マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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一町天満山長法寺の牛滝祭

2014年01月15日 07時28分18秒 | 橿原市へ
平成17年に取材したときは大日講の婦人たち数名がお供えをしていた橿原市一町(かずちょう)の牛滝祭。

この日に集まったのは村の婦人たち。

その年以降には5人であった大日講も、一人減り4人。

少なくなった講中も高齢化になった。

決断したのは大日講の解散だ。

そのような状況に村の有志を募った3年前、こうして集まった婦人たちが継承していると話す。

雨天であっても集まって天満山長法寺境内を清掃している婦人たちは、観音堂、地蔵堂、水神さんも奇麗にする。



当地には浄國寺もあるが、もともとここではなく他所にあったお寺を移設したという。

時代は明治の頃の廃仏毀釈。

住職がいない旧長法寺に浄國寺を寄せたという。

一町の婦人たちが管理しているのは旧長法寺大日堂、観音堂、地蔵堂、水神さんに蓮の池も含まれる。

長寶寺(真言宗)とも呼ばれることもある旧長法寺大日堂のご本尊は大日如来座像。

大日さんを敬愛する講であった大日講は、これまで毎月の15日がお勤めであった。

1月、9月の15日は境内を清掃してからお勤めをしていた。

それ以外の月はお勤めだけであった。

一町は高市郡新沢村に属していた一村。

明治時代に完成した大井手(大井出とも)に井堰・水路を造成した。

御所市の柏原から流れる満願寺川と高取町を下ってくる曽我川との合流地点である。

川上にあたる一町が水利権を握っている。

明治十二年は高市郡常門(じょうど)村だった。

かつて高取山城下であった一村辺り、城門(じょうど)があったと伝わる。

城戸、城門、その後に常門(じょうど)村の名に移り替ったと話していたことを思い出す。

常門村は東西にあり、東常門村と西常門村および萩之本を統一合併された。

その「統一」から「一」を村の名にした一村(かずむら)である。

その後の明治22年の町村合併によって一村は観音寺村・北越智村・川西村の三カ村とともに新沢村となった。

長法寺がある小高い山は天満山。

小字でいえば「テンマ」である。

この地にはかつてあったとされる長法寺城跡があるようだ。

境内にある観音堂は一町観音講の人たちが寄進して美しくなった。

昭和60年には36人もおられた観音講中。

継承された地区の総代、区長、評議員ともに観音講世話人らは平成24年1月17日には観音堂に安置されていた仏像を修復された。

美しく目映いて輝きを取り戻された34体の観音さんがずらりと並ぶ。



一方、地蔵堂も清掃される。

そこに安置されている地蔵立像。



周囲には千体仏も安置されている。

それぞれのお堂を奇麗にされたあとは御供作り。



カボチャ、ナガナス、オクラ、サツマイモ、ニンジン、インゲンマメ、ゴーヤ、シイタケ、カンピョウにコンブをお皿に盛る。

お菓子は高杯に盛る10膳のお供えは牛滝祭の御供。



牛滝祭は愛称をこめて「うったきさん」と呼ばれている。

かつては半切りにしたカボチャを土台に串を挿していた。

コンブは帆のように見立てて立てたというから、御供は帆かけ舟のようだったと平成17年の取材の折りに聞いた御供の姿はこの年も見られず平皿に盛った。

本尊の大日如来座像、右・左脇仏の不動明王、牛を象った牛滝さん、弘法大師、薬師仏、3体脇仏の金仏、外に祭った水神さんに観音さんなどに10膳を供える。

ローソクを灯して般若心経を唱える。

毎月の営みは五巻を唱えるが、この月は七巻も唱える。

木魚と太鼓を打つ導師。

それに合わせて般若心経を唱える婦人たち。



本堂に響き渡る音色は一町の佇まいであるようだ。

この日に参拝された村総代の話によれば、かつては農協主催で牛の品評会を境内でしていたと云う。

美しい化粧まわしのような襷を牛の背中に掛けて参っていた。

午前中の早い時間帯だったそうだ。

漫才や浪曲などの演目もあった農協の行事だったようだ。

今では茶場がトイレに移り替ったが、当時はそこでお茶のふるまいもあったと話す。

その後、子供や大人が消防ホースをマワシにして奉納相撲をしていた昭和32年頃の様子を今でも覚えていると云う。

土俵で相撲の取り組みをする人には近在の川西町からも力試しがやってきたそうだ。

勝った人にはヒノキ角材の日の丸御幣を授与したという話しから、その形は今でも行われている膳夫三社神社の望月祭の御幣と同じようである。

ヒノキ角材は床柱にするような丸太もあったそうだ。

本堂外に掲げた絵馬がある。



願主7人の名が並ぶ「奉納 大日如来」の絵馬は明治参拾四年に奉納された。

飼っていた牛に袈裟をかけてお参りする姿である。

牛の品評会が催されていた時期よりももっと以前の時代の様相だと推定される牛参りの絵馬である。

本堂内には数多くの絵馬を掲げている。

常門村講中が奉納した阿吽力士と思われる絵馬は「元禄九年(1696)六月朔」だ。

源平の合戦を描いたと思われる騎馬武者絵は「元禄八年(1695)三月吉日」である。

慶應元年九月吉祥に掲げた二枚の絵馬もあるが、特筆すべきは「正徳四年(1711)」に掲げられた絵馬だ。



大日堂を中央に配した絵馬には蓮池もあれば、観音堂、鐘楼、山門、庫裡や鎮守社の三神社もある。

よく見れば、そこに何人かの人が集まっている。

ゴザを敷いた場には二人の男。

一人は破れ傘を持っている。

左手には扇を持つ。

もう一人は太鼓を打っている。

おそらく太鼓囃しであろう。

それを見ている僧侶や侍。

子供連れの母親もいる。



その様相は大神楽のような大道芸であろうと思った。

本堂階段下では板に並べた白いモノが見られる。

おそらくはダンゴかモチであろう。

細長い白いモノや黒いモノもある。

三角の赤いモノもある。

それらは何か判らないが売り子もいるようだ。

編み笠を置いて手を合わす者もおれば、扇を手にして舞踊する女性もいる。

それより手前には、刀をさした侍に大刀をかたげる奴もいる。

本堂左下にはゴザを敷いた場に男がいる。



独楽を回す男の前には、一、ニ、三、四、六の目がでたサイコロまである「牛ノ八月吉日」と記された絵馬は「うったきさん」こと、旧暦八月当時の「牛滝祭」の様相を描いたものに違いない。

昭和31年に耕運機が導入されたと話す村総代。

それまでは飼っていた牛の力で田畑を耕していた。

牛使いが得意だったと云う。

牛滝参りはかつて橿原市の五条野にもあったことを思い出した。

昭和30年のころまであった牛滝参りの場は素盞鳴神社だった。

幟を立てて、牛には綺麗な衣装を纏い、牛の品評会や草相撲などが行われていた。

とても賑わっていたと平成20年2月に取材した初庚申の際に話していた講中の記憶である。

般若心経を唱えて営みを終えた村有志婦人たちは頼んでおいたパックの膳をいただく。

雨は降りやまず、お堂でひとときを過ごす。

「貴方の分もあるから食べていきなさい」と伝えられてありがたく一町の村総代とともにおよばれ。



柿の葉寿司、いなり寿司、巻き寿司もあるパックのお膳は小ぶりながらも揚げもの、煮ものに焼き魚もある豪華版。

たしか柿の葉寿司のヤマトであろう。

どれこれもとにかく美味しいのである。

この場をお借りして厚く御礼申し上げる。

村総代のお話はかつての牛滝参りの様相や農家の営みもある。

春、苗代作りをしていた。

その場にはツバキの葉に、家で炊いたアズキガユを盛っていた。

先祖さんの墓や三神社にも供えていたと云う。

苗代の水口にはツツジの花を立てた。

1月14日の晩は茅原の大トンドがある。

一町の各大字でもトンドをしているが、上垣内は15日の朝にしている。

もらってきた茅原のトンド火は翌日の朝、竃に火を移してアズキガユを炊いた。

アズキガユを食べる箸は穂付きのススキ。

いわゆるカヤススキである。

カヤススキの茎は堅い。

それを箸のようにして使って、一口、二口に食べていた。

竃が消えてからはしなくなったと話す。

会食を済ませた数時間後は観音堂の営みをされる。

金ピカに光り輝く観音さんの前で唱えるのは西国三十三番のご詠歌であるが、後日に再訪することにしてお堂をあとにしようとした際に気が付いた柱の奉納物。



納められてから相当な年月が経っているそれは紙に包まれたキリだそうだ。

今では奉納されることもなくなったが、耳の神さんとして崇められている本尊の大日さん。

耳の通りがよくなるように、工具のキリ(錐)に願をかけていた痕跡が残っている。

(H25. 9.15 EOS40D撮影)