昭和4年には宮座が31戸もあった天理市の合場。
奈良県図書情報館に所蔵されている『大和国神宮神社宮座調査』には当時の合場地区が報告した戸数である。
合場の氏神さんを奉る三十八(みとわ)神社には「文政四年辛巳(1821)五月吉日」に建之された燈籠がある。
それは「愛宕山大権現」だった。
現在の合場(東・北・南・西垣内)の戸数は53戸であるが、旧村合場の座は14戸。
かつては23戸もあったそうだ。
神社行事を勤めているのは座の十人衆。
村神主は十人衆を勤めた長老が就いていた。
神社行事を担っていた座中には田んぼや屋敷もあったと話すのはこの夜の行事の世話人となった二人の「ヤク」だ。
今では礼服になったが、20年前までは座の十人衆が烏帽子を被った紺色の素襖姿で出仕していたと云う。
秋のマツリには、キヨノメシ(おそらく饗飯であろう)と呼ばれるムシメシ(蒸し飯)を供えていたそうだ。
今ではムシメシを作ることもしなくなったが、当時使っていた道具を拝見した。
高さは23cmで内角径も23cm。
底部の径は11cmの道具は木製の桶。
錘は石製。
適当な大きさだろうと話す。
キヨノメシの量を量る桶は天秤秤が付いているのである。
桶にムシメシを入れて長さ40cmの天秤秤で量る。
その量は五合と決まっていた。
ムシメシは二度も蒸す。
桶に入れて水を注ぐ。
ヒタヒタぐらいの水をいれて再び蒸していたと話す。
ムシメシを桶から取り出して逆さにすれば円錐型。
キヨノメシと呼ばれるムシメシは上から押し込む。
それをもってオシメシとも呼ぶようだ。
頂点部分がなく上部が平らなので横から見れば台形のような形になる。
その周りを藁で括る。
三重の藁である。
伺ったその姿は県内各地で見られるキョウノメシと同じである。
合場のキヨノメシは二つあった。
一つは五合の量のキヨノメシ。
もう一つは五合と五合重ねた十合。
二倍の大きさであったそうだ。
ウルチ米だったので崩れやすく、作るのが難しかったと話す。
ムシメシを作って供える家は数え四歳になるトーニンゴ(男児)がいるトーヤ(当家)家だ。
マツリには氏神さんに供えるが、ヨミヤの日はトーニンゴの家に供えていた。
今では使わなくなったが、貴重な民俗史料は大切に保管されている。
マツリの前には朔座がある。
日程は決まっておらず、9月末か10月初めのようだ。
目の下一尺一寸の焼いたエソを供えるらしい。
長老が勤める村神主に十人衆が参列される朔座の行事も興味をもった。
座に就く人が一旦隠居した場合。
再び座に就く(座入り)ときには一合のダンゴを五つ、ダンゴ盛りをしなければならない。
8割のウルチ米に対して2割もモチ米を混ぜた。
カラウスを用いて粉を挽いた。
熱湯を掛けてダンゴ練りをしていた。
平らにしたダンゴをロール状に丸めて棒モチのようにして切ったダンゴだったと云う座入りの儀式のご馳走は鯛や折り二重もあったと話す。
そのようなかつてのマツリの在り方を教えてくださった合場のヤクは80歳近い年齢。
古くから行事を勤めてきただけにかつての様相を懐かしそうに話す。
この夜の行事名は「むかしよみや」だ。
別名に「コマツリ」がある。
「むかしよみや」を充てる漢字は「昔宵宮」と云う一日限りの夜の行事である。
おそらくは「昔夜宮」と思われるのだが確信はもてない。
「むかしよみや」の行事の初めは御湯神事だ。
拝殿前に設えた斎場。
新しい釜に水を入れて雑木に火を点け沸かす世話人のヤク。
藁を扇のように広げた座に就いた石上神宮の神官。
周囲を囲むように座中が並ぶ。
静かに頭を下げて拝礼される神官。
ポン、ポンと二拍手。
祓い詞を奏上される間は低頭する座中。
厳かに御湯の神事が始まった。
9月半ばであるがツクツクボウシの鳴き声が境内に広がる。
靴を履いて徐に湯釜の前に立った。
湯釜の蓋を取りあげて、用意された二本の笹束を手にした。
笹を湯に浸けるやいなや、左右に何度も振る。
その回数はおよそ10回だった。
立ち位置を替えて今度は座中に向かった神官。
「お祓いいたします」と声を掛けて回りに立つ座中へ向けて湯を笹で祓う。
その数もおよそ10回であった。
石上神宮では行われていないが、布留郷の一つである合場で行われている御湯神事。
神官が云うには神宮で代々継がれてきた作法だそうだ。
珍しい作法を拝見させていただき感謝する次第である。
湯祓いを終えた座中は本殿に登っていく。
拝殿には白い幕を掲げていたヤクは神事の直前に吊るされた提灯に火を灯す。
ヤクの家族も手伝った火灯し。
辺りはすっかり夕闇に包まれていた。
夜の行事に灯りが美しく包む。
洗い米、塩、モチに2丁のコンニャクと二本のゴボウ、一尾のシオサバが神饌。
ヤクの人たちが社務所より手渡しで献饌される。
社務所にはかつて奉じられていた御幣が残されている。
鏡らしき円盤に釘のような串とカタスミのような黒い物体を下げている。
昭和10、11年生まれのヤク二人とも覚えていない御幣。
トーニンゴが奉っていた御幣は少子化によって継承できなくなくなった。
中断したのは20年前どころか、もっと前のようだと話す。
拝殿の神事が行われている時間帯。
「レッツゴー、レッツゴー、あいば」の掛け声でダンジリを曳いていく村の子供たち。
打つ太鼓の音色が集落に響き渡る。
かつては隣村の東・西井戸堂まで巡行していたようだ。
厳かに神事を終えた拝殿は直会に移る。
始めにヤクが席に着いた座中に一杯のお茶を配る。
これを「おちつきぢゃ(茶)」と云って、直会の始まりの合図。
ヤクが注ぐお神酒とともにパック詰め料理の膳をいただく。
およそ40分間ほど経過した頃、再びお茶を席に差し出すヤク。
これを「おたちぢゃ(茶)」と呼ぶ。
「おたちぢゃ(茶)」は異名に「おいだしぢゃ(茶)」とも呼ぶ。
直会の終わりを告げる「おたちぢゃ(茶)」を一杯飲んで引き上げる座中たち。
口上は特に見られなかっが合場の行事は古い形式を残しているようだ。
(H25. 9.17 EOS40D撮影)
奈良県図書情報館に所蔵されている『大和国神宮神社宮座調査』には当時の合場地区が報告した戸数である。
合場の氏神さんを奉る三十八(みとわ)神社には「文政四年辛巳(1821)五月吉日」に建之された燈籠がある。
それは「愛宕山大権現」だった。
現在の合場(東・北・南・西垣内)の戸数は53戸であるが、旧村合場の座は14戸。
かつては23戸もあったそうだ。
神社行事を勤めているのは座の十人衆。
村神主は十人衆を勤めた長老が就いていた。
神社行事を担っていた座中には田んぼや屋敷もあったと話すのはこの夜の行事の世話人となった二人の「ヤク」だ。
今では礼服になったが、20年前までは座の十人衆が烏帽子を被った紺色の素襖姿で出仕していたと云う。
秋のマツリには、キヨノメシ(おそらく饗飯であろう)と呼ばれるムシメシ(蒸し飯)を供えていたそうだ。
今ではムシメシを作ることもしなくなったが、当時使っていた道具を拝見した。
高さは23cmで内角径も23cm。
底部の径は11cmの道具は木製の桶。
錘は石製。
適当な大きさだろうと話す。
キヨノメシの量を量る桶は天秤秤が付いているのである。
桶にムシメシを入れて長さ40cmの天秤秤で量る。
その量は五合と決まっていた。
ムシメシは二度も蒸す。
桶に入れて水を注ぐ。
ヒタヒタぐらいの水をいれて再び蒸していたと話す。
ムシメシを桶から取り出して逆さにすれば円錐型。
キヨノメシと呼ばれるムシメシは上から押し込む。
それをもってオシメシとも呼ぶようだ。
頂点部分がなく上部が平らなので横から見れば台形のような形になる。
その周りを藁で括る。
三重の藁である。
伺ったその姿は県内各地で見られるキョウノメシと同じである。
合場のキヨノメシは二つあった。
一つは五合の量のキヨノメシ。
もう一つは五合と五合重ねた十合。
二倍の大きさであったそうだ。
ウルチ米だったので崩れやすく、作るのが難しかったと話す。
ムシメシを作って供える家は数え四歳になるトーニンゴ(男児)がいるトーヤ(当家)家だ。
マツリには氏神さんに供えるが、ヨミヤの日はトーニンゴの家に供えていた。
今では使わなくなったが、貴重な民俗史料は大切に保管されている。
マツリの前には朔座がある。
日程は決まっておらず、9月末か10月初めのようだ。
目の下一尺一寸の焼いたエソを供えるらしい。
長老が勤める村神主に十人衆が参列される朔座の行事も興味をもった。
座に就く人が一旦隠居した場合。
再び座に就く(座入り)ときには一合のダンゴを五つ、ダンゴ盛りをしなければならない。
8割のウルチ米に対して2割もモチ米を混ぜた。
カラウスを用いて粉を挽いた。
熱湯を掛けてダンゴ練りをしていた。
平らにしたダンゴをロール状に丸めて棒モチのようにして切ったダンゴだったと云う座入りの儀式のご馳走は鯛や折り二重もあったと話す。
そのようなかつてのマツリの在り方を教えてくださった合場のヤクは80歳近い年齢。
古くから行事を勤めてきただけにかつての様相を懐かしそうに話す。
この夜の行事名は「むかしよみや」だ。
別名に「コマツリ」がある。
「むかしよみや」を充てる漢字は「昔宵宮」と云う一日限りの夜の行事である。
おそらくは「昔夜宮」と思われるのだが確信はもてない。
「むかしよみや」の行事の初めは御湯神事だ。
拝殿前に設えた斎場。
新しい釜に水を入れて雑木に火を点け沸かす世話人のヤク。
藁を扇のように広げた座に就いた石上神宮の神官。
周囲を囲むように座中が並ぶ。
静かに頭を下げて拝礼される神官。
ポン、ポンと二拍手。
祓い詞を奏上される間は低頭する座中。
厳かに御湯の神事が始まった。
9月半ばであるがツクツクボウシの鳴き声が境内に広がる。
靴を履いて徐に湯釜の前に立った。
湯釜の蓋を取りあげて、用意された二本の笹束を手にした。
笹を湯に浸けるやいなや、左右に何度も振る。
その回数はおよそ10回だった。
立ち位置を替えて今度は座中に向かった神官。
「お祓いいたします」と声を掛けて回りに立つ座中へ向けて湯を笹で祓う。
その数もおよそ10回であった。
石上神宮では行われていないが、布留郷の一つである合場で行われている御湯神事。
神官が云うには神宮で代々継がれてきた作法だそうだ。
珍しい作法を拝見させていただき感謝する次第である。
湯祓いを終えた座中は本殿に登っていく。
拝殿には白い幕を掲げていたヤクは神事の直前に吊るされた提灯に火を灯す。
ヤクの家族も手伝った火灯し。
辺りはすっかり夕闇に包まれていた。
夜の行事に灯りが美しく包む。
洗い米、塩、モチに2丁のコンニャクと二本のゴボウ、一尾のシオサバが神饌。
ヤクの人たちが社務所より手渡しで献饌される。
社務所にはかつて奉じられていた御幣が残されている。
鏡らしき円盤に釘のような串とカタスミのような黒い物体を下げている。
昭和10、11年生まれのヤク二人とも覚えていない御幣。
トーニンゴが奉っていた御幣は少子化によって継承できなくなくなった。
中断したのは20年前どころか、もっと前のようだと話す。
拝殿の神事が行われている時間帯。
「レッツゴー、レッツゴー、あいば」の掛け声でダンジリを曳いていく村の子供たち。
打つ太鼓の音色が集落に響き渡る。
かつては隣村の東・西井戸堂まで巡行していたようだ。
厳かに神事を終えた拝殿は直会に移る。
始めにヤクが席に着いた座中に一杯のお茶を配る。
これを「おちつきぢゃ(茶)」と云って、直会の始まりの合図。
ヤクが注ぐお神酒とともにパック詰め料理の膳をいただく。
およそ40分間ほど経過した頃、再びお茶を席に差し出すヤク。
これを「おたちぢゃ(茶)」と呼ぶ。
「おたちぢゃ(茶)」は異名に「おいだしぢゃ(茶)」とも呼ぶ。
直会の終わりを告げる「おたちぢゃ(茶)」を一杯飲んで引き上げる座中たち。
口上は特に見られなかっが合場の行事は古い形式を残しているようだ。
(H25. 9.17 EOS40D撮影)