした年齢順。
毎年、一人が卒業されて、一人が新しく加わる。
一年巡繰りの宮座五人衆である。
そうして5年間を勤めるという五人衆の中から選ばれるトーヤがマツリを勤める。
神社のマツリは10月15日。
前日の宵宮では法貴寺の里巫女が来られて神楽を舞うと宮司から聞いている。
その地であったのだ。
たしか本祭においても里巫女が神楽を舞う鈴で祓ってくださるようだ。
いずれは再訪したい武蔵町の行事に興味を覚える。
武蔵町は35戸の旧村集落。
北、東、西の三垣内に分けている。
それぞれの地区の人たちがお供えを持ってくると云う。
7日が北垣内で、10日は東垣内だ。
14日は西垣内のお供えに替るが、祭典は毎回唱える般若心経だと話す座中。
戦前までは7日から14日までの毎日が祇園さんだった。
戦後まもないころにあったお供えはオニギリに自家栽培のハランキョ、モモ、マクワなどの夏の果物だった。
祭典を終えて御供のお下がりは子供が真っ先に貰いにくる。
戦後はお菓子に替った。
家の紋が入った提灯を持ってきて神社に並べていたが、いつしか一般的な神社提灯になったものの、壮観な姿はあまり変わらないらしい。
今では第三土曜、日曜だけになった田原本町の津島神社の祇園祭もかつては7日から14日の毎日であったと聞いている。
かつては祇園社と呼ばれた津島神社もそうである。
県内、郡山市内の祇園祭を調べていけば、すべてではないが、牛頭天王社の祭りとする祇園祭が行われているような気がした。
江戸時代の神社名は牛頭天王社であった武蔵町の素盞嗚神社。
境内にある燈籠に「牛頭天王 元禄十□(一若しくは六であろう)年五月」とある。
神宮寺になる長福寺は真言宗豊山派。
天正年間(1573~)における松永久秀兵火によって焼失したが、元禄時代(1688~)に再建したと伝わる。
燈籠はそのときに建之されたものであろう。
もう一つの燈籠には」「川東村武蔵」とある。
狛犬は「安政二卯年(1855)十一月建之氏子中」とある。
また地蔵大菩薩の燈籠もある。
それには寛保二年(1742)の刻印があった。
武蔵町を抜ける街道は橘街道。
戦時中は鳥居辺りから出征していた。
焼夷弾が落とされて1軒の家が焼けだされた歴史をもつ武蔵町。
素盞嗚神社拝殿には鉄錆びたロケット弾がある。
武蔵町より東側には柳本飛行場跡がある。
そこからは戦闘機の機銃掃射の弾がザクザクと出たという。
その話を聞いて思い出した送迎者の思い出話し。
矢田に住むⅠ婦人は「学徒動員で柳本飛行場へ毎日出掛けてモッコ担ぎしていた」と云っていた。
額田部住民のYさんは「尋常小学校(小学6年生)のころに柳本飛行場の整地に動員された。近くの農家に置いたモッコとオーコで土運び。整地は人力でローラーを引いた。予科練の人がいて、出撃(特攻隊)に出るときには挨拶してはった。知覧やと思う。戦争に出征するときに片桐の小泉神社に参って竹串に挿したヒトカタを富雄川に流した」と云っていた。
戦時中の件はともかく七夕さんの飾りつけを作っていたのは参拝に来た浴衣姿の姉妹。
小学三年生と幼稚園児の二人の願い事は「もっと絵がうまくなりますように」、「おいしいマカロンが食べられますように」である。
お姉ちゃんは漫画イラストをもっと上手く書きたいと笑って応える。
妹が何時知ったのかマカロンの味。
「家ではまだ食べたことがないのに、どこで知ったのやら」と一緒にいた母親がそう話す。
短冊をもっと長くしたいと云ってわざわざ家まで取りに帰ったおねえちゃん。
愛くるしい二人の会話が境内をにぎわす。
時間ともなれば空っぽの袋を持ってきた。
受け取るのは宮座五人衆である。
般若心経を終えればお供えを貰うことができる。
それを入れていただく袋なのである。
ベビーカーに赤ちゃんを乗せた母親もきた。
上の子は男の子。母親とともに手を合わせる。
家ではいつもそうしているから自然体だと話す母親。
愛おしさを感じる村の子どもたちに感服する。
そうして始まった五人衆による般若心経は三巻。
いぜんは五巻も唱えていたと話す。
沈む夕陽が拝殿を照らす。
掲げられている明治三十八年十一月に奉納された絵馬は日露戦争旅順攻撃占領図。
當村の若連中が寄進したものだ。
他にもたくさんの絵馬がある。
ほとんどが武者絵である。
心経を終えたら再びやってきた子供たち。
袋に入れたお下がりの御供を分けて貰って帰る。
その後は御供の箱を開けてお菓子やジュースなどの飲み物を家数に分ける五人衆。
けっこうな時間がかかる作業である。
分けたころにやってきた御供した北垣内の人たち。
氏神さんに供えた御供は村人がありがたく貰う。
昔ながらの良き風情を保っている武蔵町の行事を拝見して村の温もりを感じたのであった。
(H25. 7. 7 EOS40D撮影)