天理市の海知町の秋祭りはひと際早い。
ほとんどが10月であるが、海知町は9月の初旬だ。
かつては9月7日、8日、9日であったが、現在は集まりやすい9月の第一金、土、日曜日に実施されている。
三日間も続く祭りの呼び名はシンカン祭(まつり)。
これまで平成16年、18年、19年、24年に亘って取材してきたが、三日間通しで拝見することは、当方の事情もあって難しく、途切れ途切れになっていた。
マツリの初日は神饌作りと御湯の儀式で、主にオトヤ(大当屋)家で行われる。
朝8時、前年に勤めたオトヤ(大当屋)の指導を受けてシンカン祭の御供や祭具を作る今年のオトヤとコトヤ(小当屋)。
平成18年に勤められた大先輩のOさんも作業を手伝う。
初日は主に勤める大当屋家で行われる神饌作りと御湯の儀式である。
海知町の戸数は70軒ほど。
それは自治会の戸数であるが、旧村は36戸。
18年に一度が廻りのオトヤとコトヤになる。
トヤ家を勤めることができずに断る家もある。
かつては隣り同士に廻っていた。
その名簿もあった旧村は東、西、南、北垣内。
この年にオトヤを勤めるK家は、昨年に勤めた本家オトヤ家の隠居(分家)だ。
始めに手掛けたのは杉板と竹串作り。
特に材料となる杉の皮は何年間も使ってきた。
マツリの都度、長い杉皮を切り取っていた。
3年間に亘って使い続けてきた杉皮は朽ちている部分もある。
奇麗な部分から使ってきたから、使い回しも難しくなった。
なんとか切り取った大きさは前年を見本に一片を10cmにする。
正方形に切り取った杉板は宵宮に10枚、本祭に10枚の合計20枚も作る。
一方、竹串は神饌御供に使う。
青竹を割って一本、一本細くする。
カマや小刀で削ぎ落して串の形にする。
先のほうは尖らすので時間がかかる作業だ。
手伝いにはオトヤ・コトヤの親戚筋も加わる。
神饌御供の土台となるトウノイモ(頭芋)は皮を剥いて奇麗にする。
半切りにしたカシライモとも呼ぶトウノイモを白いカワラケに餅米の藁で十字に縛って固定する。

手間が一番かかった作業は一旦終えて、オトヤ家もてなしの接待料理をいただく。
竹串に挿す御供は、ミョウガ、ミカン、カキ、ナシ、クリ、ナツメにモモの七品。
この時期に合わせて実を結ぶのは自然任せ。
ナツメは村で栽培している。
前オトヤもそうしていた。

今後も頼りにするのも配慮しなければと考えて祭典の場となる倭恩智神社の境内に植栽された。
実もつけるように成長したナツメが赤色に染まるのももう少しだ。
クリは昨年からお願いしていた早稲品種を栽培しているKさんからの貰いもの。
村では4軒ほどがクリ栽培をしているそうだ。
トウノイモやカキもミョウガも村人が栽培しているから入手しやすい。
昼の膳座、神官の座とされるシンカン祭の「七日座」の饗応を終えるまでは、集落を散策していた。
北東にあった地蔵尊。

「文明十八年(1486)□月 法界衆生之施主□者」の刻印がある。
古くから祭られた地蔵石仏はあるが、地蔵盆は行われていないそうだ。
オトヤの裏庭に設えた斎場。
普段は駐車場であるが、この日のために車を移動して斎場にされた。

四方に忌竹を立て、注連縄を張り、紙垂を取り付ける。
いわゆる結界の場である。
これより始まるのはオトヤ家における御湯神事である。
烏帽子を被り、素襖を着用したオトヤ(大当屋)・コトヤ(小当屋)が奏でる平太鼓・バチ・チャンボラの鉦こと手平鉦がある。
村役、当屋らの承諾を得て納めてあった「神楽太鼓」の箱を拝見した。

それには『文久始酉八月 牛頭天王 神楽太鼓入筥(はこ) 明神講中』記銘の墨書があった。

150年間に亘って今尚使われてきた神楽太鼓は1861年に製作された神楽舞の際に打ち鳴らす囃し手道具である。
三本足の湯釜を中央に置く。
湯釜には刻印が見られない。
オトヤとコトヤはゴザを敷いた斎場の外側に座る。
始めに池坐朝霧黄幡比賣神社宮司が祓えの儀をおこなう。
斎場には大当屋家族や村講の手伝いを勤める人たちも並ぶ。
湯釜の前に立った宮司が一礼をする。
釜湯を祓い清めて「オオオオー」とオトヤの家に神さんを呼び起こす降神の儀。
そして祝詞を奏上する。
幣を受け取った巫女は湯釜を祓う。
田原本町法貴寺地区在住の女児巫女である。
オトヤとコトヤが奏でるチン、チン、ドンの音色に合わせて神楽を舞う。

チンは摺り鉦の音で、ドンは太鼓を打つ音である。
太鼓を打つのはオトヤ。
コトヤは「チャンボラ」と呼ばれる銅製の手平鉦を受け持つ。
次の所作が御湯である。
鈴・笹を持って左、左に舞う。
洗い米を湯釜に投入して次に塩、酒を注ぐ御湯釜の禊祓い。
湯釜に向かって正面、左方、後方、右方の左回りに三度の一礼をする四方の神寄せ。

笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。
鈴・笹を持って左、右、左に舞う神楽はチン、チン、ドンの音色に合わせて舞う。
そうして参拝者を鈴で祓う。
再び宮司が登場して湯釜の湯を祓う。
最後に「オオオオオー」と発声して神さんを天に戻す昇神の儀で終える。
こうして御湯之儀を滞りなく終えた人たちはオトヤの作業場に移った。
これより作るのは神饌のモチである。
モチ米を蒸して次から次へとモチを搗く。
モチ搗きは器械である。
平成18年に拝見したモチ搗きの始まりは天秤棒で重さを量っていた。
昔から使っていた天秤棒だった。
今では、天秤棒で計ることなくデジタル表示の秤で重さを量る。
かつては臼と杵で搗いていた。
計量も含めて、いつしか機械化されたシンカン祭の御供モチ。
モチの重さ・数量はそれぞれ決まっている。
70匁(もんめ)が40個で、90匁は10個である。
昭和62年にもオトヤを勤めたK家には、当時の記録を残していた。
おじいさんが話すことを資料化したのはK婦人だ。
平成15年にコトヤを勤めたときに、その資料が役立ったと話す。

1匁は3.75グラムであるから、「三百何グラムやら、二百何グラムとかやな」と云いながら、計量してモチを丸める。
コジュウタに入れて次に作ったモチは杉皮モチ。
杉皮は3年前から使い続けてきた。
杉皮モチは熱いうちに摘まんでくっつけないと杉皮から剥がれてしまう。
冷めたら剥がれてしまうという話を聞いて、そうされたが、あまりの暑さに悲鳴が唸る。
モチを引っ張るように千切って杉皮にくっつけるのだが、搗きたてのモチは熱い。
「アツイー、アツイ」と云いながらモチを千切る。
手にくっつくので熱さが指に纏わりつく。
全員が発声した「アツイ」の声に作業場は笑い声に包まれた。
すべてができあがってから、「杉皮のモチは一旦取り出して棒状にする。それを千切って杉皮にくっつけるんや」と長老が云った。
「それを早く云ってくれ」で、またもや笑い声。
それからはコモチも作っていた作業は夜9時頃まで続いたそうだ。
そのコモチは、どうやらテイワイモチ(手祝い餅)だったようだ。
(H25. 9. 6 EOS40D撮影)
ほとんどが10月であるが、海知町は9月の初旬だ。
かつては9月7日、8日、9日であったが、現在は集まりやすい9月の第一金、土、日曜日に実施されている。
三日間も続く祭りの呼び名はシンカン祭(まつり)。
これまで平成16年、18年、19年、24年に亘って取材してきたが、三日間通しで拝見することは、当方の事情もあって難しく、途切れ途切れになっていた。
マツリの初日は神饌作りと御湯の儀式で、主にオトヤ(大当屋)家で行われる。
朝8時、前年に勤めたオトヤ(大当屋)の指導を受けてシンカン祭の御供や祭具を作る今年のオトヤとコトヤ(小当屋)。
平成18年に勤められた大先輩のOさんも作業を手伝う。
初日は主に勤める大当屋家で行われる神饌作りと御湯の儀式である。
海知町の戸数は70軒ほど。
それは自治会の戸数であるが、旧村は36戸。
18年に一度が廻りのオトヤとコトヤになる。
トヤ家を勤めることができずに断る家もある。
かつては隣り同士に廻っていた。
その名簿もあった旧村は東、西、南、北垣内。
この年にオトヤを勤めるK家は、昨年に勤めた本家オトヤ家の隠居(分家)だ。
始めに手掛けたのは杉板と竹串作り。
特に材料となる杉の皮は何年間も使ってきた。
マツリの都度、長い杉皮を切り取っていた。
3年間に亘って使い続けてきた杉皮は朽ちている部分もある。
奇麗な部分から使ってきたから、使い回しも難しくなった。
なんとか切り取った大きさは前年を見本に一片を10cmにする。
正方形に切り取った杉板は宵宮に10枚、本祭に10枚の合計20枚も作る。
一方、竹串は神饌御供に使う。
青竹を割って一本、一本細くする。
カマや小刀で削ぎ落して串の形にする。
先のほうは尖らすので時間がかかる作業だ。
手伝いにはオトヤ・コトヤの親戚筋も加わる。
神饌御供の土台となるトウノイモ(頭芋)は皮を剥いて奇麗にする。
半切りにしたカシライモとも呼ぶトウノイモを白いカワラケに餅米の藁で十字に縛って固定する。

手間が一番かかった作業は一旦終えて、オトヤ家もてなしの接待料理をいただく。
竹串に挿す御供は、ミョウガ、ミカン、カキ、ナシ、クリ、ナツメにモモの七品。
この時期に合わせて実を結ぶのは自然任せ。
ナツメは村で栽培している。
前オトヤもそうしていた。

今後も頼りにするのも配慮しなければと考えて祭典の場となる倭恩智神社の境内に植栽された。
実もつけるように成長したナツメが赤色に染まるのももう少しだ。
クリは昨年からお願いしていた早稲品種を栽培しているKさんからの貰いもの。
村では4軒ほどがクリ栽培をしているそうだ。
トウノイモやカキもミョウガも村人が栽培しているから入手しやすい。
昼の膳座、神官の座とされるシンカン祭の「七日座」の饗応を終えるまでは、集落を散策していた。
北東にあった地蔵尊。

「文明十八年(1486)□月 法界衆生之施主□者」の刻印がある。
古くから祭られた地蔵石仏はあるが、地蔵盆は行われていないそうだ。
オトヤの裏庭に設えた斎場。
普段は駐車場であるが、この日のために車を移動して斎場にされた。

四方に忌竹を立て、注連縄を張り、紙垂を取り付ける。
いわゆる結界の場である。
これより始まるのはオトヤ家における御湯神事である。
烏帽子を被り、素襖を着用したオトヤ(大当屋)・コトヤ(小当屋)が奏でる平太鼓・バチ・チャンボラの鉦こと手平鉦がある。
村役、当屋らの承諾を得て納めてあった「神楽太鼓」の箱を拝見した。

それには『文久始酉八月 牛頭天王 神楽太鼓入筥(はこ) 明神講中』記銘の墨書があった。

150年間に亘って今尚使われてきた神楽太鼓は1861年に製作された神楽舞の際に打ち鳴らす囃し手道具である。
三本足の湯釜を中央に置く。
湯釜には刻印が見られない。
オトヤとコトヤはゴザを敷いた斎場の外側に座る。
始めに池坐朝霧黄幡比賣神社宮司が祓えの儀をおこなう。
斎場には大当屋家族や村講の手伝いを勤める人たちも並ぶ。
湯釜の前に立った宮司が一礼をする。
釜湯を祓い清めて「オオオオー」とオトヤの家に神さんを呼び起こす降神の儀。
そして祝詞を奏上する。
幣を受け取った巫女は湯釜を祓う。
田原本町法貴寺地区在住の女児巫女である。
オトヤとコトヤが奏でるチン、チン、ドンの音色に合わせて神楽を舞う。

チンは摺り鉦の音で、ドンは太鼓を打つ音である。
太鼓を打つのはオトヤ。
コトヤは「チャンボラ」と呼ばれる銅製の手平鉦を受け持つ。
次の所作が御湯である。
鈴・笹を持って左、左に舞う。
洗い米を湯釜に投入して次に塩、酒を注ぐ御湯釜の禊祓い。
湯釜に向かって正面、左方、後方、右方の左回りに三度の一礼をする四方の神寄せ。

笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。
鈴・笹を持って左、右、左に舞う神楽はチン、チン、ドンの音色に合わせて舞う。
そうして参拝者を鈴で祓う。
再び宮司が登場して湯釜の湯を祓う。
最後に「オオオオオー」と発声して神さんを天に戻す昇神の儀で終える。
こうして御湯之儀を滞りなく終えた人たちはオトヤの作業場に移った。
これより作るのは神饌のモチである。
モチ米を蒸して次から次へとモチを搗く。
モチ搗きは器械である。
平成18年に拝見したモチ搗きの始まりは天秤棒で重さを量っていた。
昔から使っていた天秤棒だった。
今では、天秤棒で計ることなくデジタル表示の秤で重さを量る。
かつては臼と杵で搗いていた。
計量も含めて、いつしか機械化されたシンカン祭の御供モチ。
モチの重さ・数量はそれぞれ決まっている。
70匁(もんめ)が40個で、90匁は10個である。
昭和62年にもオトヤを勤めたK家には、当時の記録を残していた。
おじいさんが話すことを資料化したのはK婦人だ。
平成15年にコトヤを勤めたときに、その資料が役立ったと話す。

1匁は3.75グラムであるから、「三百何グラムやら、二百何グラムとかやな」と云いながら、計量してモチを丸める。
コジュウタに入れて次に作ったモチは杉皮モチ。
杉皮は3年前から使い続けてきた。
杉皮モチは熱いうちに摘まんでくっつけないと杉皮から剥がれてしまう。
冷めたら剥がれてしまうという話を聞いて、そうされたが、あまりの暑さに悲鳴が唸る。
モチを引っ張るように千切って杉皮にくっつけるのだが、搗きたてのモチは熱い。
「アツイー、アツイ」と云いながらモチを千切る。
手にくっつくので熱さが指に纏わりつく。
全員が発声した「アツイ」の声に作業場は笑い声に包まれた。
すべてができあがってから、「杉皮のモチは一旦取り出して棒状にする。それを千切って杉皮にくっつけるんや」と長老が云った。
「それを早く云ってくれ」で、またもや笑い声。
それからはコモチも作っていた作業は夜9時頃まで続いたそうだ。
そのコモチは、どうやらテイワイモチ(手祝い餅)だったようだ。
(H25. 9. 6 EOS40D撮影)