御所から次に向かったのは大淀町。
新しい道もできて早くなったが、それほどでもない。
目指すは馬佐。「ばさ」と読む。
8月には同町の弘法井戸を探していた。
帰り路に選んだのが馬佐である。
馬佐口から山の方に向かえば集落がある。
家から出てこられた男性に声を掛けた。
探していたのは牛滝まつりだ。
その答えは、「あった」であるが、かつてあった相撲は随分前に途絶えていた。
40、50年も前のこと。「牛滝さん」にやって来た子供たちは上半身が裸で晒しのフンドシ姿。
大人も混じっていたそうだ。
もう一人の男性によれば、吉野じゅうから相撲を取りにきたというから相当賑わっていたようだ。
小学生のときだったから60年も前だという。
いつしか怪我をするからと意見が出て中断した。
その後は「シシマワシ」に移り替った。
話しの様相からすれば伊勢の大神楽。獅子が舞う神楽獅子だったと云う。
「手品もあったし、傘を回す曲芸や“シシマワシ”をしていたのは“池田神楽”だった」と話す。
子供時代に見ていた神楽獅子は面白おかしく舞っていたという講社の人は自動車でもなく木箱を乗せた台車のようだったと話すAさん。
「アホ役の人がおって、漫才をしていたのが面白くて」と話す牛滝さんの日は、いつしかそれもなくなった。
その後になったまつりはゴクマキ。
神主が来られて神事をする。
その後のゴクマキは固定日の15日だった。
それは今では敬老の日の祝日なった。
公民館で敬老祝いの昼食を摂る。
それが終わってから坂道を歩いて神社に向かう。
そこは天照皇太神宮の境内社である牛滝社。
牛を象った守り神が置かれている「うしたきさん」は訛って「うったきさん」と呼んでいる。
農業一本だったころの牛を引き連れて「うったきさん」に出かけた。
神社前にある樹木や電信柱に牛綱を結わえた。
まさに牛参りである。
神社には享保三年(1718)十一月、天明六丙年(1786)六月吉日に寄進された燈籠がある。
(H25. 9.14 SB932SH撮影)
新しい道もできて早くなったが、それほどでもない。
目指すは馬佐。「ばさ」と読む。
8月には同町の弘法井戸を探していた。
帰り路に選んだのが馬佐である。
馬佐口から山の方に向かえば集落がある。
家から出てこられた男性に声を掛けた。
探していたのは牛滝まつりだ。
その答えは、「あった」であるが、かつてあった相撲は随分前に途絶えていた。
40、50年も前のこと。「牛滝さん」にやって来た子供たちは上半身が裸で晒しのフンドシ姿。
大人も混じっていたそうだ。
もう一人の男性によれば、吉野じゅうから相撲を取りにきたというから相当賑わっていたようだ。
小学生のときだったから60年も前だという。
いつしか怪我をするからと意見が出て中断した。
その後は「シシマワシ」に移り替った。
話しの様相からすれば伊勢の大神楽。獅子が舞う神楽獅子だったと云う。
「手品もあったし、傘を回す曲芸や“シシマワシ”をしていたのは“池田神楽”だった」と話す。
子供時代に見ていた神楽獅子は面白おかしく舞っていたという講社の人は自動車でもなく木箱を乗せた台車のようだったと話すAさん。
「アホ役の人がおって、漫才をしていたのが面白くて」と話す牛滝さんの日は、いつしかそれもなくなった。
その後になったまつりはゴクマキ。
神主が来られて神事をする。
その後のゴクマキは固定日の15日だった。
それは今では敬老の日の祝日なった。
公民館で敬老祝いの昼食を摂る。
それが終わってから坂道を歩いて神社に向かう。
そこは天照皇太神宮の境内社である牛滝社。
牛を象った守り神が置かれている「うしたきさん」は訛って「うったきさん」と呼んでいる。
農業一本だったころの牛を引き連れて「うったきさん」に出かけた。
神社前にある樹木や電信柱に牛綱を結わえた。
まさに牛参りである。
神社には享保三年(1718)十一月、天明六丙年(1786)六月吉日に寄進された燈籠がある。
(H25. 9.14 SB932SH撮影)