「諸人 牛馬 道中 安全 祈攸」の刻印がある立石の道標。
「幣」を象った文様も刻んでいた立石には左右に「道祖神」、「保食神(であろうか)」の文字もあった。
その地は田原本町の蔵堂。
村屋坐弥冨都比売神社の鳥居を潜った半ばのすぐ傍にある。
他にも刻印があったが判読はできない。
時代年だけでも判ればいいのだがまったく読めない。
その字のごとく、村人たちが農耕で使っていた時代の牛に馬。
実際に馬が農耕していたかどうかは判らない。
人が乗る馬であったかも知れない諸人が行ききする街道は主に南北であったろう。
隣村の伊与戸と大西を繋ぐ旧道である。
伊与戸の集落を抜ける道はかつての伊勢街道。
南へ行く道は飛鳥から吉野へ、である。
諸人の道中に安全を祈る幣は祓い清めの意味があったのではと思った。
この日は小字村屋に坐ます村屋坐弥冨都比売神社の夏越し大祓い。
半年間に身についた穢れを払うとともに翌月から年末までを健康で過ごせるように願う祭式である。
本殿前の前庭に設えた結界は忌竹を四方に立てた場である。
中央に直径1.8mぐらいの茅の輪がある。
50数本の茅を束ねた茅の輪である。
宮司を先頭に禰宜、氏子総代に続いて村人たちが潜り抜ける。
高さはそれほどでもないから背をかがめて通る茅の輪。
神事の場の結界に入った。
参拝者はいつになく多いと云う。
同神社の夏越しの大祓いに伺ったのは、実に10年ぶりだ。
当時は氏子総代の他、参拝者は数人であった。
穢れを払いたいと願う人が大幅に増えていることに驚くのである。
始めに宮司は本殿で修伐を執り行う。
前庭に下りて行われる神事は、神さんの祭りではなく村人、参拝者の祭りであると話す宮司。
それゆえ祝詞は本社殿に向かってではなく、参拝者に向かって捧げたのである。
手渡された白紙で作った「ヒトガタ(人形)」に息を三度吹きかける参拝者。
半年間の罪穢れをヒトガタに移して大祓いの祝詞を奏上される。
次に1.5cm角に切った紙で代用するキリヌサ(切麻)、幣を巻きつけた茅は参拝者自身が作法して祓い清める。
二つとも左肩、右肩、左肩へ当てる作法である。
これもまた祓い清めの作法である。
終われば祓ったキリヌサは茅とも三方に戻す。
こうして大祓いを終えれば、結界の綱を切る。
切る方角は南南東。恵方の方角である。
潜った茅の輪を取り外せば子どもたちを呼んだ。
大祓いの始末は子どもたちの行いだ。
神社の東側を流れる初瀬川(大和川)まで運ぶ子どもたちは茅の輪、忌竹を抱えていく。
人形、切麻、茅は禰宜が持つ。
橋の中央辺りに並んだ。
欄干から落とす茅の輪。
すぐさま祓った茅や人形、切麻も川に流す。
穢れを払った祭具は大川の流れに下っていった。
昭和14年8月に発刊された雑誌『磯城』の第2巻・第4號』によれば、さらし布に息を吹きかけて引き割いていたようだ。
三度吹きかけた人形とともに総代に渡したとあるさらし布の大きさは一辺が一尺二寸程度であった。
受け取った総代は次々にさらし布を割いたようだ。
春日大社の大祓えでは神職がそのような作法をしていると聞いたことがあるが、現在の村屋坐弥冨都比売神社ではそれが見られない。
この日に集まる参拝者は、神社からいただいていた人形とともに家で切ってきた手足の爪を紙に包んで持参していた。
それらを神社の祓え所に置いて帰った。
結界の場で作法するのは宮司と氏子総代だけであったようだ。
神事を終えて参拝者がいなくなってから川へ流していた。
同史料には多坐弥志理都比古神社(田原本町多)では神社の場ではなく、川の畔であったとある。
(H25. 6.30 EOS40D撮影)
「幣」を象った文様も刻んでいた立石には左右に「道祖神」、「保食神(であろうか)」の文字もあった。
その地は田原本町の蔵堂。
村屋坐弥冨都比売神社の鳥居を潜った半ばのすぐ傍にある。
他にも刻印があったが判読はできない。
時代年だけでも判ればいいのだがまったく読めない。
その字のごとく、村人たちが農耕で使っていた時代の牛に馬。
実際に馬が農耕していたかどうかは判らない。
人が乗る馬であったかも知れない諸人が行ききする街道は主に南北であったろう。
隣村の伊与戸と大西を繋ぐ旧道である。
伊与戸の集落を抜ける道はかつての伊勢街道。
南へ行く道は飛鳥から吉野へ、である。
諸人の道中に安全を祈る幣は祓い清めの意味があったのではと思った。
この日は小字村屋に坐ます村屋坐弥冨都比売神社の夏越し大祓い。
半年間に身についた穢れを払うとともに翌月から年末までを健康で過ごせるように願う祭式である。
本殿前の前庭に設えた結界は忌竹を四方に立てた場である。
中央に直径1.8mぐらいの茅の輪がある。
50数本の茅を束ねた茅の輪である。
宮司を先頭に禰宜、氏子総代に続いて村人たちが潜り抜ける。
高さはそれほどでもないから背をかがめて通る茅の輪。
神事の場の結界に入った。
参拝者はいつになく多いと云う。
同神社の夏越しの大祓いに伺ったのは、実に10年ぶりだ。
当時は氏子総代の他、参拝者は数人であった。
穢れを払いたいと願う人が大幅に増えていることに驚くのである。
始めに宮司は本殿で修伐を執り行う。
前庭に下りて行われる神事は、神さんの祭りではなく村人、参拝者の祭りであると話す宮司。
それゆえ祝詞は本社殿に向かってではなく、参拝者に向かって捧げたのである。
手渡された白紙で作った「ヒトガタ(人形)」に息を三度吹きかける参拝者。
半年間の罪穢れをヒトガタに移して大祓いの祝詞を奏上される。
次に1.5cm角に切った紙で代用するキリヌサ(切麻)、幣を巻きつけた茅は参拝者自身が作法して祓い清める。
二つとも左肩、右肩、左肩へ当てる作法である。
これもまた祓い清めの作法である。
終われば祓ったキリヌサは茅とも三方に戻す。
こうして大祓いを終えれば、結界の綱を切る。
切る方角は南南東。恵方の方角である。
潜った茅の輪を取り外せば子どもたちを呼んだ。
大祓いの始末は子どもたちの行いだ。
神社の東側を流れる初瀬川(大和川)まで運ぶ子どもたちは茅の輪、忌竹を抱えていく。
人形、切麻、茅は禰宜が持つ。
橋の中央辺りに並んだ。
欄干から落とす茅の輪。
すぐさま祓った茅や人形、切麻も川に流す。
穢れを払った祭具は大川の流れに下っていった。
昭和14年8月に発刊された雑誌『磯城』の第2巻・第4號』によれば、さらし布に息を吹きかけて引き割いていたようだ。
三度吹きかけた人形とともに総代に渡したとあるさらし布の大きさは一辺が一尺二寸程度であった。
受け取った総代は次々にさらし布を割いたようだ。
春日大社の大祓えでは神職がそのような作法をしていると聞いたことがあるが、現在の村屋坐弥冨都比売神社ではそれが見られない。
この日に集まる参拝者は、神社からいただいていた人形とともに家で切ってきた手足の爪を紙に包んで持参していた。
それらを神社の祓え所に置いて帰った。
結界の場で作法するのは宮司と氏子総代だけであったようだ。
神事を終えて参拝者がいなくなってから川へ流していた。
同史料には多坐弥志理都比古神社(田原本町多)では神社の場ではなく、川の畔であったとある。
(H25. 6.30 EOS40D撮影)